草原の一輪花
ただ、好機を待っていた。かつてイタリアを南下した時は、自分は五万の兵を従えていた。ローマもそれ程警戒していなく、あの時はファビウスが率いていたと言えど、四個軍団止まりであった。しかし今は違う。ハンニバルの手元に残る兵は僅か一万五千。雇ったガリア兵は全滅した。今いるのは、アルプスを越えてきた兵と、南イタリアの傭兵七千であった。その七千の内、五千は見捨ててきた。作戦を悟られないためであった。しかしそれでも、横断するには十個軍団の中を潜り抜けなければいけない。無謀という他なかった。
しかし、ハンニバル最期の策であった。シレノスが残した綱を掴み、約束した地へと辿り着く。屍の上に立つハンニバルに課せられた使命だった。ハスドルバルとはイタリア中部のウンブリアで落ち合うつもりであった。ハスドルバルが二万か三万でも持って来れば、ガリアと呼応して再度北イタリアを制覇する自信はある。ハンニバルがハスドルバルと合流次第、イタリア中部のエトルリア地方は叛旗を翻す予定であった。南イタリアより実りは小さいが、これで再びローマに食らいつくことは出来るはずだ。
そろそろ、アルプスを越えた頃だろう。自分が越えた時は、五カ月を要した。ハスドルバルのアルプス越え次第、ネロの四個軍団を打ち破る。そう、全軍に布告した。
数日後に、一つの報告が届いた。長い戦いの末、マケドニアがローマの同盟勢力であるペルガモンを打ち破ったとのことだった。泥沼の内戦に、一応の決着がついたのだろう。ローマは未だ援助を続けているが、大勢に変化はない。ただ長い戦いは、マケドニアを完全に疲弊させていた。これ以上ローマと戦う余力は残っていないだろう。
夕刻に、一騎のローマ兵が自陣営まで駆けてきた。門衛が構える。ローマ兵は陣柵まで来ると、一つの麻袋を陣中に放り投げた。兵士達は中身を調べ、絶叫した。すぐに、ハンニバルの幕舎に持ち込まれた。
「どうした」
居並ぶ将校の手前、冷静な声でハンニバルが問いかける。机上には地図が広げられ、軍議の最中だった。
「これを」
そう言うと、従者は麻袋からおずおずと中身を取り出す。ハンニバルの表情が凍りついた。
「ハスドルバル……」入っていたのは、剥製にされた弟の首だった。膝が崩れた。兄弟との、十数年ぶりの再会だった。だが、喜びはない。弟の瞳は、開くことはなかった。ハンニバルは、冷たくなった弟の首を抱きすくめた。
「神は、俺を見放した……」
居並ぶ者達は、ただ沈黙するしかなかった。普段は冷徹さを備えたその眼に湛えられた一条の涙が、全てを語り尽くした。
その夜に、ハンニバルは南イタリアへと引き返していった。ローマ軍による追撃はなかった。失意の撤退だった。ハンニバルはメタポントゥム、トゥリィを放棄した。すでにローマ軍に包囲されており、救援は不可能だった。ハンニバルはブルッティウムに退がると、それ以降は北へ出ようとはしなかった。エトルリアの謀反は、その後まもなくしてローマに鎮定された。
時を同じくして、イベリアではマゴとジスコーネがスキピオの前に壊滅。マゴは生まれ育ったイベリアから追放され、イベリアが平定された。カルタゴ本国ではバルカ党のヒミルコが死に、反バルカ党のジスコーネが実権を握る。もはや、ハンニバルに帰る国はない。ハンニバルの兵力は、日に日に減少していった。
翌年(紀元前二〇六年)、ローマは南イタリアへ大攻勢をかけた。ハンニバルはブルッティウムへと退き、あと少しだと考えた。だが、攻勢は全て挫折した。どこまで打ちのめしても、ハンニバルは未だ健在であった。財政難から軍縮を行ない、南イタリアに向かう兵は六個軍団となった。だが六個軍団では、ハンニバルの相手にならなかった。攻勢は全て打ち払われ、その年の南イタリア戦線は戦果なく終わった。
