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祖国が崩れる

 儂がやらずして誰が出る。ファビウスがそう演説してから、半年が経った。貴族派の長老ファビウスはハンニバルにぶつかる愚を説き、ようやく元老院はその脅威を認めた。ファビウスは長く政界にいるだけあって、説得は老獪であった。だが決して、私欲に走らなかった。昔ながらのローマ人らしく質素を貫く、高潔な老人であった。ファビウスは五十八歳という高齢ながら、独裁官ディクタトールに任命された。独裁官の任期は半年と短いが、その間は全ての権限を掌握する。

 ファビウスは主戦論を唱える平民派の不満を抑えるため、副官である騎兵長官マギステル・エクィトゥムに平民派のミヌキウスを任命し、ハンニバルと戦うことを徹底的に避ける持久戦を行なった。それは、半ばは成功した。ファビウスが戦わずにカルタゴ軍の背後を威圧したため、ハンニバルは南イタリア切り取れずにいた。それどころか、カルタゴ軍の兵糧の確保も難しくなっていた。ハンニバルは何度も決戦を挑んできたが、その全てにファビウスは応じなかった。ローマ軍が健在な以上、南イタリアが離反する理由はない。不満が出ようと、これでハンニバルを追い払えるはずだった。

 だが、蛮族の将はしぶとかった。カルタゴ軍はファビウスを諦めると、騎兵長官であるミヌキウスを挑発した。主戦派のミヌキウスは即座に飛びつき、そしてその軍団はゲルニウムにて潰滅した。急いでファビウスが救援に入り、辛うじて全滅は免れた。だが死傷者は一万三千に達し、事実上の軍団崩壊に陥った。

 ファビウスは敗残兵をまとめ、再び陣に籠った。からくも救出されたミヌキウスはファビウスへの感謝と忠誠を表し、軍は再びまとまった。だが、壊滅した軍を立て直すためファビウスは陣に籠るしかなかった。その間にハンニバルは南イタリアを蹂躙し、兵糧を確保。勝負は、兵が補充される来年に持ち越されることとなった。


 エミリウスはゆっくりと椅子に腰を掛けた。ファビウスが独裁官に選ばれた年の瀬、元老院は重大な決断を下そうとしていた。中央の演壇に、平民プレブスを代表するウァロが立つ。

「偉大なる元老院議員セナトール諸君。ファビウスはハンニバルを飢えさせるために決戦を避け、持久戦に持ち込んだという。だが、ここにある報告では南イタリアが蹂躙されたとしか書かれていない! これはいったいどういうことだろうか」

 議場がざわめく。ウァロはこぶしを振り上げた。

「わかることは一つ、ファビウスの作戦は、ローマの威信を著しく失墜させたということだ! これ以上の議論は無用。決戦しかない。それでしか、我々はあの悪魔を排除することはできない」

 ウァロは自信満々にファビウスをなじり、主戦論を述べた。ファビウスの持久戦論は、ローマ市民に大不評を買っていた。人々は、ファビウスが戦いを長引かせて国力を弱め、そして自らがローマの王になろうとしていると囁きあった。人々の心が曇るほど、陰謀の噂は広がった。そんな中、相対的に主戦論のウァロへの支持が集まっていた。

肩身の狭い持久派であったが、ファビウス派の議員ペラは前へ出てウァロの前に立った。

「待て。決戦と言うが、我々の誰がハンニバルに勝てるのか。今年の失敗はひとえにミヌキウスの独断専行が招いた結果だ。ファビウスの作戦に不備はなかった。持久戦法こそが、唯一互角にハンニバルと戦える戦法なのだ」

「確かに互角の戦力で戦えば、敗ける可能性もあるだろう。故に私は盤石の勝利を得るため、対ハンニバル戦線に八個軍団、十万の動員を提案する!」

 ウァロは、満を持したかのように堂々と宣言した。この案に議員達は大きく動揺した。現状の軍団数さえ例がないのに、このうえ動員兵力を増強しようというのだ。

「ふざけるな。独裁官を選出したかと思えば、今度は十万に増強とは慣例を無視しすぎている!」

 平民派であるセンプローニウスも、反論を飛ばした。兵力の増強を一番嫌うのは、なにより動員される市民達であった。しかしウァロは、その反論を見透かしていたように答えた。

「ではセンプローニウス。君は互角の兵力でハンニバルに勝てるのか」

 センプローニウスが押し黙る。トレッビアの敗戦がセンプローニウスの失態であったことは、すでに暴露されていた。今の元老院で、ハンニバルに勝てると堂々と宣言できる者はいなかった。

 主戦論が過半数を占め、兵力の増強は可決された。緊急事態であるという考えは、全員が一致していた。そこで散会となり、三々五々に議員が議場を去る。立ち上がったエミリウスは、最前列へと降りた。そこは元老院の長老が座る席であった。

 ファビウスの前に立つと、エミリウスは一礼した。白髪の髪に皺が深く掘りこまれたファビウスの出で立ちは、老人そのものである。しかし、ハンニバルと互角に渡り合った老将らしく、小柄でも六十路に達するとは思えない肉体だ。

「実は、ファビウス殿にお頼みしたいことが」

「ふむ、それは重要なことかの」

 ファビウスは顎をさすりながら言った。エミリウスが頷く。

「翌年の執政官コンスルに、私を推していただけませんか」

 途端、ファビウスは眼を見開いた。鋭い眼光に、四肢に震えが走った。

「おぬしがやってくれるとはありがたい。じゃが、即答は出来ぬ。明日、貴族派パトリキの会合で答えを出そうかの」

「かしこまりました」

「なに、おぬしなら全会一致で可決されるじゃろう」

 ファビウスとは、貴族派として何度も手を組んだことがあった。かつてエミリウスが執政官をした時の不祥事では、ファビウスが火消に回ってくれた。

「ただ一つ、忠告しておきたい」

「なんでしょうか」

「守りを固め、戦ってはならぬ。勝利さえ与えなければ、敵は兵糧を失って飢えるか、逃げるだけじゃ」

 主戦派のウァロを止め持久戦を維持せよ、それがファビウスの出した条件だった。恐らく、平民派は民衆に人気のあるウァロを推してくる。やつが執政官になったならば、民衆の関心を買うために、ウァロは必ず戦おうとするだろう。ハンニバルが手ぐすね引いて待っている戦場へと、向かうはずだ。

「かつての大戦争で、儂はハンニバルの父ハミルカルと刃を交わしたことがある。あやつは紛うことなき天才じゃ。ローマはやつに、全く歯が立たなかった。ただやつが寡兵だったがゆえに、壊滅しなかっただけじゃ。もしもハミルカルがもしも万余の兵を率いていたらと思うと、今でも震えが止まらぬ」

ファビウスが肩を落とす。当時も、そうやって恐れていたのだろう。エミリウスも、ハミルカルの武勇は音に聞いていた。ハミルカルはわずか八千の兵で、それも即興で集められた傭兵で、五万のローマ軍を翻弄し続けた。ただ幸運にも、カルタゴ本国はハミルカルに手柄を立てさせようとせず、更なる援軍を送ることはなかった。ローマは完敗せずに泥沼の長期戦となり、結局はカルタゴ本国の弱腰によって終戦した。

「その父と同じ器を持つ息子が、五万の兵で乗り込んできた。儂には、ハミルカルの亡霊が復讐しに来たとしか思えぬ。恐れていたことが、現実となって姿を現したのじゃ。戦ってはならぬ。ハンニバルとは、戦ってはならぬのじゃ」

 ファビウスの声は震えていた。先の戦争を知っている世代は、今やほとんどが老齢となっている。その老議員達のほとんどは、ファビウスの持久戦論を支持していた。皆、ハンニバルの後ろにハミルカルを見ているのかもしれない。

「苦しい立場になることは重々承知じゃ。それでも、守ってもらわねばならぬ」

 苦しい立場とは軍の中だけではない。貴族としての責務を、ファビウスは指しているのだろう。ファビウスのように、敵から逃げられる貴族はどれほどいるのだろうか。祖国のためならば命をも投げ出す、それは貴族の責務であり、一族の名を守ることでもあった。平民派が決戦を唱えるのも、家名を上げたいからに他ならない。敵から逃げることは、一族の名に泥を塗るに等しい。それならば華々しく散りたい、それが貴族の考えだった。

だが現実には、エミリウスは自分の才能を知り尽くし、それがハンニバルに及ばないことも知っていた。わずかな希望に賭けて貴族の責務を全うすれば、国家が傾く。それが分からない歳でもない。

「分かりました。ファビウス殿に褒められることで国が守られるならば、私は喜んで名を捨てましょう。万民からのそしりも、甘んじて受けます」

「よくぞ言ってくれた」

 ファビウスが皺の刻まれた頬を緩め、エミリウスの肩を二度叩く。それから、ゆっくりと腰を上げた。

暖かい議場を出ると、途端に息が白くなった。エミリウスは従者と共に、毛皮の外套を羽織って帰路についた。

自邸に着くと、玄関先に見知った人が立っていた。腐れ縁のマルケルスだった。比較的身長の低いローマ人の中では、その大柄な肉体は抜きんでており、常人よりも大きな白い外套(トーガ)をなびかせていた。エミリウスに気づくと、マルケルスは振り返った。

