五章 ツヨサと混じりあうヤサシサ1
慧子。
私の姉。
半身でありながらも、私たちは別人だった。
別人でありながらも、私たちは同じだった。
両親の離婚のせいで引き離された後、懸命にお互いの絆を繋ごうと文通を続けた。封筒の中には必ず、近況を書いた手紙と、一生懸命書いた絵を入れた。
私はその手紙が来るのが待ち遠しく、そして同時に不安と恐れを感じていた。
慧子から送られてくる絵は、私の心を波立たせた。
祖父母から絵を描くことを禁止されたために、色鉛筆などの簡単な道具しか使えないにもかかわらず、その絵は広く深く、私を感情の渦に巻きこむ。喜怒哀楽。その時、その時の慧子の想いが眩暈がしそうなほどに直に伝わってくる。物静かで穏やかな慧子は絵を描くことで、誰よりも素直に自分の心を世界に打ち明けていた。
封筒を開けるたびに、嫉妬した。自分が彼女に送ったものではとても勝てないと、悔しくて仕方なかった。幼心に沸いた競争心で、私は慧子に勝ちたい一心でどんどん絵にのめり込んで言った。
通っていた絵画教室の先生は、私の絵を素晴らしいとほめてくれたが、私はそんなことはないと首を振る。謙遜でもなく、胸の内からそう思わざるをえないのが悔しく、何度歯噛みしたことか。
中学生になってやっと一つだけ、《優しさ》だけは描けるようになった。私の絵は注目され、高い評価を得るほどまでになった。
彼らは言う。『この柔らかく包み込むような絵は、人々の心を和ませる。彼女の画風はこれからますます注目されるだろう』
違う。私は《優しさ》だけを描きたいだけではない。彼女のように、慧子のようにありったけの感情を一つに込めたような絵を……。
劣等感はぬぐえないまま高校生になり、久しぶりの慧子との再会に私は嬉しくてたまらないと彼女の手を握りながら、この手が……と、煮詰まって妬みのようになった感情が湧いてしまうのを感じた。そのことを悟られたくなくて、私はひたすら彼女に笑いかけた。
祖父母からの圧力は未だ強いようで、慧子は相変わらずきちんとした絵を描けない状況に居た。だから度々他の人の目を盗んで彼女を美術室に招き入れた。
本当の絵を、描いてほしかった。
私のライバル。どれだけ手を伸ばしても届かない存在。彼女の本当の実力を思い知りたかった。
本格的な道具を使ったことのない慧子に手取り足取り教える。彼女は戸惑いながらも、懸命な顔をして必死に吸収しようとしていた。
嫉妬に燃え上がる心を秘めながらも、その日々は楽しく、幸せだった。もう一人の自分、自分とは異なる慧子、彼女の傍にいることがこれほど安心して、嬉しいことだったという事を私は思いだし、噛みしめていた。
慧子も「私もそうだよ」といってくれ、二人で笑った。
その姿をたまたま美術室に入ってきた先輩に見られ、ドッペルゲンガーだとかなんだとか騒がれた時は、自分たちの同じ容姿を再認して、愉快で嬉しくて楽しく、もっともっと笑った。
簡単な基礎知識を身に着けた慧子は、二年の初めごろようやく絵を描き始めた。祖父母に気づかれてはいけないため居残りすることができず、行程は遅々としてなかなか進まなかったが、真剣にカンバスに向かう慧子を見るのは嬉しく――嫉妬心に焼き尽くされそうだった。
負けない。
一度だけでもいい、勝ちたい。
彼女に勝ったと思える、最高の一枚を。
私はますます絵にのめり込んだ。コンクールに何度も出展し、勝手に上がっていく名声にさえ脇目も振らず、ただ一人に勝つためだけに筆を動かした。
遠く感じる背中を、ひたすら追っていた。
彼女の表情を見ようともしないまま。
×××
「えっ……エンド!?」
私に気づくと、在須は何とかして自分の首を掴む腕を引きはがし、荒い息で言った。
