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鮮血の階段

 地中海に風穴が空いた時、ローマ市内は恐慌状態と化した。ハンニバルに援軍がやってくる。悪夢でしかなかった。人々は新興宗教にまで手をだし、救いを求めた。だが、僅かな兵しかやってこなかったと告げられると、ローマ市民は狂喜した。ファビウスもまた、その一人だった。ファビウスは神に感謝すると、すぐに軍艦を百隻建造し海上の防備に努めた。さらにサルディニアへ物資を補給し、叛乱の殲滅を命じた。叛旗を翻すマケドニアを内側から攪乱した。アテナイ、スパルタ、アイトリア同盟などを焚き付け、マケドニアの支配下からの独立を促した。ローマはそれを一個軍団で補助するだけで、後は放置した。

 ローマの海外戦線は徐々に優位に立ちつつあった。プブリウスはイベリア(ヒスパニア)北部を制圧することにより、バルカ家の兄弟達が援軍としてイタリアへ向かうのを遮断した。後は終戦までその状態を維持しておけば、交渉次第でイベリアの領土の多くを割譲させることが出来る。残った戦線は、シチリア島だけだった。

 スキピオは、新設された軍艦の上にいた。スキピオのいる旗艦を囲むように、『S.P.Q.R(ローマ)』の旗を掲げた五段櫂船の軍艦百隻が並んでいる。その向こうには、シラクサの城壁が聳えていた。シチリア島のシラクサ都市が、ローマとの同盟を断って叛旗を翻した。かつてシチリア島の大半を従え、アテナイをも破った栄光を、取り戻さんがためであった。主君が暗殺されたシラクサでは、一度は講和に傾いたが、ハンニバルの送った間者が民衆を扇動し、再び離反させた。かつてシチリア島に領土を持っていたカルタゴ本国の貴族達も、諸手を上げて援助していた。

 風が凪いだ。無風になるのは、地中海ではよくあることだ。百隻の船が帆をしまう。凪いだだけが理由ではない。攻城戦となるからには、燃えるものはなるべくしまわなければならないからだ。

 艦上に立つマルケルスが、手を上げた。百隻の軍艦はうねりを上げて、シラクサの城壁に挑みかかった。城壁から、奇妙な兵器が現れた。またか、とマルケルスが呟く。大きな反動と共に、轟音が巻き起こる。幾つもの大きな石が降り注いだ。城壁に取り付けられた投石機は、的確に船を狙っていく。艦上で待機していた兵の盾を貫いて、その骨を砕く。進撃のラッパ(ブキーナ)は鳴り続けている。

ローマ海軍が、城壁近くまで船をつける。しかし次は、城壁から火炎瓶が投げられた。どろどろとした黒い液体が艦上に飛び散り、爆発した。乗り付けた船が沈む。しかしいくつかの船が、城壁に梯子をかけた。それをローマ兵達が登っていく。途端、ローマ兵の頭上が暗くなった。十タラント(約三七〇kg)を超える鉄球だった。見上げる間もなく、梯子ごと押し潰された。艦上に血が飛び散る。血糊のついた鉄球は再び引き上げられ、次の梯子の真上へと移動していく。

 マルケルスは損害の大きい船を退かせて、第二陣を投入した。次の船団が、投石の隙をついて飛び出す。鉄球が移動した時を見計らって、梯子をかける。またも、次なる兵器が城壁から飛び出した。鉄で固められた長い棒の先に鉤爪が付けられていた。それを船の舳先に引っ掛けると、梃の原理で巨大艦船を持ち上げた。あっという間に、船が宙へと浮いた。垂直になった船から、次々に兵士が海へ投げ落とされる。鉤爪が、放された。艦船が飛沫を上げて海へ落とされた。粉々に大破する。

マルケルスは撤退を命じた。二度の攻勢は、全て失敗に終わった。

 苦渋の表情を浮かべるマルケルスを、スキピオは初めて見た。ローマは、シラクサの裏切りを重く受け止めていた。シチリアの盟主シラクサの離反は島全体に波及し、他の都市も裏切らせてしまうからだ。シチリアから南イタリアまでは船でわずか一日足らず。この島がカルタゴの手に落ちれば、ハンニバルへの援助が格段に容易となってしまう。ここを失うわけにはいかなかった。迅速に落とすため、ローマはマルケルスをこの戦線に投入した。軍艦三十隻も援軍に出し、是が非でも落とす構えだった。ハンニバル戦線には代わりに増やした四個軍団(約五万)がマルケルスの代わりを務め、ファビウスらを含めて八個軍団がハンニバルを包囲していた。