「スキピオの修行だな。勝手に上がっていても良かったのに」

「これが礼儀だ」

 マルケルスは頑として譲らない。二人は玄関通路を通って、客間アトリウムへと向かった。

「議場では相変わらず喋らんな、マルケルスは。少しは発言しても良いんじゃないか」

「俺の居場所は戦場だ。議会は、好かぬ」

 ふて腐れたように言った。マルケルスは元老院議員となっているが、政策の提言などはしたことがない。周囲の目も気にせず、栗毛の髪も飾らずにただ短く切り揃えているだけだ。大半の軍人は、常に派手な凱旋式を好むので、自然と派手好きで自尊心の強い者がなりがちだ。しかし、この男はそんなものとは無縁に生きている。これがローマ最強の名将なのだから、面白い。

 生き方は余りに不器用だ。人柄が良いというわけでもない。読み書きを学ぶ時さえも惜しく、マルケルスは武を磨いた。ただ強くあるために、軍の中にいる。そんな男だった。人生の全てを軍の下で過ごした男の武術は、もはや神話の域にある。学識に長けているエミリウスとは、まさに正反対であった。

「マルケルス。私は、次の執政官コンスルに立候補しようと思う」

「ほう、それは面白い」

 マルケルスが笑った。驚かないのはおそらく、エミリウスの性格ではそろそろ我慢の限界だと見抜いていたのかもしれない。自分の中には、ふとした時に切れる堰がある。自分でもどこまで湛えられているか分からないのだが、不思議とマルケルスはそれを把握していた。

マルケルスとの付き合いは長い。兵卒としての訓練を共に受けた仲だ。マルケルスの方が年上だが、もう敬語を使わなくなって久しい。良くも悪くも、腐れ縁だった。

「マルケルスも立候補しないか。君がいれば、私としては心強い」

 エミリウスは、かじかんだ指を吐息で暖めながら聞いた。突然の来訪で、使用人達はまだ暖炉の準備が出来ていなかった。奴隷が、慌てて薪をくべている。マルケルスは、寒さなど気にしていない様子だ。それがまた、武人らしい。

「しないな。もう、俺の出番などない。若いやつらに引っ張らせればいい」

 エミリウスが少しむっとする。だが、マルケルスは真面目な顔だった。

「勘違いするな。これが俺の生き方だ。お前がその手でローマを守りたいというなら、やればいい。若い奴らの手本にもなろう。俺は、お前を全力で援護する」

「そうか。それはありがたい。少し、暖まった」

 エミリウスは、皺の刻まれだした顔をほぐした。マルケルスがちらりと暖炉に目をやる。くべた薪が、時折乾いた音を鳴らしていた。

今、執政官をやりたいという者は少ないだろう。ハンニバルはいまだ、イタリアで常勝無敗であった。繰り出す軍団はことごとく敗れ、戦死者は七万を超えていた。先の大戦に匹敵する損害が、すでに死屍累々と築き上げられていた。ローマが大国でなければ、すでに降伏していたかもしれない。

 使用人が部屋に入り、スキピオの来訪を告げた。庭へ通せと命じ、エミリウス達も中庭へと向かった。エミリウス邸の中庭は、その四辺を屋根付き廊下(ポルチコ)に囲まれている。大抵の貴族は噴水や彫像といった装飾をふんだんに凝らしているが、エミリウスは余りそういうのを好まない。そのため、広々とした庭はよくスキピオ達の練習場になっていた。

 庭に、二人の青年が入ってくる。スキピオとラエリウスだ。スキピオは親友のラエリウスと毎日馬術や体技を磨いていた。四肢は逞しく、肌着トゥニカの上からでもはっきりとその肉体が見て取れた。

 ローマでは、貴族も歩卒として戦場に出ることを美徳としている。貴族にとっては通過儀礼のようなものであった。

ラエリウスは平民の出身だが、スキピオとは親友のようだった。訓練場では多くの場合、身分の差を取り払った友ができる。エミリウスにとってのマルケルスがそうであった。

 スキピオとマルケルスは共に言葉少なく、間合いを取る。すでに修練は始まっていた。マルケルスが剣を抜き、トーガを脱ぎ捨てる。白い長布が、地面に舞い落ちた。元老院議員にだけ許された条飾り(ラトゥス・クラウス)が縫われた着衣トゥニカ。それを張り裂くように大きい腕が現れた。恐ろしい巨躯だった。それだけで、エミリウスは戦意が挫けそうになる。

邪魔にならないように、ラエリウスはエミリウスのいる廊下の方へと下がった。エミリウスは、腕を組んで見つめた。

 スキピオも剣を抜き、マルケルスと対峙する。刹那、空気が変わった。マルケルスの剣先が、スキピオに向けられる。威圧。見ているだけで、力量差は判別できる。それほど、マルケルスの存在は圧倒していた。だが、スキピオも怯まない。膝の震えを止め、剣先はマルケルスへと向けられていた。

 マルケルスの顔に、笑みが映る。若さがなす成長を、感じ取っているのだろう。かつてはマルケルスの前に立つのが精一杯であった。その青年が、殺気を放ち立ち向かおうとしている。

だが、まだ浅い。マルケルスの気を一心に受け止め、耐えようとしている。真正面から挑む。それは、若さ特有の短所である。しかし、ともすれば長所ともなりえる。擦れた自分には、既に失せた能力だった。

 初動はマルケルス。稽古を始めて以来、マルケルスは先手を取ったことはない。今日初めて、奇を衝いたのだ。正と奇を併せ持つ。武を極めた男にとって、当然の闘い方なのだろう。

 両手で剣を握り締め、マルケルスはスキピオに向かって駆けた。走る。スキピオは思わず跳び退いた。追撃をかける。体勢の整っていないスキピオは、斬撃を受け止めることで精一杯だった。そんなことでどうする。思わず、エミリウスは言葉にしてしまいそうだった。

マルケルスが足を払う。それで、スキピオは芝生の上に転がった。起き上がろうとするスキピオに、マルケルスは切っ先を突きつける。

「終わりだ」

 スキピオは、ただ黙って頷いた。マルケルスが剣を右腰に納めると、スキピオも剣をしまった。その顔には、はっきりと不満の文字が描かれている。

「敵のハンニバルは、常に奇を突くと言われている。俺の攻撃を避けられなかったお前は、ハンニバルと対峙したら死んでいただろう」

 ハンニバルという言葉に、スキピオは反応してマルケルスを見た。

「お前は、再び戦場に出る」

スキピオが、今度は驚いた顔をした。

「エミリウスが、次の執政官コンスルに立候補する。恐らく、他の貴族はエミリウスの支持に回るだろう。つまりハンニバルとの戦いに、お前はもう一度従軍するのだ。いいか、今のような失態を、決して犯すな」

 マルケルスの燃えるような瞳が、スキピオを捉えた。

「……しかと、胸に刻みました」

 スキピオは頭を下げた。その様子を見ていたエミリウスは、微笑ましく感じていた。不器用な餞別だ。とても、五十を越した者の言葉に感じない。

「マルケルス殿。次は俺に稽古を付けてください」

 ラエリウスが剣を持って前に出る。それから、スキピオ達は交互にマルケルスと闘った。全力でぶつかり、青年達は必死に食らいついた。それでも、マルケルスはものともしない。若さを吹き飛ばすその姿が、エミリウスはふと羨ましくなった。

 太陽が西へと沈む。ふと、ダイニング《トリクニウム》から香ばしい匂いが漂ってきた。そろそろ、夕餉の時間だった。鍛錬は既に終わり、スキピオ達はぼろぼろになりながら自邸に帰っていた。

「マルケルス。今日は私の家で夕食ケーナを食べないか」

 久々に、食事をして語りたかった。スキピオのこと、家族のこと、そして、今後の戦いについて。

「分かった。頂こう」

 マルケルスが頷いた。

 数日後。執政官を決める選挙は滞りなく終わった。平民からはウァロが、貴族からはエミリウスが出馬し、それぞれが演説をした。ウァロはファビウスの作戦をなじっての主戦論。エミリウスは正面作戦を避けての慎重論。だが年内のハンニバル排除は、両者とも一致していた。二人は、満場一致で執政官に選ばれた。

 そして、すぐに軍の編成に当たった。この年のローマ軍団は、ハンニバル戦線だけで八個軍団となり、十七個軍団(約十八万)の投入が決まった。ハンニバルの引き起こした戦争は、未曾有の戦役になろうとしていた。

 サルディニア、シチリアの守備には、エミリウスがマルケルスを指名した。マルケルスは拒否したが、エミリウスが親友としての願いだと言うと、しぶしぶ承諾した。万が一アフリカのカルタゴが呼応した場合、ここの守りは鉄壁にしておきたかった。

 続いてハンニバル戦線に向かう八個軍団が、ローマの城門前に集められた。本来ならば十万の兵が集まるのだが、前年に一万三千の兵が削られたため、実質兵力は八万七千となっていた。それ以上の徴兵は、市民の顔を窺った平民派が拒否をしたのだ。それでも、ローマ始まって以来の軍団数だった。将校の数も増えた。司令官は各々二個軍団ずつ率いて、四名からなる。その四名の総司令官は、執政官が一日交代で担当することになった。

 副官である前司令官プロコンスルには、フラミニウスと同僚であったセルウィリウス。もう一人は、前年にハンニバルの奇策によって敗北し、ファビウスに忠誠を誓ったミヌキウス。そして元老院議員八十名が将校として、また監査役として従軍した。その中に、老ファビウスは含まれていない。前年の持久戦法が市民からは臆病と見られ、支持率が低下していたためだった。

「どうじゃ、ミヌキウス」

 ファビウスが、部隊の編成を行っているミヌキウスのもとに来た。今回は大軍であるため、物資の数も生半可ではない。まだ春の風は肌寒いが、物資を運ぶ兵士達はみな汗を光らせていた。

