一章 サシダス手と躊躇いのユラギ3
在須は渋った。刻兎くんにあんなことやそんなことを言われても、お母さん(私の立場で言うと伯母)によってご飯にあんなことやこんなことをされてもなかなか首を縦に振らなかった。
とうとう根負けしたのは文化祭の二日前。準備で疲れた体に、目の前のオムライスにはケチャップで『連れてって☆』、冷たい麦茶が入ったコップに結露した水で書かれた『さもなくば』、どどめにサラダの上にキュウリやミニトマトでがんばって書かれた『殺す』。
深いため息とともに言った。
「キャラ弁みたいな感覚で、楽しんでるだろ? ……わかったよ。連れてけばいいんだろ」
「ありがとう! 在須お兄ちゃん」
私は手を叩いて喜んで見せた。だが、在須は複雑そうな顔をしてる。
「まったく、兄貴や母さんといい、唄華といい、一体なんでみんな俺に『連れてけ』って言ってくるんだ?」
「えっ、唄華お姉ちゃんも……?」
上野唄華。
在須と同級生である、平凡をかなぐり捨てるほどの能力を持つ少女。
この世界の『神』。
「あら、鈴璃ちゃん。唄華ちゃんに会ったことがあったの?」
「うん! すごく優しいお姉ちゃんだよ」
何も知らない在須とその母親に、私は気取られないように平静を装う。
「大体、俺は実行委員になんてめんどくさいことやるつもりはなかったんだ。なのに、唄華が……唄華が」
辛そうに苦悩している彼に私は同情する。
常に娯楽を貴ぶ、神とはそういう存在だ。
昔からそうだった。
「というわけで、連れて行ってはやるが一緒に見て回ったりはできないと思うぞ。クラスのに加えて、実行委員だからいろいろ走り回らなくちゃならなくて。先輩が二人ほど倒れて余計に人不足なんだ」
「倒れた?」
母親が首を傾げる。
「あぁ、突然ぶっ倒れたっていう話だった。まぁ、疲れだろうな。ここ一週間、本当にきつかったから。暑くて暑くて仕方がないし」
この部屋はクーラーがきいて涼しいが、一歩でも廊下に出るとむわっとした暑さを感じる。毎年上がっていく気温には、辟易される。
「でも、少しぐらいは時間が取れるでしょ? ちゃんと鈴璃ちゃんをエスコートしてあげてよ」
「伯母ちゃん、鈴璃は大丈夫だよ。一人でも見て回れるよ」
在須との関係を修正するという目的とは外れてしまうが、そうでなくても文化祭というものには多少興味がある。
六百年生きてきて、時代が巡り変わっていくのを見てきて、こういった「新しいもの」にはその度に心踊らされた。しかもこのような祭りが存在するのはそれほど豊かで、平和だからだ。そういう人々の笑顔を見るのは――――本当にうれしい。
「あっ、在須お兄ちゃんのクラスは何をするの?」
聞いてなかったと無邪気に尋ねてみると、途端に在須の顔が引きつる。目をそらし、顔をしかめてぽつりと呟いた。
「…………童話喫茶」
「ふふっ、あはははは! じゃあ、あんたは『不思議の国の……」
バンっとテーブルを叩いて、母親の嬌声を遮る。俯けた顔がゆっくりとあげられ、そこにあった笑み――瞳は少しも笑っておらず、爛々とした殺意があった。
「……なぁ、母さん。DQNネームって知ってる?」
「もちろん。特殊な、奇を衒いすぎてて、親の趣味がうたがわれる名前のことでしょ? 若者言葉だと思って母親舐めるな。私はネットがバンバン使えるスーパーパート母さんだよ。ちなみにスーパーは超の方じゃなくて店の方ね」
「そういう話じゃなくて! 何で息子にこんな名前つけたかって、聞いてるんだよ!!」
怒りが爆発した在須は、椅子から立ち上がると人差し指を母に向かって突きつけ吠える。
「人様に指を向けるな、バカ息子」
その指を掴んだ在須の母は、ぐにっと思いっきり曲げる。はっとした私は、在須に慌ててキッと視線を送る。目が合い、在須も気づいたようで急いで母親の手を振り払い声を上げる。
「いっ、痛ー!」
演技が下手すぎる。指を押さえてあげたうめき声は、どう聞いても棒読みだった。
「ん? 在須、どうしたの?」
当然不審がる母に私は、「どっ、童話喫茶って何?」と、首を傾げて聞いてみた。
「あれ、鈴璃ちゃん、知らないの? まぁ、メイド喫茶はよくあるけど、童話喫茶はまだ知名度低いのかな?」
うまく話を逸らせたようで、母親は私に顔を向けて話し出す。内心ほっとして、ちらりと横目で在須を見ると、罰が悪そうな顔をしていて、視線が合うとふいっと逸らしてしまった。在須としては、私に借りを作ってしまったような気がしているのかもしれない。
そんなこと、気にすることないのに。
君の大切なものを失わせてしまったのは、私だから。
「童話喫茶っていうのはね、グリム童話とか、日本昔話とかそういうおとぎ話のキャラクターの仮装をして喫茶をするの。在須の学校では、毎年どこかのクラスが必ずやるのよ。人気があって競争率高いのに、よく権利をもぎとったね」
「……唄華が」
在須は蚊の鳴くような声で言う。その全身から、どんよりとした暗い感情が溢れていた。
「情けない。そんなにうじうじしてみっともないわよ。刻兎はクラスで童話喫茶やることになった時、女子からの要望に応えて、ちゃんと時計を持った兎の仮装をやり通したわよ」
「……兄貴、後でその写真を一枚一枚丁寧に燃やしてたよ」
ため息とともにがっくりと肩を下す。
「それに、俺はしないから。実行委員で忙しいから、そんなことやっている暇はない!」
「お母さん……悲しい。女装の機会を得れる名前を、せっかく与えてあげたのに」
「確信犯かよ!」
これ以上らちが明かないとでも考えたのか、それからは黙ってがっつくように晩御飯を平らげると、「ごちそうさま!」と乱暴に言い、席を立つ。
「在須お兄ちゃん!」
私は慌てて立ち上がり、彼に近づいてその手をぎゅっと握った。
びくっと小さく体が震えた。瞳が小さく揺れた。
それに気づきながらも、私は精一杯笑った。
「文化祭、よろしくね!」
「……おう」
そっと手を放してあげると、怯えた顔をした彼は気まずそうに顔をしかめ、背を向けて去っていった。
やっぱり、いてはいけないものがいるということは、それほどの恐怖なのか。
私は自分の罪深さを改めて、思い知った。