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永遠に紡がれる人々

 ハンニバルは一人、イタリアで戦い続けた。それは辛く、長い道だった。カンネーで近づいた夢には、未だ届かない。もがいて、あがいても、ハンニバルの歩く先は回り道だった。

 ローマは、悪夢に耐えた。ローマの兵士は、全員が給与の受け取りを辞退した。公共事業を受け持つ大工達は、戦争終結まで無償で仕事を行なうことを誓った。貴族は、全員がその私財を戦に捧げることを誓った。それでも足りないと、ローマでは十七歳未満も例外的に兵士登録が出来る法案を通した。

 ローマの忍耐は、徐々に実を結んだ。ローマの大軍がハンニバルを圧迫する。ファビウスの息子が、豪雨を突いて秋にカプア東方の要衝アルピを攻撃。陥落させた。カプアの防衛線が、また一枚剥がされた。

 マケドニアの形勢も変わりだす。アイトリア地方の代表会議シュノドスにローマ軍司令官ラエウィヌスが出席し、ローマとアイトリアが同盟。ギリシア北西部のアカルナニアの土地を確約することで条約を結んだ。さらにアテナイ、エリス、メッセネ、スパルタ、トラキア、イリュリア諸国、ペルガモン王国がローマと連携。マケドニア包囲網を完成させる。マケドニアはもはや、ローマを相手にすることが出来なくなっていた。

 ローマはイタリア中から根こそぎかき集め、三十万に達する兵力を動員。ハンニバルを押し潰そうとする。既にハンニバルの連れてきた兵は二万を切り、カルタゴからの援軍はない。ハンニバルは、苦境に立たされた。


 秋の色が深まる頃、ギスコのいるティファタ山はグラックス率いるローマ軍に包囲されていた。三度目の攻勢。引き付ける。一斉に、弩砲バリストラを放った。砦に唯一通じる小さな道にも、網で固定していた岩を次々と落とした。斜面を転がり、ローマ軍の隊列を破壊していく。怯んだところを、出撃した。崩れた隊列を押し込み、ローマ軍を打ち崩していく。ローマ軍の新手ハスタティが、迎撃に投入された。それと同時に、城砦へとギスコは戻る。ローマ軍の攻勢が、んだ。

マハルバルがローマの物価を高騰させていることが知れ渡り、是が非でもカプアを陥落させようとローマ軍が動き出していた。カプアを守る要塞都市のカシリヌムはファビウスに落とされ、カプアの防衛線は薄皮を剥ぐようにじわじわと綻んでいった。グラックスの軍勢がハーマエの地で、カプアの傭兵部隊を打ち破った。かなりの損害を出し、指揮官マリウスはカプアへと逃げ込んだ。ローマ軍にとって後は、この城砦を落とすだけだった。

 すぐに、ハンニバルが城砦の救援に現れた。ギスコがほっと溜息をつく。グラックスはティファタ山の包囲を解き、対峙した。ハンニバルの軍は喊声を上げ、襲い掛かった。ヌミディア騎兵も動いた。雷光の旗が先頭に立ち、ローマ騎兵へと迫る。雷光の旗は騎兵を二手に分かち、巧みに敵の攻撃をかわす。空を切ったローマ騎兵は、速度を緩める。その背後を、雷光の旗が抉った。そのまま、ローマ騎兵を断ち切る。二つに割った一方を、雷光の旗が粉々に粉砕していく。ローマ歩兵の側面が空けられた。

 今だ。ギスコは軍を率いて城砦を飛び出した。石の転がった道を上手くかわし、ローマ軍側面へと迫る。すぐに、グラックスは軍を引き上げた。ギスコの軍を寄せ付けないように、盾と槍で固めてじわじわと後退する。ギスコはそれ以上の追撃を中止した。そのまま、ハンニバルの軍と合流する。

 ハスドルバルがからからと笑っていた。

「また勝ちましたぜ」

 だが、ギスコは答えなかった。ハスドルバルも、この勝利に意味がないことは分かっている。軍に漂う雰囲気を払拭したくて、無理に笑ったのだろう。ローマ軍に痛撃を与えられなければ、勝利とは言えない。明日もまた、敵は出てくる。敵は勝つことをすでに目標としていなかった。ハンニバルの兵を削ることだけに集中していた。

「引き上げるぞ。砦建設の進捗状況が知りたい」

 ハンニバルが馬を寄せる。真紅の外套を翻しての、堂々の帰還だった。カプア周辺に陣取ったローマ軍は、ティファタ山のギスコに苦戦していた。ティファタ山は、カプアを守る様に峰々が連なっていた。未だ完成はしていないが、ギスコの城砦によってローマ軍の動きはかなり制限されていた。ローマ軍は完成を阻止しようと躍起になっている。それを、食い止めた。

 グラックスの軍団は、翌日も出てきた。それを迎撃する。敵は決戦になるのを避けた。小競り合いで終始し、再び撤収する。

 連戦を続けるハンニバルは、幕舎を張ることは少なくなっていた。ハンニバルは馬に跨り、ティファタ山へと向かった。ティファタ山には幾条もの波線が頂上へと続いている。その線の間に上手く砦を作り、天然の城壁としていた。この砦を攻めるには麓か頂上の二方向しかない。そして攻城兵器を持ち込むのが困難な頂上は、実質的に攻略不可能だった。陣は三段に分けられており、それぞれが柵と断崖の岩肌に囲まれている。木々が遮蔽物となり、弩砲の攻撃も受け難い。

「見事に仕上がってきているな」

「お見苦しい限りにございます」

 ギスコが一礼する。ハンニバルは馬を下りた。幼少の頃から、ハンニバルに軍というものを教えてきた。イベリアを転戦するハミルカルに代わって、武芸や兵の指揮の仕方を教えた。そして、祖国への想いも。

 貴族への恨みを、ギスコは持っていた。先の戦争で、ローマ軍はアフリカに上陸して各地で略奪を行なった。その民のために奮い立ち、立ち上がったのが友クサンティッポスだった。ギスコは副将として、クサンティッポスと共に上陸したローマ軍を破った。だが、救国の英雄となったクサンティッポスを、貴族は殺した。政治的に抹殺し、最後は海に沈めた。誇り高き祖国への想いは、貴族によって踏みにじられた。

