雷雨来たる
吐息が白くなる。手綱を持つ指が悴んだ。
「この地へと、ローマ軍を引きずり込む」
褐色の大地を示し、ハンニバル・バルカは言った。冬の風が、彼の纏う真紅の外套を掴む。弟のマゴは、ごくりと唾を呑みこんだ。地中海の覇者ローマへの宣戦。のちにハンニバル戦争と名づけられる長い戦いが、始まろうとしていた。
オリュンピア期第一四〇年第三期(紀元前二一八年)。ハンニバル率いるカルタゴ軍はアルプス山脈を越えてイタリアの地へと降り立ち、地中海の覇者ローマに宣戦した。後に第二次ポエニ戦争と呼ばれるその始まりであった。しかし、ハンニバルの兵力は二万六千。対してローマは、総勢六十万を有している。戦力だけで較べれば、余りにも莫迦げている。だがそれでも、ハンニバルは立ち向かわねばならなかった。やらねば、祖国に未来はないのだ。
冷徹なまなざしで、兄は川辺の向こうを見つめた。マゴも、釣られてそちらを見る。ゆったりと流れるトレッビア河の彼方、地平の向こうにはローマの大軍が布陣している。その数は五万。明らかに、ローマはハンニバルを見くびっていた。
断ち割る様に、背後から馬蹄の音が聞こえてきた。二人が後ろを振り返る。将校のマハルバルだった。周囲の地形を調べて回ったマハルバルは、馬を寄せて報告した。
「ここから南へ少し向かいますと、生い茂った林がありました。決戦の地には最適でありましょう」
マハルバルはその理由を言わずに、そこで口を閉ざした。ハンニバルは全てを悟り、頷く。昔から二人の会話には思考が混ざっていた。全てを聞く前に、頭が追いついてしまうのだ。思考が追いつけないマゴは、いつも置いてきぼりだった。
将校のマハルバルは従者よりも友として、ハンニバルとは長い付き合いがあった。もとはアフリカの遊牧民族である東ヌミディア族の出自だった。だがマハルバルの父はバルカ家から妻を娶り、共にハンニバルの父とイベリアで戦った。そのため、マハルバル自身は遊牧民らしい生活を送ったことはない。座学や武術も、イベリアの宮中で学んでいた。
ハンニバルはマゴの方を振り向き、冷徹に指示を下した。
「マゴよ、夜が更けた頃に二千の兵を率いてその林に伏せていろ」
理由は訊かず、マゴは頷いた。動くたびに、口元の髭が不自然な感触となる。少しでも威厳を持たせるために生やしたのだが、とってつけたようだと兄に笑われた。
地形が調べ終わると、ハンニバル達は陣へと馬を駆けさせた。冬の平原の中に、徐々に三日月の旗が見えてくる。カルタゴの軍旗だ。その隣には、雷光の旗が並んでいる。雷光と恐れられた一族の渾名が、年月を経て家名になったのだ。
カルタゴ軍はその全てが傭兵で構成されており、あらゆる部族が混在している。イベリア、アフリカ傭兵を中心に、遠くは東方のクレタ島から従軍している。家族を養うため、食い扶持に困ったため、部族長に率いられたため、様々な部隊がカルタゴ軍の中には混在していた。
だがどの部族であろうと傭兵の目的は結局、金でしかない。そのため、この軍を率いるには従わせる畏怖と戦に勝つ力が必要であった。勝てる将軍という評価を得られない限り、命が資本の彼らが奮闘することはない。そして恐怖で縛りつけない限り、傭兵はすぐに戦場から逃げ出してしまう。それは、亡き父からの数少ない教えであった。将軍となったハンニバルは、父の教えを忠実に守っている。彼を恐れない兵士はいなかった。
ハンニバルが陣へと帰還した時、陽は西へと沈んでいた。すぐに、ハンニバルは夕餉の支度を命じた。担当の兵士達が、それぞれに火を熾す。軍での食事は全てを鍋で調理した。鍋の中に、商人から買い取った野菜と兵士達に取らせた獣の肉が入った。獣肉は、少量の葡萄酒と胡椒で臭みをとる。獣の多いイベリアでの食事だ。カルタゴでは豆と魚が主食であったため、肉を食べること自体が余りなかった。イベリアに来た当初は、体が受けつけなかった。
マゴはハンニバルのもとへ料理を運んだ。木陰で布陣図を確認していたハンニバルは、持っていた地図と青銅の筆を置いた。
「兄上、いよいよですね」
今日の夕餉は、肉の入った粥だった。ハンニバルが匙でほぐしながら、口に運ぶ。
「父のために戦うのではない。祖国の再興を賭け、戦うのだ」
確認するように釘を刺す。マゴは匙を止めた。
「あいつらを見返したいです。一泡吹かせなきゃ、亡き父が浮かばれません」
忌々しい本国の貴族達が目の前にいるかのように、マゴは眉をひそめた。かつて父がどれほど祖国を愛し、貴族達によって絶望していったか。それを考えると悔しくてたまらなかった。
「本国の改革は、いずれやらねばならぬ。だが、今はローマを討つことが先決だ」
声音を抑えてハンニバルは言った。祖国の腐敗は、ハンニバル達が生まれる前から始まっていた。カルタゴはこの十数年間、政争だけに明け暮れていた。内乱で荒廃した土地も、打ち捨てられたままだった。国力の向上など、誰も望んでいなかった。
だがローマは、日進月歩に成長していた。人々は力を合わせ、国を強くしていった。西はサルディニア、南はシチリアを奪い取り、東はイリュリア地方を攻め、北はガリア人を駆逐し、その版図を四方に広げている。今やローマは、地中海一の大国となっていた。
