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紅の剣

 すでにローマの人々は、ハンニバルを畏れてはいなかった。総司令官は、療養しているファビウスに代わってマルケルスが出てきた。ハンニバルと戦い続けること七年、マルケルスは五度目の執政官であった。ローマの市民は、長きに渡った戦争の勝利をマルケルスに託した。もう一人に選ばれたのも、マルケルスに心酔しているクリスピヌスだった。

 ローマ軍は今一度、大攻勢に出てきた。第一次大攻勢では、タレントゥムを奪われた。三大都市を奪還した今、第二次の大攻勢が何を目的としているかは一目瞭然だった。ハンニバルを南イタリアから蹴落とすこと。戦いの終焉を、ローマは望んでいた。

 軍艦、輸送船合わせて七百隻のローマ海軍が海上を包囲し、各地の連携をずたずたにする。昨年に落としたタレントゥム湾からクラミネスの二個軍団、シチリア島からルキウス・キンキウス率いる二個軍団。陸上からはマルケルス、クリスピヌスがそれぞれ二個軍団を率いて南下。ハンニバルのいるブルッティウムを四方から囲い込んだ。

 だが、ハンニバルは全て食い止めた。タレントゥムからクラミネスの軍団が都市ぺテリアに上陸。しかし、ハンニバルはペテリアにハンノを埋伏させていた。クラミネスは夜襲を受けて敗北し、タレントゥムへと敗走した。西方のシチリアからのキンキウスの軍団には、サムニテスがローマ仕込みの要塞ロクリに立て籠もり、長期戦を強いた。東西のローマ軍は止められ、全てはマルケルスとの決戦に預けられた。

 カルタゴ本国からの援軍はない。全軍を合わせても、三万に満たなかった。その兵力で、ハンニバルは死闘を演じ切った。五千の兵でロクリの兵がどれだけ耐えられるか。食糧も乏しくなっていた。エジプト《アイギュプトゥス》から兵糧を買い入れる金はもう無かった。

だがこの年、イベリアからようやく連絡が届いた、次兄のハスドルバルが、イタリアへ援軍に向かっているとのことだった。待ち遠しかった援軍が、遂に来る。将校達は舞い上がった。

援軍が来れば、やりやようがある。シレノスが残した最後の置き土産も、まだこの手の中にあった。まだ、ローマと戦える。ギスコとマハルバルの遺志を、達成することが出来る。微かな希望であろうと、全身全霊をその策に賭けた。

 ハンニバルは二万の兵で北上した。ローマ最後の剣、マルケルスと戦うためだった。唯一、自分と互角に戦い抜いたローマの猛将。この男さえいなければ。ハンニバルの表情が歪む。

執政官の一人クリスピヌスが、小賢しい動きをしていた。ハンニバルがマルケルスへと向かう間に、メタポントゥムへと密かに向かっていた。ファビウスがタレントゥムでやったことを、繰り返そうとしていた。

馬上で受ける風が生暖かい。高台から、眼下を通過するクリスピヌスの軍を見下ろしていた。伝令が、ハンニバルのもとに駆けつける。

「報告。全軍の配置が完了しました」

「同じ手を二度使うとは、俺も舐められたものだな」

 敵は未だ、自分がマルケルスのもとへ向かっていると信じているようだ。無警戒に、街道を進んでいた。

ハンニバルが剣を振り上げる。稜線に伏せられたカルタゴ兵が整然と動き出した。ローマ軍の左右を包み込む。突然の喊声に、敵の動きが止まった。愚かな。風のように、ハンニバルが駆けだす。一体何度、こうして南イタリアを駆け抜けたか。雷光の旗。その下にある古参の兵は四十路を越えていた。だが、その強さは衰えていない。カルタゴ軍はクリスピヌスの側面を挟んだ。同時に、後方をヌミディア騎兵が遮る。虚を突かれたクリスピヌスが左右を見渡す。もう遅い。カルタゴ軍は襲い掛かった。敵兵は浮き足立っている。ヌミディア騎兵。押し込む。その側面を、ハンニバルの鍛え上げた歩兵が絞り上げた。ローマ軍は完全に崩壊した。敵執政官が我先にと逃げ出す。八千の死者を出し、マルケルスのもとへと敗走した。

 マルケルスはクリスピヌスの敗残兵を吸収すると、ハンニバルへと迫った。ハンニバルもハンノの軍と合流すると、マルケルスより先にウェヌシアより南東へ十スタディオン(約二km)のバンティアへと布陣した。

両軍の決戦は近い。マルケルスと対陣したその夜に、ハンニバルは全将校を幕舎に集めた。その数は年を経るごとに少なくなっていく。

「東西のローマ軍は打ち払った。翌年は、こうも上手くはいかないであろう。マルケルスに全力でぶつかれるのは、今年限りだ」

 これから始まる死闘に覚悟せよ、そうハンニバルは言った。ハンニバルは二万の軍勢にハンノの部隊を合わせ、二万五千。対してマルケルスは、兵力不足で二個軍団は二万五千まで補充できず、二万の軍勢だけとなっていた。そこにクリスピヌスの敗残兵一万二千が加わり、その数は三万二千。翌年になれば四万に戻り、ハンニバルは再び各戦線に兵を分散させられるため、二万を維持できるかも分からない。援軍が来た時の作戦を考えれば、今、決戦をしなければならない。