だが一方で、イベリアからは朗報が入った。スキピオがイベリアを完全に平定し、帰還するとのことだった。市内は大歓声に包まれた。神に選ばれた英雄なのだと、人々は確信を持って噂した。年の暮れに、スキピオは少数の従者達と共にローマへ帰国した。異例の若さでの指揮官でもあり、ローマ最大の栄誉である凱旋式までは許されなかった。だが、スキピオはさしたる失望もなく、――どうでもいい。と気にする風もなかった。更なる高みを、スキピオは目指していた。そこに届くまでが、自分の戦争であった。
帰国してすぐに、スキピオは元老院で戦勝報告を行なった。そして同時に、その場で執政官へと立候補を宣言した。議員にもなっていない若者に指揮権を渡すだけでも難色を示していた元老院は、またも反対した。執政官への被選挙権は元老院議員であり、四十歳を越えていることが条件であったからであった。
報告の間、終始挙動不審だったラエリウスは、スキピオの宣言で顔面蒼白となっていた。それでもスキピオは気にしなかった。――なんとかなる。神に愛されていることを自覚した楽観的な心情が、スキピオの特徴だった。そうであるからこそ、自身の巡らした策にも絶対の自信があった。元老院の反対は、スキピオも予想している。すでに庇護関係である食客を通じて、スキピオの立候補には民衆の力が必要だとローマ中に訴えかけさせた。かつてイベリア《ヒスパニア》遠征を勝ち取った時のように、民衆の熱狂を取り込もうとしていた。それは成功した。ローマ市内だけでなく、同盟都市内に住むローマ市民権者達までもがスキピオに票を入れるために駆けつけた。熱狂が、議事堂を囲い込んだ。
「立候補は、認めて下さいますね」
議場の中心に立ち、スキピオは不敵に笑った。
「あまり、舐めた動きをするものではない」
元老院の長老ファビウスが顔を顰める。慣習を破ることは、他の善良な規律の解れにも通じるとして、ファビウスは渋っていた。それでもなし崩し的に、民衆の熱狂により元老院はスキピオの立候補を認めざるを得なかった。翌年、スキピオは三十一歳で執政官に選ばれた。ローマ史上異例の若さであった。
春の到来を、スキピオは異国のシチリア島のリリュバエウム市で迎えた。海風の吹く港の景色は極彩色に飾られたカルタゴ様式の建物で埋められ、ここが異国だということを強く感じさせる。とくに鮮やかに飾られた異邦の神殿には、未だカルタゴの最高神バアル・ハモン、タニト、レシェフが安置されていた。異国の神を壊すということを、ローマはしない。それぞれの部族に、それぞれの神がいる。ただそれだけだ。
スキピオは海を見ることが好きだった。城壁の上から見える海は、西方のイベリア、南方のアフリカへと繋がっている。だが目を凝らしても、その島の影すら見えない。海は広かった。地平線の向こうにあるイベリア半島、そのさらに向こうには無限の海が広がっていると、現地の住民が言っていた。現地の人々も、その向こうを見たことがなかった。海の果てはどうなっているのか、それを考えるのが好きだった。断崖絶壁なのか。それとも、神の国があるのか。考えれば考えるほど自分の立つ大地が溶け、深い大海にこの身を投げ出した感覚に陥る。
「やはりここにいたか」
背後から声をかけられ、振り返る。ラエリウスであった。彫の深い顔に太い眉と、野盗のような風貌に変わっている。友であり、今では副官のラエリウスには事務仕事の大半を任せていた。スキピオ自身は、事務仕事を行なうのが苦手だった。
「募兵はかなり集まっている。やはりスキピオの名に、みんな惹かれているようだ」
「志願奴隷兵はどうだい」
「スキピオの言う通り、たくさん集まった。やはりほとんどが、ハンニバルに売り飛ばされた元ローマ兵だった。奴隷の価格が暴落して、うちに投げ売りに来た奴隷商もいたほどだ」
「それは良かった」
スキピオがほっと胸を撫で下ろした。奴隷兵を集めるのは、彼らをローマ市民へ復帰させるためという目的が強かった。捕虜となって売り飛ばされたとはいえ、国のために戦った勇士達だ。戦った結果が奴隷では、あまりに浮かばれない。