 夕刻。船から降りたマルケルスは、スキピオとラエリウスを伴って陸から包囲するローマ軍陣地へと戻った。包囲する兵は、およそ三万七千。幕舎に入るや、マルケルスは乱暴に腰を椅子に掛けた。

「まるで百手巨人ヘカトンケイルと戦っているかのようだ」

「攻め方を変えねばならないでしょう。このままでは、徒に損害を大きくするだけです」

 スキピオが言う。今までの戦いとは違う。この攻城戦は異常だった。見たこともない兵器が、次々に出てくる。不思議な方法で船との距離を正確に測り、ぴたりと石を飛ばしてきた。全て、アルキメデスという数学者が考え出したものだった。

「もういい。攻城戦を諦め、兵糧攻めへ切り替える」

 マルケルスが、唸るように声を出した。

「なぜですか」

 ラエリウスが食ってかかった。イタリアで踏ん張るファビウスは、断腸の思いでマルケルスをシラクサ攻囲へ派遣したのだ。恐らく、イタリアではハンニバルとの苦しい戦いが繰り広げられている。だからこそ、ファビウスとしては一刻も早くマルケルスに戻ってほしい筈だった。

「淀んだ場所で足掻こうとも、無駄だ」

 そう言うと、マルケルスは二人に下がれと命じた。渋々、二人は一礼して下がった。マルケルスの幕舎を出ると、ラエリウスが怒りだした。

「どういうことだ。南イタリアのことを考えれば、ここは犠牲を払ってでも攻めるべきじゃないのか」

「違う。そうじゃないんだ」

 思わず、スキピオが口を挟んだ。

「なら、どういうことなんだ」

「分からない。ただ、マルケルス殿は諦めたわけではないのだと思う」

「なんだそれ。俺には、のろのろと構えているようにしか見えない」

 ラエリウスは納得できないといった表情だった。スキピオもこれ以上は言葉にできず、その話題を口にすることはなかった。二人は、自らの宿舎に戻った。所属はカンネー軍団だった。カンネーでエミリウスに助けられた兵士達は、ローマ市民に拒絶された。戦場に残った者は全員が戦死したのに、むざむざと生き恥を晒すなということだった。そのため、ローマから遠く離れたシチリア島へと流された。終戦まで、イタリアの地を踏むことを禁じられた。そのため、スキピオもラエリウスも家族の下へは戻ることは出来なかった。

 宿舎に戻っても、スキピオは眠れなかった。起きだし、外に出た。春と言っても、夜はまだ寒い。夜風が身に染みた。月を見上げる。エミリアのことが、気がかりだった。義父エミリウスの娘であり、許婚だった。出陣する前はエミリアがまだ十四歳であり、婚礼は帰還した後に行われるはずだった。しかし、カンネーでの悪夢が起きた。エミリウスは死に、夫になる自分はローマを追放されている。不遇な女だった。二年が経った今、エミリアは十六歳になっている。一刻も早く戻り、抱きしめたかった。

 翌早朝。カンネー軍団はいつものように起こされた。マルケルスが来てから、毎日のように厳しい訓練が課された。スキピオもラエリウスも、一兵卒と同じように鍛えられた。本来は、カンネー軍団は戦闘さえも禁じられていた。だが、マルケルスは公然と訓練を課し、戦闘に混ぜた。兵力不足のローマは、それを黙認した。エミリウスがその命を捧げて助けた兵を、何故冷遇するのか。マルケルスのささやかな反抗が、そこに見えた。

