四章 コウカイに塗れたネガイ1
「あの……永河原先輩。少しお話を伺っても構わないでしょうか?」
場が静まり、彼女が颯爽と立ち去ろうとした時、在須は突然そう言って呼び止めた。
「何を、ですか?」
きょとんとしてしまった、若く美しい絵描き。私も面喰ってしまったが、すぐに彼の本意に気づき、気を引き締める。
倒れた男子高校生はあの後すぐに意識を取り戻し、友人たちの力を借りねばならなかったが、それでも立ち上がり気恥ずかしそうにしながら保健室へと去って行った。
ただの立ちくらみだ、急に体の力が抜けただけ、と掠れた声で言い訳のように釈明していたが、それは違う。これは間違いなく否理師関連によるものだと、経験とそして在須の反応から確信していた。
魔女狩りが起こしたあの事件とよく似ている。
彼が失神したのは、《想い》を急激に奪われたことによるショック反応だ。人の《想い》はその人の身体を動かすエネルギー。一定以上を一時に失うと、身体を制御することができなくなり意識を失う。もしも、すべてを失うようなことがあれば意識の完全な喪失――つまり死が訪れることとなる。
よって、この件は決して軽視できるものではない。失神や、過労による体調不良と片づけられるうちはいいが、どのような否理師が何のために行っているかわからない限り、人殺しが行われるかもしれないという可能性はぬぐえない。
在須も分かっているはずだ。今現在、この手の感覚について私はまったくの無力だが、《想い》を肌で感じ取るという希少な才能を持つ在須は、この状況を誰よりもはっきりと認識できる。
だから、今こうして憧れの先輩に真剣な表情で対話を求めているのは、それなりの理由があるという事だ。
緊張した面持ちで在須は尋ねる。
「実行委員の者です。今、学校内を巡回して、何か問題が起こっていないか聞いて回っているんです。そこで、この個展ことで永河原先輩に……」
「あぁ、そういうこと」
納得したという表情で彼女は頷く。
その所作もたおやかという表現が似合い、受け応えも穏やかでどことなく気品が感じられた。
「そうね……特に問題は起きてはいないわ。今回の個展を開くというお話は、直前に先生から提案されたことで不安だったけど、たくさんお手伝いしてくれる人があったから……」
「先輩、場所を変えませんか? 実は、アンケートの方にも答えていただきたくて。ですが、ここだったら……」
彼女の美貌に浮き足立ち、ちらちら向けられる視線に対して、在須は困っているような顔をした。彼女も気づいていたのだろう、悩む表情をする。
上手い、と思った。他のクラスには状況を簡単に聞いただけでそんなことはしていなかった。彼女を引き留める嘘としては、かなり通じるものだろう。
永河原絵亜は少し迷っていたが、すぐに柔らかく微笑み、
「いいわ。じゃあ、ちょっと歩くけど美術室に行かない? あそこは関係者以外立ち入り禁止になっているから、話しやすいと思うわ」
「はい」
「鈴璃も、ついて行っていい?」
何だかおいて行かれそうな雰囲気になったので、そう会話に入り込むと、永河原さんはわずかに驚いた表情をして聞いた。
「妹さん?」
「いいえ、従妹です。ちょっとわけあって面倒見てまして……ダメですか?」
「そんなことないわ、一緒に行きましょう。鈴璃……ちゃん?」
「ありがとうございます!」
私は無邪気に返事して、二人について行く。
在須が簡単に私の同行を許したという事は、やはり否理師が関わっているに違いない。
だが……なぜ、この少女なのか?