 祖国の貴族達にとって、良き為政者とはどれだけ搾り取れるかであった。害悪でしかなかった。祖国を想う者は、誰一人としていなかった。ギスコはハミルカルに賭けていた。それはハミルカルの持つ野望によって破られた。だが、それでも諦めなかった。ギスコは、ハンニバルに祖国への想いを説いた。カルタゴを救って欲しい。それが、ギスコの願いだった。ここまで生き恥を晒して出来なくては、あの世でクサンティッポスに顔向けができない。祖国を想う熱だけが、この老骨の生きる理由だった。

「どれ程で竣工する」

「あと数日、年内には完成しましょう」

 すぐに、作業が再開された。徴募した人夫達が木材を運んでいく。診療所も、砦の中に築かれる予定だった。

「これからローマ軍の攻撃は激しくなり、苦しい戦いになることは知っている。だが、それに耐えてほしい」

 ギスコの眼を、ハンニバルは射抜くように見つめた。かつての友も、このような目をしていた。建設をし出した時から、ローマ軍の攻撃は苛烈を極めた。ギスコが与えられた兵は五千。それに対してローマ軍は二万五千の兵が攻め寄せてきた。それだけ、ここは重要な場所だった。裏を返せば、それは信頼の証なのだ。碌な能力もないこの自分を、ハンニバルは評価してくれていた。

将軍ラブ・アマナトが幼少にありました頃、儂と誓ったことを覚えておりますか」

「覚えている」

 ハンニバルの返答は力強かった。ハンニバルの夢の先には、新たなカルタゴを描いている。立派な男へと成長した。感慨に似たものがある。人とは、重ねた歳ではない。刻んできた歴史が、その人となる。新しい芽は、確かに息吹いていた。

「ならば、儂は命を賭してここを死守しましょう」

 皺の刻まれた頬を緩ませて、ギスコは言った。その誓いは、かつての友としたものだった。先の大戦争から四十年間、友との誓いに苛まれてきた。自分は何をしてきたのか。それにようやく、答えが見えた。これで、向こうで友に会うことが出来る。

 それから間もなく、グラックスは軍を退いた。冬の季節に入り、自然休戦の時期に入っていた。一段落すると、ハンニバルは南方に向けて進軍した。

 年が変わった第一四一オリュンピア期第四年(紀元前二一二年)。ローマは空前絶後の二十五個軍団を投入。三十万の兵が、ハンニバルのために動員された。

 カプアからの報告が、ギスコの下にも届いた。三十万。途方もない兵力だった。カルタゴが総力を挙げて出せる兵力を、遥かに超える。いつから、カルタゴとローマの差はここまで広がってしまったのか。両者の歩む道は、栄光と衰退に別れていた。カルタゴにはかつて、繁栄した時代があった。しかし過去の栄光は、今の貴族を腐らせた。そして栄光は残酷なほど、ゆっくりと崩れていた。カルタゴは凋落している。零れ落ちていくそのかけらが、ギスコの胸を蝕む。自分の命も長くはない。ハンニバル達に、若い者達へ道を指し示すだけでも、しておきたかった。

 砦を点検し、万全の準備を整える。兵糧は少なくて良い。投槍と岩、弩砲バリストラとカタパルト《カタパレイン》が、どれだけ攻城戦に持ち堪えられるか。ハンニバルが南から来援するまで、持ち堪えておきたい。

 密偵から連絡が入る。四個軍団、五万のローマ軍がティファタ山を目指して出陣したとのことだ。二個軍団でなかったことに、ギスコは驚かなかった。ハンニバルは、ローマが昨年の戦略通り二個軍団ずつでしか行動しないと考え、五千だけをギスコに割いた。城攻めに必要な兵力は、およそ守備兵の五倍になる。五千の兵ならば、持ち堪えるだろうと判断したのだ。だから四個軍団は、ハンニバルにとって大きな誤算だろう。

ギスコの心は静かだった。ローマ軍の動きは早く、五万の兵はすでに包囲を始めていた。その後ろには、南方へと向かう十個軍団、十一万の兵が続いた。全て、ハンニバルの行く手を塞ぐために配置される。ハンニバルをカプアと分断し、その間にティファタ山を攻め落とす。それがローマの計画であった。

 執政官二人に率いられた軍が、ティファタ山を囲む。カプアの兵は、クーマエ、ネアポリスの同盟都市軍が塞いだ。何ものにも邪魔されず、「S.P.Q.R(ローマ)」の旗が眼下を埋め尽くす。

「よくまぁ、これだけ集められたものですな」

 後ろから、副官のイサルカがやってきた。

「どうやら、まだ懲りてないらしいの。数だけ増やせば、良いと思っておる」

 ギスコが鼻で笑った。イサルカも、既にかなりの年齢だった。小さな影が二つ、崖の上に並んだ。ローマも、まだまだ若い。二人でからからと笑う。

「若造が幾ら束になろうと、我ら年の功には敵いますまい」

「ローマの若造どもに教えてやらねばな。ハミルカル殿より仕えし老骨を、抜けるものならば抜いてみるがいい」

 ギスコが腰から剣を引き抜く。ローマ軍から、進軍のラッパ《ブキーナ》が鳴り響いた。地を割るような喊声が、山を揺らす。それでも、ギスコは笑ったままだった。


南進したハンニバルは、軍を二分した。精鋭一万だけを集めると、残りの兵には冬営をさせた。そして一万だけを率いて、ハンニバルは再び出陣した。将校の誰もが、もう冬季休戦だと思っていた。しかしハンニバルは、南東へと軍を急がせた。

「どうなされた将軍ラブ・アマナト

 サムニテスは訝しがるような顔をしていた。だが、ハンニバルは答えない。ただ、駆けよと命じた。カラブリア地方に入った日の夕刻に、音もなく二人の男がハンニバルの幕舎に現れた。

「シレノス殿の部下ニコでございます。そしてこちらが、フィレメヌスです」

 二人は一礼すると、書簡をハンニバルに渡した。内密に進められたタレントゥム離反の誓約書だった。ニコは平民の出で立ちをしており、フィレメヌスはローマ兵の格好をしていた。二人とも青年のような顔つきだが、シレノスの部下ならばその見た目を素直に受け取ることは出来ない。彼らは時に、翁のような姿に化ける時もあった。