 夕刻まで、訓練は続いた。それから、夕餉の時間だった。だが、スキピオは夕餉の支度を行なわない。誰もいなくなった平原で、マルケルスと対峙していた。真剣で訓練することが、日課だった。泥だらけの服を払う間もなく、スキピオは剣を握り締める。細長い剣は、震えるほど重かった。向き合うだけで苦しい。乱暴な思考で打ち込めば、容赦なく地面に叩きつけられた。満身創痍の身体を奮い立たせる。こめかみを汗が伝った。ガリアを震撼させた名将が、目の前にそびえ立つ。負けたくなかった。スキピオが渾身の力を込めた。

 その日の夜、腕も上がらなくなったスキピオは泥のように眠った。マルケルスは長い軍議の末に兵糧攻めへと切り替えた。数日後、将校に招集がかかった。陸上の指揮を任されている前法務官プロプラエトルのプルケルもやってきた。前法務官とは、法務官を務めた者がその後も軍を率いるために与えられる役職である。マルケルスと同じクラウディウス一族のネロなどが揃った。宿舎の中が静まり返る頃、マルケルスが目を見開いた。

「カルタゴ軍がシチリアに上陸した」

 それだけを言い、マルケルスがネロに目をやる。ネロが畏まって、卓に地図を広げた。

「カルタゴ軍二万八千は西岸のヘラクレス・ミノアに上陸し、南の主要都市アグリゲントゥムに兵を入れました。恐らく狙いは、我々の後方を攪乱して包囲を解かせることだと思われます」

 カルタゴ本国が、遂に自らの兵を動かした。今までは、あくまでハンニバルに一任するといった構えであったが、ハンニバル優勢になるや、一枚噛んでおこうという気になったのだろう。

「現在カルタゴ軍は、東端の我々の陣地に向かって進軍中です」

 ネロが海岸線をなぞる様に指を動かした。

「ここは何としてでもカルタゴ軍を止めねばなりません。背後を取られれば、城内との挟み撃ちになるでしょう。ここは陸上軍を二分し、カルタゴの援軍に兵を割くべきかと」

「待たれよネロ殿」

 プルケルが言葉を挟んだ。

「確かにカルタゴ軍は放置できないが、しかし三万の兵力を擁している。対して我らはカンネー軍団レギオ、ローマ海軍クラッシスを入れても四万程度。しかもその内七千はカンネーの敗残兵だ。城内にまだ二万近い兵がいることを考えれば、ここはどちらか一つに兵力を集中すべきであろう」

 敗残兵という言葉に、スキピオの眉間が動いた。すぐに、ネロが言葉を返す。

「二万八千といえども、カルタゴ軍は寄せ集めの傭兵。勇ある者ならば寡兵でも打ち破れましょう。カンネー軍団も、敗残兵だと言っていつまでも戦いに出さなくていつ戦力になりますか。かつてローマが散々に打ち破ったカルタゴの兵です。充分に戦えるでしょう」

 ネロが歪んだ笑みを浮かべて言った。貴族らしい丁寧な物腰だが、言葉の端々で人を小馬鹿にした態度が出てくる。ただ、マルケルスと同じクラウディウス氏族の出であり、軍の指揮は一流であった。

「いや、敵を侮るでない。用心に用心を重ねるべきだ。同じ過ちをして、何度カルタゴ軍に辛酸を嘗めさせられたのか」

「これは奇異なことを。マルケルス殿はノーラでハンニバルを防ぐこと三度みたび。ただの一度も負けたことはありません。そして最も大事なことは、シラクサに補給の隙を与えてはならぬということ。現に兵糧攻めへと切り替えた今、カルタゴは補給船をシラクサに送ろうとしております。シラクサの包囲を解けば、シラクサを攻め落とすのはさらに難しくなるでしょう」

 分は、ネロにあるとスキピオは思った。敵将の実力が測り切れていない今、プルケルの憂慮も消し切れていないが、しかしシラクサを放置するわけにはいかない。

 将校達は意見を戦わせたが、結局カンネー軍団が戦えるかどうかで意見が分かれた。初めての軍議で緊張していたスキピオとラエリウスは、顔を見合わせるだけで発言は出来なかった。マルケルスがおもむろに立ち上がった。

「軍議はこれまでだ」

 マルケルスの声が響く。

「戦場が動き出した以上、時間を無駄にすることなどしない。軍を二分させる。海軍クラッシスの半分を陸に上げ、陸上軍と合流させる。プルケルは二万五千の兵でシチリアを包囲し続けよ。カンネー軍団とネロは、俺と共に明朝出撃する。カルタゴ軍を打ち払うぞ」