イベリアの大地も、ローマの触手からは逃れられなかった。西地中海の制海権を握ったローマは、フランスの同盟都市マルセイユを通じてイベリアへの勢力拡大を狙った。それは着実に進み、ついに北イベリアにあるピレネー山脈を越えて、ハンニバルの勢力下へと拡大していた。
ローマの国威は、日に日にカルタゴを圧迫した。イベリアからローマへと続く「錫の道」は、カルタゴの交易路とぶつかった。膨張を続けるローマ。ガリアとの戦争の傷が癒えれば、本腰を入れて乗り出してくるのは必至だった。
冷えた汁をハンニバルは一息に飲み干した。髭についた雫を拭うと、ハンニバルは幕舎に戻った。白色の幕で覆われた簡易な作りの中へと、マゴも入っていく。月が昇る頃になると、ぞろぞろと将校達も入ってきた。決戦が近いと感じているのか、みな一様に緊張した面持ちであった。
「軍議を始める」
ハンニバルは地図を卓上に広げ、明日がローマ軍との決戦だと伝えた。地図には、先ほどの林が付け加えられている。小競り合いを幾度もかけた。誘き出す餌は、幾重にも撒かれている。
「明朝、トレッビア河畔でローマ軍を迎え撃つ。マハルバルは左翼、ハスドルバルは右翼を、それぞれ騎兵四千を連れて布陣せよ。遠慮はいらぬ。ヌミディア騎兵の強さをローマ軍に刻みこめ」
二人が太い腕を上げる。両方共、屈強な遊牧のヌミディア人であった。
「ギスコはガリア部族をつれて中央を。ハンノは重装歩兵をひきいて歩兵の右翼を担え。左翼重装歩兵は、俺自身が率いる」
呼ばれた諸将が次々と敬礼した。ガリア部族は、北イタリアに住む原住民である。だが、ここ十数年のローマの膨張により住処を奪われ、その復讐に燃えている部族であった。
ハンニバルが地図の一点を指し示す。そこは昼に偵察した林の場所だった。
「マゴはこの林にイベリア騎兵二千で伏せていよ。私が合図をしたら、敵軍の背後に回れ」
「はっ」
「マハルバル。お前は払暁にヌミディア騎兵をつれてローマ陣営を襲え」
「かしこまりました」
マハルバルが頷き、口元を緩めた。ハンニバルは視線を戻すと、幕舎を見渡した。将校達の全員が、緊張した面持ちだった。大国ローマとの戦争。その始まりに、少なからずの不安を感じているのだろう。
「諸君ならば、ハンニバルの命令に逆らえばどうなるかは知っていよう。私が将軍となって戦うこと数十度、逆らう者は全て屠ってきた」
未だかつてハンニバルは負けたことがなかった。それは、皆が知っている。勝ち続ける彼に、将校達は絶対の信頼を寄せていた。自分が心の支柱になること。それは頼れるものが何一つないこの異国の大地では、絶対になさねばならないことだった。
「手を抜けば俺が斬る! そう、覚悟しておけ」
全将校が姿勢を正し、敬礼した。燭台の火が揺れる。ハンニバルの影が、地図を覆った。
外に出ると、ハンニバルは兵士達に早く眠るよう命じた。明朝からの戦いに備えて、充分に英気を養わせるためだった。ハンニバルは愛馬に跨り、巡回へと向かっていく。マゴはその背を見送る。
ふと空を見上げると、三日月が昇っていた。
鈍い音が響き渡る。センプローニウスは拳を机に叩きつけた。思わず、報告に来た伝令の足が竦む。たかだか蛮族風情に祖国が踏み躙られている。まるでローマ軍など眼中にないかのように、カルタゴ軍は各地で略奪を繰り返していた。
苛立つ感情を抑えずに、センプローニウスは立ち上がった。最高司令官の証である緋色の外套がはためく。報告書を握り締めると、センプローニウスは荒々しく幕舎を出た。
大国であるはずのローマは、ただ一人の男に動揺していた。第一報は南アルプス近辺のガリア諸部族が敵将ハンニバルに降ったこと。次の報告には、ハンニバルの迎撃に向かったプブリウスの騎兵隊が壊滅したと書かれていた。
ローマの最高行政機関である元老院は、すぐさま援軍を北イタリアへ送るよう手配した。その軍団の将は、その年の執政官であるセンプローニウスだった。平民出身であり、その支持によって執政官に選ばれていた。
当初は地中海の防衛に努めていたセンプローニウスは、南イタリアからすぐさま軍を返すと、北イタリアへと急行した。
カルタゴがローマへと攻める場合、地中海を渡ってイタリアへと侵攻するのが常法だ。カルタゴの本国はアフリカ大陸にあり、地中海を挟んだすぐ上にはイタリア半島がある。海を渡れば、三日もかけずに上陸することが出来た。
特にハンニバルの治めるイベリアは地中海の西にある。カルタゴ領|イベリアの司令官ハンニバルがローマと戦う場合、本国と連携の取りやすい地中海方面を取るはずだった。ローマ元老院はそう読んでいた。故にセンプローニウスは当初、南イタリアへ派遣された。
カルタゴがこの作戦を採るならば、対抗策はいくらでもあった。カルタゴ海軍は前回の大戦争によって壊滅し、制海権は完全に喪失していた。ローマにとって、カルタゴ海軍を打ち払うのは造作のないことだった。
だがもう一つ、ローマを攻める道があった。未だ文明の欠片も見えないフランスの地へと踏み込み、極寒のアルプス《アルぺス》山脈を踏破するという前代未聞の道であった。