 ハンニバルの隻眼がカルタロへと向けられた。

「ここから南西へ向かったところに、森に囲まれた窪地がある。そこに三千の弓兵、投槍兵を伏せよ。私が合図したならば、一斉に緋色の外套目掛けて射るのだ」

「はっ」

「ハスドルバルは左翼騎兵を担い、俺と交代でマルケルスをそこまで誘い出す。良いか、絶対に手を抜くな。少しでも誘う気配を見せたならば、マルケルスは金輪際乗ってこないであろう。死ぬ覚悟で、攻撃をかけよ」

「はっ!」

 威勢よく、ハスドルバルが拳を上げた。

「ハンノは、歩兵を率いて、同じく少しずつ後退せよ。ただし崩されるな。敵将のネロは、隙を見つければ付け込んでくる」

「かしこまりました」

「ミュルカノスはガリア騎兵でもって右翼を担い、ハンノを援護せよ。バモルカルはイベリア騎兵を率いて、左翼後方に待機。合図と同時に空いた側面を攻撃せよ」

 二人が片手を上げ、敬礼をした。ハンニバルは鋭い眼光で、将校達を見渡す。

「ここで雌雄を決する。戦争を終わらせたければ奮起せよ。ローマのつるぎをへし折るぞ」

 諸将は声を上げ、散会した。長い戦争は、兵士達の心を重くしていた。十年間、家族とは会っていない。南イタリアは四方を囲まれ、仕送りどころか便りの一つも届かなかった。

栗毛の愛馬に跨り、陣を巡回する。新緑で染められていたイベリア兵の幕屋テント。今は色褪せ、つぎはぎが目立っている。雲一つない夜空だった。天文を学んだのは、いつの頃だったか。懐かしい思い出が、一つ一つ脳裏を過ぎっていく。覚えの悪かったマゴに、懇切丁寧に教えていたのはマハルバルだった。本当の弟のように、教えていた。

空を仰ぎ、星に時刻を訊ねる。東の地平線より、天蝎宮スコルピオスが昇ろうとしていた。


 メタポントゥムを狙ったクリスピヌスが、大敗して戻ってきた。小賢しい手段では、やはりハンニバルには敵わない。正面から押し込むことが、ハンニバルを倒す唯一の手段なのだ。ローマ軍の兵力はおよそ三万。二千の兵を陣営に残しておけば、敵に奪われることはないだろう。

 ハンニバルに対して、五千の優位がある。特に合流したことで、騎兵を確保できたのが大きかった。これで左翼をクリスピヌスの騎兵に任せ、右翼にマルケルスの全騎兵を投入することが出来る。マルケルスが鍛えた騎兵は三千だった。ヌミディア騎兵の総数は千五百であり、兵力差は二倍となる。ここが決戦であった。ハンニバルの騎兵を破れば、それはハンニバル軍団の崩壊を意味する。ハンニバルの策の多くが、騎兵の機動力に依っていたのだ。それを潰せば、ローマ重装歩兵の前にハンニバルは屈することになるだろう。

 長引く戦乱に、ハンニバルはついに領地の民に重税を課していた。そうしなければ、軍を維持できなくないのだろう。荒廃した大地に圧しかかる重税。南イタリアでは怨嗟の声が広がっていた。独立解放の英雄ではない。ハンニバルは今、暴虐の王へと成り下がっていた。今が、この戦争に終止符を打つ好機だった。

エミリウスの死は、自分を変えた。ここまで執念と情熱を傾けた訳は、友の死に他ならない。この長きに渡る戦いを、終わらせる。ローマから家族を、友を劫掠ごうりゃくした男。その全てを贖わせる。ファビウスから託されたことであり、そして自身の、武を極めた男の責務だった。

 ローマ軍の布陣が終わる。中央の歩兵をクリスピヌス。後方には、いつも通り後詰の兵が置かれている。左翼の騎兵をネロが、そして右翼のヌミディア騎兵と当たる所は、マルケルスが務めた。

馬腹を締め、マルケルスは全軍の前へと出た。緋色の外套が風に揺れる。

「全軍、分かっているであろう。今日ここで、長きに渡った宿敵ハンニバルとの決着をつける。祖国の人々は、我らの勝報をユピテルに祈って待っている」

 兵士達の間を、風が透き通った。夏の息吹を運んでくる。マルケルスが槍を掲げた。

「ローマの暗雲を晴らせ。祖国の存亡は、この一戦にある!」

 喊声。マルケルスは馬腹を蹴った。麾下の騎兵もそれに続いた。敵が動く。両軍の歩兵。中央で、叫び声と共に激突した。草花が踏みしだかれ、鮮血が大地に降り注いだ。一大会戦であった。どちらも、一歩も譲らない。

騎兵も衝突した。マルケルスは三手に分かれ、ヌミディア騎兵を襲う。敵の反応も早かった。乗り入れる馬を換え、五つに分かれる。マルケルスも五つに分かれた。騎兵が増えた分、ヌミディア騎兵と互角に動くことが出来た。敵将の舌打ちが聞こえる。マルケルスが槍を絞り、一隊に圧しかかった。一撃を与え、離脱する。即座に手を動かし、合図を送った。側面に現れたヌミディア騎兵を、紙一重で躱す。