「はっ」

 全員が片手をあげて敬礼をした。マルケルスは敗残兵に賭けた。堅い戦を行う父とはまた違った果断な采配だった。スキピオは一息吐きながら、そう感じた。

 夜明けとともに一万五千の軍団は出陣した。だが、マルケルスは西へと向かわなかった。カルタゴ軍の方角へと向かわずに、マルケルスは北へと進軍した。メガラという一都市を包囲し、マルケルスは腰を据えた。投石機カタプルタを放つわけでもなく、攻める構えだけで小さな城壁の周りを人海で埋め尽くしただけであった。「どうしてだ」とラエリウスがこぼすが、スキピオも答えられない。その間にもカルタゴ軍は東へと進軍している。このままではシラクサを包囲しているローマ軍が挟撃に遭ってしまう。

 シチリア南東を流れるヒルミニウス河を、カルタゴ軍が越えた。それでもマルケルスは動かなかった。敵とシラクサの距離はもう二百五十スタディオン(約四十五km)を切った。急報がマルケルスの下に届いた時、ついにマルケルスが腰を上げた。

弩砲バリスタ投石機カタプルタを前線に並べよ。あの赤子の壁を呑みこめ、怖気づく者は後ろから刺し殺せ」

 マルケルスが号令を下す。ローマ軍は一斉に四方から城壁に群がった。油断していたメガラの兵は脆く、早々に城壁の一角が崩された。そこを起点に、城門が開かれる。S.P.Q.R(ローマ)の旗を掲げ、マルケルスの騎馬隊が城内を駆け抜けた。道を塞ぐ敵兵を薙ぎ払う。誰も止められなかった。市内は一刻も立たずに鎮圧された。

「マルケルス前執政官プロコンスル。鎮定が終わりました」

 スキピオとラエリウスが報告した。

「ならば出撃だ。カルタゴ軍を迎撃する」

「今すぐにですか」

「二度訊くな。兵糧だけを持って、西へと駆ける」

 有無を言わせず、マルケルスはメガラを出た。包囲している間に放った多くの密偵から報告が入る。カルタゴ軍の動きは明らかに遅い。マルケルスが動かなかったことにより、カルタゴ軍は急ぐ必要はないと油断していた。日が没するまで駆ける。眠り、再び日の出とともに草原の大地を駆った。スキピオは付いていくことで精一杯だった。マルケルスは傍を離れるなと一言命じただけで、後は見向きもしなかった。

 駆け続けて三日目。カルタゴ軍の斥候は、ただシラクサを包囲するローマ軍だけを見張っていた。丘の稜線に立つローマ軍に気づかず、ゆったりとアクリクライにて陣を設けている最中だった。

 マルケルスが、全軍の前に出た。

「カンネーの兵達よ。諸君等はエミリウスを覚えているか。カンネーで戦場に留まり、命の果てるまで諸君達を助けた者の名を」

 兵士達を静寂が覆う。戦場で助けられた恩は、ローマでは一兵卒であろうと忘れない。

「本国の元老院議員セナトールどもは、ウァロの罪を諸君達に押しつけている。これを許せるか。エミリウスの奮迅の努力はなんだったのか。俺の手は今、怒りで震えている。お前達に命ずる。カルタゴ軍を屠り、カンネーの恨みを晴らせ。カルタゴ軍の首を飛ばし、元老院議員どもを見返せ。絶対に、勝つのだ!」

 全軍が雄叫びを上げた。マルケルスが槍を掲げ、馬腹を蹴る。ローマ騎兵、そして歩兵もそれに続いた。カルタゴ軍の陣へと、雪崩のように駆け出した。肉薄する。ローマ軍の出現に、敵の動きが慌ただしくなった。ぱらぱらと、騎兵が陣から飛び出してくる。戦列は整っていなかった。ローマ騎兵が先頭に立つ。緋色の外套(パルダメントゥム)をなびかせ、マルケルスが槍を構える。スキピオもそれに従った。

