五章 ツミ深きアイ1
エレミヤは少年の死体に近づこうとして、ふとその足を止めた。
「お母様が、来る」
その声は歓喜に満ちていたが、すぐにその表情は曇った。
「ここじゃ、だめ」
こんなところを見られたら、怒られてしまう。
彼女は母を愛していた、母に全てを捧げるつもりだった。だからその怒りも受ける覚悟はあったが、でも子供じみた思いからそれは最も避けたいことだった。
ビー玉は粉々になっている。
少年は血まみれで動かない。
母を傷つけるものは全て排除した。胸のつっかえが消えて、母に怒られることへの恐怖はあるが、それだけで我慢できると思った。
部屋を出る間際、少年を一瞥しエレミヤは呟いた。
「壊して、くれれば……殺さなかった、のに」
不満げに唇を尖らして、彼女はその場を去った。
一歩、一歩、早足で階段を上る。
彼女にはわかっている、もう少しで母に会える。そして、その先も――。
わかってしまいそうになって首を振った。未来を読まなくても分かりきったことだ。二重に怒られるような気になってしまうのは勘弁だ。
昔は、こんなふうに自分の力を制御できなかった。
いつになるかもわからない先の未来、どこかの未来を読み取ってしまい、エレミヤは常に怯えていた。
その苦痛から解放してくれた母に――、素晴らしい《魔女》へ恩返しができた。
後悔なんてない。
例え、階段を上りきってすぐに、幼い姿をしている母が拳を握りしめ静かに怒っている様子を見ても――
「お母様……」
抱き着こうとして足を止める。母の顔は険しくて、しょんぼりエレミヤは眦を下げた。
間に合わないようにと、大量のわなを仕掛けていたのだが、それが母を余計に怒らせてしまったのかもしれない。
おたおたする彼女は気づいていない。
彼女は母がまだ何も知らないと思っているのだ。
しかし、その巫女服に付いた真っ赤な返り血がなにより雄弁に語っていた。
魔女が羽織っているのは、丈の長いぶかぶかのコート。《器》でもあるそれを着用するときがどういう時か、彼女は知っているはずなのに。
「エレミヤ」
低い声に、彼女はびくりと震える。
「ご、ごめんなさい」
素直に謝る。でも、次に口から出た言葉は、
「で、でも、お母様の、為だったんだよ」
子どものような、言い訳。
「お母様、ごめんなさい。でも、でもね、《絶対終末》なんていらないんだよ。そんなことしなくていいよ。お母様が傷つく必要ないんだよ。どうせいつかはみんな死んじゃうんだよ。どうしてお母様が守らなきゃいけないの。助けなきゃいけないの。お母様のことは、誰も助けてくれないのに。あのときだって、お母様が一人傷ついたんだよ」
魔女は顔をしかめる。しかし、エレミヤの言葉は止まらない。
「みんな、みんな酷い。お母様が言ってるのに、お母様が正しいのに、お母様がそうだって言ってるのに、誰も《終末》を信じなかった。否定して、罵倒して、証拠を出せって叫んだ。馬鹿だよね。馬鹿だよね。お母様が言うことは正しいのに決まっているのに信じないなんて。あんな奴ら死んで当然だよね」
「エレミヤ」
静かな声が石造りの塔に響いて、エレミヤはやっと話すのをやめた。
魔女は無表情だった。ただ静かに、娘へと視線を向ける。
「私は、そんなことを聞きたいわけじゃない。あなたが《絶対終末》が嫌だというなら、私は否定しない。誰に否定されようとも、これが最善だと進む覚悟ぐらい私はもっている」
エレミヤは口を開こうとしたが、魔女が厳かに一歩足を踏みだしそれを制した。
「私が聞きたいのは一つだけだ」
痛いぐらいに張りつめた空気に、声が鳴る。
「在須を、どうしたんだい?」
「殺した」
簡潔な言葉。
エレミヤは不機嫌を露わにする。
「わたしにはわかるよ。あいつは、いらないよ」
その言葉を聞くと同時に、魔女はコートの裾からビー玉を二、三個取り出し握る。それを床目がけて投げつけようとして――、
「お母様……、それは、駄目」
その言葉と共に、床がパラパラとめくれた――正確には、床に擬態していた大量のカードが一斉に翻った音だった。
裏返ったカード全てに書かれていた文字が、魔女の眼に飛び込んだ。