 旋回し、正面から衝突した。一撃。二撃目で反撃された。後衛の味方が、敵騎兵の白刃に倒れる。すぐそばをローマ騎兵が駆け抜けた。ヌミディア騎兵を引き剥がす。機動力で敵わない分を数で圧す。圧しきる。追撃。挟撃。逆撃。常に一対二の態勢を崩さなかった。敵が幾重に分離し、引き離そうする。その全てに対応した。目まぐるしく応対する敵部隊が変わっていく。一撃。一撃で、確実に削っていった。

 じわりと、押し込んでいく。ヌミディア騎兵が後方へ離れた。それに追い縋る。側面。砂塵が舞っていた。雷光の旗。二百騎の騎兵が、側面を駆け抜けた。挟まれた。躱す。だが、数十騎がたおされた。その間にヌミディア騎兵は馬を代え、再編成を行なっている。雷光の旗は小さく纏まり、ローマ騎兵の間を駆け抜けた。はやい。上手く挟撃を躱され、ローマ騎兵を掠め、討ち取っていく。雷光の旗は絶え間なく動いた。

 だが、騎兵の戦いは未だ優勢であった。ハンニバルの策も出てこない。歩兵。ローマ軍が圧し込み、優勢だった。このままいけば歩兵同士の戦いはローマが勝つ。マルケルスはヌミディア騎兵の側面を攻めた。ヌミディア騎兵を歩兵戦に向かわせないためだった。雷光の旗が阻止に動く。負けられない。同時に相手をした。激しい攻勢。それでも、徐々に戦場から離れていった。ヌミディア騎兵の馬が、白くなっていた。大量の汗だ。機動力が徐々に鈍っている。馬が限界に来ようとしていた。

入れ代るように、雷光の旗が駆けてくる。背後。旋回するが、遅かった。また、削られた。ローマ騎兵の動きも僅かだが落ちている。マルケルスは追うのをやめ、一点に集中した。雷光の旗の動き。通った一瞬を、駆けた。真紅の外套。瞳が交差する。馳せ違った。一閃。槍の柄を斬られた。だが、ハンニバルの頬を掠めた。ヌミディア騎兵が戦線に復帰してくる。雷光の旗は下がった。敵将の質は凄まじかった。二人とも、ローマに来れば希代の名将と謳われただろう。実に惜しかった。

 マルケルスは予備の槍を抜く。剛腕で、ヌミディアの一部隊に押し込んだ。隊列が崩れる。さらに、押してゆく。ヌミディア騎兵が崩れかかった。頃合いを見計らったように、雷光の旗が攻めかかる。二百騎ではあるが、それはローマ騎兵を翻弄した。縦横に駆け、当たればローマ騎兵を粉砕する。マルケルスが槍を振り上げる。横。ヌミディア騎兵も迫ってきた。ハスドルバルが槍を構える。無駄だ。マルケルスは両将の刃を弾き返した。左右からの攻撃を跳ね返す。二将を相手に、マルケルスは一歩も引かなかった。悉く弾き返し、敵は再び騎兵の中へと戻った。

 じわじわと、押し包んでいった。ヌミディア騎兵の動きは、確実に遅くなっていた。一呼吸、敵は遅れた。今。敵の背後を捉える。今しかない。馬腹を蹴った。咆哮。突き破る。だが、手応えはなかった。空振り、マルケルスはそのまま突き抜けた。

抜けた先は、左右を鬱蒼とした木々と丘に囲まれた場所だった。前面には真紅の外套を翻した男。不敵に笑っていた。謀られた。マルケルスが動くより先に、男が剣を振り上げた。

 左右の丘に、数千の兵が突如として現れた。頭上から数千本の矢が降り注ぐ。マルケルスの身体に、次々と矢が突き刺さった。

――ここまでか。

 言葉にはならなかった。マルケルスの巨体が、馬上から崩れ落ちる。戦を終結させることが出来なかった。最後の最後で、ハンニバルにしてやられた。悔しさが、未だ貫かれた胸に湧き上がっていた。


 ヌミディア騎兵が、戦場へと戻ってきた。しかし、マルケルスの姿はない。ネロが訝しがっていると、雷光の旗と並べて、血に塗れたマルケルスの兜が掲げられた。

「なっ!」

 全軍にどよめきが起きた。あれは紛れもなく、マルケルスが着けていたものだった。

「全軍落ち着け! 前執政官プロコンスルが落としただけだ。動揺するな」

 ネロが必死に叫び回る。だが、将兵の疑惑は収まらなかった。率いている騎兵の押し込む力が弱くなっていく。逃げ果したマルケルスの従者が、その死を伝えた。信じられないことだった。敗けた。鬼神さえも寄せ付けぬ男が。だが、悲嘆にくれることは出来なかった。中央のクリスピヌスが、後方へと退き始めた。マルケルスに心酔していたクリスピヌスは、悲しみと恐怖の余り逃げ出そうとしていた。