「これは師父殿。お見送りに来てくださいましたか」

 ミヌキウスは作業の手を一旦止め、ファビウスの方を向いた。ミヌキウスは先の敗戦で死ぬ寸前であったところを、ファビウスに救出された。以来、師父と呼んで尊敬していた。ファビウスはその小柄な背を伸ばし、ミヌキウスと目を合わせた。

「儂のことを父呼ばわりしている馬鹿息子の近況が知りたくての。市民に嫌われてさえなければ、儂も一緒に行きたかったわい」

「嘘でも何でもハンニバルを倒すと演説をすれば良いではないですか。正直に生きると、痛い目に遭いますよ」 

「何を若造が言うか。儂は正直一徹で生きてきたのじゃ。今更、変えたりせん」

 ファビウスが飄々と答える。

「それよりも、おぬしはまだ、ハンニバルと戦いたいかの」

 途端に、ミヌキウスの顔に影が差した。だが、すぐに戻った。

「ハンニバルの凄さは、身に染みて理解しました。師父殿の言う通り、戦わないのが賢明です。しかし、市民が戦いを望むのもまた事実です。戦いたくないが本音ですが、戦うことになれば、死力を尽くしたいと思います」

「そうか。ならば、何も言えんの」

 ファビウスはミヌキウスの肩を叩いた。その表情は、どこか寂しそうだった。

「師父殿。これは平民プレブス派としての忠告ですが、市民の動向にご注意ください」

「なぜじゃ」

「私は、数多くの平民の組合と談合を繰り返してきましたが、殊に戦うことを辞さないという人々が多いのです」

「それは知っておる」

 ここ数年は戦い続きであり、市民の中には、好戦的な傾向が出来つつあった。この戦争が始まる前も、東方のイリュリア遠征、北方のガリア討伐、西方のサルディニア島の奪取と戦い続けていた。ローマ軍は攻め込んできた敵を打ち払うだけでなく、攻め返し、徹底的に打ち砕こうとしてきた。その結果が、イタリア半島を越えたローマ領の拡大であった。

「ご存知でしょうか。今現在、市民の中でカルタゴ滅亡論が燻っていることを」

「……なんじゃと」

 ファビウスの眉間が、狭まる。

「まだその声は小さいですが、交易商を中心に徐々に支持する人が増えています。商売敵でもあるカルタゴを邪魔だと考える者は少なくありません。今までのローマ軍の精強さが、市民に対して国家への強い思いを抱かせているのです。その国家への想いを、利用しようという者は実際におります」

 ミヌキウスが声を潜めて言った。確かに、国家への想いが強くなっているのは事実であった。サルディニア島をカルタゴから奪取した時などは、大国ローマだからというだけで動いていた。その勢いを駆って、これを機に交易で邪魔なカルタゴを滅ぼそうとする論調が出てくるのも納得がいく。市民の抱くローマは、元老院のそれよりも大きくなっていた。

「ゆえに、平民派は主戦論を選ぶのじゃな」

「ええ。市民の支持を得られなければ、平民派はその意義を失ってしまいますから。誰が選出されようと、戦わざるを得なかったでしょう」

 ファビウスは唸った。愛する祖国が、どこか変わろうとしている。思えば、この戦いの発端からして異常であった。

「そもそもなぜ、ハンニバルは三万の兵で攻めて来たのでしょうか」

 その疑問は、確かにあった。もとはハンニバルとローマによるイベリア《ヒスパニア》での領有権争いにあった。ローマは、イベリアの北を流れるイベルス河から南には手出しをしないという取り決めをしていた。しかし、イベルス河以南の都市サグントゥムが傘下に入りたいというと、ローマ市民は歓迎した。戦争になりかねないと元老院は忠告したが、それも辞さないという強い市民の意志に押され、貴族達はしぶしぶ承諾した。結果、イベリアではローマとハンニバルの勢力が混在することとなり、サグントゥムを巡って対立となった。

 しかし、戦場はイベリアとはならなかった。ハンニバルのアルプス越えによって、イタリアへと移ったのだ。イベリアを離れた戦場。寡兵の軍勢での侵攻。その全てが異常だった。

「この異常事態から導ける解は一つ。ハンニバルの真の狙いは、同盟都市の離反ではありません」

「どういうことか」

「私は平民派プレブスとして、貴族派パトリキの議員とは違う視点から戦況を見てきました。私が考えますに、ハンニバルには表と裏、二つの狙いがあります」

 ミヌキウスが右手の指を二つ立てる。

「表とは同盟都市を寝返らせること。そして裏は、市民の戦意を挫くこと」

ミヌキウスは続けて、ハンニバルが執拗にローマ軍を敗走ではなく全滅させることに拘ったのは、市民に戦争の恐怖を植え付けるためなのだと言った。そして厭戦気分に乗じて講和にこぎつければ、ローマが本腰を入れる前に終戦となる。

「加えて、戦争への恐怖が市民に出来れば、ローマの領土拡大は打ち止められます。そうすれば、滅亡論によってローマの矛先がカルタゴ本国へと向かうこともありません」

 ファビウスは腕を組んだ。確かにこの戦争が起きなければ、世論はイベリアでの戦争を選んだのかもしれない。サグントゥムを救うためといってイベリアに攻め込み、最終的には地中海の安全のためにとカルタゴ本国を攻めかねなかった。昂ぶる国家への忠誠が、元老院を圧してくる可能性は大いにあり得る。カルタゴの兵力は、せいぜい十五万ほどだ。六十万という兵力があれば、不可能なことではない。

 そう考えれば、何故ハンニバルが僅か三万の兵力で攻め込んできたかも合点がいく。ローマ連合を本気で潰すには、全ての戦闘に勝ったとしても十数万の兵力がいる。だが、講和だけを主眼に置けばどうか。戦場で必要な兵力、およそ五万があれば良い。その五万で勝利を重ね講和に持ち込めば、カルタゴの滅亡は免れる。

 不平等な講和を撤廃でき、ローマ市民の戦意も削げれば、カルタゴの再興に兆しが見えてくる。それが、ハンニバルの狙いなのか。つまりローマへ復讐しに来たのではなく、祖国を守るために死地を突破してきたということになる。だが分からない。祖国に見捨てられた一族が、何故そこまでするのか。

「おぬしの言いたいことは分かった。儂は、戦っている間にローマ市民がカルタゴ滅亡へと傾かないよう、細心の注意を払おうかの」

「ありがとうございます」

 ミヌキウスが頭を下げた。持久戦論を支持するよう、市民の戦意を傾けることは難しい。戦う意志を削げば、持久戦法どころか講和に傾くだろう。だからといって、戦意を向上させることは即ち、主戦派の優位にも繋がってくる。それは何としても阻止せねばならない。持久派にとって、厳しい状況であることに変わらなかった。

 通りかかったエミリウスが、ファビウスに声をかけてきた。

「ファビウス殿、おいででしたか」

「おう、エミリウスか。執政官コンスル就任を祝福するぞ。立派になりおって、緋色の外套(パルダメントゥム)が映えるのう」

 エミリウスとファビウスが抱き合う。貴族同士、二人は昔からの盟友だった。

「む、後ろの若者は息子か」

 ファビウスはエミリウスの背後を指した。そこには、今回で二度目の従軍となるスキピオがいた。スキピオは前に出てファビウスに握手を求めた。

「お初にお目にかかります、ファビウス殿。プブリウスの息子で、スキピオと申します」

ファビウスも右手を差し出す。

「プブリウスの倅か。大きくなったのう。今いくつじゃ」

「今年で二十歳になります」

「そうかそうか、逞しく育ってなによりじゃ。エミリウスも、育てがいがありそうじゃの」

「とても才能がある男で助かっております。ファビウス殿は、今日は見送りですか」

「そうじゃ、馬鹿息子の様子見にな」

 それからミヌキウスの方を向くと、その肩を叩いた。

「おぬしも頑張ってこい。生きて帰って来るんじゃぞ」

「生きて帰って来いとは、戦地に赴く人に厳しい注文ですね」

「何を言うか。お前には無事に帰って儂の酒を飲むという任務があるんじゃ。とっととハンニバルを倒して帰って来い」

「わかりました。帰還したら、一緒に晩酌をいたしましょう」

 ミヌキウスは笑ってそう答えた。かつては政敵としていがみ合っていた。だがもう、親子のように親しい。人の出会いとは、往々にして測り切れないところがある。人は出会い方で変わるのだと、ミヌキウスが教えてくれた。

 ファビウスは満足したように笑い、手を振って去っていった。それからおよそ一刻後、エミリウス、ウァロ率いる八個軍団は、イタリア半島南東部のゲルニウムを目指して出陣した。そこには、ハンニバルが五万の兵で冬営していた。

 城壁から眺めても、ローマ軍はどこまでも列をなして続いていく。その勇壮なる姿に、市民は希望を託して見送った。


 カルタゴ軍は勝利に酔いしれていた。ハンニバルはゲルニウムにローマ軍を誘い込み、方々に伏せていた兵でローマ軍を包囲した。独裁官ファビウスが何とか救出したものの、犠牲はおびただしく、以降は固く陣の守りに入ったままだった。それで、カルタゴ軍は穀倉地帯の南部から兵糧を充分に奪取することが出来た。ハンニバルは奪った葡萄酒の樽を持ってこさせて全軍に配り、その日一日は羽目を外すことを認めた。久方ぶりの宴に、兵士達ははしゃいでいた。ハスドルバルやマゴは次々と樽を空けていき、陽気に唄いだしていた。宴は、深更まで続いた。