「タレントゥムの準備は、整ったか」

「門兵の買収は済んでおります。今夜にでも、城門を開けられます」

 二人は頷いた。タレントゥムは南イタリアの三大都市で唯一、ハンニバル側に降っていない都市であった。ここは港湾都市でもあり、奪取すればマケドニアやエジプト《アイギュプトゥス》との交易も格段と行ない易くなる。またカラブリア地方を完全に鎮圧するためにも、厳しい情勢の中で士気を上げる意味でも重要だった。だがローマもこの都市の重要性を理解しており、守備隊に一個軍団を超える一万五千の兵を割いていた。

「すぐに手筈を整える。天秤宮ジュゴスの昇る頃(約二十四時)に城門を開けよ」

「かしこまりました」

 ニコとフィレメヌスは即座に姿を消した。それから、ハンニバルはようやく作戦を将校に説明した。それはタレントゥム奪取のためにシレノスと練られた作戦であった。

夜空に処女宮パルテノス(約二十二時頃)が昇るのを見計らって、ハンニバルは出撃した。全軍の周りをヌミディア騎兵が囲み、騎兵が略奪に走っているように偽装した。数刻を走り抜け、タレントゥムへと辿り着く。合図を出すと城壁からニコが顔をだし、ゆっくりと城門が開かれた。全軍に音を立てるなと命じる。中央の広場からラッパ《ブキーナ》の音が鳴った。フィレメヌスが鳴らしたものだ。少数の見張りを除いて、ほとんどのローマ兵が疑いもせず中央広場へと集まっていく。その中央広場の周囲を、カルタゴ軍は静かに包囲していった。

 兵士の一人が天空に火矢を射た。それを合図に、四方から一斉にカルタゴ軍が湧きあがる。ハンニバルは不敵に笑った。

「全軍、敵を撃滅せよ」

突然の出来事に、ローマ兵は隊列も組めなかった。ばらばらとローマ兵は路地へと逃げ出す。だが、全ての路地がカルタゴ軍に囲まれていた。槍が繰り出され、屍が築き上げられていく。屋根に上がった弓兵も次々にローマ兵を射殺する。ハンニバルはヌミディア騎兵を率いて、囲みを突破したローマ兵を追撃した。逃げるローマ兵の背後を、槍で突く。突き伏せる。次々に倒れていく。雷光の旗が通った道は、ローマ兵の死体で埋め尽くされた。親衛隊リクトルが、都市の奥にある出城へと逃げていく。指揮官マカートゥスの姿もあった。それを、ハンニバルは追った。タレントゥムの出城を守っていた守備兵が、飛び出してきた。

「全軍縦列隊形へ。蹴散らせ」

 ハンニバルが馬腹を蹴った。ヌミディア騎兵の形が、楔へと変わっていく。出撃した守備兵の顔が、恐怖で引きっていた。一撃で粉砕する。そのまま、ハンニバルは駆けた。だが、マカートゥスは間一髪で出城へと逃げ込んだ。海に突き出た出城の門を固く閉じ、マカートゥスは出てこようとはしなかった。城内は、完全に制圧された。

夜が明ける頃、広場はローマ兵の屍体が累々と築かれていた。一万三千の兵が、皆殺しにされた。出城へと逃げ込めた兵はおよそ二千しかいなかった。タレントゥムの市民は、朝になってようやく事の顛末を知った。

 翌日、ハンニバルは休むことなく出撃した。サムニテスと軍を二つに分け、タレントゥム周辺のヘラクレア、トゥリィ、メタポントゥムを奪取。ここにハンニバルは三大都市を支配下に入れ、南イタリアの殆どを掌中に収めた。だが殆どの都市は、ローマとの同盟はったが、完全なる独立を要求した。タレントゥムも同じことを望んだ。幾ばくかの貢納金だけで、ハンニバルは徴兵も干渉もしないことを誓約した。領土は拡大しても、その果実がハンニバルにもたらされることはなかった。

 年が明けて間もなく、タレントゥムの宿舎に急報が届いた。

「マハルバル殿より報告。ティファタ山にローマ四個軍団が来襲。至急、援軍を頼むとのことです」

「分かった。必ず救援に向かうと伝えよ」

 総力を挙げたローマの意地だった。ハンニバルはすぐに鎧を身に着ける。従者の持ってきた真紅の外套をひったくる様に取ると、それを纏った。即座に、招集令をかける。予想外だ。ローマは国の総力を捧げて、この戦いに決着をつけにきた。カルタゴを潰す。並々ならぬ覚悟が、そこに見えた。

 また急報が入る。カプアへ兵糧を送ろうとしたハンノの部隊が、ハンノ不在の間に急襲され、敗走したとのことだった。カプアは兵糧を受け取ることが出来ず、危機に陥っていた。

ハンニバルは、ハンノに再び兵を集めて北上するよう命令した。宿舎の冷たい廊下を歩き、広場へと向かう。冬の風が、身に染みた。

「将軍、ギスコが危ないって――」

 ハスドルバルが蒼白な表情でやってきた。

「話している時間はない。すぐに救援へ向かうぞ」

「はっ。無事でいてくれよ、ギスコの親爺」

 ハスドルバルは燃えていた。将校の殆どは、一度はギスコに世話になっている。みな、心は一つだった。その時、衛兵の制止を振り切って急使が駆け込んできた。シラクサの者だった。聞かずとも、内容はおよそ察しできた。カルタゴ軍はマルケルスによって壊滅させられ、シラクサは孤立無援だったのだ。

将軍ストラテゴス。至急、援軍をお願い致します」

「シチリアのことは本国に頼め」

「カルタゴ《カルケドン》の長老会ゲルーシアにも頼みました。しかし、これ以上は援軍を送らないと一蹴されました」

 それは悲鳴にも似たものだった。シレノスの報告ではシラクサの兵糧は底を突き、今や草の根と余った葡萄酒だけで持ち堪えている。都市はすでに限界だった。

「分かった。騎兵プロドロモイをシチリアに上陸させ、ローマ軍の兵糧を断たせよう。それまで、シラクサは耐え抜くのだ」

 ハンニバルの言葉に、使者は絶望の表情を浮かべた。冷酷な言葉であることは知っていた。もう、耐え抜く力などどこにも残っていないだろう。使者は尚も縋ろうとしたが、それをハンニバルは振り払った。