「莫迦な。ここまでの優勢を全てふいにすると言うのか」

 ネロが憤る。まだ全将兵はマルケルスの死を知らない。それなのに撤退をすれば、マルケルスが死んだと公言するようなものだった。

「どうなさいますかネロ殿」

 副官のマンリウスが訊ねる。

「こうなればどうしようもない。私が殿軍しんがりを受け持とう。クリスピヌスには、歩兵を立て直し、撤退させよ」

 ネロが悪態をつく。ネロはガリア騎兵を押し切り、歩兵の援護へと回った。だが、クリスピヌスの歩兵が次々と崩れていった。マルケルスのいなくなった側面を、後方に待機していた敵騎兵が襲い掛かったのだ。歩兵も巧みにかき回し、打ち崩していく。どこにこんな力が残っていたのか。敵将ハンノの動きは老獪だった。

「マンリウス、アレンティウス。お前達は騎兵を率いてこのまま殿軍しんがりを行なえ。私は歩兵を立て直してくる」

「はっ」

 ネロは護衛と共にローマ歩兵の中を駆けた。敵軍は奥深くまで攻め込んでいった。執政官の緋色の外套(パルダメントゥム)が見える。そこにも、敵兵が攻め込んでいた。敵将の槍が、クリスピヌスの太腿を貫いた。ネロは馬腹を蹴った。クリスピヌスの身体が崩れ落ちる。そこに敵兵が群がり、斬りかかる。死んだか。ネロは駆けた。敵将がこちらを振り向く。ネロの槍が、敵将の喉元を突き刺した。敵将は地に斃れ、カルタゴ兵が駆け寄った。「ラブ・バモルカル」と敵兵達は叫んでいた。構っている暇はなかった。護衛にクリスピヌスを抱き上げさせる。息はまだあった。馬に覆いかぶさる様に乗せ、後方へと運ばせた。

ネロは戦線を立て直しながら、巧に退いていった。だが雷光の旗は、追撃の手を緩めなかった。ヌミディア騎兵も追いつき、先頭に立って激しい攻撃を繰り返す。クリスピヌスの騎兵に殿軍を任せたが、それもいつまで持つのか。

「報告。殿軍しんがりのマンリウス殿が戦死。アレンティウス殿は捕縛され、騎兵部隊は敗走」

「アウリウス、次はお前が殿軍しんがりに向かえ!」

 アウリウスの顔が引き攣った。それでも、ネロは睨みつけて向かわせた。カルタゴ騎兵の強さは異常だった。いかにクリスピヌスの騎兵とはいえ、三千騎いたのだ。それが全て打ち払われた。アウリウスが殿軍をしている間に、ネロは上手く歩兵を立て直した。これ以上は、敵に隙を与えない。時をおかずに、アウリウスが敵に捕まったとの報告が入った。だが、その時には無事に陣へと撤退していた。

 初めて、マルケルスの軍団は完敗した。帰陣して間もなく、クリスピヌスの名でタレントゥムへと後退した。勢いに乗ったハンニバルがタレントゥム奪還に動かないようにするためだった。マルケルスの死によって、ローマの第二次攻勢は全て失敗に終わった。

 それから間もなくして、クリスピヌスは没した。マルケルスの家族宛てに、ハンニバルから骨壺が届けられた。火葬されたマルケルスの遺骨が、その中に入れられていたという。名将同士の戦いを象徴するかのように、ローマ市内では悲しみと共にハンニバルに敬意が表された。


 イベリアの夏は、ことほかローマよりも暑く感じられた。ラエリウスは額に溜まった汗を拭った。しかし馬上に立つスキピオは、涼しげな顔をしている。これも、神がなせる業なのだろうか。伝令が、スキピオに報告した。

「敵損害は八千。捕虜は一万二千。逃げたカルタゴ軍はおよそ一万にございます」

 分かった、とスキピオが笑顔で答える。恐ろしい戦であった。ラエリウスの眼前は、カルタゴ兵の屍体で埋められた大草原であった。折れた三日月の旗が散り散りに落ちている。イベリアでの戦いは、スキピオの圧勝だった。その采配は、まさに天才としか言いようがない。まるで敵将ハンニバルを見ているかのような、鮮やかな戦いであった。

「追撃するか、スキピオ」

「いや、その必要はない。私達はこのまま、イベリア《ヒスパニア》平定を行なう」

 ラエリウスは言葉を詰まらせた。確かに逃げた兵は、ハンニバルと同じカルタゴ軍かと思う弱兵だった。だがそれでも、カルタゴ軍だ。援軍に向かわせても良いのか。敵はハンニバルのもとへ援軍を送りたくて、こちらはそれを阻止するために動いている。そういう構図ではなかったのか。

「固いな、ラエリウス。ファビウス殿には悪いが、私は援軍を阻止するためにイベリア《ヒスパニア》に来たわけじゃない。長きに渡るカルタゴとの戦いに、終止符を打つために来たんだ」

 スキピオは涼しそうな表情に、燃えるような闘志を見せた。

「私には、ユピテルに誓った夢がある」

「夢、だと」

「ああ。地中海全土の国をローマ連合の一員し、平和パクスをもたらすんだ。みんながローマ連合の一員になれば、こんな悲惨な戦争はもう二度となくなる。地中海を永遠の平和(パクス・エテルナ)にすることが、私の夢だ」