翌日。ハンニバルは宿舎にハスドルバル、マハルバルを呼んだ。従者のソシュロスが、二人を連れてくる。扉が開くと、冬の風が部屋に入ってきた。

「お呼びでしょうか、将軍」

「うぅ……頭いてぇ」

「むっ、病気か」

「いえ、馬鹿が発症しただけです。それで、御用件とは」

 ハンニバルは、座っていた椅子を二人の方へと向けた。

「二人には、今回の略奪で得た軍馬を選別してもらいたい。良馬であるならば、騎兵部隊へ補充するか、種馬として残してもらう。他は、ここで売り払っておきたい」

 アルプスを越えて二年が経とうとしている。もう間もなく、馬は引退に差し掛かる頃だった。速さを命とする騎馬隊の馬は、退くのも早い。それ故に、交代は事前に準備しておかなければならなかった。

「かしこまりました」

 二人は一礼すると、宿舎を出た。

ハンニバルは一人、腕を組んで唸った。恐ろしい事態が起きた。ローマが、戦おうとしなくなったのだ。ファビウスという男が、戦いを避ける持久戦法に出た。しかもファビウスは、凡庸であるが故に決戦を避けていたのではない。自分をイタリアから追放する計画をしっかりと見据えていた。だから、戦いに一切応じなかった。幸運にもファビウスの同僚が誘いに乗ったからこそ、ローマ軍を破れたに過ぎない。戦いに応じないのは計算外だった。あと二度、いや一度だけでも、ローマ軍を戦場に引き摺り出したい。そうすれば、あと少しなのだ。

小窓の向こうの景色に、ハンニバルは顔をしかめた。山の頂に雲がある時は、激しい暴風雨がやってくる。ハンニバルは邪念を振り払うと、机上の地図に眼を移した。

 翌年のオリュンピア期第一四一年第一期(紀元前二一六年)。ハンニバル達のもとに、急報が届けられた。ローマ軍出陣。伝令が、その詳細を告げた。

「なに、十万!」

 マゴが仰天したように聞き返す。錚々《そうそう》たる武将達も、その数に驚きを隠せない。ゲルニウムの宿舎は、一時騒然とした様子になった。ただ、ハンニバルのみが静かにしている。すでにローマ軍の実情は掴んでいる。実勢は八万七千と、文官のシレノスがすでに報告していた。聞き終えると、ハンニバルが静粛にするよう促す。真紅の外套が揺れた。諸将は口を閉じ、隻眼の男に注目した。

「全軍に命じよ。ここを引き払い、イタリア南東部のアプリア地方へ向かう。決戦は、南イタリアで行うぞ」

 ハンニバルは地図を卓上に開き、南イタリアの東部を指した。イタリア南東部は、前年に荒らし回った土地だ。ここを切り取るのが、ハンニバルの狙いだった。

「十万の軍勢、それがどうした。たかだか倍に増えただけで、このハンニバルが負けるとでも思うのか。恐れる必要などない。次こそ、ローマを屈服させよ」

「ははっ!」

 カルタゴ軍の動きは素早かった。ハンニバルは迅速に兵をまとめると、ゲルニウムを出立した。冬期に休憩を充分取り、士気の衰えはない。この冬の間に、ハンニバルはローマ軍の採用しているマニプルス隊形を習得させていた。それは、従来の密集隊形ファランクスとは異なり、小回りが良く効き、防御力も格段に上がった。使えるものは何でも使う。旧体制が良いという将校もいたが、ハンニバルは有無を言わせずに実行した。やれば分かる。直感が、そう言っていた。

 カルタゴ軍は南下すると、昨年に略奪したラテン都市を再び襲った。容赦なく、ハンニバルは都市や農村を略奪していく。それは南部切り取りの策だった。

昨年、ローマは南部の都市を殆ど救えていない。それどころか、都市の収穫物を焼き払った。それはカルタゴ軍を飢えさせるためにやったことだが、ミヌキウスが決戦を逸ったためにそれは無に帰した。そして昨年の艱難辛苦も虚しく、鋭気に満ちたカルタゴ軍五万がまたも無傷で現れたのである。

 今まで耐えていた南部諸都市は、ローマに失望した。その失望感は、他の同盟都市にも伝播していく。ローマ本国はカルタゴ軍に手も足も出ない。ならば、自国領を荒らされる前にハンニバルに寝返った方が得策ではないか。

 だが、まだハンニバルの味方はいなかった。ローマ本国が大軍を繰り出したことによって、諸都市はまた静観を保った。南部の風雲は、未だ揺蕩っていた。


 ハンニバル南進の報に、エミリウスはすぐさま急行した。ハンニバルの進路には、南部で集められた食糧を備蓄しているカンネーという村があったのだ。

「全軍急げ! カンネーを取られてはならぬ」

 エミリウスは叱咤し、全軍を急がせた。乾いた空気が、ローマ軍の足音を良く響かせる。焦るエミリウスの横に、ウァロが悠々と馬を侍らせた。

「良いではないか、急がずとも。敵は我らの大軍を見れば、あっさりと降伏してくるだろう」

「そうはいかない。我々はカンネーに備蓄されているものから、兵糧キバリアを供給するのだ。それを奪取されては、敵を利するばかりかこちらの損害が大きい」

「愚かな。私には、兵を疲れさせる方が敵を利すると思うがね。本当は、持久戦法が使えなくなるからではないのか、エミリウス」

「……とにかく、慣例により今日の総司令官は私だ。口は挟まないで貰いたい」

 エミリウスはウァロを制すると、馬の歩みを速めた。同じ戦場に執政官が二人いる場合、指揮権は一日交代だった。ウァロは、兵卒としての経験しか軍の知識はない。それでいて、交代でウァロに指揮権を渡さねばならない。そんな男がハンニバルと当たればどうなるのか。それが、エミリウスには恐ろしかった。

 時期は六月。イタリアの空は快晴だった。平原の草花は、小躍りするように揺れている。エミリウスは青空を見上げると、深いため息を吐いた。ローマ軍はハンニバルを追って、イタリア南部を横断するアウフィドゥス河北岸まで進軍した。南岸にあるカンネー村の救出に向かいたかったが、既にハンニバルが落とした後だった。カルタゴ軍は南岸に布陣し、迎撃体勢を取っている。

一足遅かった。エミリウスが落胆の言葉をこぼす。ハンニバルに兵站の確保さえさせなければ、ファビウスの戦略が有効となる。だが、充分な兵糧を確保された今、その作戦は前年の二の舞を演じる可能性が高かった。

「ハンニバルが兵糧を得ようとも、恐れる必要などないな。地中海最強のローマ軍が、十万もいるのだ。恐れる方が至難の業だ。お前は、いい才能を持っておる」

 ウァロが豪快に笑い、エミリウスをなじる。この男さえいなければ。エミリウスの心が、深く濁っていく。全てが、エミリウスの思惑から外れていった。

 カンネーが奪取されたという報が届いた時、カルタゴ軍と対陣すると決めたのはウァロだった。平原に布陣するのは、騎兵戦を得意とするカルタゴ軍を利するだけだ。そうエミリウスは訴えたが、一笑に附されただけだった。その日の指揮権はウァロだった。エミリウスは諦めると、自分の幕舎へと戻っていった。

しばらくして、スキピオが幕舎に入ってきた。陣内視察に出かけると、スキピオは早朝に出て行っていたのだ。それは座学で教えたことを体で感じるという意味でも、重要なものだった。

「顔色が悪いですね、エミリウス殿」

「ウァロに、馬鹿にされてきたばかりだ」

「あの男に、ですか」

「あいつは、戦というものが数で決まると思っている。だが、それは机上の空論だ。寡兵が多勢を破る前例など、数多ある」

「かつてのアレクサンドロス大王アレクサンデル・マグヌスがそうでしたね」

 何度も、スキピオに教えたところであった。歴史には、様々な業績が書かれている。アルベラでの決戦では、アレクサンドロスは寡兵で二十万とも百万とも呼ばれるペルシア軍を破っていた。

「アレクサンドロスの例に較べれば、我らの利は二倍差だけだ。充分に、ひっくり返される余地はある」

 ウァロは、ローマ軍が不敗であることを信じて疑わない。今までの戦いは、全て司令官が悪かったとしか思っていないのだろう。エミリウスは両手を顔に当てた。出陣前に交わしたファビウスとの約束を守れそうにない、そんな自分が嫌だった。

 翌日。その日の指揮官はエミリウスだった。エミリウスは一万の別動隊を編成すると、それを対岸に移した。南から来る輸送部隊を防備するためであり、そしてもしもウァロが南岸に移って決戦を挑もうとした時、渡河の途中で襲われるのを防ぐためだ。ウァロの独断に対する、せめてもの弥縫びぼう策だった。

 部隊の移動はミヌキウスとセルウィリウスに命じ、その日の夕方には、エミリウスの幕舎に二人は帰還した。

「エミリウス執政官。無事、対岸に陣を敷設致しました」

 ミヌキウスが簡潔に報告する。将としての経験が豊富なセルウィリウスと、ファビウスと和解し冷静で慎重な将軍となったミヌキウスには、簡単なことだった。ヌミディア騎兵が牽制してきたらしいが、二人の重厚な防御の前に、周囲を旋回するだけに留まっただけだった。

「敵の挑発に乗らず、陣を作ることだけを優先してくれたことに感謝する」

「セルウィリウス殿の監視がありまして、好き勝手に出来なかっただけです」

 冗談めかしにミヌキウスが笑った。つられて、二人も笑い出した。

「そうか、セルウィリウスがな」

「別に私は監視などしていない。慎重に当たったのは、二人共だ」

「分かっている。ミヌキウスならば、軽々にハンニバルとことを構えようとしないだろう」

 エミリウスは顔を綻ばせた。少し前までは、ミヌキウスと笑いあうことなど夢であった。エミリウス、セルウィリウスら貴族派と、ミヌキウスら平民派は明確に敵対していた。しかし、それをファビウスは壊した。超党派でこの国難に当たる。まだ平民派はミヌキウスだけだが、その思いがファビウスにはある。仲間がいれば、苦しさも和らぐ。それで、忍耐の時を切り抜けるのだ。エミリウスの心は、不思議と軽くなった。