「他に、イベリア《ヒスパニア》で戦った戦友達も多く集まっている。これで総数はおよそ三万五千になっている。イタリア各地からも、支援物資が届いているぞ。シチリアで調達したものと合わせると、二個軍団の物資とは思えないほどだ」
「シチリアの人々から不満は出なかったか」
「いや、シチリアの土地を人々に渡すと言ったら、みんな喜んで差し出してくれた。しかし、土地を渡すとは考えたな。敗戦国の民とは思えないほどの厚遇だと、人々は褒め称えていたぞ」
「喜んでくれたなら、それだけで満足だ」
思わず顔がほころぶ。人々に喜ばれる施策を考え続けた。ローマの惨禍は、並大抵のものではない。この戦争で、どれだけの人々が悲しんだのか。戦争の被害を受けるのは、いつも民であった。少しでも、この世界に希望を持ってほしかった。
「訓練の状況はどうだ」
「上々だ。新兵がほとんどいないだけに、呑み込みが早い。ことに、カンネー軍団の動きが素晴らしい。とても敗残兵の集まりとは思えないほどだ」
「当然だ。なんたってあの軍団を鍛え上げたのは、マルケルス殿だからな」
まるで自分のことのように、スキピオは誇った。かの師が遺した兵は、今やローマ最強と言っても過言ではなかった。師がカルタゴから奪った馬で創設した騎馬隊も、上々の出来だった。優秀な馬の分、カンネー軍団の騎馬隊はローマ騎兵よりも抜きんでていた。立場が違うだけ。人は立場が違えば、千差万別に変わってしまう。
ハンニバルもローマも、考えていることは変わらない。より人々を幸せにしたくて、動いているに過ぎない。ただ想いがすれ違って、もつれて、その結果が今の惨状になっている。もつれた糸を解くには、余りに長い時間、絡まり過ぎた。ほどくのは難しく、誰かが断ち切るしかない。そしてもう一度、次はもっと考え抜いて、綺麗に結ぶのだ。そうして、地中海を結ぶ輪を作ればいい。
「この戦いに、咎人はいない。助かった者と、報われなかった者がいるだけだ。私は、ローマだけではなく、みんなを救いたい」
「その中には、あの男もいるのか」
「彼こそ、救いを必要としている人間だ。苦難を何度も潜り抜け、それでも喘ぎ苦しんでいる。私が手を差し伸べ、必ず救いだす」
強すぎることは悲劇であった。もしも朽ちゆく国を支えられるほどの才能がなければ、凡人ハンニバルでしかなかったならば、その生涯は平和だったのかもしれない。だが、天賦の才を持ったが故に、ハンニバルは地を這う苦しみを味わわなければいけなかった。この世界に、ハンニバルを支えてくれる国は無い。慕う祖国からは助けがなく、孤高に戦うことを強いられた。
ローマとは何もかもが違う。ローマの人々は、協力して支えあった。故郷の心配も、補給の心配もしなくてよかった。全てローマが責任をもって行なってくれた。今回も、補給と制海権はローマが保証してくれた。
ハンニバルを支える者は、誰もいない。孤独なのだ。祖国を幸せにしようとその身を削って戦っているのに、その全てが報われない。憎むべき敵ではない。彼もまた、戦争の犠牲者なのだ。これ以上、惨劇を続ける必要はない。
「この戦いで、終止符を打とう。そしてローマの平和を創ろう。私はカルタゴを滅ぼすつもりはない。ローマの一員になってくれるだけでいい。繁栄の方法はいくらでもある。カルタゴはローマという輪の中で、繁栄すればいい。そうすればカルタゴも、そしてハンニバル幸せにすることが出来る」
心は揺るがず、穏やかなままだった。ラエリウスと見つめ合う。つとに、ラエリウスが笑った。
「相変わらず、お前はお人好しだな」
「考えに考えた結果だ。私は平和が来ると信じている」
「いや、否定はしてないさ。素晴らしいと思う。叶うと良いな、お前の夢」
ラエリウスがスキピオの背中を叩いた。仕返しとばかりにスキピオも叩く。地中海の海は、穏やかなままだった。