盟友フィロスを見捨てるというのか、この蛮族バルバロイめ!」

同情できるほどの余力はここに無かった。真紅の外套を必死に引っ張る使者を衛兵が引き剥がし、追い出した。

 報告が次々と入る。カプアの傭兵がティファタ山救援に出撃するも、ローマ軍に全て打ち払われたようだった。そしてグラックス率いる十一万の兵が、ハンニバルの北進を防ぐために展開されていることも知らされた。ハンニバルは広場へと向かうと、ミュットノスとサムニテスを呼び出した。

「お呼びでしょうか」

 二人がハンニバルの前に並ぶ。

「ミュットノスは二千のヌミディア騎兵を率いて、シチリア島へと上陸せよ。シラクサの救援は行わなくてよい。シチリア西部を切り取り、カルタゴ領アグリゲントゥム《アクラガス》の守りを固めよ」

「はっ」

 シチリアでの戦いが鎮圧されれば、ローマ軍はさらに南イタリアに兵を割いてくるだろう。シチリアでの戦争をなるべく長引かせるための派遣だった。

「サムニテスは別動隊として動いてもらいたい。イベリア《セファン・イム》騎兵一千を連れて、アペニン《アペニヌス》山脈を稜線沿いに移動して北西のアペラを目指せ。よいか、アペラに近づくまでは察知されてはならなぬ」

「はっ」

 二人が駆け足で立ち去る。広場に集まった兵力は、二万五千となっていた。その中には、タレントゥムで募集した傭兵も含まれている。

 タレントゥムの城門が開けられた。ハンニバルの手綱を握る手に力が籠る。真紅の外套はたなびき、怜悧な眼差しはただ地平線だけを見つめていた。


 ハンニバルが出撃した。ルカニア地方に駐屯していたグラックスは、伝令の報告に唾を呑み込んだ。ローマにいるファビウスより、南方軍の総司令官を任された。兵力は十個軍団の十一万。東をケンテニウス、西をフラックスがそれぞれ四個軍団で押さえ、北辺をグラックス率いる二個軍団三万が守る。グラックスを中央に置く、両翼に大きく開いた配置となった。中央を任されたグラックスの兵数が、一番少なかった。それも、ファビウスの作戦だった。手薄の中央をハンニバルが攻撃してくれば、その間に両翼から包囲する。両翼へ向かえば、グラックスが包囲へと動き、もう一翼が後方から援護する。

ファビウスの考えでは、ハンニバルは助けに向かうふりで終わるとのことだった。ハンニバルの手勢は二万五千。まず、抜かれることはない。幾ばくかの小競り合いをした後、ハンニバルは南方へと転進する。今年も南イタリアの地盤を固めるだけというのがファビウス含め、元老院セナートゥスの見解だった。

 ただ、グラックスはそう考えていなかった。ハンニバルは恐らく、この包囲網を抜きに来る。将としての血が、決戦にくると言っていた。ハンニバルと刃を交わしてきたからこそ、分かる。あの男が諦めるなど、そんな常識が通る筈がない。

 右翼のケンテニウスから急報が入った。南端のレギウムでローマ軍と交戦中であったハンノが、その地の指揮を部下のヒミルコに任せた。ハンノ自身は新たに三万の兵を率いて北上してきた。突如として現れた大軍に、右翼のローマ軍は動揺していた。だが、グラックスは動じなかった。恐らく、いや確実にその軍の大半は、金に釣られただけの新兵だ。ハンニバル軍団の本隊は、ガリア兵を入れておよそ四万。その中でハンノの手持ちは、五千程度だろう。ただ数だけを揃えて、ハンニバルへの包囲網を薄くしようという魂胆に過ぎない。だが、無視はできなかった。グラックスは右翼を担う四個軍団に迎撃を命じた。なまじ三万も集まったせいで、万が一包囲を脱せられたらカプアの戦況が怪しくなる。

これで右翼と中央部の間に、隙が生じた。ハンニバルは愚直にも、その間隙へと突き進んでいた。グラックスは即座に左翼にハンニバルの側面に展開するよう命じた。側面とグラックスで挟撃となった。それでも、ハンニバルは進んでくる。なぜか。幕舎の中で訝しがるグラックスの処へ次の報が届いた。それは北西の都市アペラの有力者フラウスからのものだった。アペニン《アペニヌス》山脈の稜線にヌミディア騎兵を発見したというものだった。ハンニバルの作戦の全貌が見えた。

そう直感が訴えると、グラックスは全軍を連れて西へと出陣した。ハンニバルはタレントゥムを奪取したように、少数精鋭でアペラを奪取する。奪取した後にカプアへと軍を進めるつもりなのだ。アペラに幾ばくかの兵を残しておけば、グラックスを足止めすることができ、包囲網を脱出する子が出来る。

アペラに兵はほとんど置かれていない。少数の兵でも落とされる可能性は充分にあった。グラックスは休むことなく、全軍を急がせた。替えの馬は全騎兵とも一頭しか持っていなく、潰れる馬も出た。昼夜を駆け続け、明夜の第三刻(約二四時)には地平線の向こうにアペラが見えてきた。周囲に敵影の姿はない。ハンニバルに勝った。グラックスはアペラの城壁を見上げた。紛れもなく「S.P.Q.R(ローマ)」の旗印が掲げられていた。

松明で自らの旗を照らし、「開門」と叫ぶ。城壁の兵がそれを確認すると、門は開かれた。グラックスがまず少数の護衛とともに中へ入る。城内は不気味な静けさに覆われていた。