 指揮権は翌朝に返還される。対陣してから二月、小競り合いだけが続けられた。カルタゴ軍は幾度も挑発に来たが、それが決戦に繋がることはなかった。今日もそのはずだった。だが運の悪いことに、その日は対岸への兵糧が運ばれる日でもあった。急報が、即座に執政官の幕舎に届けられる。カルタゴ騎兵は、輸送部隊へと進路を変えたとのことだった。

「なに、敵騎兵が」

 ウァロが、興奮したように問い直す。今日の指揮権はウァロだった。久々の戦闘に、ウァロは好機を感じているのだろう。

「すぐに対岸へ向かう。別動隊には出陣の準備を整わせよ!」

 それからウァロは、エミリウスへと目を向けた。そこには、はっきりと敵意があった。

「よもや、出陣に反対はしまいな」

「兵糧は軍に必要不可欠だ。今回は、出動もやむをえないだろう」

 エミリウスは、苦しそうに言った。やむをえない事態。だがしかし、この出陣が前例となって、ウァロが頻繁に兵を動かすこともあり得る。なるべく、ウァロに兵を率いさせたくはなかった。断腸の思いだった。ここでの分裂は、カルタゴ軍を利するだけだ。

「で、あろうな。今日の指揮権は私だ。エミリウスには、本陣の守備を命ずる」

 エミリウスの言葉を聞く前に、ウァロは幕舎を出た。兵士に命じ、船を漕がせる。ウァロにとって、久々の出陣だった。

ウァロの心は高鳴っていた。商人の息子として生まれ、いつも父が忙しなく動いているのを見ていた。生き方は、父から学んだ。待っていては、商機は来ない。動くことこそが、時流に沿った生き方なのだ。同じように、国家の情勢も目まぐるしく動いている。それに応ずるには、動かなければならない。じっと待つことなど、あってはならない。動き、掴み取る。それこそが、英雄なのだ。

 カルタゴ軍との戦闘は、決着がつかないまま終わった。夕刻、ウァロは渋い表情で帰還した。思い通りの戦果は得られなかった。敵騎兵を粉砕してやろうと考えていたが、結局は小競り合いで終始した。だが、手応えはあった。次こそは、潰せるはずだ。

ウァロは執政官の幕舎へと入る前に、一呼吸を置いた。自らに威厳を持たせて、自らの心を鎮める。幕を開けると、エミリウスが座っていた。

「ウァロ、結果はどうだったのだ」

「我が軍の大勝利だ。敵は、尻尾を巻いて逃げていきおった」

 ウァロは勝利を強調するように、余韻を持たせて経過を話した。それをエミリウスは、眉を顰めて聞いていた。嘘だと思っているのだろう。この男は、ことごとく自分が戦果を上げるのを妬んでいた。反吐が出る同僚だった。嘘だと思うなら、そう信じていればいい。自分の勝利は、疑う余地のないものだ。ウァロは話を終えると、自分の宿舎に戻っていった。

後には、エミリウスだけが残された。ウァロの勝利。それがどうしても気になった。ハンニバルの意図は、決戦に持ち込むことだ。その為の撒き餌。それは充分に考えられる。

 エミリウスは、蟠りを抱えながら幕舎を出た。日は沈み、すでに篝火の焚かれる時刻だった。兵士達は、夕餉の準備に勤しんでいる。昼間とは違い、涼しい風が吹いていた。風を惜しみながら、エミリウスは自分の宿舎に戻った。幕を開けると、中にはスキピオが立っていた。

「どうも、お邪魔しております」

「スキピオか。夕餉の支度に向かわなくて良いのか」

「まだ時間はあります。それよりも、私はウァロ執政官コンスルが策に嵌まっていることをお伝えに参りました」

「今日のことか」

 エミリウスは、ため息を吐くように言った。

「私も、それを感じていたところだ。今日、ウァロがヌミディア騎兵に勝ったと自ら報告してきた」

「あのヌミディア騎兵に。ますます怪しいですね。ハンニバルはトレッビアでも、ヌミディア騎兵を囮に使っていました」

「やはりそうか。だが本人は、勝利だと確信している。今は私とセルウィリウス、ミヌキウスで抑えていられるが、それがいつまで続くか分からない。とくに、兵士がウァロを支持しだしてきている。全軍がハンニバルの誘惑に勝てなくなれば、やつは迷わず動くだろう」

「カンネーの兵糧だけならば、カルタゴ軍は一年も持たないでしょう。今年一杯、ウァロ殿に決戦を控えて頂ければ、こちらの勝利は確実となります」

「一年、それが勝負だ。南部ではすでに不穏な動きがある。もしもここで負けるようなことがあれば、全て表に出てくるだろう。それだけはなんとしてでも、阻止せねばならない」

 エミリウスは、語尾を強めてそう言った。兵士の一人が、スキピオを呼びに来た。スキピオは一礼すると、幕舎を出て夕餉の準備へと向かった。

 

 マハルバルは、騎馬隊の速度を緩めた。馬は襲歩しゅうほをやめ、徐々に常歩なみあしへと移った。ローマ軍に勝利を味合わせる。それがハンニバルからの命令だった。敵執政官との駆け引きに、軽微で負けるというのはなかなか難しかった。だが、なんとか出来た。

マハルバルは帰還すると、ハンニバルの幕舎へと向かった。報告だけではない。ある決意を、マハルバルは持っていた。それはこれからの、二人にとって重要なことだった。

マハルバルが報告をすると、ハンニバルは満足そうな顔を浮かべた。

「そろそろ、だな」

「明日にでも、敵は出てくるだろう」

 マハルバルが、幕舎にある椅子に腰を掛ける。目の前の卓には、地中海の地図が広げられていた。

「もう、机を向い合せていた頃から十数年経つのだな。私達も三十路を越えてしまったのか」

「俺は今でもあの頃を思い出せる。新カルタゴ(カルト・ハダシュト)の図書館で、日が没するまで語り明かしたこともだ」

「懐かしいな。あれは春の頃だ」

 ハンニバルの顔がほころぶ。十代の頃は、二人でがむしゃらに生きていた。共にハンニバルと走り、夢を語ったのだ。

「あの頃、私はお前とならどこへでも行けると思った。その考えは今も変わっていない」

「突然どうしたのだ」

 怪訝そうに、ハンニバルが尋ねた。ハンニバルは、幼少の頃から燃えるような激情を持った男だった。遊ぶときも、いつも全力だった。地中海を平和へと導くのは俺達しかいないと、二人でよく語っていた。

ハンニバルは、常にカルタゴの導く平和を考えていた。ローマが兵役の義務で同盟都市を従えるように、カルタゴは商業の義務で従えさせる。カルタゴとの交易量を義務化させ、幾ばくかの納税を治めさせる。同盟国が増えていけば、交易量も増えて納税額も増えていく。同盟都市も利益を上げ、相対的に納税額も減っていく。それが、理想とした地中海世界だった。そうして世界一の商業都市を作るのが、二人の夢だった。ハンニバルも、それを願っていた。

だがマハルバルには十数年間、胸の内に秘めていた夢があった。胸の中にもう一人の自分が、巣食っていた。青年の頃から、ハンニバルには王の素質を感じていた。ハンニバルは多くを語って人を魅了することはない。だがついてゆけば、その先は常に希望が満ちていた。この男には、いかなることをも成す力がある。道さえ示せば、ハンニバルはどこまでもゆけるのだ。

「カルタゴを立て直した後は、ハンニバルはどうするつもりだ」

「どうしようか。そんなことなど、考えたこともなかった」

いつの間にか、マハルバルは拳を握りしめていた。ハンニバルが王の座を狙っていないことは、知っている。そういった野望とは無縁に生きてきた男だ。その男に奨める自分は、亡国の徒にしか映らないのかもしれない。あが、高鳴る鼓動を止めることは出来なかった。

「ハンニバル、自分の限界を知りたくないか」

 昔から、それとなくは探っていた。だが直接訊ねるのは初めてだった。

「私の見立てではお前はあの大王と互角、いやそれ以上かもしれない。それほど、お前には可能性がある。誰も成し得なかったことを出来る力がある」

アレクサンドロスをも超える大帝国を創り上げる。それは、男児の夢だった。その夢に最も近い男が、目の前にいる。期待してはいけないのか。滅びゆく国に、この男は余りに惜しかった。ハンニバルの踏み締める大地は、もっと大きい筈だ。

「買いかぶりすぎだ。俺は、カルタゴを立て直すだけで精一杯だろう」

 ハンニバルが笑った。地中海の頂点に立つ。そういったものに興味がないのだ。マハルバルには、それ以上言えなかった。

「考えておくのも良いだろう」

マハルバルの言葉には、未だ余韻が含まれていた。それに気づいたのは自分だけだ。マハルバルは席を立って、幕舎を出た。外は既に暗くなり、篝火が焚かれていた。

出て間もなく、ギスコが隣に立った。表情を変えずに、マハルバルは歩き続けた。

「不穏なことを、吹き込んではあるまいな」

「器の大きさを、諭しただけです」

 ギスコの表情が変わった。一瞥をしなくとも、それは分かった。

「これは忠告だ、マハルバル。将軍に余計なものを抱かせるな。将軍の夢とお前の夢は、似て非なるものだ」

 ギスコは、マハルバルの夢を見抜いていた。自分の中に、ハミルカルと同じものを感じるのだろう。マハルバルにもまた、カルタゴへの忠誠心はない。ただハンニバルという男に、惹かれただけだ。