シチリアに上陸した一年は、調練と情報収集で一年を終えた。東方ではついにマケドニアがローマと講和条約を交わし、カルタゴとの同盟を放棄した。実質的に、マケドニアはこの戦争に敗戦したようなものだった。
カルタゴでは、シチリア島にいるスキピオがアフリカに上陸してくると相当な危機感を持ったらしい。この年になってようやく、カルタゴはハンニバルとマゴに支援を送ることを決議した。カンネーの戦いから十一年がすでに経過している。余りに遅い決断だった。カルタゴはイベリアから逃げ延びたマゴに多額の資金と物資を与え、急ぎイタリアへ渡ってハンニバルを援護するようを命じた。そしてマゴは三十隻の軍艦と一万四千の傭兵を組織すると、ローマ海軍の眼を掻い潜る様に北イタリアの西方ジェノヴァ《ゲヌア》に上陸した。西地中海のローマ海軍は陸上兵力のために解体していたので、容易にマゴはイタリアへと渡った。だが北イタリアにはローマが七個軍団を派遣しており、イタリアの情勢が変わることはなかった。
そして南端のハンニバルにも、援軍と物資を満載した輸送船百隻が送られた。しかしハンニバルを包囲するローマ海軍は軍艦が増強され、厳重に警戒がされていた。それをカルタゴが知ったのは、百隻の輸送船がローマ艦隊に壊滅させられた報告によってだった。カルタゴはなりふり構わず、マケドニアにイタリアへ援軍を送るよう使者を出した。しかしすでにマケドニアはローマと講和をむすんだあとであり、使者は追い返された。しかし援軍を阻止しても、ハンニバルを倒すのは難しかった。何度ローマが大攻勢をかけても、損害が増えるだけであった。それでも元老院はイタリアでの戦いに固執しているが、スキピオ考えは違った。決着は、ハンニバルのいないカルタゴで行なうしかない。
シチリアでの訓練は順調に進んだ。どの兵士も戦場経験があり、軍として動くのにさして支障はなく、指揮をするのが気持ちの良いくらいだった。次の年(紀元前二〇四年)には、スキピオはリリュバエウム港を発った。総勢三万五千の軍団であった。かつては海の女王と呼ばれたカルタゴ海軍はすでにその影を無くし、スキピオは悠々とアフリカへ上陸することが出来た。後は打診した東西ヌミディア王国のうち、どちらかが参戦してくれるのを待つだけだった。
しかし上陸して間もなく、急報が届いた。
「報告。西ヌミディアがローマとの同盟を破棄し、カルタゴと同盟を締結。カルタゴと西ヌミディアは東ヌミディアを挟撃。ヌミディアは西ヌミディアに統一されました」
凶報だった。同時に、怒りをスキピオは覚えた。東ヌミディアは、カルタゴに長く忠誠を誓う国であった。だが東ヌミディアの王はバルカ家に近く、ハンニバルの軍隊にも多くのヌミディア騎兵を提供しており、反バルカの本国貴族にとっては邪魔な存在であった。反バルカ家のジスコ-ネは実権を握ると西ヌミディアの王シファクスへ娘を差し出して同盟。東ヌミディアをあっさりと裏切った。シファクスはこの娘に惚れていたため、ジスコーネの条件に飛び乗った。カルタゴとシファクスは共同で東ヌミディアへ侵攻。シファクスが東ヌミディアを支配し、ジスコーネの強力な後ろ盾となった。
スキピオの計算は崩れた。同時に、煮え滾る怒りが芽生えた。一国のカルタゴが信義をあっさりと破ったということが信じられず、許せなかった。ローマでは信義を大切にする。誓った約束を破ることは蛮族のすることだと、自らを戒めていた。背徳行為に鉄槌を下す。決戦の意志は、それで固まった。
数日後に、スキピオの陣営を二百騎の騎馬隊が訪った。襤褸をまとった今は亡き東ヌミディアの太子マシニッサだった。
「願わくばカルタゴ討伐の末席に加えてもらいたく、馳せ参じました」
襤褸に包まれても、その高貴な風貌は色褪せていなかった。国を追われた悲しみを一片も見せず、威風堂々と、スキピオを見つめてきた。
