序章 瞳に込められた『善意』
横断歩道。
突っ立っている幼い俺。
足元に転がる少女の赤い姿。
受け入れたくなくて顔を上げると、少し離れた位置に少女の母がもう物言わぬ躯となって転がっている。
悲鳴を挙げるが声は出ない。ただ喉元から懐かしい絶望がせり上がってくる。
二人から溢れ出す赤い液体は、じわじわ広がる。
地面を覆い、空を覆い、世界が赤で満たされていく。
頭を抱え、何事か叫んだ。
自分の声さえ聞こえず、ただもがく。
不意に感じた視線に顔を上げる。
横断歩道の向こう側。
誰もいない。誰もいない。誰もいない。
でも、そこから感じる視線。
俺を見ていて……。
情景は変わる。
自分の手が、何かを奪った。
目の前に赤に濡れていく彼が倒れている。
殺したのはダレ? 殺したのはダレ? 殺したのはダレ?
彼に向けた俺の手が、赤く染まった。
声すら出ず、動くことさえできず、俺はただ赤に飲まれていく。
隣に気配が立つ。
ぎこちなく顔を動かしてそこを見ると、あの少女が成長した姿でいる。
でも、その瞳に宿るのはあの視線だった。
俺を見上げて、ただ黙って見つめて――――。
赤に染まった世界と、赤に染まった俺自身。
視界の端に、きらめく刀がわずかに見えた。
彼女の視線は、その時も俺に向けられていた。
×××
明日になってから、既に数時間が経っていた。
家の中はしんと静まり返り、聞こえるのはただ――自分の口から洩れる嫌な音だけだった。
「げぇ……ごほっ……がっ……」
固形物は出し切ってしまい、鼻につんとくる胃液をトイレにしゃがみこんで吐き出す。
ようやく吐き気が去り、息を整え口元をぬぐおうとした時――――口内に酸の味とまじって《血》の味がした。
唇が切れていた。それだけのことなのに、気づいた瞬間に喉元からまた吐き気が込み上がってきて、
「――ぐっ、げほっ……えっ…………」
再びトイレに顔を突っ込み、こらえきれずに吐き出す。こういう夜が、あの日から度々起こるようになった。
初めて、人を殺した、あの時。
後悔を許されないほどの大罪を犯した。
赤いものを見ると目の前に光景がフラッシュバックし、眠ろうと目を閉じると途端にあの情景が脳内から引きずり出される。
倒れていく彼の姿。そして、目の前で跳ね飛ばされ真っ赤に染まった彼女の姿……。
「くそっ……」
腹立たしい。
こんなことで、止まっているわけにはいかない。
赤い色を見るたびに気が遠くなりそうになっているようじゃ、《想片》を使うことすらままならない。
見返すことさえ、できない。
「……エンド、寝てろ」
ようやく去っていく吐き気。俺は口元を拭って、振り返らないまま言った。
「これは、俺の問題だ」
声をかけられなくても、どれだけ気配を絶たれようと、エンドの存在ははっきりとわかった。俺の勘は鋭くなっていく一方だ。
でも彼女がどんな顔をしているかはわからない。
いつものように冷たい無表情なのか。それとも泣きそうに眦を下げているのか。
どちらにせよ、見たくない。
その瞳に込められ、訴えかけてくる思いが嫌というほど伝わってきて悔しくなる。
エンドの気配が静かに立ち去る。その気配を意識して追い、二階の自分の部屋にちゃんと入ったことを確認するとやっと一息つく。
少し周囲に飛び散ってしまったものをトイレットペーパーでふき取りながら、歯噛みする。
エンドはあれから俺の修業の教授もしてくれない。「君の傷が治ってから」とか言われたが、あれからもう少しで一か月近くなる。
検査の時、兄貴にばれ危うく入院させられそうになるほど、あの事件で確かに俺の体は酷い目に合った。でも、いくらなんでも遅すぎる。
エンドが俺を見る瞳に混じる、悲しみや哀れみの色は消えない。
もしかしたらこのまま俺を「終末」から遠ざける気か?
ふざけるな。
自分の部屋に戻ると机の上に置いている想片が目に入って、その赤さに眩暈がする。
だが――――俺は手を伸ばす。
震え、萎えそうになる手を無理やり動かす。
指先が少し触れただけで、想片は俺の意志を汲みしゅるしゅるとほどけ始める。
荒くなる息を整えて、目をつぶり意識を集中させる。頭の中でイメージできた映像を――手の中に。
ずしりと、重い鉄の感覚。見開くと、思い描いていた通りの銃が存在していた。
見た途端――景色が変わる。
真っ赤に染まる。
「ちくしょ……」
手放しそうになるが、想片が手に巻きついて無理やり固定する。
確かに、こんな状態じゃエンドに心配するなと言うほうが無理かもしれない。
でも、少しずつではあるが嘔吐の頻度、そして銃の具現化の後のフラッシュバックもましになってきている。
俺は、前に進む。
彼は進めと言った。人殺しで、とんでもないことをしでかそうとした奴だったが、自分の信念にだけは忠実なやつだった。
自分の感情を殺してでもやり通した。
その生き方が正しいとは思わない、見習う気もない。
でも、ただ進むこと。これだけは、果たして見せる。
それが、俺の贖罪だ。
銃を消し、左腕に結んでいるミサンガ型の《収集器》を想片に触れさせると、溜まったエネルギーが流れ込み、わずかながら少しだけ長くなった。
もはや日課となってきているそれを済ませると、電気を消して俺はベッドに寝転ぶ。
あの夢を見た晩は眠れないのはわかっているから、せめて体を休めようと冴えた意識のまま天井を見る。
強くなる。
俺は――可哀想じゃない。
作中では、8月ラスト二週前を想定しています。
高校生は(在須の学校は進学校なので)ほとんど夏休みないですから、そういうイベントごとを挟めませんでした。
本当は海とか行かせたかったんですけど……こんなギスギスな関係になっている二人に「行け」とは言えませんでした(汗)