蛮地のガリアを行軍することなど、無謀でしかない。兵糧の確保は無理に等しい上、数十万と言われるガリア部族を相手にすることとなる。それを潜り抜けたとしても、極寒のアルプスが眼前に聳え立っている。常識で考えれば、イタリアに辿り着けるかさえ怪しかった。
カルタゴがイタリアを攻めるなどありえない。たとえ戦争が起きたとしても、せいぜいイベリアか北アフリカでの小競り合いで終始するだろう。それが元老院の観測であった。そうであるからこそ、ローマは北の軍備を怠った。地中海に接する南イタリアの防備だけを固めていた。
しかし、西方の蛮地で育った男の考えは野蛮そのものだった。ガリアを蹴散らし、本当にアルプス越えを敢行したのだ。正気の沙汰ではなかった。
同僚の執政官プブリウスが、急遽二個軍団(二万五千)を率いてハンニバルの迎撃に当たった。だが騎兵は壊滅させられ、執政官であるプブリウス自身も重傷を負った。以来、北イタリアのローマ軍は防戦一方に陥った。対してハンニバルの軍勢は大きく膨張し、四万近い兵力に変わっていた。
これ以上ハンニバルをつけ上がらせるならば、その軍団は更に増える恐れがある。ここは何としても、ハンニバルを破らねばならない。そうすれば、烏合の衆であるガリア兵は四散し、傭兵で構成されているカルタゴ軍本隊も浮足立つ。
センプローニウスは、かつての大戦争を思い起こした。十代の頃に経験した戦争は、ローマ軍の連戦連勝であった。海運国であったカルタゴの海軍に、ローマ軍が挑むこと十数度。五百隻を超えるカルタゴの軍艦を沈めてきた。対してローマはただ一度の敗北だけであった。青年のセンプローニウスには、ローマ軍の武勇は余りにも眩しかった。元老院議員になろうと決めたのも、その時だった。あの輝きは、四十路を越えた今も色褪せていない。ローマ軍の強さを、自分も語り継がせたい。それは平民から執政官へと登りつめた自分の、最期の目標だった。
無名の平民がその名を歴史に刻む。ローマ市民が喝采する中、勝利の凱旋をするのだ。考えるだけで、体が震えた。貴族であり名将と呼ばれたプブリウスは、蛮族のカルタゴ軍に負け続けている。そこに援軍としてやって来た自分が勝利をもたらす。こんなにも劇的な場面があるだろうか。絶対に打ち破る。ハンニバルを捕らえ、凱旋式で引きずり回す。センプローニウスに駆け巡る血は、燃えていた。
センプローニウスはプブリウスの幕舎へと向かった。英雄にならんとする自分には、守らねばならないものがあった。それは、ローマの矜持だ。北イタリア各地では、ローマ連合の同盟都市が襲われていた。それに対して、プブリウスは陣を固めるのみで兵を出そうとしない。カルタゴ軍は一層つけあがり、諸都市では怨嗟の声が広がっていた。ローマが覇者だと信じるセンプローニウスにとっては、聞きたくもない内容だった。
ローマ連合は公称七十七万。実数でも、六十万の兵力を擁する大連合である。その内訳は首都ローマ二十五万。同盟都市、ローマ植民市が都合三十九万となっている。数だけを見れば、ローマは同盟国に劣る。しかしローマは宗主国として、同盟都市を守り続けてきた。血を流して、ローマとの同盟が有益であることを証明してきた。そうであるからこそ、同盟都市はローマに付き従ってきたのだ。ローマには、覇者としての責務がある。プブリウスの所業は、ローマの威厳を失墜させることに他ならない。
荒々しく、プブリウスの幕舎へとねじ入った。プブリウスは重傷で床に伏せており、顔だけをこちらに向けた。その弱った姿が、センプローニウスの激情を煽った。
「プブリウス、出陣だ!」
センプローニウスが叫ぶ。怒気を表すように、執政官の証である緋色の外套がたなびいた。プブリウスは従者に起こせと命じ、その身を起こした。老いの勝った髪をかき上げ、センプローニウスを見つめた。肩から大きく斬られた傷は、包帯の上からでも生々しく映った。
「センプローニウス、聞け。ハンニバルとの決戦は春まで避ける」
「莫迦な。貴様には同盟都市からの窮状が聞こえないのか」
そう言って、センプローニウスは報告書を寝台に投げつけた。プブリウスの従者がそれを拾って床まで持っていく。プブリウスが顔を歪めた。
「これは見え透いた挑発だ。乗ってはいけない。」
「そんなのは分かっている。だがな、現に同盟都市はローマに救援を求めているのだ。それを無視しろというのか。朋輩を救うのは我等ローマの使命だ。貴様には、ローマ人の血が流れていないのか!」
「略奪など一過性のものだ。密偵の報告では、カルタゴ軍の兵糧は残り僅かとのことだ。つまり、ハンニバルとしてはここ数週間の内にローマ軍を破らねばならない。兵糧も貰えないと分かれば、傭兵はいとも簡単に離反していく。その時こそ、決戦の時だ」
プブリウスが胸をおさえる。従者が心配そうにプブリウスの身体を支えた。
「ふざけるな。貴様が蛮族風情に負けたせいで、配下においていたガリア兵さえ逃げたというではないか。離反どころか、ハンニバルの軍勢は日に日に増えているのだぞ」
