三章 ケツイを叫ぶ君のコトバ3
不意に風が止んだ。
おそるおそる目をあける。そしてすぐに「えっ」と声を漏らす。
間違いない……俺が立ち尽くしているここは、
「俺の家……?」
見間違えようもない、見慣れた自分の家の廊下だった。エンドもすぐ眼の前にいた。俺の戸惑いを無視してビー玉を指先で弄んでいる。
「おっ、おい、エンド、説明しろ。これは、一体……」
「うるさいな、黙っててくれないか。これから、精密な作業をするのだから」
顔をしかめて俺を一瞥すると、エンドはまたビー玉に目をやった。よく見てみると、ただ弄んでいるわけではない。ビー玉の表面にテンポよく指を滑らせているのだ。
『探』
そう唐突に呟いたと思った瞬間、エンドの手のひらに転がされたビー玉から光が円を描いて放たれた。
「うわぁ!」
自分の中を通り過ぎる光に、驚いて飛びのいてしまった。しかし、光はただ通り過ぎるだけで、何も起こりはしなかった。
クオン、クオンと不思議な音を鳴らしながら、ビー玉は光を放ち続けた。エンドはきつく目を閉じて、何かに集中しているかのようだった。自然、俺も意識がその光に向かう。何度も光が自分を通り抜けるのを感じるにつれて、妙な違和感も覚えるようになった。
これは……さっきの《魔女狩り》とかいう男と会った時のような――、
「……病院?」
ぽつりと、その言葉が口からこぼれた。ばっと、今まで俺を眼中に入れていなかったエンドが振り返った。
「わかるのか?」
その端的な、故に明らかな動揺が含まれている言葉に、逆に困惑させられる。
「えっ、いや、なんとなく、そんな気が……して。病院らへんに、違和感が……」
エンドは、ただじっと俺を睨む。俺だって、こういう曖昧な言い方しかできないのだから、もどかしい。昔からこうだ。勘に関して俺は感覚的にしか説明できない。
「……まあ、私を見破った君のことだ。これくらいのこと、出来ても不思議はないだろう」
そう言うと、ふい、とそっぽを向いてしまい、俺への興味が失せたようだった。
そのまま背を向け、玄関へと向かう。
「おい、待て。お前、病院へ向かう気か? そこに、あいつがいるからか?」
「……」
答えない。エンドは無言のまま靴をはく。そのあからさまに俺を無視する様は、見ていて気持ちがいいものではない。
「おい! 聞いてんのか!」
俺はそのままドアノブに手をかけたエンドの片腕を引っ張った。いくら中身は《魔女》やら、否理師やらと言っても、体はまだ小学生の鈴璃のものだ。力は、俺のほうが圧倒的に強い。エンドも当然わかっていて、無駄な抵抗はせず、ただ威圧的な目で俺を睨む。
「痛い。離せ」
「……昨日は、すまなかった」
「は?」
「お前を……犯人扱いして」
あの事件の犯人はエンドではなかった。むしろ、エンドはその犯人を追う方で。腕は放さないまま、まずそのことだけは先に謝った。
「あいつも、えっと、お前と同じ≪否理師≫ってやつなのか?」」
「まぁ、そうだな。彼もまた否理師としては私とは違う意味で、変わり者ではあるが」
エンドは煮え切らない感じで、曖昧にそう言った。
「何で、お前狙われてるんだ?」
「私は≪魔女≫で、彼は≪魔女狩り≫だからだよ。ただ、それだけさ。君が知る必要はない」
冷たく言い放つと、鋭い視線で再度俺を睨みつける。
「離せ」
「俺も連れて行け。あいつのところに、病院に行くんだろう? あんな危ないやつのところに、一人で。だったら――」
「危ないやつ……ねぇ」
くすりと、エンドは嘲るように笑った。
「そうだね、君は大層彼にびびっていたからね」
「!」
「ねぇ、わかっただろう? 君が追いつけない世界があることを。君の手が届かない世界があることを」
俺の手が、
届かない世界――。
「これは君がどうこうできることじゃない。 君に私は止められないし、君には何もできないのだから、目を閉じて耳を塞いで、ただ黙っていればいいんだ。そうしている間にやがて時間が経って、いつかは丸く収まる。こうやって私に立ち向かうのは辛いだろう。私を見るのは――辛いだろう」
ぐっと、強く唇を噛む。反論できない。ただエンドの腕を離せないでいた。
「……離せ」
さすがに苛立ってきたエンドは、低い声で唸るように言う。俺はその言葉に、まるでガキみたいに反射的に言った。
「嫌だ」
「…………まだ、あきらめがつかないのか。何度も言ってるだろ、君には何もできない」
「……でも、嫌だ」
自分でも何を言っているのかわからない。俺はどうして、こんなにもこの手を放したくないんだろう。手を離したら――。
頑なに腕を放そうとしない俺に、エンドはとうとう爆ぜるように怒鳴った。
「ヒーロー気取りも大概にしろ! 自分がいかに無力かは、君自身がよくわかっていることだろう!? 君には何もできない。出来ることなんか、何もない!」
その途端、何かがプツリと切れた。
「うるせぇ!!」
俺は吠えた。エンドというよりも。頭の中のぐるぐるしたもんに怒鳴りつけた。
「さっきから、同じことをごちゃごちゃ言いやがって! あぁ、そうさ! 自分がよく知ってるさ。俺が何もできなかったことは、俺自身がもうよくわかってるよ!!」
エンドが驚いて目を丸くしてる。俺はその目を見て、ますます腹が立ってきた。