この地区に私と在須以外の否理師は定住していないはずだ。この街に引っ越してくるとき、《道化師》からその情報を買ったのだから。あいつ自身は嘘くさいが、あいつの情報は信用に足るものだ。だから、彼女が否理師という事はまずない。
ならば、どのようにして彼女が今回の件に絡んでいるのか思索する。だが、他の生徒がどのように倒れたのかその状況を一つも知らない段階では、仮説を立てることも難しい。
じゃあ、彼女は? あの男子が倒れた場に現れた彼女に不審なことはなかったか。
率先して前を進んでいた彼女に目を向けた時、ちょうど美術室の前までもう既に来ていた。
「慧子、入るわよ」
扉にノックし、誰かに話しかけると彼女は慣れた様子で引き戸を開く。
そこに、居たのは――――、
私は言葉を失くし、ただ呆然と見てしまった。在須も、ただ黙って見つめている。
私たちの驚愕した表情に、永河原さんはくすりと笑う。
「紹介するわ。この子は慧子、私の双子の姉なの」
「初めまして」
カンバスの前に座った、彼女と瓜二つの顔をした少女がぺこりとお辞儀した。
柔らかく微笑む慧子と紹介された少女の容姿は、髪がショートヘアであることを除いて永河原絵亜そのものだった。
「え……、えっと…………」
目を丸くしたままの在須は、うまく口を動かすこともできないようだった。その様子を見て髪が長い方の少女――永河原絵亜はくすりと笑った。
「驚いた? まぁ、慧子は普通科だし、体が弱くて学校に来ることも少ないから、知らない人がほとんどなの」
在須の反応を面白がって、鏡写しのような二人の少女はくすくす笑う。その声すらもそっくりで、一人の少女が二重に笑っているようにも聞こえ、不思議な奇妙な気持ちに駆られた。
髪の長さが同じだったら、見分ける自信が少しもわかない。雰囲気や、話の調子から若干慧子という少女の方が、静かで控えめな感じがしたがその程度だった。
「じゃあ、慧子。私はこれからこの人たちとお話があるから、少し席を外してくれる?」
「わかったわ。私は……そうね、隣の画集置き場に行っとくから」
快諾すると彼女は簡単に荷物をまとめ、部屋を出ていく。が、
「あ、待って」
何かに気が付いた絵亜は、慌てて慧子を呼び止める。
「はい、これ」
「ありがとう」
体が遮ってよく見えなかったが、彼女は自分の姉に何かを渡した。そして、相手を見送るとこちらを向いて言った。
「アンケートだったわよね。早く、終わらせちゃいましょう」
彼女はさっきまで慧子が座っていたカンバスの前にある椅子に腰かけ、手でその近くにある二つの椅子に座るように示した。
何のためらいもなく動き出そうとした私だったが――不意に異変に気が付き、見上げる。
「お兄ちゃん……、行かないの?」
在須が微動だにせず、ただじっと絵亜を見つめていた。彼女も当然その視線にたじろぐ。
「なっ、何かしら?」
「…………いえ……何でも」
気が付くと彼の顔が蒼白になっていた。声の調子も頼りない。突然の変化に、私は不安に駆られた。
「おっ、お兄ちゃん……?」
「何でもない。何でもないから……」
そんなわけないだろ!
そう怒鳴りたかったが、彼女がいる前でエンドとして話すわけにはいかない。口惜しさに、内心憤る。
「だっ、大丈夫? 体調が悪そうだけど……」
「慧子さんも、絵をお描きになるんですね」
急に突拍子のないことを聞かれ、ぽかんとしてしまった彼女だったが、自分の目の前にある絵を指しているのだと分かり、頷く。
「え、えぇ……、芸術科どころか絵画部のようなものにも属したことなくて、ただの落書きだって本人は言うけど」
自分の目の前にある一つの絵画を見て、ふっと笑う。愛しいものを見るかのような、優しいまなざし。彼女の所作一つ一つに優雅な華やかさがあった。
絵を見て落ち着いたのか、彼女は在須に微笑む。
「それが、どうかしたの?」
「いっ、いえ。仲がいい御姉妹に見えたので……」
「あら、そう? 喧嘩ばっかりよ。兄弟なんてどこもそんなものだと思うけど」
「……ありがとうございました」
ぺこりと在須はお辞儀し、そして、
「……すみません。やっぱり気分が悪くなってきたみたいなので、アンケートは後日でいいですか?」
「えっ、いいけど……。大丈夫なの?」
「何でも、ありません。何でも……」
それだけ言うと在須はドアを開け、足早に飛び出していった。
「お兄ちゃん!」
私も慌てて後を追う。
おかしい、何か変だ。まさか、否理師からの攻撃……? いや、そんな気配は微塵も感じなかった。この体が探知に向いてなく想いのエネルギーを感じにくいとしても何のモーションもなく人の精神に影響を与えることはできない。