言葉に詰まるプブリウスを、センプローニウスは責めたてた。確かに以前、プブリウスはハンニバルに小競り合いを掛けたことがある。敵の力を測るため騎兵同士での戦いを挑んだ。だが、その結果は悲惨なものだった。カルタゴ軍に雇われていた騎兵は、その強さを地中海に知られていたヌミディア国の騎兵だった。
ローマ騎兵は手玉に取られ、壊滅した。実に半分以上が討死した。逃げ帰ったプブリウスも重傷を負い、指揮も儘ならない状態であった。彼の敗北を知るとガリア兵は一斉にローマを離反し、その殆どがハンニバルの陣営へと投降してしまった。
「ハンニバルは強い。私は奴の用兵を見たが、あれは天才だ。あれほどの男が、勝算も無しにアルプス《アルペス》を越えてくるはずがない。もしものことがあれば、周辺の村どころか北イタリア全土の信義を喪失する。ここは持久戦に持ち込み、確実な勝利を狙うべきだ」
「黙れ! 貴様は、執政官に選ばれた理由を考えたことがないのか。これだから、貴族などと組みたくはなかったのだ。惰弱な奴とこれ以上話すことなどない」
振り捨てるように幕を押しのけて、センプローニウスは出ていった。
従者に肩を支えられ、プブリウスはゆっくりと身体を寝かした。まだ、センプローニウスの怒号が耳の中に残っている。再び幕が上がった。プブリウスの息子である、スキピオだった。
「父上。センプローニウス殿との話は――」
「決裂だ。あいつは、ハンニバルと戦うであろう」
苦々しそうに、プブリウスは天幕を見つめた。スキピオが寝台の近くにある椅子に座る。物憂げそうな横顔は、少年と青年が入り混じり美しい顔立ちをしている。まだ十七歳だ。あの小競り合いを初陣にさせてしまったことが悔やまれる。
「スキピオよ。センプローニウスは近いうちに敗北するであろう。いつでも撤退できるよう、私の代わりに準備をせよ」
プブリウスの言葉に、スキピオは息を呑んだ。だが、すぐに息子はかぶりを振った。五万もの大軍が負ける、その状況が頭に湧かないのだろう。ローマ軍の数は敵を上回り四万八千である。数だけを見れば、プブリウスの言葉は奇怪にしか思えないのだろう。しかし理屈を並べれば、敗北する材料はある。
「センプローニウスはハンニバルを侮っている。驕れる者が敗れるのは戦場の常だ。かく言う私も、同じ過ちを犯し、指揮の取れぬ身になってしまった。指揮権がセンプローニウスにある以上、やつの愚行を止められぬ。ゆえに退路だけは確保しておきたい。ローマ軍が出撃した後、ここからトレッビア河に沿って北へ二ミッリアリウム(約三km)ほど向かったところで橋を架けておけ。それが、センプローニウスの退路となろう」
「はっ」
「それを終えたのち、手勢を引き連れトレッビア近くの丘に向かえ。そこで、ハンニバルの用兵を確と見ておくのだ」
プブリウスの眼差しは真剣であった。その眼をスキピオは真っ直ぐにとらえる。神童と呼ばれた息子は、ここに来るまで敗けたことなどなかっただろう。敗北から、何を探り得るか。与えられる全てを彼に贈りたい。
話しているうちに、プブリウスの考えは変わっていた。今思えば、小賢しい勝利が初陣でなくて良かったかもしれない。驕りは、その器を小さなものに固めてしまう。戦いとは無限に変化し、そしてかくも難しい。小さな器では、たちまち溢れ出てしまう。
ハンニバルは、それを知り尽くしている。いかに父が偉大であったのか、それはハンニバルの才能が示している。小手先の技に囚われず、本質を髄で知ることは、歳を経てから分かるものだ。口で語ることなど、無意味でしかない。ハンニバルの戦いを見せる。いかなる書物を読むよりも、脳裏に刻まれることだろう。若い時分に知れるのは、天祐としか言いようがない。
スキピオが退出すると、プブリウスはゆっくりと眼を閉じた。
翌払暁。ローマ軍はその眠りをラッパの音によって妨げられた。急報が、センプローニウスのもとに届く。
「報告。敵ヌミディア騎兵が味方陣営を襲撃中」
「至急、全軍を戦闘態勢に移らせろ。朝餉は後だ」
「はっ」
センプローニウスは頭を叩き起こして命令を下す。伝令が幕舎を飛び出した。奴隷がセンプローニウスに鎧を着ける。直ちに幕舎を出た。従者が引き連れた馬に跨り、全軍の前に出る。
「敵は分不相応にも我が陣へ襲いかかってきた。だが安心しろ。その敵は今まで我々が蹴散らしてきたヌミディア騎兵だ! 鎧袖一触せよ。二度と歯向かえないようにするのだ!」
センプローニウスはわずかに守備隊三千を残すと、四個軍団(約四万五千)を連れて飛び出した。陣の前をヌミディア騎兵が旋回している。センプローニウスへと、ヌミディア騎兵は攻撃をかけた。しかし攻勢は弱く、四半刻も経たずに後退する。
「なんと弱きか。全軍突っ込め! 敵を殲滅させる好機ぞ」
センプローニウスは先頭を切って突撃していった。果敢に攻め、トレッビア河まで騎兵を追い込む。ヌミディア騎兵達は、押されるように河へ飛び込んだ。
「潰せ! 本陣に返すな」
四万五千もの兵が、我先にと突撃した。だが、勢いを維持していたのはセンプローニウスだけであった。十二月の河は寒く、何も食べていないローマ兵達は、徐々に速度を落としていった。
「早く行かぬか。駆けぬ者は斬るぞ!」
センプローニウスは苛立ちながら叱咤する。朝霧が周りを包み、先頭のヌミディア騎兵はどんどん霞んでいった。ローマ騎兵が先行して追いかけるが、一足先にヌミディア騎兵が河を渡り終えた。