 そう、スキピオは言い切った。地中海全土にローマの輪を広げる。考えたこともない話だった。そんなことが可能なのか。地中海がどれだけ広いかも、自分にはよく分からなかった。

「このイベリア《ヒスパニア》全土を平定することには、意味がある」

「と、いうと」

「カルタゴをローマの一員にする布石さ。この戦いを終えた後の、カルタゴ再起の場所を封じるんだ。この戦いが始まった発端は、先の戦争でカルタゴから完全に力を削げきれなかったところにある。そこに、ハンニバルという男が重なり、大戦争となってしまった。それをローマは反省しなければならない」

「だから、北イベリア《ヒスパニア》を封じるだけじゃ駄目だというのか」

「それでは、先の戦争と殆ど変らない。カルタゴの息の根を完全に止め、ローマ連合の鎖に繋ぐんだ。そうして二度と反旗を翻さないよう、じわじわと力を削ぎ、最後は他の同盟国同様にローマ連合の完全な一員となってもらう」

 カルタゴを属国にする。そこまで、スキピオは考えていたのか。

「だが、カルタゴは腐ってもローマに刃向かえる大国だ。特に海の向こうにあることを考えれば、イベリア《ヒスパニア》を平定しただけではそこまでの条件を呑むとは思えん」

「ならば、アフリカに攻め入ればいい。アフリカが恐怖に晒されれば、土地を愛するカルタゴの元老院セナトゥスなら、喜んで同盟国になってくれるはずだ」

 スキピオがにやりと笑った。確かに的を射ている。しかし、元老院がこれ以上の戦線拡大を望むだろうか。荒廃したイタリアの大地を考えれば、スキピオの考えは望みが薄かった。

「その時は、カンネーの兵を連れて行くつもりだ。それならば、元老院も文句は言わないだろう。それに布石は打ってある。東西のヌミディア王国両方に、既に同盟は打診済みだ。とくに西方オキデンスの王からは、色よい返事が来ている」

 スキピオの計画は夢想ではなかった。カルタゴが目先の利害を中心に動くことは、この戦いで証明されている。戦争の勝利という長期的な利害を考えていたならば、迷わず南イタリアへと援軍をまず送ったはずだ。しかし、それは無かった。つまりカルタゴは、滅ぼしさえしなければ、金勘定次第では講和に動く可能性が高い。

 つまりハンニバルのように講和を蹴られることは起きにくい。さらにヌミディアを味方につければ、スキピオが優位に立ち、カルタゴは講和を結ばざるを得なくなる。そうなれば、ハンニバルが南イタリアでいかに奮闘しようと、そこで戦争は終結する。

 全てを語ると、スキピオは全軍をまとめた。アルプス山脈へ逃がしたのは、バルカ家の次兄ハスドルバルであった。バルカ家の男だからといって、兄弟全てを恐れる必要はない。恐れるべきは、ハンニバルだけなのだ。特にハスドルバルの戦いは直線的であり、ローマとしては相手しやすい。

 イベリアに残ったジスコーネとマゴも、強くはない。ジスコ-ネなどは、数さえ揃えれば勝てると盲信している、典型的な戦下手であった。この男が本国の総司令官インペラトルであるのだから、カルタゴは末期としか言いようがなかった。イベリア諸部族は、すでにカルタゴを見捨てている。戦の帰趨がどうなるかを、ただ眺めているだけであった。

 翌々年(紀元前二〇六年)、スキピオはイリパの地でマゴ、ジスコ-ネの連合軍を壊滅させた。ジスコーネはカルタゴへ即座に逃げ出し、マゴも敗残兵だけを連れて南端のガディルへと敗走した。イベリアはスキピオの手に落ちた。マゴは敗けた後も最後までイベリアの地で戦ったが、それもスキピオに打ち破られ、海を越えてバレアレス諸島へと逃げざるを得なかった。

 風は、ローマへと吹いていた。


第一四二オリュンピア期第四年(紀元前二〇七年)、ローマの元老院は再びざわめいていた。この年の執政官は、マルケルス子飼いの武将ネロ。そしてもう一人は、平民の中でもネロの天敵であるサリナトルであった。戦力はアルプスを越えてハスドルバルが来襲したため、二個軍団を再び増員した二十三個軍団とした。元老院の動揺は激しかった。ハスドルバルはガリアで兵を集め、一万の軍勢から三万へと膨れ上がっていたのだ。カルタゴ軍の来襲。ローマ市内は、ハンニバルが再びアルプスの向こうからやってきたとでも言わんばかりの状態であった。

 議場の中段で、ネロは興味なさげに議場中央に目をやる。そこではファビウスが、その老獪な弁舌を繰っていた。兵力の増強は、ファビウスが強硬に主張したものであった。

「五万のハンニバルに、儂等が被った損害はどれほどか。危機感を抱いておらぬ者に教えてやろう。三十万じゃ。グラックス、マルケルスを犠牲にし、三十万の兵を失ってようやく、ここまで追い込んだのじゃ。そのハンニバルに再び三万の兵を与えてみよ。次は、ハンニバルはカピトリウムの丘へと姿を現すじゃろう」

