二章 ニセモノが居るセカイ3
小学校を見下ろせる位置にある墓地。そこに、尾城儀家の墓はある。
幾度も来たことがある場所だが、一人で来たのは初めてだった。罪悪感から近づけなかったこの場所だが、今はその罪悪感からこうして訪れている。
「……ごめんなさい、叔母さん」
そこで眠る鈴璃の母親、そして鈴璃に思いをはせる。
本来なら、鈴璃もこの墓に入るはずだった。それが何の因果か、ニセモノに体を乗っ取られ、俺以外のだれも鈴璃の死を知らない。
不憫でならない。弔いさえしてもらえない鈴璃が。
彼女は天国から、他人が自分の立ち位置で好き勝手ふるまっている様を、どんな思いで見ているのだろうか。
「……いや、天国なんてなかったっけ」
そんなふうなエンドの口ぶりだった。死んだら魂ともいえる《想い》は消滅すると言っていた。
それじゃあ、鈴璃は今の状況を見ずにすんでいるのか。
そう考えてみても、俺の心は晴れない。
あの事故さえなければ――俺がしっかりしてさえいれば、いま俺の家で笑っているのはエンドではなく鈴璃なのだから。
「あっれー? 深漸くんだ」
聞きなれた声がして、俺はその人物に気付く。
「……唄華」
「まだ六時だよ。こんな朝早くから墓参りなんて、深漸くんはご先祖様想い?」
「散歩だよ。……ちょっと眠れなくてな」
五時ごろにエンドが帰ってくるまで、なんとか寝ようと努力していたのだが一睡もできなかった。それに満腹感が突然戻ってきて、昨日の晩食べ過ぎた分が腹にどっしり来て気持ち悪くなり、とても寝れるような状態じゃなくなった。食欲がわかず朝飯も食べないまま、家に居たくなくて飛びだし、たどり着いたのがここだった。
食べすぎのせいなのか、気持ちのせいなのか、気分が悪いのを抑えていつもどおりに俺は唄華に言う。
「っていうか、お前も早いな。お前も散歩か?」
「うん。だって、すっごくいい天気だもん。もうすっかり夏っぽくなってきたね。じめじめした梅雨も明けたし、いよいよ次は夏休みだね」
「あぁ、そうだな」
「ところでところで深漸くん。今日、暇?」
「あぁ?」
「今日ね、楽士くんと、留伊くん、紗智ちゃんとかとカラオケしたり、ボーリングしたりする約束してるんだけど、深漸くんも一緒に行かない?」
「いや、俺は……」
反射的に断ろうとして、でも途中で言葉を切った。
一瞬だけ躊躇する。
しかし、俺の決断は早かった。
「あぁ、行く」
「やったぁ! 久しぶりにいつものメンバーで遊べるね。みんなそれぞれ用事があって、なかなかそろわないし」
「そうだな。じゃあ、何時にどこ行けばいいんだ?」
「えっとね~……」
こんな時に遊びの誘いがあったのは幸運だった。
『鈴璃ちゃんをよろしくね』
母にそう言われていたが、大丈夫だろう。あいつ、精神年齢自称六百歳だし。
少しでもあいつ――エンドと同じ家にいたくない。
財布は持っていたから、家には帰らず、そのまま唄華たちと合流した。
楽士は相変わらずオタクでうざいし、唄華はどうしようもない狂人で、他の友人も一癖あるやつばかりだが、振り回される分には申し分なかった。
何も考えなくてよかった。
現実からひたすら逃げていた。
しかし、そんな時間もすぐ終わる。
逃げれば逃げるほど、時が早く進む気がした。
「これから、深漸くんの家に遊びに行っていい?」
唄華がそう尋ねてきたのは、みんなと別れ、家路についてしばらく、俺が鬱に入りそうになっていた時だった。
「深漸くんの家、今日もお父さんとお母さん居ないんでしょ? だったら、私が料理作ってあげようか? 従妹ちゃんにも会いたいし、何より未来の妻として」
唄華は何を思ったか、両腕を横に広げてくるりと回った。夏らしいミニスカートがふわりと浮かんだ。
「最後のフレーズは聞かなかったことにしてやる。それに、問題ない。今日は兄貴が来てるから」
きっぱりそう言い断ると、唄華は大仰に驚いた。
「えっ! そうなの?」
「あぁ」
今も、十分に一度の割合でケータイが震えてる。メールを開くのが恐ろしい。