「急げ、見失うな」
直ぐにローマ軍も河を渡りきる。センプローニウスが隊列を整える。突然、兵士達がざわついた。――何事か。兵士達の指さす方へと視線を移す。彼らを覆っていた霧が徐々に晴れていく。その向こうには、整然と並んだカルタゴ軍が待ち構えていた。愕然と口を開け、センプローニウスの馬はその足を止めた。
「執政官。いかがなさいますか」
「……案ずるな。ここには最強のローマ軍が四万五千もいるのだ。敵を粉砕するぞ」
「はっ」
センプローニウスは震える声を鎮め、自らに言い聞かすように言った。全軍を叱咤する。ローマ軍は、慌しく陣形を整えた。
だが、カルタゴ軍はそれよりも早かった。真紅の外套をなびかせたハンニバルが、曇天の空へと剣を振り上げる。
「全軍、突撃!」
大音声が響き渡る。鬨の声を上げ、カルタゴ軍は駆け出した。高波が押し寄せるように、瞬く間に大地がカルタゴ軍に呑み込まれていく。カルタゴ軍は朝餉を取り、体には防寒で油を塗ってある。兵の鋭気は充分だった。
ローマ軍の前衛が俄に動きだす。ハンニバルが剣を振る。カルタゴ軍は駆けるのを止めた。
「歩兵、盾を前へ」
カルタゴ軍の重装歩兵達が、盾で甲羅のように頭上を固めた。その中に軽装歩兵が潜り込む。刹那に、ローマ軍から槍が投げられた。数百本の槍が空を覆い尽くす。鋭い音が間断なく降りそそいだ。盾の間を縫って、槍が突き刺さる。各所から上げられる兵士達の悲鳴。槍の雨が止むと即座にカルタゴ歩兵は前へと進み、反撃の矢を降らす。今度は数千本の矢が空を覆い、ローマ軍の掲げた盾に次々と突き刺さった。
再び、ローマ軍の槍が降り注がれる。それで、ローマ軽装歩兵は持っていた二本の投槍を使い果たした。カルタゴ軍は槍を構え、ローマ軍は腰から剣を抜き放つ。
ハンニバルが剣を前へと振り下ろした。両軍から雄叫びが上がった。駆け出し、突撃した。同時に、騎兵もぶつかった。刹那にヌミディア騎兵はいくつにも分かれ、ローマ騎兵の突撃を躱す。ヌミディア騎兵は速い。神懸かっていた。的を絞らせず、水のように変幻していく。ローマ騎兵はついていけない。喚声と金属音。ローマ騎兵は倒れ、踏みつぶされた。
中央部でも、ローマ軍との戦いが始まった。ガリア兵は盾を投げ捨て、ローマ兵に躍り掛かった。だが、ローマ軍の戦列はびくともしない。押し返し、ガリア兵を叩き切った。屍体を乗り越え、次々とガリア兵が襲いかかる。その全てが跳ね返された。ローマ歩兵が圧す。圧していく。戦場を覆っていた霧はすでに消え、次第に冷雨が降り出した。
戦場とは別に、少し離れた丘の上。百騎ほどの騎兵は「S.P.Q.R」の軍旗が掲げ、戦場を見下ろしていた。
「橋の設置が完了したぞ」
スキピオの幼馴染であるラエリウスが、馬を駆けてきた。
「分かった」
スキピオが笑顔で応える。この戦いを見届けるのが父からの任務であったため、戦場を俯瞰できる場所をうまく確保できたのはありがたい。そう考えたのも束の間であり、彼の羽織っている外套を通って雨が肌に浸み込んできた。ラエリウスも同じく外套を巻きつけて背中を丸めている。寒さを忘れるように、スキピオは眼下の平原を鋭く見つめた。
「我が軍が優勢ってとこだな」
かじかんだ手を揉みながら、ラエリウスは言う。確かに戦線の中央では、早くもガリア兵がローマ軍に押されだしていた。それを、両翼のカルタゴ重装歩兵がなんとか援護している。カルタゴ重装歩兵はローマ軍の激しい攻勢をしのぐも、中央の味方が後退することで攻め切れないでいた。
「歩兵戦はやはりローマ軍か。しかし……」
スキピオが両翼の騎兵に視線を移す。歩兵の優勢とは対照的に、騎兵は全く逆の苦戦を強いられていた。カルタゴ騎兵はガリア騎兵を加えて一万。対してローマは先の戦いで敗れ、四千にも満たなかった。
「中央の優勢、両翼の劣勢か。どっちが先に勝つかで、勝敗は大きく変わるな」
ラエリウスの言葉に、スキピオは素直に頷かなかった。父が認めたほどの武将が、分水嶺を運否天賦に任せるだろうか。一抹の不安が、スキピオの背中に張り付いて離れなかった。
中央の甘さを感じ取ったセンプローニウスが、更なる攻撃を加えた。次々と部隊を前線へ投入していく。ローマ重装歩兵は盾を揃え、巨岩となってガリア兵を押し出した。盾を捨てたガリア兵は押し潰され、巨岩の中へと消えていく。両脇のカルタゴ兵が、弓と投石で進軍を押し止める。意外にも、ガリア兵は良く耐えていた。崩れずに、じわじわと後退していく。寒さと空腹からか、ローマ兵の歩みは遅い。
ガリア兵がさらに後退する。ローマの勝ちか。ラエリウスが呟いたその時、鏑矢が天に打ち上げられた。カルタゴ軍からひょう、と矢が音を立てて空に上がる。
何が、起こるのか。スキピオは必死に左右を見渡した。戦場の奥。スキピオの視界が捉えた。南の森から、黒い塊が飛び出した。二千の騎兵が駆ける。伏兵だ。ローマ軍の意識は、未だ中央に向けられたままだった。
マゴ率いるイベリア騎兵が戦場を横断する。
「駆けろ。敵の背後を突くぞ!」