「腿を締めろ。敵軍を蹂躙する!」

 馬の後脚が、大地を蹴った。カルタゴ騎兵の構えがひるむ。隙だらけだった。カルタゴ軍の深部へと、ローマ騎兵が雪崩れ込んだ。馬首を返す。マルケルスが槍を振り上げ、再び襲いかかる。カルタゴ騎兵は脆くも崩れた。その時、ようやく敵陣から歩兵が隊列をなして出てきた。それを、追いついたローマ歩兵が押し込む。だが、大軍のカルタゴ軍は数で呑みこもうとする。右。カルタゴ陣からヌミディア騎兵が飛び出してきた。マルケルスが向きを変える。

前執政官プロコンスル、あれは!」

 ラエリウスが目を見開いた。

戦象エレファントゥスか……!」

 ヌミディア騎兵の背後から、優に一ペルティカ(約3m)を超える異形の獣が姿を現した。先の戦争を経験していないスキピオ達にとって、音に聞いた戦象に思わず慄いた。

「スキピオ……」

 ラエリウスが頼りなさそうに漏らした。どうしようもなかった。スキピオはただ、手綱だけを握り締めた。その眼前を、緋色の外套が覆った。マルケルスが先頭に立つ。付いてこい、と一言呟く。

「怯むな。貴様らの背後には家族のいる祖国があるのだ。全軍、俺に続け!」

 眼前に立ち塞がる戦象へと、マルケルスが馬腹を蹴った。スキピオも動く。遅れるように、ラエリウスと騎兵が続いた。マルケルスが馬腹を腿で挟み、投槍を構える。

「一斉投擲!」

 ローマ騎兵が、一斉に槍を降り注いだ。戦列を整えていた象が乱れだす。馬首を返し、離脱する。逃げるように、戦象部隊が左右に展開した。だが、遅い。馬に取り付けられているもう一つの槍を引き抜く。構え。

 もう一度、二千の槍が降りかかった。動き出した戦象は、混乱の極みに達した。進行方向を変え、カルタゴ軍の戦線を踏みにじった。その後に、マルケルスが続いた。戦象で乱れたヌミディア騎兵は相手ではなかった。マルケルスの槍が鮮血に染まっていく。敵騎兵のほつれ。見逃さなかった。マルケルスが兵をまとめ、猛攻を加える。離脱。一陣の風となり、間隙をローマの白刃が切り裂いた。ヌミディア騎兵が敗走する。

「逃げる敵にかまうな! 全軍、敵の背後を突くぞ」

 旋回し、カルタゴ歩兵の背後に回った。がら空きだった。瞬く間に、カルタゴ軍が崩れ出す。スキピオもマルケルスに続いて槍を振るった。将軍ヒミルコの旗を探す。戦場の奥。紫紺の旗は、すでに指揮を放棄して遠くへと逃げていた。スキピオは唖然とした。これが、イタリアの地で戦う男と同じ将軍なのか。真紅の外套を羽織ったヒミルコは、惜しむことなく背を見せて逃げ出していた。逃げる兵に、スキピオは力任せに槍を振るった。カルタゴ兵が地面へと叩きつけられる。それを、味方の兵が滅多刺しにした。指揮官のいなくなったカルタゴ軍に、戦線に留まる者はいなかった。我先にと作りかけの陣へと逃げ出す。だが、マルケルスの追撃は徹底を極めた。三日月の旗を踏み潰し、陣中へと侵入する。各所に火を放ち、敵の拠りどころを破砕した。ついに敵は陣を放棄し、逃げ出した。その背後に、再びマルケルスが襲いかかった。

「生きて帰すな! ローマ軍の恐ろしさを敵に刻みこめ」

 凄惨な追撃が始まった。ローマ軍は日が没するまで駆け続けた。周りが月の明かりだけになるまで、マルケルスは追撃の手を緩めなかった。後には、カルタゴ軍の屍が累々と積まれていた。マルケルスに報告が入る。敵カルタゴ軍の死者は八千、負傷者は一万を超えた。戦象も殆どが逃げるか討ち取られた。二万八千を数えたカルタゴの軍勢は、事実上潰滅した。