そんな俺の想いなど知らない(今は読心術を使ってないのだろう)唄華はやたら弾んだ声で言う。
「それなら、なおさら行って挨拶したいな。もう半年も会ってなかったし。よっしゃ、行くぜ!」
唄華が俺の腕をつかんで、無理矢理引っ張って走り出す。
「えっ、おい! 待てよ!!」
「ばびゅーん!」
「……」
その謎の奇声に気の抜けた俺は、抵抗する暇もなく連行された。
あいつが居る、あの家に。
×××
何だかんだ言って、唄華を家に連れ帰ったことはプラスに転じた。
兄は大層ご立腹で、玄関を開けた瞬間、腕組みをしてこちらを見下ろしていた様は思わず身がすくんだ。
『在須、お前は小学校のときはそんなやつじゃなかっただろう。まだうちに来たばかりで色々と不安なはずの鈴璃ちゃんを一人にして、一体どういうつもりだ! いつの間にそんな人間に成り下がった。お前は鈴璃ちゃんのお兄ちゃんみたいなものだろうが!』
とまぁ、痛いところをザクザクと刺されまくり、なにも知らないくせにと怒鳴り返してしまいそうになったが、不意に扉からこちらを覗くエンドの姿が目に入り、何も言う気をなくした。
玄関で針の筵に座っている気分を味わされていた俺を救ってくれたのは、いつの間にか靴を脱いで上がり込んでいた唄華だった。
『もうそこまでにしてあげてください。私が彼を誘惑したんです。私がどうしても深漸くんと遊びたくって、事情も知らないまま彼を誘ってしまいまして……』
そして、唄華のその発言に兄が言葉をつまらせた瞬間、
『鈴璃が行ってもいいよって言ったの。だから、お兄ちゃんを許してあげて』
と、不本意なことに、エンドからのフォローのおかげで、やっと兄の怒りがおさまったのだ
「へぇ、鈴璃ちゃん、小学五年生なんだ」
「はいっ。夏休みが終わったら、紙邱第一小学校に転校するんです。お兄ちゃんたちが行ったのと同じ小学校です」
「ふーん。私は中学に入るときに紙邱に引っ越してきたから、小学校は隣の県だったんだよね。ふふふ、私の小学校にはね、年に一度巨大流し素麺大食い大会があったんだよ」
「わぁ! それ、すごいですー!」
女の子二人がテレビの前に置いてあるソファーに座り、和気あいあいと語り合っているのを見て、俺は少しほっとした。唄華が子ども好きでよかった。おかげで、まだエンドとまともに話をせずにすんでいた。
「唄華ちゃん、少し大人っぽくなったな。前見たときより落ち着いてる感じがする」
俺と同じくダイニングテーブルに座り、二人の様子を見ていた兄がそう言った。
「あれは猫を被って年上ぶってるだけだ。あいつは悲しいぐらいにちっとも変わらない。相変わらずの変人、奇人っぷり」
「そうかい。まぁ、それが唄華ちゃんのいいところだよ。明るすぎるくらいの子が、お前みたいな根暗なやつにはぴったりだ」
「うるさい」
俺にあいつを勧めるな。断じてお断りだ。
「幸せそうだな、兄貴。鷹絵さんとはうまくいってるみたいだな」
腹がたったので、からかうつもりでそう言ってやったつもりだったのだが、
「まぁな。幸せすぎて怖いくらいだな」
と、恥ずかしい言葉をさらりと言いのけた。……こっちが赤面ものである。
兄は大学生の頃から付き合っていた、一つ年下の鷹絵さんと昨年ゴールインしたばかりだ。 新婚生活は、仲が良すぎてかなり熱々としたものである。
「病院の業務にも、二年たってやっと身に付いてきたって感じだし、最近は順風満帆な日々を送れているよ」
「それはよかった。うさぎ先生も板についてきたってことか」
ピキ、と兄貴の額に青筋が浮かぶ。どうやらまだこれは嫌みとしてまだ通じるようだ。
深漸刻兎。俺に眼鏡をかけ、少しだけ吊り目にし、背をプラス十センチほど高くさせたら(別に俺は小さくない。約百七十センチはある)兄になるといわれるほど、俺と兄はよく似ている。そして兄の名も、俺と同じく『不思議の国のアリス』からつけられている。
