三章 ケツイを叫ぶ君のコトバ1
その日の晩は兄が飯を作り、唄華も一緒に食べた。何だかんだとぐだぐだしているうちに、二人が帰ったのは夜の九時を過ぎていた。
「今晩はありがとうございました。久しぶりのお兄さんのチャーハンすごく美味しかったです」
玄関で唄華がおおげさなくらい深々とお辞儀すると、兄は照れ笑いをして頭をかいた。
「それはよかった。もう遅いから送っていくよ」
「えっ、そんなお気遣いなく。私の家、そんな遠くありませんし、お兄さんの家と逆方向じゃないですか」
「でも、女の子を一人で夜中に帰らせるわけには……」
唄華と兄が玄関で押し問答を始めたのを見て、俺はすかさず話に入った。
「じゃあ、俺が送って行くよ。それでいいだろ、唄華」
「えっ、深漸くんが送ってくれるの? やったー!」
玄関先でぴょんぴょん跳ね始めた唄華に対して、兄は渋い顔をする。
「でも、鈴璃ちゃんを家に一人置いていくわけには」
「大丈夫だって。往復で三十分もかからねぇし。……だよな、すっ、鈴璃……」
やべ、どもった。俺は内心焦ったが、兄も唄華もあまり気にしていないようで、エンドもにこっと笑って『鈴璃』として言った。
「刻兎お兄ちゃんは心配性だよ。鈴璃、もう五年生だよ。全然余裕だよっ」
「そうか……」
兄はまだ躊躇っていたが、あまりにも唄華が喜んでいるため、もう何も言わなかった。
そのまま三人で玄関を出て、兄と別れ、唄華の家へと向かった。
「深漸くん、なんだか今日とっても優しいね。やっと私の魅力に気付いてくれたの? ふふふ、このまま送り狼になるつもりだったりして。エロいな~。変態だな~」
「エロいのも、変態なのもお前の頭の中だ。いったいどういう造りしてるんだか」
「覗きます? メスで頭部切開して」
「怖いわ」
ばかげた会話に少し落ち着く。逃げてるだけだけど。
ふと見上げた夜空は、夏の夜空とは思えないくらい、星が美しく輝いていた。
弱り切っている俺の心には、切なくなるほど綺麗だった。
思わず感嘆の吐息が漏れると、気付いた唄華も空を見上げて「わっ、すごいねー」と、言った。
「あれが、彦星。あっちが、織姫星だね。こんなにはっきり見えるなんて、今日は本当についてる日だな~」
夜空を指差し、楽しそうに話す唄華。その指の先を追って星を探すが、俺にはどの星かさっぱりわからなかった。あてずっぽうに、あれが彦星かなと思っていたら、
「むー、全然違うよ。それはデネブ。彦星はもうちょっとあっち」
と、俺の心を読んだ唄華は、そういって口をとがらせる。
別にいいじゃないか。将来、宇宙飛行士になるわけでもないし。俺はこの地球で生きるのが精一杯で、他の星なんかにかまってられねぇよ。
「もぅ、ロマンないな~。そんな深漸くんに怖~い話。人類滅亡説」
「あ? なんだそれ」
唄華は何故か自慢げに語る。
「冬の代表的な星座であるオリオン座ですが、その中で一際輝いている星、ぺテルギウスがそろそろ寿命を迎えそうなんですな。こう、どっか~ん!! って、爆発しちゃうんだよ。その時に放たれる放射線が、地球に届いて、ハイ、みんな死んじゃいま~すっていう話」
「内容の重さに比べて、やけに軽い話し方だな……」
っていうか、おれもそれくらい知ってる。テレビの特番で少し前にやっていた。
でも、それによると、たしかに放射線が放出されるが、角度とかそういう条件が合わないから、何だかんだ言っても地球には届かないってオチじゃなかったけ。
「うん、結局はそうなんだよね。つまり、よくあるエセ滅亡説の一つ。みんな好きだよね~。テレビでも年に三回ぐらいは見る気がするよ。そんなに、終わりたいのかな?」
「そういうんじゃなくて、ホラービデオとかそういうものみたいだろ。怖いもの見たさっていうか、本当にあるのかなって考えるスリル。誰も、本気になんかしてない」
「おー、なるほど。そういうものですか。人間の心理って複雑だね」
ふむふむと、何やら神妙にうなづく。読心術があれだけできるやつが、何言ってんだか。
「ほら、唄華。着いたぞ」
「えっ? あ、うん。って、もう着いちゃったの~!?」
唄華ががっくりと肩を落とす。しかし、すぐに顔をあげると、俺の手を無理やり握って、うるうるした瞳で言う。