一直線に、狙うは敵の背後。ローマ兵が振り返る前に突き刺し、蹴飛ばした。マゴは容赦なく襲いかかった。無防備な背後を蹂躙する。
形成が一転した。錯乱したローマ兵は前へと逃げ出し、前線のローマ兵を圧迫した。整然としていた隊列が解れてゆく。ローマ軍は大混乱に陥った。中央の進軍は、完全に止まった。その間に、両翼のカルタゴ騎兵がローマ騎馬隊を撃破する。粉砕され、ローマ騎兵は集まることすら出来なかった。ばらばらと、河を渡って敗走していく。
ハンニバルが不敵に笑った。血に塗れた剣を振り上げる。
「重装歩兵は側面に展開。騎兵は背後へ回れ。敵を包囲せよ」
伝令を飛ばす。ハンニバルの重装歩兵部隊が、ローマ軍を押し包むように旋回する。降りしきる雨の中、大地を踏み鳴らす鈍い音が響いた。カルタゴ騎兵も背後に回る。殺戮が、始まった。
冷酷にも激しく降りしきる冬の雨。それがセンプローニウスの顔を打ちつける。カルタゴ兵の刃に、ローマ兵は次々と討ち倒された。彼の指揮は、もう届かない。
「おのれ……ハンニバル!」
空が光り、雷鳴が轟く。センプローニウスは周辺の兵だけを集めた。必死に脱出を試みる。あと少し。だが兵士達は寒さと空腹で力が出せず、破れない。幾度もの突撃は、死体の山だけを築きあげた。四方を三日月の旗が囲む。逃げ場は無かった。
「もう一度、もう一度だ。全軍、中央突破!」
震える体に鞭を打ち、センプローニウスは渾身の力で突破を図った。だが、指先に力が入らない。寒さで震えるローマ兵には、ガリア兵さえも破れなかった。部隊は引き裂かされ、ローマ兵は殺された。
丘の上のスキピオ達は、背筋が凍った。もう、なす術がない。最強と謳われたローマ軍が、次々と打ち崩されていく。戦線は崩され、砕かれた。
手綱を握り締めるスキピオの手は、汗ばんでいた。
「スキピオ!」
ラエリウスが叫ぶ。
「分かっている。全軍、執政官を助けるぞ!」
スキピオが剣を振りかざす。これが二度目の戦い。それもまた、敗戦だ。無情の運命を感じる。スキピオは馬腹を蹴った。百騎の小さい塊が、丘を駆け下りる。
狙うは、ガリア歩兵の背後。一部の兵が、ガリア兵を破っていた。そこを、広げる。敵が振り向くより早く、駆けた。突如として現れた騎兵に、ガリア兵は反応し切れていなかった。スキピオの騎兵がぶつかる。ガリア兵は脆く、二撃目で打ち砕いた。戦線の穴をこじ開ける。途端に、雷光の旗が動き出した。二百騎ほどの騎兵が穴を塞ぎにかかる。迅い。最後尾の味方が、雷光の旗に呑まれた。穴が広がらない。これでは、時間は僅かしかなかった。
突き抜ける。応えるように、センプローニウスも攻勢をかけていた。左。悴んだ手に力を籠め、馬上から斬り伏せる。前へと向きなおす。スキピオはひた駆けた。センプローニウス。合流するとすぐに、馬首を返し脱出する。だが、その行く手には雷光の旗。ラエリウスの部隊がぶつかる。だが一撃で、粉砕された。恐ろしいまでに強い。スキピオは槍を構えた。真紅の外套を羽織った男と視線が交わる。群がるガリア兵を振り払い、センプローニウスが数千の歩兵と共に追いついた。
「執政官! こちらに退路を確保しております。すぐにお逃げください」
スキピオが促す。傷だらけのセンプローニウスは顔を上げずにスキピオに従い、カルタゴ軍の包囲を脱出した。そこから、凄まじい追撃が始まった。背後から聞こえてくる悲鳴。スキピオは振り返らず、ただ北へと駆けた。豪雨が激しくなる。雨は、氷の粒へと変わっていた。天祐だった。激しい氷雨はローマ軍の姿を隠す。急場しのぎで造られた橋を渡り、すぐに打ち壊す。脱出できたのは、七千にも満たなかった。三万以上の兵が、カルタゴ軍の中に残された。
「五万もいた兵が、僅かこれだけとは……」
「落胆している暇はありません。プラケンティアまで退かねば、再び敵が追撃して参ります」
センプローニウスは振り返り、ただ茫然と河を眺めていた。スキピオに叱責されたことにも気づいてはいない。結局センプローニウスは本陣を捨て、東方のプラケンティアへと逃げ落ちた。
スキピオはセンプローニウスを逃がすと、敗報を父に届けた。プブリウスは病床ながらも本陣の兵三千を率いて、同じくプラケンティアへと迅速に撤退した。ハンニバルに二度目の敗北だった。ローマ軍で生き残ったのはセンプローニウスの七千と、なんとか包囲を脱した二千、それと初戦に敗れた騎兵だけだった。実に三万を超える兵が殺された。
センプローニウスは敗残兵を連れてプラケンティアに入った。宿舎にはすでにプブリウスが到着していた。センプローニウスが入ってくると、プブリウスは自ら起き上がって迎えた。だがその目は、決して歓迎していなかった。長い沈黙が二人の間をよぎる。唇を噛み締め、センプローニウスは一向に顔を上げなかった。貴族に見下されるのは何よりの屈辱だった。
「センプローニウス。ここは一旦リミニ《アリミヌム》まで退こう。私も馬車に乗り、共に退く」
プブリウスの言葉に、ようやくセンプローニウスは顔を上げた。
「お前は、北部の都市を見捨てよというのか」
アリミヌムはアドリア海に面し、北部イタリアと中部を繋ぐ交通の要衝であった。しかし、北部イタリアを守ろうとする場合、そこは余りに遠い。アリミヌムへの撤退は、事実上の北部放棄であった。