「カルタゴを救うには制度や慣習、培ってきた根底の全てを覆す必要があります」

「無用だ。人が変われば、またかつての安寧を取り戻せる」

 過去に囚われた意見だった。なぜ、ハンニバルという可能性を試さないのか。ハンニバルを戴けば、カルタゴは更なる高みへといける。国が救われるだけでなく、地中海の覇者にもなることが出来る。それがなぜ分からないのか。マハルバルの奥底で、憎悪に似たものが沸いていた。

「人が変わるだけでは、糊口を凌ぐだけに過ぎません。地中海の民を救うには、カルタゴが大きな器とならなければならない」

「祖国の民を救えば、それ以上はいらぬ。マハルバル、念のために言っておく。カルタゴに、メレクはいらぬ」

「ならば、カルタゴにハンニバルは必要ないでしょう。永遠に、過去の栄光に囚われればいい」

「貴様……」

 マハルバルは紫紺の外套を返すと、足早に立ち去った。これ以上は、憎悪を剥き出しにしかねなかった。唐突に、草原へと駆け出したくなった。マハルバルは胸を抑え、厩舎へと向かった。

 その夜、マゴはハンニバルの宿舎を訪うことに決めていた。 ハンニバルとマハルバルの間に、えも言われぬ緊張が走っている。決戦が近くなっているのだろう。マゴは、そう感じていた。二人を介すれば、二人が何を感じているのかが分かる。だが、兄達と共に感じることは、マゴには出来ない。二人とマゴには、隔たりがあった。

 ハンニバルの幕舎に向かっていると、途中でギスコに会った。

「マゴか。こんな夜更けにどうした」

「少し兄上と話したいことがありまして、今から参上する次第です」

「奇遇だ。儂も、将軍のもとに向かっていた」

「無礼かと思われますが、どのような御用件ですか」

 ギスコの顔に影が差した。

「我が軍の今後の針路。それを具申しようと思った」

「ならば私と同じ要件ですね。その話に、同伴させて頂いても宜しいでしょうか」

「構わぬ」

 ギスコは、それ以降は黙って幕舎に向かった。相変わらず、ギスコは無口だった。大柄な者が多いハンニバル軍の中で、その小さな背は目立っていた。しかし、その中で燃えている炎は大きかった。過去の戦争を語る時などは、その体が大きく見えた。

 二人は幕舎の前に到着した。中に入ると、籠った熱気が顔を覆った。蝋燭の炎が、夏の暑さを助長しているようだった。

「二人が揃って来るとは珍しいな」

「これからの針路をどうすべきか、兄上のお考えが聞きたくて参りました」

「我が軍の指針か」

「私は一度、講和をして退くべきなのではないかと思います」

 父の復讐と正面から向かい合い、出した結論だった。ハンニバルが腕組みをした。ギスコも、黙って聞いている。

「私達はローマ軍と四度戦い、その全てに勝利しております。しかし、同盟都市は未だ一つも叛旗を翻していません。そしてローマは、更に戦力を増強する次第。現下のローマ軍を打ち破るは難しく、確固たる拠点もありません。しかし、ローマもまた兄上への恐怖が拭い切れていないでしょう。今度の軍団も、もしかしたら敗れるやもしれない。その恐怖がある今こそ、講和を望む機会なのではないでしょうか」

 今までが幸運すぎた。兄がどれほど自信を持っていても、ローマ軍は弱兵ではない。万が一ということは充分にある。

ローマを滅ぼす。その想いは、消し去ることは出来なかった。だが現実を見れば、ローマを潰すということは一朝一夕に成せるものではない。未だローマはその国力でもって、ハンニバルの前に立ち塞がっている。カルタゴが同じ被害を受けたならば、とうに降伏しているだろう。

ローマの国力を考えれば、戦争と講和を繰り返し、十数年かけて行わねばならない。そうしてじわじわと削っていき、最後にローマを滅ぼす。その一区切り目が、今なのだ。今ならば、ローマと互角の交渉が出来る。こちらには、今までの戦績がある。ローマも少なからず恐怖しているだろう。また、今まで受けた戦いの傷もある。妥当な条件で、講和が望めるはずだ。

 ハンニバルが、静かに口を開いた。

「俺は、ローマ軍と戦う」

「なぜですか!」

 マゴが詰め寄る。

「未だローマ市民は闘志を消し去っていない。現況では、ローマ市民は不利な条件を呑むよりも決戦を望むだろう。今交渉しようと、恐らく得られるのはイベリアの保全だけであろう。カルタゴの寿命を僅かに伸ばしただけに過ぎない」

 ハンニバルの思考は冷徹だった。自分の怖気づいた思考を、読み切っている。

「ローマの武力は、今や地中海を飲み込もうとしているのだ。イベリアにさえその触手は伸びている。もう、カルタゴの栄光は存在しない。後はじわりとローマに潰されるのを待つだけだ。これが、今のカルタゴだ」

 マゴは息を呑んだ。ギスコも黙している。先の戦争を知っているギスコには、この国が傾いていくのを肌で感じているのだろう。そしてハンニバルも、その思考で残酷な事実を導き出した。

「俺の目的は、この戦いを通してローマの膨張政策を挫くことだ。それが、カルタゴ再興の第一歩となる。そのために、俺はここまで来た」

 マゴは思わず声を上げた。ハンニバルはローマに、戦争の恐怖を植え付けようとしていた。ローマは、先の大戦から連戦連勝であった。ローマの民は、戦えば勝つと信じ切っていた。そのような国が、熟れたカルタゴを捨て置くのか。ハンニバルの指摘は正しかった。

「将軍に一つお伺いしたい。カルタゴの再興は、どう行なうのか」

 ギスコが何を訊ねているのか、マゴにはよく分からなかった。ただ、ハンニバルが神妙な表情に変わっていた。

「イベリアと南イタリアの武力を背景に、行なう」

「それは将軍を頂点とする、王政になるということか」

 ハンニバルの眼が見開いた。どういうことなのか。マゴはハンニバルの言葉を待った。

「分からぬ。貴族の抵抗が激しいならば、それも手の一つなのかもしれぬ。ただ、俺は将軍となって一度、カルタゴに行ったことがある。そこにいた民は、腐ってなどいなかった。いつの時代も、民は必死に戦っているのだ。俺はカルタゴの再興を通して、地中海の民を救う」

 人々を救う方法がそれしかないのならば。兄は王になることを辞さないのだろう。しかしそれは、兄にとってあくまで手段に過ぎない。父のような野望を持って、王になろうとしている訳ではなかった。

ギスコも、それ以上は追求しなかった。ハンニバルの目指す夢は、ギスコの考える国と異なるかもしれない。しかしそれは、ハンニバルの決めることだった。

「兄上。私は兄の行くところならば、喜んで付いて行きます。それだけは、変わることはありません」

 ハンニバルが、わずかに微笑んだ。兄が遠くにいるような気がしていた。付いて行くと言ったが、それが実現できるか不安だった。

 ローマ軍との対陣は二ヶ月に及んだ。マハルバルによる挑発に、ローマ軍は徐々に遠くまで出てきている。それは、敵も対陣に倦んできている証だった。

 ハンニバルは、全将校を幕舎に呼んだ。機は熟した。このための作戦もずっと練ってきたのだ。緊迫とした空気が漂う。全員が集まると、ハンニバルは口を開いた。

「明日は、主戦論者のウァロが指揮を執る日だ。今日は、全軍を敵陣営の前まで出動させる」

「お待ち下さい。それでしたら、明日に出陣すれば良いのではありませぬか」

 ハンノが首を捻った。だが、ハンニバルがそれを制す。

「お前の言いたいことも分かる。だが、それでも今日出陣することに意義がある」

 合点がいったようにマゴが頷いた。

「なるほど。ウァロに反対者を振り切らせるために、兄上は出陣なさるのですね」

「そうだ。今日の指揮権はエミリウス。当然、挑発しても乗ってこないだろう。だが、ウァロはどう思うか。挑発してくる相手に何も出来ないことを腹立たしく感じるだろう。まして、今まで小競り合いで勝ってきた相手なら尚更だ。お前達も、明日が決戦であると心しておけ」

すぐさま、出陣の準備が始まった。無事に渡河が完了すると、ハンニバルは全軍をローマ軍の陣営にまで進ませた。その行く手に、障害物はない。ローマ軍陣営の前に着くと、ハンニバルは戦闘隊形へと軍を変えた。全軍が、整然と並びだす。あからさまな挑発だ。だが、ローマ軍の出てくる気配はなかった。

 ハンニバルはマゴに命じ、南イタリアで雇った傭兵を先頭に並ばせた。方々で、ラテン語による罵声が響いた。だが、ローマ軍に動きはなかった。

「だめです。うんともすんとも言いません」

「いや、これで充分だ。明日には、大挙して押し寄せてくるだろう」

「そういうものなのでしょうか」

 ハンニバルは全軍に戦闘態勢を解かせ、陣営へ戻るよう命じた。ローマ軍は、最後まで出てくることはなかった。

 翌日、ハンニバルのもとに伝令が駆け込んだ。

「報告! 執政官の天幕に緋色の外套が掲げられました。ローマ軍十万は、全軍でもって進軍中」

 集まっていた諸将がざわつきだす。緋色の外套が掲げられたということは、執政官が覚悟を決めたということであった。計算通りだった。ハンニバルが、徐に立ち上がった。

「決戦だ。長きにわたった戦争に、終止符を打つぞ!」

 将校達が声を上げる。幕舎の中が、熱気に包まれた。

「ハスドルバルはヌミディア騎兵とガリア騎兵を率いて左翼を。ハンノはイベリア騎兵でもって右翼に立て。ガリア兵は中央を、指揮は俺が執る。ガリア兵の両脇は、重装歩兵が守る。右翼はギスコ、左翼はマゴが率いよ。前面の軽装歩兵は、カルタロに任せる」