 ローマ市内にある丘に、ハンニバルが立つ姿は容易に想像できた。ファビウスの脅しは議員達の心を動かした。増員は即座に可決され、ハスドルバル戦線にはサリナトルの四個軍団が派遣された。対して南方のハンニバル戦線には、総司令官ネロの六個軍団が押さえにかかった。

 ネロの任務は、ハンニバルが北上して合流するのを阻止すること。この上なく詰まらない任務だった。ハンニバルが動く前にと、ローマを追い出されるように南イタリアへと派遣された。

 マルケルス子飼いの武将というのが、ハンニバル戦線に送られた理由だった。本音を言えば、ハスドルバルと戦いたかった。スキピオからの報告書にある通り、ハスドルバルは大した武将ではない。かつて自分がイベリアに派遣された時も、劣勢の兵力で打ち破ることが出来た。互角の兵力ならば、勝ったも同然だった。勝てば、凱旋という最高の栄誉に浸ることが出来る。

 それに比べてハンニバル戦線は、実りはなかった。任務はハンニバルを押さえるだけであって、押さえきっても凱旋式を行うことなど出来ない。このままでは、政敵のサリナトルだけが凱旋式の栄誉を得られる。一生に一度とも言える執政官の座に付きながら、何も残せずに終えてしまうのは余りにも虚しかった。

 こうなれば、ハンニバルを破るしかない。ヌミディア騎兵は前年にマルケルスがかなり削っている。兵力差を上手く使えば、やれないことではなかった。幕舎に籠り、ネロはローマ海軍への指令書を送った。再びレギウムから襲わせる。そしてタレントゥムの二個軍団には、ハンニバルが北上次第メタポントゥムを攻めるよう命じた。ハンニバルへは、法務官ホスティリウスと連合し、四個軍団で対峙する。伝令がネロの幕舎から放たれた。

 前年からじわじわと兵力は削り、負け戦を悟った南イタリアの傭兵はハンニバルのもとから逃げ出している。今ハンニバルの手元には、二万も残っていないはずだ。レギウムを攻撃すれば、ハンニバルはブルッティウムの守りに兵を割かざるを得ない。利は、ネロにあった。

 春になると同時に、ハンニバルは動いた。ハンニバルはブルッティウムに散らしていた古参の兵を全て集めた。レギウムからの守りには、七千の南イタリア兵だけを割いた。それでも、ハンニバルの兵力は一万であった。四個軍団の四万には遠く及ばない。ネロの作戦通りであった。

 両軍はグルメントゥムで会戦した。初めてネロは、総大将としてハンニバルとぶつかった。結果は敗走だった。なんとか兵を散らさずに、後退した。翌日も、ハンニバルはネロの前に現れた。再び両軍は激突し、ローマ軍は敗走した。夢としか思えなかった。いずれはマルケルスの後釜になるだろうと、自負していた。マルケルス子飼いの中では、訓練でも実践でも飛び抜けていたのだ。その自分が、手も足も出なかった。

 ネロは果敢に攻勢を掛けた。だがその全てが、ハンニバルに見抜かれた。戦っては負け続けた。ハンニバルの北上は止まらず、ウェヌシアへと歩を進め、そして南イタリアの遥か北にあるカヌシウムまでハンニバルは進み続けた。そこでようやく、ハンニバルは進軍を停止した。恐らく、援軍の弟からの連絡を待つつもりなのだろう。

 屈辱的な敗北だった。ハンニバルを破るばかりか、任務さえ達成できなかった。これで政敵が援軍のハスドルバルを打ち破れば、ネロの名声は地に墜ちる。この年の英雄が誰かは、もはや明白だった。幕舎の中で、ネロは思考を巡らした。

 幕舎の中に風が流れた。寒気のする感覚だった。

「ご回答を戴きに参りました」

「門衛に一言申してから入れと言っただろう」

 高圧的にネロが言った。そうでもしない限り、呑まれそうだった。ローマの密偵も、ここまで暗くはない。それなりの仕事をしてきた結果なのであろう。実際、南イタリアでハンニバルに降伏した都市の大半で、高官が暗殺に遭っていた。アリストマクスが頭を下げた。かつてはハンニバル側が雇っていた密偵だ。ハンニバルが資金繰りに困ってから、アリストマクスは抜け出して雇い主を探し続けていた。そして自分のもとへ、流れ着いたらしい。

「前にも言ったが、ハンニバルを暗殺できないのならばお前に用はない。このイタリアのものを調べるのに、お前達を使う必要がない」

「私を用いれば、政敵を出し抜くことが出来るとしても、ですか」

 ネロの表情が止まった。アリストマクスが口元を上げる。

「聞けば執政官コンスルは、ハンニバルをブルッティウムへ閉じ込めるのが任務であったとか」

「ブルッティウムでは止められなかったが、この地で止めた」

 苛立ったように、ネロが睨みつける。実際は、ハンニバルが止まった。そのことを承知の上での、アリストマクスの言葉だった。相変わらず、神経を逆撫でるやつだった。アリストマクスの表情は、にたにたと笑っていた。