永河原絵亜は激しくもがき、再度在須を組み伏せようとするが、そこはどうしても女性の体。先ほどは不意を突かれただけのようだった彼は、簡単に彼女をいなしてしまう。
「あっ、あああああああああああああっ」
獣のような雄たけびが彼女の口からほとばしる。上半身を起こした在須が、必死に彼女を押さえようとする。
「返してっ! あの子は、私のっ……」
「先輩ッ!!」
突然、暴れる彼女を在須が抱きしめた。強く抱いて、まるで幼子を慰めるかのように。
そして――何事か耳元で囁いた。一瞬落ち着きかけたように見えた彼女は、顔を掻きむしる形にして、絶叫した。
「嫌、嫌、嫌あああああああああああああああああ」
「先輩! 先輩っ」
「慧子っ、慧子ぉ!」
暴れて手を伸ばした彼女に――手が、伸ばされる。
一瞬の沈黙。
先ほどまで無表情に傍観していた今垣慧子が、そっと絵亜に手を差し出す。そして――にこりとすこし遠慮したような穏やかな笑みを浮かべる。
「慧子ぉっ!」
「絵亜、行こうよ」
泣きじゃくる妹に、微笑みかける姉。絵亜は、躊躇いなく手を取る。
「まっ、待ってください!」
在須が慌てるが、絵亜はさらに全力で暴れ、肘が彼の眼に直撃した。そのことにより生じたすきを逃さず、彼女は抜け出す。
そのまま二人、手を繋いで美術室を飛び出して――
「エンドっ、逃がすな!」
片目を押さえながら、在須が私に向かって叫ぶ。
そうしなければと思った。先ほどの彼女たちは尋常ではない。何か否理師に関する――。
だが、私が最初にしたことは、
「命令するなっ! 何様のつもりだ!!」
彼に駆け寄り、拳で殴りつけることだった。
「えっ! あっ、何?」
頬を押さえたが、在須の表情はただ困惑しているだけだった。ああっ、痛みがないなんて腹立たしい。私の拳が痛いだけじゃないか。
「何、じゃない!! わからないのか!?」
「え……」
「私を無視して、その癖に必要となったら簡単に使おうとするなど……未熟者のくせに!」
本当はこんなことが言いたいわけじゃない。いきなりこんな状況に陥っている彼に何が起こっているのか、彼女らとの関連はと、頭の中が混乱して整合が付かない。
こんな理不尽なことを言いたいわけではないのに、口から出てくる言葉が止まらない。
あぁ……思い知った。
遠ざけられることがどれだけ不安で、恐ろしいかという事を。
「説明しろ! 何があった。早く教えろ」
「あっ、おっ、ちょ、待っ。首……絞まりそう」
気が付いたら、いつのまにか彼の襟首を掴んで激しく振っていたことに気が付き、はっとして放す。ごほごほとせき込む在須の姿に、私は表情を歪ませた。
「お願い……無茶、しないでくれ」
口から出た言葉は、思ったよりも弱々しかった。在須にも気づかれてしまったようで、彼は目を丸くして私を見る。
だが少しも躊躇することなく、きっぱり言い切る。
「無茶はする。無理もする。それが、俺にとって必要なことならば」
強い意志がこもった瞳が、私をはっきりと映していた。
「……傷ついても?」
「それも、必要だと思うんだ」
すぐに帰ってくる返答に、私は何も返すことができない。揺らぐことのない眼。
あの血だまりの中で泣いていた少年は――どこに行ったのだろう?
「だから、エンド。助けてくれ。お前の力が必要なんだ」
ほんの少し前は私に反発して一人でしようとしていた少年が、真摯な態度で私に向かい合う。真剣でまっすぐな瞳で、あの日を越えようとしている彼に、
私が返せる言葉は、一つしかなかった。
「はぁ……仕方ないな。手伝ってあげるよ」
不遜で、高圧的で、《魔女》らしく。緩みそうになる口元を押さえ、傲然と応えた。
度々空気にされるエンド……
彼女は自分が状況の中心に近い位置で活動することが多いので、飛び込み参加にはなれていない模様ですw