あー、きれた。何かがぶちっと、いってしまった。俺はただ感情のままに吠える。
「確かに辛い、逃げてしまいたい! お前をこうして見ているだけで、自分の無力さと罪を思い知らされるさ! だけど、時間が経つのを待っていたら、俺はいつまでも変わらず、こんな惨めで悔しい気持ちを抱え続けなきゃならない! それは嫌だ!! 本当に、まっぴらごめんなんだ!」
もう――逃げるのはやめだ。
「俺はヒーローにはなれない! ヒーローじゃない! 無力なただのガキだっ! でも、だからって、それは俺が逃げていい理由にはならない!!」
エンドの腕を、ぎゅっと強く握る。
「鈴璃の体で好き勝手させるかよ。俺は、鈴璃を守るって決めたんだ」
これが俺の結論だ。馬鹿らしいくらい悩んで出した答え。
兄は前に進めと言った。鈴璃のことに、自らを縛り付ける必要はないと。だが俺の思考にはどうやっても、鈴璃の死が絡んでくる。それはもう俺の一部で、切り離せないものとなってしまった。
だったら、あえてそれを背負う。自分のものとして受け入れる
悔恨を糧に、誰からも弔われることない鈴璃のために、俺はこの巡礼の道を進む。
「俺は鈴璃を守りたい。果たせなかった誓いだけど、まだできることはある」
エンドは苛立ちを顕にして言う。
「……言ったはずだ。この子はもう死んでるって。失われたものは戻らない。もう守るも何も、できることは何もない」
俺はその言葉に首を振る。
「そんなことはない。鈴璃の体はまだここにあるじゃないか。お前に何かあったら、それは鈴璃に何かあったということになるんだ。もし鈴璃がまたあんなことになったら、叔父さんは……、俺は……」
思い出す。あの、赤色を。
「……俺は、もう二度とあんな色は見たくない」
震える俺の言葉に、エンドは声もないまま俺を見つめる。
「それにな、エンド。俺は別にお前のことを信用しているわけじゃない。あの事件は俺の早とちりだって、お前が犯人じゃないってことはわかった。でも、お前が鈴璃を含めた十三人の体を使って、何をしたいのかという『目的』がわからない以上、好き勝手はさせられない。お前がしたことは、鈴璃がしたことになる。だったら、俺はお前の行動を見逃せない」
エンドが俯く。俺は構わず言葉を吐く。
「俺が死なせてしまった鈴璃にできる唯一のことは、ここにある『鈴璃』の存在、名誉を守ることだ。……お前は否定したが、もし天国があるなら、そこからここを見ている鈴璃に悲しい思いをさせるわけにはいかない」
言葉にすればするほど確固としたものになっていく己の決意に、俺は身を震わせた。
「俺は……」
「もう、いい。わかってるよ、それくらい。私は自分のではなく、他人の『尊厳』を傷つける卑怯者だ。でも、私はこういうことを幾度も繰り返してきた。そんな私が、今さら君ごときの言葉で揺れるとでも思ってる?」
エンドは呆れたように呟いた。さっきまでわずかに見せていた焦りの表情はなく、ただ呆れ果てた、憂いが混じった声だった。
「名誉か……そんな形も何もないものを守るなんて、それがどれほどの茨の道かも知らないくせに。おかしくて、呆れてしまう。陳腐すぎて見ていられない。君に交渉なんて不可能なことが、はっきりとわかった。まったく、やってられない……」
エンドはそう俺を罵って、深く。本当に深いため息をついて言葉を切った。そして、顔を俯けたままぽつりと言った。
「離して。邪魔しないで。私にはやるべきことがある」
「その『やるべきこと』ってのが、何なのか教えろ。それから、お前が何と言おうが、俺も病院に行くから。足手まといにはならないようにする……頼む」
自分には力はない。エンドのような異形の力も、あの男のような奇妙な力も。だから最後に頭を下げた。
エンドは俯いたまま再度ため息をつく。俺はその様子を見て、どんな言葉をぶつけられようと決して屈しないつもりで身構え、エンドの次の言葉を待った。
エンドは何も言わないまま、静かにゆっくりとその顔をあげた。
「えっ……」
その表情を見た瞬間、張り積めていた緊張の糸がプツリと切れ、言葉を無くした。
エンドの顔にあったのは、いつも浮かべている魔女の嘲りの笑みでも、さっきまでの蔑みと哀れみが入り交じった怒りでもなく――ただ今にも泣き出しそうな、幼い少女のものだった。
思わず言葉を失った。
エンドは唇を噛み締め、一瞬何かに酷く耐えているような顔をして、ふっ、と儚く笑った。
「……知らない方が、幸せだよ」
「……」
その言葉が、俺の頭に響いた。この答えにたどり着くまで、何度も繰り返した言葉。
「じゃあね」
エンドはその消えそうな笑みを浮かべたまま、自由な右手でポケットを探り、何かを取り出す。
――淡い水色の光を放つ、小さなビー玉。
少女はそれをぎゅっ、と手のひらに握りしめてまた開いた。途端、ビー玉が粒子となり、ふわりと霧のように広がって――。
……瞼が重い。猛烈な睡魔に襲われ、立っていられず床に膝をつく。
ダメだ。今、眠っては……。
しっかりとエンドの腕を掴んでいたはずの手から、力が抜ける。そしてエンドは簡単に俺の手を振り払った。
手が……離れて。
最後の意識を振り絞って、あいつを見た。俺に背を向けたその姿は、小さく、どうしようもなく孤独に見えた。