「強い、強過ぎる」

 興奮を抑えきれないようにラエリウスが言った。スキピオもうなずく。

「カルタゴの将軍は、戦場で碌にとどまらなかった。そんな男に、祖国を守ろうとするローマ軍が破られるはずがない」

 マルケルスとヒミルコ。二人の覚悟は決定的に違っていた。マルケルスには、祖国を守るという覚悟があった。それ故に、戦象を前にしても怯まなかった。だがカルタゴの将軍は、最後まで戦場に立って兵をまとめることなく、敗走した。ヒミルコに、いやカルタゴ本国に、祖国を再興させたいと考える者はどれほどいるのか。

「ヌミディアとアフリカの馬がおよそ二千頭確保できました」

 最後の追撃に出ていたネロが、乗り手を失った敵の馬を引っ張ってきた。マルケルスが顎に手を当てる。少しして、スキピオの方を向いた。

「スキピオよ、帰還したらカンネー軍団から体躯の良い者を二千名選べ」

「騎乗させるのですか」

「五年もしごけば、様になろう」

 マルケルスが口元を上げた。マルケルスはカルタゴの陣営に残った莫大な兵糧と戦利品を馬車に積んで、シラクサ包囲軍のもとへと帰還した。シラクサの都市は、カルタゴ軍が敗北した後も依然抵抗をやめなかった。カルタゴの隠密部隊が、少数の支配層を操っている。カルタゴ本国にそんな芸当ができるとは思えない。恐らく、ハンニバルが手を回しているのだろう。城内では、厳しい言論統制が行われている。箱庭の恐怖政治が、市民を掌握していた。

 夕餉が終わり日の沈んだ頃、スキピオはマルケルスに呼び出された。幕舎に入ると、マルケルスが一人、掲げられた地図の前に立っていた。

「お前は、今日の戦いで何を見た」

 マルケルスが振り返る。巨大な体躯だった。

「覚悟の強さが、見えました」

 スキピオはマルケルスの眼を捉えて言った。想ったままに語った。マルケルスの口元が緩む。

「良いだろう。それが分かったならば、よい。お前をローマに帰還させよう」

 マルケルスが机上のパプロスを取り上げた。

「ネロとプルケルも帰還させる。お前の許可もファビウスから得ていた。後は、エミリウスの果たせなかったことを教えるだけだった」

「まだ、私は学び切れていません」

 だがマルケルスは、スキピオの胸に命令書を押しつけた。

「誰が学ぶのを止めろと言った。戦場からでは、見えない戦いもある。ローマの将来を背負いたくば、一度全てを離して考えろ」

「――かしこまりました」

 それ以上、マルケルスは言わなかった。スキピオは一礼し、退出した。従者に荷物をまとめさせ、翌朝には船に乗った。ラエリウスは、新たに創設された騎馬隊の隊長として、カンネー軍団に残った。船着き場には、親友のラエリウスや多くのカンネーの兵達が見送りに来てくれた。皆、マルケルスの厳しい訓練を共にした仲間だった。それに手を振って、スキピオはシチリア島を出た。本来ならばイタリア半島まで一日で着くが、最寄りの港はハンニバルに占領されている。そのため、占領されていない港までの数日を海の上で過ごした。それから陸を馬で駆け、ローマへと辿り着いた。

 すでに城門前には、スキピオ家の食客達クリエンテラが出迎えに出ていた。馬を下り、手綱を出迎えた召使いに渡す。ローマ市内の道は人でごった返し、馬で通るのは至難の業だった。召使いはそれを受け取ると、スキピオを市内へと促した。ローマの城門を歩いてくぐる。ローマ市内は馬車が制限されているため、貴族でも歩くのが慣例だった。市内は異様に静かだった。スキピオは目を疑った。

「これは、いったい」

 多くの人々が、路上で物乞いをしていた。その頬はこけ、痩せ細っている。

「なぜ彼らは、満足に食べられないのか」

「物価が高騰しております。それも尋常ではないほどに。彼らは糊口を凌ぐために給与の殆どを取られ、家を追い出されたのです」

「どうしてまた、そこまでの高騰を」

「どうやら、ハンニバル一派が噛んでいるようです」

「ハンニバルだと」

「南イタリアの穀物はカプアで制限され、ローマに届くことはありません。加えて、カプアはイタリア中の穀物を高値で買収しております」

「どこに、そんな資金があるというのか」

「これを」従者が懐中から一枚の銀貨を取り出し、それをスキピオに渡す。その銀貨に、思わず言葉を失った。銀貨の表には、新カルタゴ(カルト・ハダシュト)と書かれていた。戦争が始まって以来、敵国の貨幣は殆どが鋳造し直されていたはずだった。しかしここにあるということは、新たに密輸入されたということになる。