「あなたを待っていた。私の信義に誓って、必ず王国の地を取り戻しましょう」
緋色の外套を翻し、スキピオが拳を固めた。ヌミディアの言語はフェニキア語であった。だが通訳を介さずとも、その想いはマシニッサに届けられた。マシニッサは目を伏せ、忠誠を誓った。
スキピオは全軍をまとめると、カルタゴ領内を略奪して回った。かつてハンニバルが行なったように、カルタゴ軍を引きずり出すためであった。
駆けながら、スキピオはラエリウスに馬を寄せた。
「カルタゴはハンニバルを呼び戻そうと考えると思うか」
「いや、ジスコ-ネが権力を握って以来、ハンニバルに援軍を送る話も、本国へ帰還させる話も無くなったらしい。自力で、俺達を破るつもりなのだろう」
「そうか」
――好都合だ。
この年、カルタゴが決戦に出てくることはなかった。ヌミディアを統一したシファクスが援軍に来るまでは、ただ影を潜めて待っているつもりなのだろう。カルタゴの国力は、かつてローマと互角に戦ったほどの威勢はなかった。両軍の決戦は翌年へと持ち越された。スキピオは大量の略奪品を抱えてアフリカで冬営した。
春を待たずに、スキピオは動いた。カルタゴも、ジスコ-ネを総大将に軍をかき集めた。ヌミディア王シファクスの六万と合わせ、総勢九万の大軍となった。両軍が砂ぼこりの舞う大平原に布陣する。
スキピオは堅固に陣を固めると、ラエリウスを連れて自ら偵察に向かった。丘の上から、カルタゴ軍の布陣を眺めた。カルタゴ軍の陣地は土が使われておらず、全てが木々と枝を使用していた。
スキピオがカルタゴの陣を一つずつ指す。指した場所全てが、隙だらけだった。
「どうやら、ジスコ-ネは反省をしてないとみた。可燃物を陣柵近くに置くなんて、戦を知らない典型だな。まだ、数だけ揃えれば良いと思っている」
「不格好な陣に、不釣合いな司令官。カルタゴも地に墜ちたな」
「これなら、戦場に誘い出さなくてもいい」
スキピオは笑った。二人が陣へと戻ると、マシニッサを幕舎に呼んだ。緋色で縁取られた白色の幕舎に迎え入れると、三人以外には退出を命じた。三人での軍議が始まった。
「騎兵の状態はどうか」
「上々の仕上がりです」
ギリシア《グラエキア》の言葉が飛び交った。ヌミディア人も、ギリシア《グラエキア》の言語は出来るようであった。
「今夜、夜襲にてカルタゴ《カルケドン》陣地に攻めかかる」
スキピオが地図を広げて言った。一つずつ木で造られた駒を置いていく。カルタゴ軍はヌミディア陣地とカルタゴ陣地の二つに分かれていた。
「本陣はルキウス・バエビウスに一万の兵でもって守備させる。二人には、ヌミディア《ノマデス》の陣を攻めてもらいたい。マシニッサは騎兵を率いて南から、ラエリウスは一万の歩兵で北から夜襲を。夜襲の際には、火矢と火炎瓶を使ってもらう。カルタゴ《カルケドン》の陣地は葦と木材で出来ており、燃えやすい。この乾燥した時期ならば、よく燃えるだろう」
「分かった」
「ヌミディア陣地から火の手が上がったら、私もカルタゴ《カルケドン》陣地を攻める。それで、敵を殲滅しよう」
スキピオの言葉に二人が頷いた。
ローマ軍は夜間にひっそりと陣地を出た。大軍であることに油断しているカルタゴ軍は、哨戒さえ出していなかった。スキピオは一万の兵を三方に伏せ、敵陣を囲む形で待機した。西の夜空が、紅に焦がされる。煙が濛々と上り、大炎上しているのが分かった。ヌミディアの陣地をラエリウス達が襲ったのだ。だがカルタゴ陣地の方は慌てていない。まさか寡兵のローマ軍が襲うはずもないと考えているのだろう。ただの火事だとしか、考えていないようだった。
スキピオはイベリアで打ったイベリア剣を引き抜いた。両刃の短い剣であった。小回りが利く分、片刃よりも実用性に長けていた。兵士達に火炎瓶を持たせる。長い紐が付けられているため、振り回して投げつけることができる。
「一斉投擲!」