「お教えしましょう。ハンニバルは合流地点を告げるため、ハスドルバルに使者を送りました。ボグスという、私達と同業の者です。カプアが完全に包囲された時でも逃げ出した腕前です。ローマの密偵では、恐らく捕らえられないでしょう」

「その男を捕らえてみせるというのか」

「その通りです」

「話にならんな。合流地点を知ったところで、ハンニバルを止めるという任務に変わりはない」

「ハンニバルがまだ、弟のアルプス《アルペス》越えを知らないとしたら」

「なに」

 思わずネロは身を乗り出した。

「なぜハンニバルが、カヌシウムで進軍を止めたと考えますか」

「それは、南イタリアで援軍と合流するためだ」

「それはどうでしょう。弟が敵中のイタリアを横断できると、ハンニバルは判断しますでしょうか」

「何が言いたい」

「ハンニバルはまだ、弟がアルプス《アルペス》を越えたことを知りません。ですから、未だカヌシウムに留まっているのです。作戦をローマに悟られないために、です」

 ネロが身を乗り出した。ここまで追い詰められたハンニバルに、作戦があるとは思えない。

「ハンニバルの狙いはただ一つ。南イタリアを放棄し、北イタリアへ転進することです」

 一瞬、思考が追いつかなかった。何を言っているのか。

「今、カプアもタレントゥムも奪われ、ハンニバルが持っている土地は痩せたブルッティウム地方のみです。ハンニバルが南イタリアに固執する理由はどこにもありません」

南イタリアに留まる利益と言えば、本国からの援軍を受け入れられるということだった。しかし本国に期待できない今、その利益理由にならなかった。アリストマクスは、北イタリアの情勢に精通していた。

「エトルリア地域が、ここ最近になってローマに叛旗を翻しているのはご存知でしょう。あれは、私の元雇い主であるシレノスという者が起こしたものです。これは私の任務でもありましたから、よく知っております。将来、ハンニバルが南イタリアを放棄せざるを得なくなった時、新たな味方とするためです。そしてハンニバルは、援軍を機にシレノスの策を採る気になったのでしょう」

 衝撃的だった。ネロはもう、ハンニバルを追い詰めたと思っていた。いや、ローマ市民全員がそう考えていたはずだ。だが、ハンニバルは未だローマと戦うことを諦めていなかった。不屈の闘志という言葉では足りない、怨念のようなものを感じる。

「ハンニバルがハスドルバルと連絡を取れば、ハンニバルは北イタリアまで大横断を行なうでしょうな。その失態は、カヌシウムまでの比ではありますまい」

「大失態を起こすのを止めてやるとでも言うのか」

「いえ、そんな消極的ではありません。ネロ殿の奮闘次第では、成果はもっと大きくなりえます」

「どういうことだ」

「ネロ殿自身が、ハスドルバルを止めればよろしい」

 アリストマクスが不敵に笑った。

「今サリナトル殿は、ハスドルバルがどの道を通るか見切れていない。かつてハンニバルがトラシメヌス湖付近を選んだように、出し抜かれる可能性は大いにありえます。サリナトル殿も、大いに不安がっている筈です。どの進路を取るのか、その情報は喉から手が出るほど欲しいでしょう。なにせハスドルバルをエトルリアへと逃せば、ハンニバルを北上させた以上の失態になるのは確実です」

「密書を持って、功績の半分を寄越せとでも脅すつもりか」

「そんな卑怯なことはしません。ローマは正々堂々と戦うことを重んじる国家です。使者を捕らえれば、ハスドルバルがどの進路を取るかは明白です。その密書を持って、ネロ殿が軍勢を引き連れていかれれば良い。そしてサリナトルに共闘を申し込むのです。そうすれば、ハスドルバルを二人で撃破したことになる」

 政敵の手柄を横取りする形になる。そして執政官には任地を離れていけないという決まりもあった。だが共闘ならば、横取りも仲間を救援したという美談に変わる。あくまで自分は、たまたま密使をカヌシウムで捕らえただけなのだ。もしかしたらサリナトルが取り逃がすかもしれない。そう考えての行動ならば、認知を離れた責を問われないだろう。むしろ柔軟に動いたとして、サリナトルよりも評価は上となる。

 アリストマクスは、サリナトルの陣営近くでも捕らえられることを仄めかしていた。自分がこの話を蹴れば、次はサリナトルのもとへ交渉しに行くという脅しだ。このままでは、ハンニバルを止められなかったという汚名だけで執政官の任期が終わってしまう。