「フラウスはいないのか」グラックスが大音声で叫ぶ。突如として、城門が締められた。どういうことだ。混乱する頭を何とか鎮め、兵を小さくまとめる。松明を持った兵も続き、それがグラックスの緋色の外套(パルダメントゥム)を照らしたその時、空を切り裂く鋭利な音が鳴った。数百本の矢が、照らされた緋色の外套へと降り注いだ。謀られたと気づいたときには遅かった。緋色の外套が血塗られていく。味方の騎兵も次々に射抜かれ、落馬した。三日月の旗が眼前を駆け抜けていった。朦朧とした意識の中、フラウスの声が聞こえてきた。「ローマから独立を勝ち取れ」と叫ぶ声だった。それで、グラックスは全てを悟った。


 ハンニバルはローマ軍に追いつき、密かにその背後へと回る。アペラに入ったグラックスを待つ兵士達は、不用心にも城門前で待機したままだった。サムニテスの兵士達が、城壁に掲げてある旗を三日月の旗に変えた。松明で照らされたその旗は、ローマ軍にもよく見えた。どよめきが、ローマ軍に起きていた。

サムニテスは城壁に立ち、その手に持った首級をローマ軍へと投げつけた。

「奴隷兵達よ、よく拝むがいい。貴様らを束縛していた将軍の首だ」

 投げられた首に、ローマ兵は絶叫した。それは紛れもなく、昨日まで自分達の指揮を執っていたグラックスの首だった。それと同時に、城壁に並べたアペラの兵が大合唱した。「諸君等は自由人リベルトゥスだ」とラテン語で叫ぶ。その言葉に応えるように、ローマ軍からも「我々は自由だ」と叫ぶ声が聞こえた。それは奴隷兵達の声だった。ローマ陣営から奴隷兵達がばらばらと抜け出し、ついには大脱走となった。

ハンニバルが口元に笑みを浮かべる。

「敵は中核を失った。我等に従わぬ愚かな同盟軍に、鉄槌を下せ!」

 ハンニバルが剣を振り下ろした。火矢が空に上げられる。それを合図に全軍は、ローマ軍の背後へと襲い掛かった。呼応して城門も開けられ、ヌミディア騎兵が挟撃した。指揮官を討ち取られ、中核を失ったローマ軍は脆かった。隙だらけの隊列を打ち砕く。雷光の旗が何度もその戦列を断ち割った。同盟軍は前後から蹂躙され、敗走した。だが、逃げ出した兵もヌミディア騎兵に捕捉され、各地で討ち取られた。

 朝焼けの平原が、ローマ軍の屍体で埋め尽くされた。それを馬上から冷徹な眼差しでハンニバルが見つめる。サムニテスがローマ軍の物資を部下と共に戦利品を抱えていた。

「これを見てください将軍。これでしばらくは、俸給に困ることはないでしょう」

「打ち捨てておけ。進軍の邪魔だ」

 顔を微動だにせず、そう言い捨てた。サムニテスの眉が動いた。だが、サムニテスは何も言わなかった。傭兵隊長は、金のことしか頭にないのか。ハンニバルの静かな憤りがあった。戦利品などに、興味はない。それよりも、ティファタ山のことが思考を捉えて離さなかった。包囲されたという報告から、すでに十日が経過していた。落城していないのが不思議なくらいだった。

「全軍、進軍せよ。友が命を削って我らを待っているぞ。ティファタの城砦に達するまで休むことは許さぬ」

 ハンニバルが叱咤する。負傷兵は荷馬車に乗せて、後から追わせた。

馬に乗って駆ける中、眠気がハンニバルを襲った。グラックスを破るために、ハンニバルは進軍前から何日も寝てなかった。無理が、余り効かなくなっていた。もう一人の自分が囁く。なぜ、俺はまだ戦い続けているのだろうか。カルタゴを変えるとはなんだ。ギスコの夢に、自分は振り回されているだけではないのか。ハンニバルが頭を振る。嫌な思考だった。

陽光が差し込み、ハンニバルの額が汗で滲む。春が、終わろうとしていた。


 ギスコのこもる山を、何万という軍が囲んでいた。投石機の鈍い音が、連投された。ギスコが塹壕に隠れる。人の頭ほどの石が、火に包まれて目の前にいくつも落ちてきた。目の前が火で熱くなる。それから、通常よりも二回りは大きい矢が辺り一面に降り注いだ。見張り台に、投石がぶつかった。乾いた音とともに、ゆっくりと崩れ落ちた。塹壕から出ると、ギスコは弩砲バリストラを斉射させた。太い矢が、ローマ軍の盾を貫通した。崖を登ってくるローマ兵には、石を投げ落した。登っているローマ兵が転がり落ち、下の兵士も巻き込んで落下する。落下の衝撃で、二人のローマ兵は首がへし折れた。だがそれを踏み越えて、ローマ兵が登ってくる。終わりは見えなかった。兵士達の眼が虚ろになってきている。

ローマ軍の大攻勢は昼夜の境もなく繰り返され、攻めたてられ、休みなどなかった。ローマ軍は二個軍団ずつに分かれ、交代して攻めかかってくる。夜を迎えても真下は昼間かと思うほど煌々と照らされ、喊声はまなかった。ギスコは、一千の兵を休ませるだけで精一杯だった。それも、一刻ほどしか与えられない。余りの疲労に吐き出す兵も出ていた。前線はローマ軍の松明で照らされ、その地面は吐瀉物と屍体が燃えていた。全員の眼が、充血していた。

「将軍が来るまで耐えよ!」その言葉を何度繰り返したか。マハルバルから、南部に十一万のローマ軍が向かったことは聞かされていた。その包囲網に、そもそもハンニバルが耐えられるかも怪しかった。

「イサルカはいるか」

「ここに」

 激しい喊声と轟音の中、掻き消されそうな声を何とか聞きとった。

「儂は一千の兵を率いて、敵軍に斬り込む」

「そんな! 無茶です。お止め下さい」

「だがあの攻城兵器を壊さねば、明日の朝には第一柵は放棄せねばなるまい。儂が斬り込む間、山からの援護は頼むぞ」

 ギスコは崖を離れると宿舎に向かった。轟音が響く中を、兵士達は僅かな時間を貪る様に寝ていた。月の位置する時刻は、休憩が終わりであることを示していた。ギスコが全員を起こす。だが、兵士の動きは遅かった。