 ハンニバルが、それぞれに命令を下した。

「今回の布陣は、楔の如くガリア兵を突出した形にする。両翼のマゴ達は、じわじわと側面に回り込め。そして合図とともに、反撃に転ずるのだ」

「はっ」

 マゴが頷く。最後に、ハンニバルはマハルバルへと向いた。

「マハルバルは、手勢のヌミディア騎兵を率いて私の指揮下へ。お前は伏兵となるのだ」

「はっ」

「全員、異存はないか」

 ハンニバルが皆を見つめる。静寂。夢を、近くに感じる。みなが、熱い眼差しをしていた。

出陣の準備が行なわれた。陣の守備には一万の兵だけを残し、ハンニバルは愛馬に跨った。

「全軍出陣!」

 カルタゴ軍四万が、動き出した。左手には、アウフィドゥス河が流れている。ハンニバルはギスコとともに精鋭二百騎を率いて先行した。

「将軍。あの丘から眺めては」

「そうだな」

 ハンニバルは手綱を引き、丘の上へと駆け上がった。眼下の平原を一望できる絶好の場所だった。彼方へと目をやる。地平線の向こうで、砂塵が舞っていた。徐々に、砂煙が近づいてくる。しかし未だ、地平線から途切れることはない。途方もない数だった。ローマ軍は近くで停止すると、そこで陣形を組み始めた。

「なんと多きか」

 その陣形の大きさに、ギスコが思わずため息を吐いていた。老将は珍しく、敵の数に呑まれているようだった。

「それよりも驚くべき事実があるのに、ギスコは気づいていないな」

「何でしょうか」

「あれだけ集めても、実はギスコという人はいないことだ」

 ギスコが目を丸くする。と同時に、笑っていた。敵に圧倒されていた気持ちが、ほぐれたようだ。冗談を飛ばしてでも、将校には呑まれて欲しくない。圧倒されていないように見えれば良い。敵は脅威でないと皆が信じれば、この戦いは勝てる。

「大体の陣形は察した。軍へ戻るぞ」

「御意」

 ハンニバルは軍へと戻ると、伝令を飛ばした。

「全軍、戦闘隊形」

 カルタゴ軍は整然と並びだした。ハンニバルは剣を引き抜き、号令を出す時を待っていた。ローマ軍も、一定の距離を保って戦闘隊形に入っている。指呼の間。両軍の衝突は、もう間近であった。

 

 エミリウスは、憂鬱そうにカルタゴ軍を眺めていた。その隣には、スキピオが緊張した面持ちで騎乗していた。二人の右手を、アウフィドゥス河が緩やかに流れている。結局、ウァロを止めることが出来なかった。ファビウスとの約束を守れなかった。悔悟の念は深い。

 エミリウスは後ろを振り返った。ローマ軍は意気高く、激突の時を待っている。昨日のウァロは、カルタゴ軍の挑発に対して静かであった。しかし、それは嵐の前の静けさだった。指揮が回ってくると、ウァロは即座に上衣を天幕に掲げさせた。兵士達も、ウァロに称賛の声を上げた。小競り合いの勝利。それによって、兵の士気は天を突くばかりの勢いとなっていた。自分達以外に、決戦を待とうとする者はいなかった。

 ウァロは、満を持した出陣だと考えているのだろう。だが、違う。それらは全て、ハンニバルの作り出した状況だ。作られた勝機に、ウァロは乗っている。

 伝令が、エミリウスの下に来た。

「ウァロ執政官から命令です。歩兵が中央突破するまで、右翼騎馬隊は持ち堪えるようにとのことです」

「心得た、と伝えてくれ」

「はっ」

 伝令は左翼にいるウァロのもとへと戻った。両翼の騎馬隊は、エミリウスとウァロの両執政官が率いている。右翼の騎馬はエミリウス、左翼がウァロだ。中央の歩兵部隊は、ミヌキウスとセルウィリウスが任されていた。

 中央の歩兵は、戦線の幅を狭めた密集隊形だ。隊列は縦長に変更されており、破壊力に集中している。中央突破を目的としているのは明らかだった。ローマ軍は八万七千の内、中央に七万、三千がエミリウス、四千がウァロに当てられている。対岸に移した一万の兵は、渡河して後方に待機していた。その兵は、退却した場合の船の守備と、勝利した後の追撃の役目を持っている。

 ハンニバルは、決戦を望んでいた。ローマ重装歩兵の威力を知りながらだ。その男がこの布陣に対してどう挑むのか。それは興味もあり、不安でもあった。

 ラッパ《ブキーナ》の音が鳴る。地を割れんばかりの喚声が、両軍から響いた。ローマ軽歩兵が駆け、槍を投擲しだす。カルタゴ軍も、矢を繰り出した。途端、空が黒く覆われた。軽装歩兵は駆け戻り、亀のように盾で頭上を覆う。その瞬間、矢が嵐のように注がれた。激しい金属音が鳴り響く。

 小競り合いを終えた後に、二度目のラッパ《ブキーナ》が鳴った。重装歩兵が駆け出す。カルタゴ軍も動いた。決戦へ。両軍が、激突した。

エミリウスも馬腹を蹴り、先頭に立つ。エミリウスの掛け声で、騎馬隊は駆け出した。その背後にいたスキピオも、それに続く。ヌミディア騎兵。正面から、ぶつかった。敵は突撃するやいなや、離脱した。すぐに、第二波の攻撃がやってきた。受け止める。強い。エミリウスはなるべく、味方を集結させて敵の攻勢を防ぎきる。

 ヌミディア騎兵が、押しきれていない。攻撃の波が小さい。左の歩兵、右を流れるアウフィドゥス河。左右の障壁が、騎馬隊の機動力を阻害していた。天恵だ。助かった。敵は、ヌミディア騎兵の特性を活かせていない。

 エミリウスは、騎兵を密集させた。守りに徹する。歩兵が打ち破るまで、ここは動かない。エミリウスは、剣を握りしめた。


 中央では、ガリア兵が最初に敵と当たった。次に、その脇を固めるギスコとマゴの部隊がぶつかった。生々しい悲鳴。血飛沫が飛ぶ。金属音が、奏でられた。

 中央のローマ軍が、圧す。圧してくる。激しい攻撃が、ガリア兵を打ち破ろうとする。ハンニバルの激励。今のところ、ハンニバルは耐えていた。だが、それも時間の問題だった。反撃を繰り返しながら下がる。弓なりの隊形になっていたガリア兵は平らになり、へこんでいく。後衛にいるマハルバルが、それを冷静に見つめる。

 やはり、ローマ重装歩兵は強い。ハンニバルはガリア兵にマニプルス隊形を習得させていたが、それでもいかんともし難い。

マハルバルは機を待った。ハンニバルからは、伏兵として敵右翼騎兵を突けと言われていた。左に目をやった。ハスドルバルが、河に挟まれながらも善戦している。しかし、戦線は膠着状態になりつつある。敵は、前のハスドルバルのみに集中した隊形に変わった。正面からは、容易に破れないものだ。だが、側面は脆い。好機か。

 手勢二千を引きつれ、マハルバルは駆け出した。ハスドルバルの背後を横切り、河に飛び込む。深い。しかし、溺れるほどではない。河の流れは、ローマの方へと向いていた。はやい。流れに呑まれないよう、前進する。敵が、こちらに気づいた。遅い。

「全軍突撃。打ち崩せ!」

 敵の横腹に、襲いかかった。雪崩れ込む。マハルバルの騎兵が左右を食いちぎる。縦横無尽に駆けた。敵の隊列が、脆くも崩れだす。

 突き伏せる。槍を引き抜く。後方へと駆け抜け、転回。再度、マハルバルは突撃した。強襲する。引いては、押す。ヌミディア騎兵特有の波状攻撃に、ローマ軍は半数近くが倒れていった。

敵中でただ一人、若い青年将校が冷静に兵をまとめていた。小さく集まっている。そこに、マハルバルが駆ける。若者は、こちらに気づいた。

 叫ぶ。槍を構え、馳せ違った。衝撃が走る。マハルバルの手が、震えた。弾かれたのか。振り返る。若者も、同じく振り返った。凛々しい顔立ちだった。

名は何というクォッド・エスト・ノーメン

スキピオだ(スキピオ・エスト)

 スキピオが、構える。マハルバルも、槍を掲げた。だが、流れが変わった。緋色の外套を翻した男が、多くの護衛兵と共にスキピオのもとに駆けてきた。敵執政官か。多勢に無勢だった。スキピオが、それに従い、執政官と共に後方へと退く。そこに、ハスドルバルが追いついた。

「ハスドルバル、敵を追撃するぞ!」

「おう!」

 ハスドルバルの部隊と合流し、マハルバルが駆け出す。ヌミディア騎兵が、歪んだ笑みを浮かべた。敵騎兵は逃げ切れない。遅れた敵兵。突き落とす。滅多刺しにされた。ローマ騎兵の惨劇が始まった。しかし、マハルバルは停止を命じた。

