第四章 巻キ戻される思イ3
覚えている。
誰が忘れるものか。
竹の葉のゆらぎひとつにしても、目に焼き付いている。
「――――さん、どうしたの?」
小さく首を傾げる懐かしい人。
これはどうしたものなのか、あの頃のまま。
思考がストップして、ただ目の前のあの日を見ていると。
「――――」
《私》が口を開いた。
あの時と、全く同じ言葉を吐いた。
その瞬間、はっと意識だけが今へと戻る。
私は樹と闘っていて、これは樹の業で――
過去を見せる業か……趣味がいいな。
『《樹》の記憶を定着させる実験の過程で得られた業なんです。お父さんも、望んで手に入れたものではありませんから……僕のお父さんを酷い人だなんて勘違いはやめてくださいね』
樹の声が再び、頭の隅で聞こえた。
その間にも、私とあの人とのやり取りは続いている。
さっきまでは自由だった手足が、まるで他人の物かのように動かせない。『私』の身体はあの時とまったく同じように動いて、まるで私は『あの時の私』の身体に意識だけがタイムスリップしたかのようだ。
『普通、その状態になることも難しいんですよ。今の意識を取り戻せず、そのまま過去に引きずられてしまうのが常で――魔女さんのように冷静に状況を判断できた人はあまりいません。さすがと言ったところですね』
お褒めにあずかり光栄だ。
そして私はいつまで、この茶番を見続ければいいのだ。
『逃げたいですよね?』
あの人が私に近づいてくる。
足を一歩引きたい。そのまま振り返って逃げたい。
でも、体は動かない。
逃げれるものか――これは、私の過去なのだ。
まぎれもなく、あった現実。
『僕は今、魔女さまに一歩一歩近づいています。この業を発動している時、それを維持するためにも慎重に動かなくちゃいけなくて……これが業の難点と言いますか。今の無抵抗状態の魔女さまなら、簡単に殺せるのに、ゆっくり近づいて、直接殺すしかない』
あの人が笑いながら、私に話しかけてくる。
幸せそうだ。
その笑みが――憎らしい。
嫌だ。
『あ、大丈夫です。魔女さまには秘業を教えてもらわないといけないので、殺しません。狂ってしまう前に、ちゃんと終わらせてあげますから』
それを皮切りに、樹の声は途絶えた。
意識を逸らせるものがなくなった。それだけで、脳髄がかき乱されるような恐怖を覚えた。
「誰を、待っているんですか?」
私の口が開く。
震えていた。弱々しい声。
この時には、あの人が放つ答えはわかっていた。なのに、聞きたくなくてあえて訊ねた。
自分が何をするのかもすべて承知で。
照れるように、あの人は自分の頭を掻く。
こういう人だった。まっすぐで愚直で、幸せを素直に表現できる人。
そんな彼に、私は……。
「これを―――――」
彼の手の内に在る物。
彼の口から発せられた答え。
それを聞いてしまった以上、私にはたった一つの道しかのこされていなかった。
『私』が叫ぶ。
私は「やめて」と言ってしまう。
違う。私は言えない。私はただ見るだけ。
自分が犯した罪を目に焼き付けることしかできない。
わかってるのに、私は願う。
やめて――!
こんなことを、したくはなかったのだ。
彼の真っ直ぐな瞳、優しい掌、寄り掛かりたくなるほど大きな背中、その柔らかな声に。
初めての感情を抱いていたのに。
自分で壊すことなんてしたくなかった。
でも、私は『魔女』だ。目的の為なら――誰でも、なんであろうとも
耳を塞ぎたくても、できない。
叫びたいのに、声も出せない。
五感があるなんて、本当に最悪な夢だ。
彼の身体を貫く感触。
耳にこびりつく彼の小さな悲壮な悲鳴。
温かい彼の血を全身に浴びて、『私』がぼろぼろと涙をこぼす。
罪深い私が、涙を流していいはずないのに……
「どう、して……」
即死させてあげるべきだった。なのに、私の迷いが彼を苦しめることになってしまった。
涙を流して謝る私を、彼は――――
どうしたんだっけ?
また、突然の無重力感。
上下左右をかき乱され、平衡感覚を失って、ふらついた次の瞬間。
――あの光景だ。
見覚えのある風景。
夕日の朱色がやさしく竹林を照らしている。
静かに、虫の声がなりだそうとしていた。
なるほどこうやって、相手の心を折る業というわけか。
急に自分の支配下にもどった体が、がくがくと震えている。脚も腕も、何もかも。
全身から汗が噴き出して、心臓の音が耳鳴りするほど響いて、歯の根がかみ合わない。
冷静でいよう、そう自分に強いることで、なんとか思考は保っているがそれで精いっぱいだ。
たった一度、再体験しただけで。
一度、回想したくらいで、ここまでとは……。
「…………」
笑おうとして、失敗。
落ち着け、今こうして身体が使えてるときに現状の打開策を探らなければならないのに。
身体が動かない。なんで、早くしないと、いけないのに。
彼が――来てしまう。
かさりと、いう物音。
それだけで、わかってしまう。
彼が来た、そう認識するや否や、私の体の自由は『あの頃の私』に奪われる。
体の震えが嘘だったかのように、あの頃と同じ光景を何喰わない顔で始める。
あぁ……最悪だ。
見たくない、見たくないのに!
心を殺そうとしても、彼が私に向けてくる優しいまなざしがそれを許さない。
他人事ととらえようとしても、浴びた血液の温度がそれを許さない。
―――――――――――――――――――――――――――――――――っ!!!!!!!
叫べないのに、叫んだ。
理性が飛ぶ。頭の中がぐちゃぐちゃに、ちがうこれは夢だ、過去だ。
今じゃないのはわかっている――けれど、
これは間違いなくあった過去だ。
私が彼を――殺した記憶。
赤、赤、赤。わたしも、赤い色は好きじゃない。
わたしもおもいだす。
いやでも、目にやきついた色を。
胸の中で、何かが死んだ感覚を――。
もう、いやだ。
やめて、わたしは本当はこんなことを――。
全てがぐちゃぐちゃになって、何もかもが分からなくなる間際――血しぶきの向こう、ちらりと見た人影。
それが、私を一気に現実に呼び戻す。
在須……?
どうして、君がこんなところに。
在須、今回は気絶したままでは終わりません!?