「その眠気眼はなんだ。お主ら、老いた儂が休まず働いているにも拘わらず、まだ休みが足りぬのか」

 全員が沈黙する。いや、まだ頭が起きていないのだろう。

「ならば、休みをくれてやる」

 うつらうつらとしていた全員の眼が、鋭く光った。今ならば、休むために何でもするだろう。

「これから敵の攻城兵器を壊しにいく。全て破壊できたならば、貴様らには明日の夕刻まで休みをやろう」

 兵士が歓呼の声を上げた。盾を打ちならし、生気を取り戻した。どれだけ危険なことかも、判別する気力はないのだろう。休憩という言葉に、縋っているだけだった。ギスコは、突撃する間はバアル・ハモンと叫び続けるよう命じた。味方との同士討ちを避けるためだ。そして膂力のある者二百人に鉄槌を持たせた。ギスコも大きな鎚を持ち、崖の前に立った。

「全軍出撃! 破壊せぬ限り休みはやらぬぞ」

 崖を転がるように下りたった。突然現れたカルタゴ軍に、ローマ軍は唖然とした。眼前の敵を、鉄槌で叩き潰した。全軍も次々に斬り込む。まずは弩砲バリストラ。投石機よりも小さい弩砲は、二回振り下ろしただけで弓なりにへし折れ、砕けた。次の獲物を探す。投石機カタパレイン。人の丈二つ分はあるそれは、獣の皮に覆われていた。幾重も敵兵が連なり、行く手を遮った。構わず、鉄槌を振り下ろす。敵の兜がへこみ、脳漿が飛び散る。ローマ兵が三人、ギスコに斬りかかった。ギスコは鉄槌を投げつけ、もう一人目掛けて剣を引き抜く。一閃。横に跳び、三人目の剣を躱した。空いた横腹。剣を突き刺した。抉る様に動かし、引き抜く。血に塗られた剣を紐で結び、背中に背負う。胸部の砕けた兵士から鉄槌を引き抜いた。兵士達と力を合わせ、投石機を引き倒す。敵兵が何度も邪魔をしてきた。ギスコは何とか中核となる梁を砕き、車輪を結ぶ軸もへし折った。敵が群がってくる。まだ奥には健在の攻城兵器が残っていた。だが、ローマ兵の壁は厚かった。これ以上は進めない。撤退の時だった。

 撤退の鐘を鳴らす。反応が鈍い。数秒たって、気づいた兵士が下がり始めた。イサルカが縄を何条も投げ、それをつたって戻る。敵が追撃をかける。それを、イサルカが押し止めた。カルタゴの弩砲が、敵を射抜く。殿軍しんがりに立ったギスコが最後に登りきった。

「全く、冷や冷やとしました。敵に囲まれた時は全滅したかと思いましたぞ」

 イサルカが青ざめた表情で言った。囲まれていたことなど気づかなかった。ギスコが背後を振り返る。生き残った兵は七百人ほどだった。三百人も失う激戦だったのか。自分も相当に疲れているのかもしれない。

「ギスコ殿はお休みください。ここは私が指揮します」

「いや、休みなどはせぬ。ここを踏ん張れば、朝の交代まで敵の攻撃が熄むじゃろう」

 ギスコが鉄槌を投げ捨て、肩にかけた剣の紐を解いた。奇襲の戦果は大きかった。攻城兵器を破壊したこともあるが、ローマ軍は奇襲対策にも兵を割かねばならなくなった。ローマ軍の攻撃が散発的になってきた。ようやく、ギスコは前線を退いた。七百人に加えてさらに千人を休ませた。簡易に造られた小屋へと、兵士が逃げ込むように走っていく。明日には再び激戦へと変わる。冷めた粥を頬張り、ギスコは短い時間を泥のように眠った。明け方、ローマ軍の第二陣が現れた。ギスコは飛び起き、抱いたままの剣を握り締める。重い。昨日の疲労が、老体に響いていた。自らの身体に鞭を打ち、イサルカと交代する。敵の攻城兵器はまた全てが揃っていた。悪夢のような戦いが再び始まった。

 ハンニバルも今、苦しい戦いを続けているのか。そう考えると、老いた胸は苦しくなった。祖国を救えと、焚き付けたのは自分だった。それがなければ、こんな凄惨な戦争は起きなかっただろう。イベリアで細々とやっていれば、ローマとの小競り合い程度で済んだ。そうであったならば、ハンニバルの才を持ってすれば何のことはない平和をもたらせたはずだ。自分は、若者からそれを奪ったのだ。際限のない地獄へと突き落とし、自らもその報いを受ける。滑稽で、笑えない。

自らの非力さを、若き男達に押しつけたのだ。自分に才能などなかった。そんなことは、とうの昔に気づいていた。それでも、諦めきれなかった。想いは才能を超えると信じていた。それで何度、挫折したことか。若い者に次々と抜かされていった。友との誓いを果たせないほど、自分の力は貧弱だった。なぜ、自分の行く道はこうも捻じ曲がるのか。壁にぶつかり、挫折し、またぶつかる。戦い続けても、老いることしかできない自分が恨めしかった。

 悲劇と惨劇が、降りかかる。ローマ軍の弩砲が、兵士の胸部を貫通する。火に包まれた投石が、辺り一面に降り注いだ。火の粉が、顔に降りかかる。辺り一面は血と焦げた腐臭で塗れていた。兵士達が、次々と死んでいく。ギスコは前線に立ち続けた。夕刻の赤い日が山を照らす。生きようなどということは考えなかった。自分に出来るのは、立ち続けることだけなのだ。

 友ならば何と言うのか。辛い時でも、クサンティッポスは常に前を向いていた。自分には大きすぎる男だった。精一杯背伸びをしても、届きそうにない。

 ギスコは一千の兵を集めた。

「全軍出撃。敵の第二陣が到着すると同時に、攻撃を仕掛ける」

 ギスコが槍を持ちながら言った。松明を持ったローマの第二陣が、第一陣の間を縫うようにして現れた。ギスコは崖を駆け下りた。無我夢中に、槍を振るった。攻城兵器の守備隊は人数が増やされていた。喉元を突き刺す。今度の奇襲は、さすがに見破られていた。敵兵が、次々に槍を繰り出す。攻城兵器までの道は、遠かった。友のように、ハンニバルのように、鮮やかに勝つことは出来ない。知りながら、まだ目指そうとしていた。ギスコは撤退の鐘を鳴らした。一千騎が引き上げる。