スキピオが剣を振り上げる。頭上を覆うように、火炎瓶がカルタゴ陣地へ投げられた。瞬く間に、陣地の中は燃え出した。
「全軍突撃せよ!」
スキピオが徒で駆け出す。全軍が、それに続いた。陣柵に縄がかけられ、引き倒された。四方からも同時に鬨の声が上がった。火の手は勢いを増し、陣内の深部まで延焼した。スキピオが剣を振る。カルタゴ兵は陣から逃げ出そうとするが、全てローマ兵に押し込まれた。隊列を組まない敵兵。次々に刺し殺した。紅蓮の炎が焼き尽くしていく。それは、もはや戦いではなかった。
夜が白む頃、大地はカルタゴ兵の焼死体で埋め尽くされた。カルタゴ・ヌミディア軍の捕虜戦死者合わせて三万。残りはすべて遁走した。
カルタゴ軍が敗走すると、周辺のアフリカ《リビュア》人はこぞってスキピオに村を明け渡した。カルタゴ貴族の重税に苦しんでいた人々は、解放者としてスキピオを迎え入れた。スキピオはローマ軍を連れて、首都カルタゴへと進軍する。
カルタゴではハンニバルを呼び戻す声が飛び出したが、それをジスコーネが武力で押さえつけた。ジスコ-ネにとって、ハンニバルは援軍ではなく敵でしかなかった。カルタゴ元老院は渋るシファクスを脅して呼び戻し、かき集めた三万四千の兵で迎撃することを決議。スキピオの前に立ちはだかった。だが、総大将はまたもジスコ-ネ。カルタゴ本国は、もう限界だった。
バグダラス河畔で両軍は激突し、カルタゴ軍は全滅した。スキピオは追撃の手を緩めなかった。ジスコーネは無視してヌミディア王シファクスを徹底的に追撃。ヌミディアの首都キルタ付近で行われた戦いでヌミディア軍を破り、シファクスを捕らえた。王国は戦意を無くし、ローマ軍に降伏した。
カルタゴへ逃げ帰っていたジスコーネは、ヌミディアが降伏したことを知るとその日のうちに姿をくらました。数々の失態と圧政。人望は地に落ち、ハンニバルの帰還を望む人々に殺されると感じ取ったためであった。
スキピオは捕らえたシファクスをローマへ更迭し、マシニッサを王位に復位させると、ローマとの同盟を求めた。マシニッサは喜んで調印し、スキピオとは生涯無二の親友であることを誓った。
ローマ軍の攻勢はやまなかった。カルタゴ近郷の都市トゥネスがローマ軍の手に落ちると、そこにスキピオは腰を据え、カルタゴに最終通告を送りつけた。講和か、滅亡か。交渉の余地はなかった。迎え撃つ兵力はすでにない。ヌミディアを失い、奴隷同然に扱っていたアフリカ《リビュア》人は裏切り、カルタゴに味方はいなかった。カルタゴ元老院は狂乱した。長引かせるためだけの使者が、次々とローマ軍陣地に送られた。
その間に、市民軍が編成された。数百年ぶりの出来事であった。武器を持ったことのない商人の息子まで駆り出された。金のある貴族を馬に乗せ、騎馬隊とした。最大の盟友ヌミディアを失ったカルタゴは、騎兵さえ満足に揃えることは出来なかった。
張りぼての軍隊が創設された。だが、それは余りに頼りなかった。だがカルタゴ元老院はこれでローマ軍を迎撃すると通達した。無謀であることは、誰の眼にも明らかだった。カルタゴ元老院の無策に耐えかねた市民が、ついに叛旗を翻す。滅亡するかもしれないと恐れた市民は暴徒と化し、議事堂を囲んだ。カルタゴの行政を、誰も信用していなかった。カルタゴ市民は、口を揃えてただ一つのことを望んでいた。ハンニバルの帰還。人々は最期の希望に縋った。この国を救えるのは、もうあの男しかいなかった。
兄の望みは自分だということを、マゴは痛いほど理解していた。兄は未だ、独りでローマと戦い続けている。本国がマゴに渡した兵は一万四千。ローマ軍に較べれば消し飛ぶような兵力だった。それでもマゴは、兄のもとへ向かうために南下した。合流することに、もはや戦略的意義は殆どない。だが、それでも兄に会いたかった。イベリアにいた兄の妻子は、全て死んだ。肉親は、もう自分だけなのだ。余りに長い間、兄は一人だった。自分が行けば、寂しくなくなる。会いに行きたい。最後は兄弟で、死にたかった。