早足で行く彼に何とか追いつき、息を切らせながら服を引っ張る。
「お兄ちゃん。どうしたの?」
その声に在須は振り返る。そして、私を見て――痛々しい今にも泣きだしそうな、あの苦しそうな表情で――
「在須!」
私は彼を引きずって誰の気配もない階段の隅へ行くと、問い詰める。
「どうしたんだ? 一体、何があった。永河原絵亜が、何を……」
「何でもない。何でもない、大丈夫だ」
呆然とした表情のまま、呪文のように呟く言葉にかっとなる。
「何かあったのだろう? 早く言いたまえ。君は何もしなくていい、私に任せてくれていいから、教えてくれ」
君の辛いことは、全部私が背負うから。
彼を慮っての言葉だったが、それを聞いた途端、彼は強い口調で断言した。
「何もなかった。永河原先輩のは俺の勘違いだった。エンド、この件は俺がなんとかするから、お前は何もしなくていい」
「何を言ってるんだ、君は? そんな嘘、ばればれだってことはわかっているだろう」
在須の異変に私はただただ戸惑うしかない。
幼い体では彼の服を引っ張ることしかできず、歯噛みする。
「否理師との戦いを舐めているのか。たった二人と戦っただけで全てをわかったつもりになってるというなら、大きな間違いだ。それに、今の君は……」
脳裏に苦しむ在須の姿が蘇る。深い傷を負った彼。潰されそうなほどの罪悪感に立ち向こうとして、痛ましい彼の気高い姿。
見ていられない。
お願い、泣かないで。
そんな、顔をしないで。
笑ってほしい。
そのためならば……、
「私は《魔女》だ。《終末の魔女》だ。全て、私が終わらせるから。どうか、君は……」
「ここであいつの言葉を借りるのは、すごい癪だけど」
苦々しい顔で在須は私を見て、吐き捨てる。
「お前の優しさは《偽善》だよ」
ぐっと肩を掴まれ、遠ざけられる。
血を吐くかのように、辛そうな表情で、でも抑えきれないという風に彼は言葉を吐く。
「お前が、耐えられないだけなんだろ。自分が辛いから、俺の苦しみとか悩みとか全部持っていこうとするんだ。余計なお世話だよ。これも俺のものだ。簡単にお前に渡してたまるか」
「在須……」
「……あんまり、甘やかさないでくれ。お前に守られてばっかりじゃ、いつまでたっても俺は変われない。その『みんなに笑っていてもらいたい』という願いは、すごく綺麗で素敵なものだと思うけど、でも人間って、それだけじゃないだろ。泣くことも、苦しむことも、必要なんだ」
ぐさりと、胸を突き刺されたような気がした。
彼と同じ言葉を放った人は、六百年の生の中で何人もいた。その度に、この痛みを感じた。見透かされたことへの恐怖、自分の目的に対する迷い。
でも、私はすっと彼を見据えた。
何度も彼らに応えた言葉を、決まりきった言葉を想いを込めて迷わず向ける。
「おそらく、君の言ってることは正しい。私は偽善者だ。自己満足したいだけなんだよ。……だが、それをわかっていても、私はこの生き方を変えるつもりはない。だって私は――否理師だから」
己の目的に惑うことは、否理師としての自己の否定。
だから、すがる。間違っているとわかったとしても、望んで目的に縛り続けられる。
《魔女狩り》とも、《芸術家》とも、大差ない。私たちは、変われない。
「変わりたいと願うなら、君は否理師であることをやめるべきだ。心が迷うようならば、目的に殉ずることもできない。否理師の意識は不変であるべきだ。君が成長を望むならば、否理師をやめたほうがいい」
きっぱりと、今までもっとも強い言葉をぶつけた。
在須の顔が歪む。納得できないという風に、拳を握りしめ俯く。
怒りか何かで震える体で、うなるように彼は言った。
「……否理師である前に、俺は俺だ。諦めない。逃げない。強く、なってやる」
変わる必要なんかないよ、在須。
強くなんてならなくていい。
君の優しさは、とても尊いものだ。
だから、あとごくわずかな時を――幸せに。
そう言って、彼を抱きしめたかった。だが、この幼い体では彼を満足に抱擁することもできない。
どちらが先に動き出したかわからない。だけどいつの間にか、彼と私は連れ添って教室へと戻る道へついていた。
手を伸ばせば届くはずの距離に彼はいた。でも、そのなんと遠いことか。
せめぎあう意思が、歩み寄ることを困難にしていた。
二人とも、頑固です……
あぁ、どうやったら仲直りできるのだろうかと作者が悩んでいます(汗
在須の方も、本当は歩み寄りたいくせに意地張って……まだまだ子供というか、それほど譲れない思いがあるというか。