その言葉は、『EOLH』。
意味は――《防御》。
投げつけたビー玉は、床にぶつかると同時に一斉に弾けた。煙が立ち込め、一瞬辺りが見えなくなると、魔女は失敗を悟り舌打ちをした。
視界が晴れた時に見えたのは、傷一つない床。
「お母様が床を破壊して地下へ行こうとしていたのは、知ってたよ。お母様が床を壊した時、ここまで壊れるはずだったから」
エレミヤは自分の足元を指さす。その言葉に、魔女は更に顔をしかめる。
「ねぇ、お母様……」
一歩、足を前に踏み出した。それを見た魔女は二、三歩後ろに飛び退く。
異様なほどの警戒。エレミヤは悲しそうに眦を下げた。
「もう、私に知られるの……いや? 私の世界に、入ってきてくれないの?」
潤んだ瞳で、エレミヤは母に縋ろうとする。魔女は厳かに口を割った。
「《孤影の預言者》……。そう道化が名づけた時、危機感は既に覚えていたんだ」
口惜しそうに歯を食いしばる。
「あなたを孤独から救いたくて力の制御方法を教えたのに、結局私はあなたを一人ぼっちにさせてしまった」
「……そんなこと、そんなことない!」
エレミヤは首を激しく振った。
「《選ばれし託宣》……、私を中心とした半径二メートル内の人と場の未来をことごとく予知する……私の、才能。お母様が、見つけてくれた。鍛えてくれた。ほら――――、こんなに強くなったんだよ」
彼女は微笑んで、懐から一枚のカードを取り出して、呟く。
「……『MANN』」
「なっ……!」
何かの力に引きずられるかのように、魔女の身体は宙に浮いた。
身構えていたのに何をすることもできずに、抗えぬ力になすすべもなく引き寄せられる。
エレミヤの元に。
「お母様……」
ぎゅっと娘は、小さくなってしまった母を抱きしめる。
「エレミヤ……!」
魔女は拳を握り、抗おうとするが。
「あぁ、そう……そうなんだ。そうなんだ。そうなんだぁ」
壊れたラジオのように、エレミヤは同じ言葉をつぶやいた。あははと、無表情のまま乾いた声を漏らす。
「お母様、あんなにあんなにあんなに壊したビー玉なのに、直せちゃうんだ。すごい、すごいよ。でも、悲しい。可哀想。そんなこと、お母様はしなくていいよ。私が守る。だから、もう行かせないよ」
泣き声が混じった言葉を零して、再びカードを取り出す。
「これでお母様を封じ――」
「エレミヤっ!」
魔女は叫んで、何とか自由になった右手に短刀を生成する。それが振り下ろされる前に、エレミヤは迷いもなく後ろにのけぞり、避けた。
魔女はその隙にするりと腕から抜け出し、距離をとる。
「こうなることも分かってたけど……うっかりしてた」
ぼんやりしてるエレミヤに、魔女は険しい顔を向けたまま口を開く。
「……強くなった。それは、本当に認める」
「……でしょ?」
エレミヤは状況を読めていないほほえみを浮かべる。それを見て、魔女は歯を食いしばる。
大きすぎる才能は人生を狂わせる。
在須が普通の生活を続けられなかったように、エレミヤも――。
「あなたは私の娘だよ、エレミヤ」
厳しい表情のまま、静かに日本刀を生成していく。
「たくさんの子供たちの母になった。あなたも、その子供たちのうちの一人。かわいいかわいい我が娘だ」
そう言いながらも、丁寧に作った刃をエレミヤに向ける。
「だが、似てほしくないものまで似てしまったみたいで、気分が悪い。あぁ、在須から見ると私はこう見えていたのか」
エレミヤは首を傾げる。その無防備な動作に、魔女は苦笑のような表情を浮かべた。
「偽善をひけらかし、手前勝手な幸福を押し付けてくる。確かに、こんなこと余計なお世話だよ」
「……あの、嫌な人のこと、思い出さないで」
淡々としているかのように聞こえる言葉。しかし、低くゆっくりした声に含まれるのは明らかな怒気。
「そうかそうかそうか、あの人がお母様をおかしくしてるんだね。お母様に辛い道を選ばせるんだね。だったら、殺すよ殺すよ、最後まで。お母様の中の、あの人まで」
唄のように紡がられる言葉は、徐々に感情を伴っていく。
「お母様の――ためだから」
次回で、在須の生死を問えるのか……微妙です。