マゴはローマ軍を躱すように進軍した。だがミラノ《メディオラヌム》に差し掛かった時、眼前にローマの大軍、五個軍団が立ちはだかった。
望みは絶たれた。マゴは咆哮した。全軍突撃。馬腹を蹴り、ローマ軍へと挑みかかった。だが余りに、多勢に無勢だった。兵士が次々と斃れていく。マゴは必死に、突破を図ろうとした。側面を戦象隊に突かせ、崩れた戦線にマゴが食い込んでいく。馬を駆り、前へ。ひたすらに前へ。ローマ軍は数で圧しこみ、潰しにかかる。圧迫。大軍の重みを肌身で感じた。マゴが進むたびに、従う兵は消えていく。構わなかった。眼前の敵を蹴散らし、一歩でも。一歩でも兄のもとへ近づこうとした。太腿、胸、次々と槍が突き刺さり、斬られた。激痛が思考を鈍らせる。まだ、前へ。握る手に力が籠らない。あと少し。頭がぼうっとし、視界が霞んだ。おもむろに、槍が滑り落ちる。馬にしがみつくだけで精一杯だった。部下のアドヘルバルが撤退の鐘を鳴らす。それだけが聞こえた。
次に目が覚めたのは、褐色の煉瓦に覆われた部屋だった。小鳥のさえずり。暖かい陽光。そこはゲヌアの宿舎であった。押し戻されたのだ。立ち上がろうとすると、とてつもない激痛が身体を駆け巡った。それから、大量の血を吐いた。隣に立つ従者が布で拭う。薬湯が持ってこられた。
――傷口が膿んでおります。無理に体を動かすのは危険です。言葉だと認識したのは、ずいぶんと経ってからだった。
不意に、涙が頬を伝った。感情を堪え切れない。築いてきた自分が崩れる。兄がこの場にいたならば、司令官失格だと怒鳴られていただろう。弟として、ひときわ厳しく扱かれた。それも、昔の話だ。全ては、記憶の中だった。
数日後に、本国から舟がやって来た。それは援軍を乗せた輸送船ではなく、一艘の小型舟だった。その中には長老会の議員が乗っていた。マゴは従者に体を起こさせ、議員を部屋に通させた。体を動かすでも臓物が飛び出そうな激痛が走った。しかし議員はマゴを気にかけず、元老院勧告書を渡した。
「本国は今、存亡の機に立たされている。マゴとハンニバルは至急、本国へ帰還せよ」
議員の言葉に感情はなかった。マゴは勧告書に眼を通した。本国は、すでに手遅れのところまで来ていた。溜息だけがこぼれた。
「すぐに、本国へと帰還いたします」
心とは裏腹に、絞り出した声は穏やかだった。迅速にお願いする、と使者は一言だけ付け加えると、そそくさと出ていった。
使者が出ていった部屋には、再び穏やかな陽光が差し込んだ。終わった。追いかけていた夢。そこへ、届くことはなかった。手の震えが止まらなかった。もういい。イベリアへ戻りたい。あの草原のもとへ。皆で夢を語ったあの空の下で、また馬を駆けたい。握りしめる敷布が血に染まっていた。吐いた。何もかもを。今まで心に溜めていたものが、次々と吐き出されていくようだった。戦争は嫌いだ。大切な人も、想い出も奪っていく。
上半身から力が抜け、前へと倒れ伏した。従者が動転し、誰かを呼んでいる。マゴにはもう別世界だった。自分の魂はここにない。草莽たる大地へ還るのだ。今度兄に会った時は、戦争は嫌だと言ってみようか。甘えるなと、また怒られるかもしれない。それでも良い。
ただそばで、声が聞きたかった。
街外れにある岬に、白亜に彩られた神殿があった。海に臨むその神殿は、近郷のギリシア人が信仰しているものであった。そこに、ハンニバルはハンノと僅かな従者だけを連れて向かった。岬に立つ辺境の建物は小ぶりであったが厳然とそびえ立ち、そこだけが別世界に感じる。潮の香り。鼻腔をくすぐる。
馬を降りると、ハンニバルは神殿の奥へと歩いていった。大きな柱の間から、陽光が中へ差し込む。中に入ると、時がゆったりとしていた。さざめく風。波の音だけが、時折響くだけだった。
「ここで良いだろう」