「報告によると、ハンニバルの軍勢はさらに増えて五万に達したとのことだ。対して我が軍は一万五千を切っている。未だ完成していない城壁が多々あるこの都市では、日の出の勢いにあるカルタゴ軍を防げないだろう。後日、軍を再編して取り返すしかない」
センプローニウスが思わず口を開こうとする。だがプブリウスの眼光がセンプローニウスを捉えると、黙してしまった。悔しいが、言葉がでなかった。結局、センプローニウスは頷くしかなかった。アリミヌムまでの撤退を、全軍に命じた。
その後、センプローニウスは本国への報告書を認めた。濃霧と雨の為トレッビアでの勝利を逃したとして、敗戦の理由を天候に押し付けた。貴族の言が正しかったなど、認めたくもない。ガリア兵を押し切れれば、勝てたのだ。それが出来なかったのは、雨が邪魔したからに他ならない。決して敵が有能だったわけでも、自分が無能であったわけでもない。センプローニウスは筆を走らせながら、自らの矜持をそう慰めた。
翌日。軍の再編成が終わると、ローマ軍はアリミヌムへと撤退した。プブリウスの馬車に続いて、スキピオも馬を歩かせた。出発する際、スキピオは一度だけ後ろを振り返った。ラテン植民市の女子供が、戦争に備えて南へと逃げていた。泣く子供の手を引っ張り、女は軍の後ろを懸命についていく。余りにも無残だった。負けたのだ。そう心に刻まれているようで、スキピオは振り返ることをやめた。
こうして、ローマ軍は北イタリアを完全に放棄した。しぶしぶといえども、北部を放棄したことは幸いとなった。トレッビアで勢いをつけたハンニバルはモデナ、ボローニャと北イタリアを破竹の勢いで破っていった。仮に固執していたら、ローマ軍は完全に孤立していた。プブリウスの判断は、正しかった。
兄はローマ軍を駆逐すると、北イタリアのボノニアで冬営した。アルプス越えからここまで、ほとんど休憩もせずに戦い続けてきた。ようやくの、安息であった。
ボノニアに入ると、ハンニバルは戦いで得た捕虜を二つに分けた。ローマ兵と同盟都市の兵に分けると、マゴに同盟兵達の枷を外すよう命じた。マゴは意味を解しかねるが、命令に従って捕虜達の枷を外した。ハンニバルは声高に告げた。
「我々は、地中海で暴虐を尽くすローマに鉄槌を下しに来たのである。決して、諸君らと干戈を交える意志はない。その証左として、私は貴公らをここで解放しよう」
衝撃だった。カルタゴ兵達がざわつく。通訳がラテン語に直すと、捕虜の中でもどよめきが起きた。ラテン語が話せない者も、おおよその話は察知したようだ。ハンニバルが、それを鎮める。
「本国に戻ったら、祖国の人々に伝えて欲しい。私の目的は、貴国の領土を奪うことではない。あくまで敵は、諸君らを縛るローマなのだ。地中海の征服を目論むローマを打ち砕き、ともに独立を勝ち取ろうではないか。平和を得ようではないか」
ハンニバルは同盟兵達に無条件解放を約束し、懇々と諭していった。同盟兵達がその言葉を胸に刻み終えると、ハンニバルは兵糧を渡して逐次解放した。捕虜達はまだ信じられないのか、陣を出ても何度かこちらを振り返っていた。
捕虜の解放を呆然と見つめていたマゴは、急いでハンニバルのもとに詰め寄った。
「兄上、なぜ解放したのです! 彼らが戻れば、再び剣を取るのは必至ではないですか!」
マゴはハンニバルに迫った。敗北したとはいえ、未だローマの影響力は揺らいでいなかった。一撃や二撃で崩れるほど、ローマの国力は脆弱ではない。ローマ軍の損害は三万を超えたが、ローマ連合は六十万の兵力を擁する。未だ数十万の兵力が健在していた。兵站を考えれば、さすがに一つの戦線に全ての兵力を投入できないが、多方面に軍を配置することは可能であった。ローマはハンニバル戦線以外にも、南イタリア、シチリア、サルデーニャに二個軍団(約二万)ずつ配置し、そしてイベリアではプブリウスの弟であるグネウスが、二個軍団を率いて戦闘中であった。
ローマは五万の軍をハンニバルに向ける一方で、八万を超える軍勢を方々に向けていた。ローマの国力は未だ余裕を持っていた。その大国を打ち砕くのに、悠長に一万近い捕虜を解放するのは、マゴには無謀にしか思えなかった。
「聞け、マゴ。本当に六十万もの相手と戦うことを考えていたのか。俺は違う。狙いは、ローマ連合の解体にある」
「解体とは」マゴが首を捻る。
ハンニバルは剣を抜き、地面に数字を書き始めた。ローマの兵役該当者は、有産階級のローマ市民と同盟市民からなっている。都合六十万の兵力を有しているが、それは徴税できる市民でもある。その全てを動員するのは難しい。ハンニバルの予想は、ローマ軍の動員可能兵力は見積もって三十万。これは同盟軍を入れた数字であった。数字として書かれて初めて、納得したようにマゴは頷いた。
「もし、同盟都市が離反すればどうなるか。ローマ軍の動員兵力は十六万まで落ちる。今の戦いを三度行えば、殲滅できる数字だ。例え出来なくとも、同盟都市を抱き込めば互角の兵力となり、ローマは内に大きな敵を持つことになる」
「その時が勝負なのですね。ローマを滅ぼし、カルタゴが地中海の覇者となるんだ」