「休むな。全軍、次は敵右翼へと出撃する」

 意地だった。ギスコは槍を掲げ、砦の向こうへと走り出す。そして、再び崖を降りた。二度目の奇襲を、敵は察知していなかった。戦線を崩す。深部へ。自分の手で、勝利を掴み取るのだ。敵兵が振り下ろした剣。槍で防ぐ。腕力で槍を折られた。即座に剣を抜き、敵の右腕を切り捨てる。側面の敵。鎧の上から、剣を叩きつけられた。左肩に激痛が走る。従者が撤退の鐘を鳴らした。

 敵の攻勢は緩まった。斬り込んだ部隊は休ませる。だが恐らく、ローマ軍は一刻も経たずに立て直してくるだろう。左肩が、湯をかけられたかのように熱かった。骨が砕けたようだった。従者に命じ、包帯で左腕を胴体に巻きつけた。じわじわと、守る兵士が殺されていく。ここは限界だった。

「イサルカ!」

「ここに」

 血みどろの男が返事をした。

「ここを捨て、第二柵へと引き上げる。儂が殿軍しんがりとなり、敵を押し止める。その間に、撤退を完了させよ」

「御意」

 イサルカが兵器を後方へと下げていく。それから、逐次兵士が後方へと下がっていく。敵の攻勢が一段と強くなる。こちらが下がったと見て、それに続いて雪崩れ込もうとしていた。兵士に、瓶を持たせた。

「敵を遮断せよ。一斉投擲」

 登ってくる敵に投げ込む。油と硝煙を詰め込んだものだった。崖一面が火の海となり、登ってきた兵士の退路を断つ。その全てを突き殺した。火の勢いが弱まる。その前に、ギスコは第二柵へと退いた。空が白み、陽が昇ってくる。それでも、敵の攻勢は熄まなかった。敵は合流し、五万の軍勢となって間断なく攻めてきた。敵は焦っている。将軍が北上してきているのだろう。分かり易い動きだった。

「ここを耐え抜け。援軍はもう少しぞ」

 声は枯れていた。膝に激痛が走る。視界が、霞んできた。老いた体に、激戦は身に染みた。それでも、前線を駆け回った。ハンニバルの期待に応えるためだ。この身が朽ち果てようとも、戦い抜くと誓ったのだ。

敵の攻城兵器は倍になり、石は休みなく飛んできた。もう、睡眠を取らせることは出来なくない。寝ずに戦った。夜になったことも、良く分からなかった。気づけば、イサルカが投石に当たって斃れていた。指揮の空いたその一角を敵が突き破る。必死に押し止める。止まらない。際限なく、兵士が斃れていった。ギスコの前で泣き出す兵士が現れた。もうだめだと泣き叫ぶ。命乞いのように膝を折った兵士を、ギスコは崖から突き落とした。

「降伏など許さぬ。戦って死ぬか、儂に落とされるかだ」

 雨音がする。同時に、雨が降り注いできた。夜の雨が視界を悪化させ、弩砲の弦を緩ませる。敵の火力が衰えた。その間に、ギスコは第三柵へと撤退させた。これが最後の撤退だ。もう、後ろはなかった。

退くことは出来ない。這いつくばってでも守る。守り抜かねばならない。満身創痍の老体を、祖国への想いだけが動かした。戦え。敵を討ち倒せ。ギスコという生き様が、ここで試されるのだ。凡庸な人生。その最期の生き方ぐらい、誇って終わらせたかった。


 雨が打ちつく土を蹴り上げ、ハンニバルが駆け抜ける。濡れた髪が額にへばりつく。ティファタ山までもう少しだった。ハンニバルに報告が入る。ハンノが敗走したらしい。ハンニバルが中央突破したのを見計らって、軍を崩したのだろう。新兵だけの軍で、ハンノは良く耐えた。

歩兵の息遣いが荒くなる。ハンニバルが、ハスドルバルとサムニテスを呼んだ。

「騎兵だけで先行する。ハスドルバルは私に続け。サムニテスは歩兵を連れて後から付いてこい」

「はっ」

 雷光の旗に続いて、ヌミディア騎兵四千が隊列から離れていく。馬蹄が、草莽を揺らした。はやい。騎兵の速度が上がる。左手に、カプアの城壁が見えてきた。その東方にあるのがティファタ山だった。あと少しだった。敵陣の横を駆け抜ける。包囲軍の後方へ。敵の斥候がこちらに気づいた。斥候は急いで報告に戻ろうとする。ハンニバルは馬腹を蹴った。斥候との距離が縮まる。真紅の外套が揺れ、敵を一閃した。斥候が地面へと倒れ込む。雷光の旗は、敵軍の背後へと迫った。雨が、ハンニバル達の姿を隠した。

「敵を蹂躙せよ! 大地を血に染めろ」

 雄叫びが上がる。ローマ軍が気付き、振り返った。遅い。敵の背後まで肉薄していた。ヌミディア騎兵が投槍を放つ。敵が乱れた。太腿を締め、雪崩れ込んだ。馬が敵兵を蹴飛ばす。逃げ惑う兵。ハンニバルの尖刃が、ローマ軍を切り裂いた。抉る。ハンニバルは縦横に駆けた。攻城兵器を繰る敵を斬り飛ばす。敵は攻城戦で疲れており、動きは鈍かった。馬首を返し、勢いをつける。第二の刃で、ローマ軍を断ち切った。山をちらりと一瞥する。崖の形が、いびつに歪んでいた。思わず胸が熱くなった。山上には未だローマ軍がいる。

もう一度、敵陣に攻勢を仕掛ける。次は堅かった。ローマ軍は雷光の旗に集中した。山上の敵もこちらに気づき、脱兎の勢いで駆け下りてくる。逆落としか。常法通りの動きだった。ハンニバルの騎兵が二つ、五つと分裂する。敵は目標を見失った。騎兵が敵の間をすり抜ける。その間に、サムニテスの本隊が到着した。挟み撃ちとなった。敵を前後に絞り上げる。算を乱して、ローマ軍は敗走した。