「どうしたんだマハルバル! 敵は目の前だぞ!」

 ハスドルバルが興奮でいきり立つ。だが、マハルバルが冷静に制した。

「ここまで討ち取れば敵は再起不能だろう。それよりも将軍の命令通り迂回し、敵左翼を撃破するぞ」

 正直、焦りもあった。戦闘開始からかなりの時間が経過している。ガリア兵がローマ軍の重圧に耐えられる間に、作戦を遂行せねばならない。追撃にかける時間も惜しかった。

「仕方ない。全く、幸運な奴らだ」

 ハスドルバルがうなずき、馬首を返す。この男は莫迦ではない。ただ根が一直線なだけだ。二人は進路を変え、敵歩兵の後方を回った。背後を走られ、敵の攻勢は鈍っているようだった。まだ、前線は耐えている。

 敵左翼が見える。鷲の旗。ここの部隊を率いているのは、ウァロか。

「全軍疾駆! 敵を恐怖の底へと突き落とせ!」

 マハルバルが、敵騎兵の背後にぶつかった。敵はハンノしか見ていなかったようだ。こちらに、全く対応できていない。陣形を壊す。突き崩す。ウァロが叫んでいるが、その指示は悲鳴にかき消されていた。ばらばらと、敵騎兵が逃げ出した。

 ハスドルバルが、鷲の旗へと向き出す。ウァロは恐怖したのか、即座に逃げ出した。

「追え。敵の大将は、赤い外套をしているやつだ!」

 ハスドルバルが叫ぶ。ヌミディア騎兵は追いかけた。徐々に間隔を詰める。遅い。親衛隊リクトル。親衛隊がヌミディア騎兵を食い止めた。その間に、敵の執政官はさらに逃げる。

「あの野郎、部下を置いて逃げるのか。腰抜け! 戻ってきてこの俺と勝負しろ!」

 ハスドルバルが大声で罵った。だが振り向きもせず、後方へと逃げていった。それを見た親衛隊は、諦めてウァロに続いた。ハスドルバルが追おうとするが、そこにハンノがやって来た。

「もういいぞ、二人とも。それよりも敵歩兵の背後を突こう」

「ったく、久々の戦いなんだから、少しくらい好きにやりましょうぜ」

「また将軍に怒られたいのか。良いから行くぞ」

 マハルバルが小突く。三人は駆けた。敵歩兵の背後へと回る。戦局が、動き出そうとしていた。

敵の両側面に、大きな空間がこじ開けられた。今しかない。ハンニバルが、伝令を呼んだ。

「ギスコ、マゴに伝令。側面に回りこみ、敵を包囲せよ!」

 伝令が早馬に乗って駆け出す。

それと同時に、両翼が動き出した。雄叫びを上げ、敵側面に入る。ローマ軍の攻勢が弱まった。ローマ軍の背後にも、高く砂煙が舞っていた。マハルバル達が、背後を突いたということだ。

 マゴとギスコの部隊が、敵を挟み込む。じわじわと、圧していく。ハンニバルは、戦列を代える機会を待っていた。戦列が代われば、敵に崩されることはなくなる。万力のように、両翼がローマ軍を捩じ上げた。僅かに進んでいた敵の前進が、止まった。重圧が消えた。その瞬間にハンニバルが剣を振り上げた。

「戦列を交代せよ! 全軍、反撃開始!」

 ガリア兵が、迅速に戦線を入れ替える。鋭気に漲る新手が、ローマ軍の前に出た。ガリア兵が、次々に押し返していく。ローマ軍の混乱が、極限に達した。中央部では四方から圧迫され、悲鳴が上がり始めた。

「一兵たりとも逃すな!」

 四方を、三日月の旗が囲んだ。あらん限りに声を上げる。カルタゴ兵の槍。避けられない。次々に串刺しとなった。ローマ兵は奥へと逃げる。押し込まれ、中央の兵は圧殺された。カルタゴ軍の総攻撃。ローマ軍の崩壊は、止まらない。もはや大軍である有利など無かった。


 エミリウスが制止を命じた。それに続いて、ローマ騎兵が止まる。敵の追撃は、すでに振り切っていた。エミリウスが、スキピオへと馬を寄せた。

「どうしたのですか」

「スキピオ、お前はここで待て。私は、歩兵を助けにいく」

「そんな。無理です、無謀過ぎます」

 ヌミディア騎兵の追撃から逃れられたのは、わずか三百騎だけだった。その数で四万もの敵に挑むなど、自殺行為だった。

「ここで敗走すれば、私はファビウス殿に顔向け出来ないばかりか、祖国の人達を裏切ることになる。私は、そのような男になりたくない。お前は、ここで歩兵が逃げてくるのを待て。そして、それを率いて近くのカヌシウムまで逃げるのだ」

 エミリウスの表情は真剣だった。ローマを担う議員は、皆こうなのだろうか。その強さは、自分の胸を滾らせた。

「それならば、私も行きます」

「駄目だ。お前はまだ若い」

「貴族とは、国のために死ぬ者のことを言うのだと父に教わりました。私も貴族の端くれ、ローマの一員です」

「……奇特な若者だな。やはり、プブリウスの倅よ」

「断られても、這ってでも付いていく所存です」

「良いだろう。行くぞ!」

「はっ!」

 エミリウスは駆け出した。スキピオもそれに続く。従う麾下は、三百騎。怖い。だがそれでも、スキピオは従った。

「そうだ。まだ後方には一万の兵が残っている! それを出せば、ローマ軍が救える!」

 ふとした閃きに、スキピオは思わず顔を輝かせた。だが、エミリウスが首を振った。

「今の指揮権はウァロにある。ウァロが命じなければ、動かすことは出来ぬ」

 エミリウスが、悔しそうに呟いた。これも、駄目なのか。ウァロが敗走したことは、すでに報告が来ていた。そして、もう戦線を離脱していることも。恐らく、ウァロが一万の兵を動かすことはないだろう。スキピオの胸に、得体の知れない何かが纏わりつく。それは、憎しみなのか。それは良く分からなかった。

 徐々に、戦場が一望出来るようになった。エミリウスが感嘆の声を上げる。

「凄いな、これは。こんな大包囲、見たこともない」

「これが、ハンニバル……」

「気圧されるな。気を弱めると、士気に関わる」

「申し訳ございません」

「ハンニバルに勝つ。それだけを胸に抱いておけ」

 エミリウスの表情は清らかだった。口だけの覚悟ではない。本当に、祖国を救う気なのだ。スキピオは自分を恥じた。手綱を握る手が震えている。早くも、醜い本性が暴れていた。

戦場に近づく。カルタゴ歩兵は、ローマ軍に踏み込む足場も与えずに押し込んでいた。これでは、ローマ軍の突破力など意味がない。

 エミリウスが馬腹を蹴り、速度を上げた。

「敵中突破。包囲網に風穴を開けるぞ!」

 太腿を締める。ローマ騎兵は突撃した。敵の態勢が整わない。カルタゴ軍の動揺が、見て取れた。騎兵が侵入していく。先頭に立ったエミリウスが、ローマ歩兵に辿り着いた。逃げろと促す。歩兵は雪崩をうってその穴を抜け出していった。

 歩兵指揮を行なっていたミヌキウスが、抜け出してきた。

「エミリウス殿、来てくださいましたか!」

「セルウィリウスはどうした」

「セルウィリウス殿は……」

「そうか。お前も早く逃げるのだ。この穴も、そう長くは持たない」

「いえ。私は、歩兵が逃げ切るまで踏みとどまります!」

「馬鹿を言うな」

「私の命は、ファビウス殿に救われました。ですから、次は私が救う番です」

 ミヌキウスの言葉に、エミリウスが微笑んだ。スキピオは、それを見つめる。何故だろう。皆の表情は清々しかった。歩兵が、徐々に穴を通って外へと逃げていく。

 カルタゴ軍が、穴を塞ごうと殺到する。エミリウスとスキピオが、それを防ぐ。ミヌキウスが、歩兵を順序よく逃がした。

 カルタゴ軍が、横に道を空けた。黒い影。はやい。騎馬隊だった。雷光の旗が掲げられている。禍々しいその旗に、スキピオは硬直した。動けなかった。エミリウスが反応して駆けるが、間に合わない。雷光の旗はこちらを見向きもせず、ミヌキウスを狙っていた。

ミヌキウスが振り返る。雷光の旗が駆け抜けた。真紅の外套。白刃が煌めく。馬上に、ミヌキウスの姿はなかった。

「ミヌキウス殿!」

「退け、スキピオ! ここは私が死守する。お前は、ミヌキウスの逃がした兵を率いて逃げろ」

「しかし!」

「お前が生きなくてどうする! 義父としての最後の願いだ……生きよ」

 悲痛に満ちた表情に、言葉が喉を通らなかった。

「……畏まりました」

 僅かに絞り出した声。スキピオは散らばった兵をかき集め、撤退の命令を下した。逃げるスキピオの背後を、エミリウスが守った。すでに麾下の騎兵は、数十騎になっている。それでも、雷光の旗を止めていた。エミリウスの雄叫びが聞こえてきた。振り返ることは出来なかった。兵を叱咤し、遠くへ逃がすことで精一杯だった。

兵士達は皆、亡霊のような顔をしていた。戦場から離脱し、ようやくスキピオが後ろを振り返った。まだ、戦場は見通せた。カルタゴ軍の真ん中で、エミリウスが必死に抗っていた。しかし、その部隊は徐々に小さくなっていく。間もなくしてエミリウスの旗が倒れ、抵抗は終わった。

 スキピオの目に、止めどなく涙が流れた。ローマを想う人達が、次々に死んでいく。なぜ、自分は生きたのか。震えるこの手が、余りに憎い。

 背後には、二人の残した兵がいた。泣いている暇はない。スキピオは涙を拭い、カヌシウムまで撤退した。


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