俺ほどではないが、兄も自分の名前があまり好きではない。研修医の時、子ども達に『うさぎ先生』というあだ名をつけられたことをまだ引きずっているくらいだ。名前の響きは特に問題ないが漢字にトラウマがあるので、自分の名刺は『みぜんこくと』とひらがなで銘記している。小児科医だからであってべつにそんなつもりはない、と兄は嘯くが。
「えーと、お前学校はどうだ? ちゃんと真面目に通っているだろうな」
「あぁ、まぁぼちぼちかな」
……話を逸らしてきたところ、俺と違って兄は大人として成長したらしい。後は額の青筋がまだ浮き上がっているのをおさえ、声の端々から漏れている殺気を隠し通せるようになれれば一人前なのだろう。
なんてことを考えてぼんやりしていると、兄が目敏く「ちゃんと聞いてるのか」と厳しく言い放った。
「まだ高二だからと言って気を抜くなよ。いざ三年になった時、困るのはお前自身なんだぞ」
「はいはい」
「お前なぁ」
俺は何度も繰り返したやり取りに、ため息をつきそうになる。真面目で優秀だった兄は、俺のことにも色々口出しし、場合によれば親よりもうるさい存在だ。
兄と俺は違う。同じ基準で扱われても、俺にはできないこともあるんだから。
話し半分に聞いてぼーっとしている俺に、兄は目を細めてポツリと言う。
「……今日、鈴璃ちゃんを置いていったことをまだ許したつもりはないぞ。やっぱりだれてるんじゃないか」
話を蒸し返すなよ。堪えきれず、今度こそ深くため息をついた。
「さっき唄華が言ったろ? それに久しぶりにカラオケに誘われたから、気持ちがぐらついて。あいつも……いいって言ってくれたし、もう五年生だろ? 留守番くらい余裕だろ」
俺って都合がいいやつだなと思いながらも、あいつらの言葉を使わせてもらって再度言い訳。しかし兄は眉間にシワを寄せたまま、俺から目をそらそうとしない。母親似の吊り目で、睨まれると、思わず身がすくんでしまうほどの気迫があった。
兄は静かに口を開いた。
「お前、何か隠してるんじゃないのか」
どくんと、心臓が跳ねる。
「……何を? 別に何もないけど」
とっさに冷静を装ってそう答えると、兄は額の険を緩めた。ふーっと息を吐くと、声を潜めて続ける。
「いや、悪い。お前の鈴璃ちゃんへの態度が何となく気になってな。ただ、それだけだ。昔は、あんなに仲良くベッタリくっついていたのに」
「……いつのこと、言ってんだよ。俺、もう高校生だし。いつまでも、年の離れた従姉妹と遊んでるわけないだろ」
それにもう、守りたいものを勝手に作って、守れると疑いもなく自分を英雄視できるほど子どもでもない。
「そりゃそうだよな。だけど在須、もしあのことを気に病んで、鈴璃ちゃんとぎくしゃくしてるようなら言っとく。あれは――お前のせいじゃない」
それは奇しくも、鈴璃の演技をしていたエンドに言われたのと同じ言葉。
「どうしようもない事故だったんだ。お前が後悔するのは筋違いも甚だしい。それに、鈴璃ちゃんは生きてる。後ろばかり見てても仕方ないことぐらい、お前にもわかっているだろう」
「……」
口から出かかった言葉をぐっとこらえる。
なぁ――兄貴。鈴璃はもういないんだよ。帰ってこないんだ。鈴璃が死んだのは俺のせいじゃないことぐらい、頭じゃわかってる。罪悪感を持つこと事態、馬鹿らしいこともわかってる。だからそれは別にいいんだ。
でも、鈴璃の死を隠していることへの罪悪感はどうすればいい?
……そんなこと、問えるはずもなく、
「わかってるよ、それくらい」
と、素っ気なく呟くことしかできなかった。
兄はそんな俺を見て、一瞬複雑そうな顔をしたが、すぐに呆れたとでもいうようにくすりと笑った。
「何を悩んでるかは知らないけど、お前はお前の思う通りにすればいい。……あのことに、縛られる必要はない。迷って、つまづきまくってもいいから、立ち止まらなければ、いつかどこかにはたどり着けるさ」
いつもの兄からは考えられないほど優しすぎる言葉。俺は今、兄に慰められるほど沈んだ顔でもしてるのだろうか。
……何も答えることができず、兄の視線から目を背けると、はしゃいでる二人の少女の姿が目にはいった。
自然と曇っていく心の中で、自分の気持ちと兄の言葉を幾度も反芻した。