「敵を斬り殺せ! 三日月イェリフの前に立ったことを後悔させろ!」

 全軍が追撃に走る。砕く。敵執政官は、二手に分かれて敗走した。

ハンニバルと従者だけが、戦場に残った。ひたひたと降る雨が、先ほどまでの戦場に静かな時を与えた。馬を降りると、山上へと続く崖を登った。雨で土はぬかるんでおり、投石で使われた大きな石が道々に落ちていた。山上へ向かうにつれ、屍体が多くなる。焼け焦げた臭いは、腐臭と混ざって強烈だった。第三の柵へ着いた。柵は方々が壊れ、ローマ軍に侵入された跡が生々しく残っている。その柵の前で、ギスコは倒れていた。心臓の鼓動が高鳴った。ハンニバルは駆け寄り、その体を抱き起す。冷たかった。間に合わなかった。その瞬間、頭が真っ白となった。

いつまでこうしていたのか。ハンニバルは、抱きしめたままだった。無情な時間が、雨と共に過ぎていた。いつの間にか、ハスドルバルが傍に立っていた。

「ギスコ殿……」

 崩れるように、ハスドルバルも座り込んだ。雨脚は弱まらず、山を濡らし続けた。追撃に出ていたサムニテスが、ゆっくりと山を登ってきた。

将軍ラブ・アマナト、敵軍の被害はおよそ一万。執政官の一人フラックスはクーマエへと逃げ込み、門を固く閉じております。もう一人のプルケルは、ルカニアへと敗走しました」

 淡々とした報告だった。山の下に全軍が集まり、次の号令を待っていた。ハンニバルは頷き、ギスコの身体を離した。そして従者に、火葬を命じた。

「全軍出撃。ルカニアへ追撃するぞ」

「南方にはまだ八個軍団が健在です。それは厳しいかと」

「だからだ。まとめて、ローマ軍を根絶やしにしてくれる」

 埋葬のための兵を残し、ハンニバルはティファタ山を離れた。

南方へと逃げた執政官プルケルを追った。だが、敵執政官にハンニバルと戦う度胸は無かった。追撃を知るや、さらに南へと逃げた。執政官を守るように、二個軍団がハンニバルの前を遮った。シラルスで、両軍は激突した。相手にならなかった。ハンニバルの前に、ローマ軍は全滅した。司令官のケンテニウスは討死し、一万五千が殺された。

 ハンニバルは止まらず、猛追した。南端へと追い込める。プルケルはひねるように、反時計回りに北東へ逃げた。北東のアプリアには、左翼を担っていたグナエウス・フラックスの四個軍団が健在だった。プルケルは二個軍団と合流し、そしてもう二個軍団には南下させ、ハンニバルを食い止めるよう命じた。執政官はハンニバルを恐れ、戦おうとはしなかった。ただ逃げ続けるプルケルに、ハンニバルの手綱を握る手は強くなった。ギスコの仇。それは目前だった。立ちはだかる二個軍団に、ハンニバルの隻眼が光った。

ヘルドニアで衝突したローマ軍は、最初の一撃も耐えられなかった。ローマ軍は戦線が崩壊し、壊滅した。一万六千が討ち取られ、敵将フラックスは敗走した。

 雷光の旗は止まることを知らなかった。逃げ延びようとするプルケルに肉迫した。あと一歩だった。しかし、紙一重でプルケルはアルピの都市へと逃げ込んだ。そして四個軍団を守備に着かせると、城門を固く閉ざした。

 ハンニバルが剣を振り上げる。

「全軍、アルピを攻め落とせ! ローマに味方する者は女子供であろうと殺せ。情状酌量の余地などない」

 激情に満ちた声に、全軍が凍りついた。兵士達は掛け声も上げず、足が止まった。ハンニバルが振り返る。――なぜ我が命に従わぬのか。ハンニバルが問いただす。誰も、眼を合わそうとしなかった。兵士の中をかき分けて、サムニテスがハンニバルの前に立った。

「何の真似だ、サムニテス」

 凍てつくような声。サムニテスの拳は、震えていた。

「我々は、攻城戦を拒否する」

「黙れ。まだ、ローマ軍は生きている」

 ハンニバルがアルピの城壁を見上げた。そこには赤いローマの旗が翻っている。サムニテスは決然とした意志をした表情で、ハンニバルに抗った。

「お前は今、ハンニバルではない。俺の知っている将軍は、もっと冷静な思考の持ち主だった。お前には、見えていないのか。この兵士達のどこに、攻城戦ができる奴がいるんだ!」

 どこだ、とサムニテスが両腕を開いて、全軍を指した。鬼気とした面持ち、兵士達の沈黙はサムニテスを支持していた。その時、初めてハンニバルは兵士の顔を見た。多くの兵が身体中に傷を受け、その顔は死神のようだった。

「みんな、タレントゥムを出てから碌に休みもせず、ここまで来たんだ。グラックスを倒して、包囲軍を破って……ふざけるなよ将軍。俺らは、仇討ちの道具じゃねぇんだぞ。ここまで黙って付いてきたのも将軍、てめぇの大義に従ったからだ! 俺らは充分に戦った。それでもまだ、俺らに死ねと命じるのか」

 サムニテスの深く燃えた眼光が、ハンニバルを捉えた。全軍を見回す。生気を保った男はいなかった。初めて、ハンニバルは我を忘れていた。そうだ、もう限界だったのだ。はっと気づいたかのように、ハンニバルは天を仰いでそう悟った。

 タレントゥムへと、ハンニバルの軍勢は撤退した。そのまま、南イタリアを固めるだけで残りの年は過ごした。タレントゥムでの冬営も決めた。クーマエへと逃げたフラックス執政官が、ハンニバルが撤退した途端に、カプアの周辺を略奪して回った。マハルバルから救援の依頼が届いた。それでも、軍を動かせなかった。その年、兵士達はもう北上する気力がなかった。

もう一度、ハンニバルは本国に援軍を求めた書をしたためた。それがどれ程の効果があるのかなど、分かり切っていた。それでも、縋るしかなかった。秋風が、寂しそうに部屋の中を旋回していた。


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