「送ってくれて、ありがとう。今日一日で、深漸くんのこともっともっとも~っと好きになっちゃたよ。深漸くんが歌う《君が代》、私、大好き。今度は《森のくまさん》歌ってね。そうそう、楽士くんは《守れない!? 危ないかりんちゃん★》の、かりんちゃんのキャラソン《守れないなら、死亡フラグ》を歌ってほしいって言ってたよ。深漸くんにも、あのアニメの良さをわかってもらいたいんだって。私もあれ毎週見てるけど、個人的な感想を言わせてもらうと、主人公がへたれすぎて既に十三回死んじゃったっていうのは……。あっ、でも、来週は新技身につけるらしいから、ちょっと期待できるかも。深漸くんも見てね。うーん、だけど鈴璃ちゃんには見せないほうがいいかも。こう、うわ~って感じだから。それにしても、鈴璃ちゃん可愛いよね。お人形さんみたい。あの子こそ、深漸くんの名前がぴったりなのに。深漸くんがロリコンに走る気持ちわかるな~。従妹なのが惜しまれるね。あれっ、でも、従妹からは結婚していいんだっけ。それでも、深漸くんにはあたしがいるんだからね。私は、いつまでも深漸くんをお待ちしております」
「……わかった。よくわからんが、さっさと帰れ」
「ふふふ、おやすみ」
最後になんか企んでそうな微笑みを浮かべ、唄華は灯りのついていない家へ帰る。唄華の家は共働きで忙しいらしく、家を空ける日も多いのだとか。俺も数えるほどしか会っていない。
そして、今度こそ、また俺とエンドは二人っきりだ。
散々逃げているくせに、まだ逃げるつもりなのだろうか。帰りの足取りが自然に重くなる。
こんな自分、嫌なのに。
情けなくって、恥ずかしくって――ヒーローとはほど遠い。
何度目なのかわからないため息をついて、路地の分かれ道が見えたとき。
突然――小さく女性の悲鳴が聞こえた。
気のせいかとも思ってしまうほどの微かな声だったが、次の瞬間、民家の壁に隠れた向こう側が、蝋燭を灯したかのように、ぼうっと明るくなった。
反射的に走り出して、角を曲がり――足が、止まった。
「あん? ガキじゃねーか。どうした、こんな遅くに。怖い狼がいるかもしれないのに」
少年期を過ぎたばかりと見えるその男は、人を馬鹿にした笑みを浮かべた。
その表情に、本能的な怖気を感じる。
まず目につくのは、後ろで一つに縛った目立つ金髪。細身の長身で、あまり鍛えている感じはしない。服装はいたって普通だが、耳や腕などに十字架をあしらったアクセサリーを限界まで身に着けている様は、異様というより病的だった。
それだけでは、奇妙ではあるが、決して逸脱はしていない。しかし、彼が平然とその場にいる。それこそが異質だった。
足元に転がる若い女性。そして、あたりを漂う大量の火の玉。
その異様な状況を当然として立っている。
自然、一歩足を引いた。
俺のそんな様子を見て、やっとこの場がおかしいものだと気付いたのか、男は少し渋い顔をして頭をかいた。
「あちゃ~、えっと、これはだな……。そうそう、俺もお前と同じで悲鳴が聞こえたから来たんだ。この女には指先一つ触れてない」
男は俺の怯えに全く気付かないまま、一方的に話す。俺は惑いながら言う。
「いや……その、火の玉は……」
「ん? あぁ! これな。これは、これはだな……あぁ!! もう、めんどくせぇ」
もどかしそうにして男は吠えると、ジーパンのポケットから何かを通りだした。
それは、銀色のジッポだった。
男がチッと、ジッポを擦る。すると途端に、火の玉は流線を描いて次々とジッポに吸い込まれて――あたりは、突然暗闇になった。
「というわけだ。火の玉なんてねーよ。……ははは、さすがに無理があるか」
急に暗くなったため何も見えなくなった中、男が自虐的に笑っているのが聞こえた。
「まぁ……いいか。どうせ一般人には俺の邪魔はできないし。んじゃぁな、お前に聞きたいことがあるんだ。俺さ、この街には人探しに来たんだ。目立つやつのはずなのに、ちっとも見つからねぇ。なぁ、この街に、最近引っ越してきた、やたら気前がよくて、うさんくせぇぐらい偽善的なお姉さんを知らねぇか?」
男が俺に友好的な、しかし――明らかな悪意を感じる笑みで近づいてくるのが、やっと闇に慣れてきた目で分かった。
でも、俺は少しも動けない。また逃げればいいのに、それさえも、蛇に睨まれた蛙の如く叶わない。本当に笑えるくらい――情けない。
「――見つけた」
男と俺の距離が三歩ほどに縮まったとき、不意にその間を割って入る者がいた。
二つに結わえた髪を踊らせて、空から舞い降りたその少女は――――、
俺の従妹の姿をした、エンド。
《終末の魔女》だった。