ハンニバルが従者に命じる。従者は神殿に安置されている女神ヘラの像に跪き、一枚の青銅板を奉献した。黄金に光るそれには、イベリアを発ってからハンニバルの軍が戦ってきた軌跡が綴られている。
「本当に、これだけでよろしいのですか」
ハンノが首をかしげた。戦争の終わり。それなのにハンニバルの残すものが青銅盤一枚では慎ましやか過ぎる、と考えているのだろう。
「よい。これは自分のために造ったものではない。死んだ者達の夢を叶えてやれなかった、せめてもの償いだ。俺が書かなければ、彼らの死はこの世から忘れられてしまう」
ハンニバルは膝を折り、納められた青銅板を撫でた。長い、戦いだった。イベリアを発ってから十六年が経過していた。自分も、気づけば四十四歳になっていた。多くの友が死んだ。そして悲しむ間もないほど、強大な敵と戦い続けた。どこで歯車は狂い始めたのか。カルタゴを救うために、俺はこの地に来た。それが今では、祖国を滅亡の淵へと追いやっている。俺のやったことは、間違っていたのだろうか。
涙が、金色に光る青銅板を伝った。
「すまない。俺は祖国を再興できなかった。皆の死を、俺は――」
言葉が詰まる。誰にも発しなかった積年の迷い。後悔。全てが溢れ出した。ハンノ達は押し黙ったままだった。将軍として見せてはいけないもの。それでも、耐え切れなかった。
涙を拭うと、ハンニバルは立ち上がった。目の腫れを見せないように、視線を落としたまま踵を返す。
「戻るぞ。まだ、最後の仕事が残っている」
「はっ」
ハンノが敬礼する。祖国の敵を打ち払うまで、休みはない。ハンニバルは踵を返すと、入口へと戻った。待たせていた従者から馬を受け取る。そのまま街まで、無言で駆け戻る。すでに船の準備は整っていた。
「支度は完了しているか」
「はっ。軍馬は全て売り払い、荷物も最低限にとどめ、全て軍船に積み終えております」
サムニテスが指し示し、倉庫が空であることを見せた。
「ではこの馬も、頼めるか」
「かしこまりました」
ハンニバルは愛馬から降りると、サムニテスに渡した。それを、サムニテスは部下のところまで持っていった。
「ハンノ、全軍を船に乗せよ。間もなく出航する」
「将軍は」
「巡回に出る」
ハンノが踵を返して走っていった。従者を連れると、ハンニバルは最後の巡回に出た。兵士達は全員がきびきびと動いている。だがその中に、ヌミディア騎兵の姿はなかった。ヌミディア王国がローマの側へと付き、ハスドルバルのもとに帰還命令が届いた。今まで味方でいたヌミディア騎兵も、それで変わり始めた。ローマと戦うならば死も厭わないが、故郷と戦うことは出来ないと、ヌミディア兵達が訴えたのだ。それを、ハスドルバルは止めることができなかった。
ハンニバルも、ヌミディア兵の想いは痛いほどによく分かっていた。イベリアで集めた兵士もまた、故郷へ帰りたいと願っていた。ハンニバルは、ハスドルバルに帰還を許した。わずか三百騎となっていたヌミディア騎兵は、数日前にアフリカへと発った。大粒の涙を流しながら、ハスドルバルは見えなくなるまで船上から手を振っていた。
ハンニバルは船着き場へと戻った。全軍が、船に乗り移ったようだ。かつてアルプスを越え、共に戦った兵士も今や八千人を切っていた。全員が、身体に多くの傷を持っている。もう傭兵ではない。ハンニバルと共に死ぬ、同志であった。
舷梯を渡り、船へ乗り移った。ハンニバルが乗ったことを確認すると、舷梯が外され、帆が上げられた。皮肉にも、その日は順風だった。海風が真紅の外套を撫でる。ハンニバルは振り返り、甲板の手摺りに両手を置いた。先ほどまで踏み締めていたイタリアの大地が、遠ざかっていく。夢を砕き、友を呑み込んだ大地。憎悪と悲しみと、情熱が織り交ざった大地。想いの丈は全てぶつけた。それでも、その大地はあまりに遠かった。
まだ、夢は褪めなかった。ただそれは、ハンニバルの手のひらを濡らし続けた。