「たまには、賭けに出るのもいい」

「そう言ってくれると信じておりました」

「報酬はどうする」

「先に半分を。もう半分は、密書を渡す際に頂戴いたします」

 ネロは長年使えている従者に、銀貨デナリウスの入った小さな袋を四つ持ってこさせた。

「四百入っている」

「御冗談を。あと六つは乗せられましょう」

「莫迦な。兵士三千人分の俸給だぞ」

「それだけの価値が、あるのではないですか」

「後二つだ」

「五つ」

「三つ」

「五つは譲れませんな」

「四つだ。それ以上は出さぬ」

「では四つで、手を打ちましょう」

 アリストマクスの口元が上がる。不気味な笑いだった。従者がさらに袋を四つ持ってくる。ネロは投げ捨てるように渡した。

「ハンニバルがお前を捨てた気持ちが分かった」

「張り合う相手がいますと、適正な価格には出来なかったのです」

「稼げなかった分を、敵側で稼ごうというのか。相変わらず、カルタゴ人は信用できんな」 

「私はスパルタラケダイモンにございます。そこを御間違いなきよう」

 殺気の籠った声が耳に届いたかと思うと、アリストマクスは消えていた。

制海権は今ローマにあり、ブルッティウムは四方を囲まれたも同然だった。しかし北イタリアのエトルリアを獲得すれば、背後をガリアとアルプスに守られ、首都ローマとは指呼の間となる。ローマを震撼させるには、充分すぎる策であった。しかし、北イタリアまでは、十数万のローマ軍が立ちはだかっている。それでも、ハンニバルは北進するつもりなのだろうか。それが再び思考回路を駆け巡った時、ネロは強烈な寒気を覚えた。

 それから数日間、カルタゴ軍は異様な静けさに覆われていた。挑発にも出ない。まるで何かを待っているかのようだった。ブルッティウム地方を守っているのは、ほとんどが南イタリアの兵らしい。古参の兵の殆どは、ハンニバルが率いていた。三大都市を全て奪還され、主力の武将達も次々と死んでいった。それでも、ハンニバルは、その脳漿を絞ってローマを震撼させようとしていた。南イタリアは諦めても、その刃は未だローマへと向けられている。なぜ、あの男は絶望しないのか。もう勝負は着いたはずだ。ローマは二十個軍団ならば即座に出動させられる。対してハンニバルは、僅か一万五千に過ぎない。この戦力差が分からないはずがない。執念なのか、憎しみなのか。異常であり、狂気としか思えなかった。かつてイタリアを横断して南イタリアに入ったように、次は北イタリアへ向かう。ローマを震撼させた男の最期の賭けに、自分は受けて立つことが出来るのだろうか。

 ネロは巡回に出ると、見張り台の上に立った。布陣するこの地域一帯には、アリストマクスの部下二百人が散っているとのことだが、その姿はどこにも見えない。これならば、気づく筈がない。

 ネロはいつでも出撃できるように、精鋭七千を選んだ。ハンニバルに気づかれず、軍を動かすとなればそれが限界だ。数日経った夜、アリストマクスがネロの前に現れた。

「こちらが密書にございます」

「密使はどうした」

「殺しました」

「かつての同僚を殺したのか」

「忠誠心の高い同業者は、邪魔なだけですから」

 それ以上は聞く気もなれなかった。ネロは従者に命じて、文官を呼んだ。捺印の真贋を見極められる者だった。

「間違いなく、バルカ家のものです」

 文官が紙に押された印を蝋燭で照らしながら、結論を下した。すぐに、フェニキア語が翻訳された。場所はウンブリアでの合流であった。

「銀貨をこいつに渡せ」

 ネロが従者に命じると、袋が四つ出てきた。貴族であろうとこの出費は大きい。だが政敵に出し抜かれることを考えれば、まだ良い方だった。袋を受け取ると、その次には消えていた。ネロは幕舎にホスティリウスを呼んだ。

「ホスティリウスにこの陣営の指揮を任せる。私はサリナトル救援に向かう」

「救援にですか」

「哨戒の兵が、ハスドルバルからの密使を捕らえた。そこには、サリナトルを上手く回避して南イタリアへ向かうと書かれていた。ハスドルバルの進路を教えても、サリナトルでは間に合わぬかもしれない。私が出向いてハスドルバルを食い止めた後、サリナトルと合同でハスドルバルを討つ」

「なるほど、畏まりました」

 ネロは七千の精鋭を率いると、その夜には陣営を発った。風のように、精鋭は駆け抜けた。武器も兵糧も携行しなかった。全て行く先々で調達する。マルケルスの鍛えた兵だけあって、足腰は頑健であった。二百五十ミッリアリウム(約四百km)もの距離をわずか七日で駆け抜けた。そしてサリナトルと合流すると、ハスドルバルを待ち伏せた。ハスドルバルは必死に逃げたが、メタウルス河でローマ軍と衝突した。

 スキピオに敗けた敗残兵は、ローマ軍の敵ではなかった。ネロの騎兵が敵ガリア騎兵を打ち破ると、側面、背後と回り込み、ハスドルバルを包み込んだ。カルタゴ軍の崩壊は早かった。ガリア兵は我先にと逃げ、最期まで戦場に留まったハスドルバルは、全身に傷を負って討死した。

「私達の大勝利だ、サリナトル」

 不敵な笑いと共に、ネロがサリナトルに近づいた。

「お前が来なくても勝っていたはずだがな」

 サリナトルが露骨に嫌な顔をした。兵士はネロのもとで勝鬨かちどきを上げた。誰が見ても、勝者はネロにしか見えなかった。

「私が情報を教え、私の手助けで勝利したのだ。もう少し褒めてくれても良いではないか。凱旋式には勿論、私も同行してよろしいな」

「勝手にしろ」

 そう毒づくと、サリナトルは馬首を返した。ネロは自軍の兵を率いると、南イタリアの自陣営へと戻った。一つの麻袋を、ネロの従者は抱えていた。


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