従者が、しぼんだ声で説明した。中立国エジプト《アイギュプトゥス》の船籍を騙って、イベリアから銀を運んでいる者がいるらしい。エジプト《アイギュプトゥス》は地中海最大規模の穀倉地帯である。不足している穀物を輸入するためにも、交易を停止することは出来ない。さらに、ローマでは悪貨が蔓延っていた。カプアから派遣されたギリシアの闇商人達が、ばら撒いているとのことであった。高くなった穀物価格のために多くの市民が悪貨に手をだし、穀物価格はさらに高騰していた。ギリシア商人達の最大の販路である奢侈品を遮断するため、ファビウスは女性の贅沢を禁止するオピア法を制定し、取締りを強化していた。それでもギリシア商人の販路は途切れず、悪貨もいまだ流通していた。そのローマを圧迫するように、さらに徴兵が伸し掛かった。ファビウスはハンニバルを押し潰さんとして、兵役資産を下げて拡大させ、翌年の軍団を三十万に達する二十五個軍団とした。長い間働き手の夫や息子を取られ、没落する家族も後を絶たなかった。怨嗟と呪詛の声だけが、ローマを覆っていた。全ては、長きに渡る戦争の因果だった。

「どれだけ民を傷つければ、気が済むのだ……」

 絞り出した声は、怒りで震えていた。これが、ハンニバルの望んだ世界なのか。あの悪魔が戦争を仕掛けなければ、この惨禍は生まれなかった。スキピオの頬は、涙で濡れていた。

 その翌日から、スキピオは一族を挙げて民への施しを行なった。家財は惜しげもなく売り払い、その金で民への小麦を配って歩いた。婚姻も、質素に行なった。エミリアは、それを受け入れた。聡明な妻だった。そして午後になると、スキピオは一人カピトリヌムの丘へと登り、最高神ユピテルの神殿へと向かった。ユピテル像の前で膝をつき、瞑想をした。それは神秘的な美貌と相混ざり、スキピオは神の差し向けた救世主ではないかと人々は噂した。

スキピオは来る日も考え続けた。なぜ戦うのか。戦争とは何なのか。そしてどうすれば、この戦いは終わるのか。祖国に幸せをもたらせるのか。時には深更になるまで、スキピオが下りて来ることはなかった。ローマに帰ってきて、スキピオは自分の小ささを残酷なほど思い知った。どんな名門の貴族に生まれようと、その財産は全ての飢えを取り除くことは出来ない。自分がどれだけ奔走しようと、それは余りに小さなことだった。スキピオは瞼を開け、ユピテル像を見つめた。神々しい光を、感じた。それから立ち上がると、スキピオは白い外套(トーガ)を翻し、邸宅に戻った。

 翌日、その日は造営官アエディリスの選挙であった。スキピオは純白カンデイドのトーガを羽織り、郊外のマルス広場の演壇に立った。選挙へ立候補したのだ。それは執政官への栄誉のクルスス・ホノルムへの第一歩であった。だが、それは異例でもあった。栄誉への階段は、まず財務官クァエストルから始まる。それから造営官、法務官、執政官と続く。その最初の一歩を、スキピオは飛ばしたのだ。そして造営官への被選挙権は二十七歳以上という決まりも、二十二歳のスキピオは堂々と破った。だが、スキピオが演壇に立った時、人々から絶大な拍手が巻き起こった。人々は、スキピオの施しを忘れていなかった。市民の殆どがスキピオに投票し、これ以上は暴動も起きかねないと判断した護民官達は、なし崩しで承認した。スキピオが承認されたと知ると、ローマは歓喜に沸いた。それは小さなことであったが、確実に人々の心に光明を灯した。第一四三オリュンピア期第四年(紀元前二一三年)、ハンニバル戦争が始まって五年目のことであった。


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