ローマを破る。それはバルカ家の宿命だった。父にそれを誓わされたのだ。父という偉大な男は、息子達を戦へと駆り立てていた。
「違う。そこが、講和の時だ」
「講和、ですか」
「父に惑わされ現実を見誤るな。カルタゴに、ローマを滅ぼす力はない。この戦いはローマの脅威を払拭するための戦争だ。やらねば、カルタゴは呑まれる」
ハンニバルは剣を仕舞った。現実と理想はいつも違う。それは知っていた。だがローマ打倒は、父の悲願だった。
先の大いなる戦争で、父ハミルカルはローマ軍に敗れた。いや、負かされたと言って良い。腐敗した祖国の長老会が、父の足を引っ張り続けた。幾万ものローマ軍に対し、父はただ八千の軍勢で戦い続けた。だが、時勢が微笑むことはなかった。父が奮戦しているその裏で、怖気づいた本国はローマとの講和を打診した。それをローマが承認することで、長きに渡った戦争は終わった。
双方二十三年の時をかけ、数十万の犠牲を払った大戦争は、呆気なく幕が切れた。父の戦いは全てが無駄となった。カルタゴは地中海の制海権を奪われ、莫大な賠償金が課された。それだけではなかった。
戦いから帰還した傭兵達への報酬を本国は一方的に減らし、それに激怒した傭兵が叛旗を翻した。しっかりと対話をすれば、傭兵達も理解してくれ、妥協したはずだ。無駄な戦いであった。かつてローマを恐れさせ、地中海の女王と呼ばれた大国の姿はなかった。叛乱は圧政に苦しむアフリカ《リビュア》の人々を抱き込み、瞬く間に拡大した。
長老会は父に手柄を立てさせるのを嫌い、叛乱軍には他の武将を派遣した。だが悉く撃退され、首都カルタゴが包囲されて滅亡寸前にまで追い込まれた。恐慌に陥った本国はようやく父を派遣した。父は見事に叛乱軍を破り、鎮圧した。だがその頃にはもう、父の胸中では祖国への想いは褪せていた。
そして間もなく、新天地を求めて父は未開の地イベリア半島へと手勢を連れて渡った。名目はカルタゴの国益の為であったが、それは祖国と袂を別ったも同然であった。
本国は当初蛮地に興味はなかった。だが、そこに銀鉱があると知るや、収益の三割を国庫へ納めるよう使者がやってきた。あまりにも厚顔であったが、父はすでに感情を動かしていなかった。祖国に誓った想いはすでになかったのだ。野望に満ちた炎によってすでに焼き払われていた。
父の野望。それは新たな夢だった。父は、地中海全土を支配しようとしていた。ローマを滅ぼし、シリア、マケドニア、そしてカルタゴをも滅ぼしていく。そして、地中海を我が海とする。初めて聞いた時は、思わず心が震えた。まるで東方の覇王が取り憑いたかのような、途方もない夢であった。大国ペルシアを滅ぼし、東方に未曽有の大帝国を創り上げたアレクサンドロス。それを追い求めるのは、男の性だ。
祖国を捨てた父は、大王に匹敵する覇業を成し遂げようとした。そのために父は、イベリアを蹂躙した。力で蛮族を捩じ伏せ、瞬く間に新しい国を創り上げた。マゴも兄ハンニバルも、その戦いに従軍した。父にとって、息子達は野望のための手駒に過ぎない。ゆくゆくは地中海を併呑するための有能な手駒として、自分達は育てられた。ただ父は征服中の事故によって、道途中で果てた。だが、その大いなる野望は息子達の首に繋がれたままだった。時折、父の宿願がこの胸を掻き毟る。ローマを滅ぼせ、地中海を征服せよと訴えてくるのだ。
ハンニバルは話題を切り上げると、踵を返した。
「今年はここで越冬をする。兵士達にそう伝えよ」
「ローマ兵の捕虜は、いかがいたしますか」
「奴等の解放は無理だ。北方のガリアに奴隷として売り払い、残れば鎖で繋いでおけ。捕虜交換などで使う時が来るであろう。捕らえたローマ女は、兵士への褒賞として全て渡せ」
「はっ」
一礼すると、マゴは自分の宿舎へ向かった。途中から雪が降りだし、慌てて中に駆け込む。借り上げた民家を宿舎としているので、中は簡素だ。外套をはたき、従者に渡す。一息吐くと、ハンニバルとの会話が頭の中で繰り返された。
イベリアにいた頃は、ただローマ憎しで育ってきた。そのように、父に言い聞かされてきたからだ。だからハンニバルがイタリア遠征を決断した時、二つ返事で飛びついた。ローマを滅ぼすための征伐だと、信じて疑わなかった。だが、ハンニバルの狙いは違っていた。ローマ連合を解体し、カルタゴの脅威を払拭すること。復讐でも理想でもなく、狙いは現実的だった。
父の想いを継ぐ。ただそれだけを抱いてここまで来たが、現実の状況は複雑だった。果たしてローマと戦って良かったのか。数字を改めて見せられると、背筋が寒くなった。まだ、三十万の兵がいる。本当に、戦うべき相手だったのか。
様々な不安が去来する。だが、最後は楽天的な自分が勝った。考えても仕方がない。カルタゴ軍はもはや引き返せないところまで来ている。考える必要はない。率いているのは、あの兄なのだ。自分は兄に従っていれば良い。そうすれば、全てが上手くいく。マゴは、考えることをハンニバルに預けた。あちこちで戦勝祝いの宴が始まっていた。マゴは毛皮の外套を羽織ると、外にいる兵士達の輪の中へと入っていく。
空は、雪で覆われていた。




