二章 ヒメイ響く望まぬデアイ3
「あいつ……」
一つの絵画の前に立つ男。ピシッと着たスーツの胸元に、赤いバラを指している。長い白髪を後ろで縛り、彫が深い美麗な顔は明らかに日本人のものとは違う。どこかで……確か、ほんの少し前に学校に行く途中で見かけたことがあるような気がする。
何かがちぐはぐになっているような違和感があった。容姿はもちろんだが、それだけでなく――。
俺の勘が何かを告げようとしている。
だが答えが見つかる前に、突然男はぼろぼろと涙を流し始めた。
「!!」
男は声にならないのか絵画に見入ったまま口を手で押さえる。そのまま、流れる涙を抑えようともせずに、その場で静かに悶絶している。
「吹き出しで台詞入れるなら。『おお、神ヨっ!! 私ハ、牛丼が食べたいノデス!』って感じだね」
「いや、全然違うだろ」
平然とふざけたことを言い放つ唄華に突っ込みを入れながらも、俺は男から目を離せなかった。
男は声も出さずに号泣している。瞬きも惜しいのかと思われるくらい、食い入るように絵を見つめながら。
「なんか……やばそうなやつだな」
嫌な予感がする。こういう勘には従ったほうがいいのは、経験から知っている。
「唄華、ここから離れ……」
「わー! まって~!」
突然、静寂を破り耳に飛び込んできたのは子どもの嬌声。二人の兄弟と見られる幼い子供たちが、ばたばたと騒がしく駆け込んできた。
「へへへ! 早くつかまえてみろよ」
「おにいちゃん! まってよ~」
少年たちは楽しそうに駆けっこして戯れている。その姿は無邪気で微笑ましい。
「うる……さい」
ぽつりと声がした。はっと目を向けると、男は顔を俯けていた。
拳を震えるほど握りしめ、その全身から放たれる怒りに俺は反射的に身をすくめてしまった。
何も気づいてない兄弟たちはきゃはきゃは楽しそうに笑い、男の横を兄のほうが通り過ぎようとした――その時。
突然何の予備動作もなしに、男はその少年の細い首に手をかけた。
「げっ! あ……うぐっ」
少年は急に起こった事態に反応することもできないまま、ただ苦しそうに呻いた。弟はたちどまり、その小さな目を見開きただ呆然と見ている。
「君たちには、わからないのかい?」
男はそう言った。静かな落ち着いた声だが、手は少年の首を緩やかに締め付けていく。
「この静寂なる場は、この美しき芸術品を生かすためにあるのだよ。それをつまらない戯れで汚してもらっては困るな」
「う……えげっ………」
「おにいちゃん!」
我に返った弟の悲鳴に、はっとし、気が付いたら体が動いていた。
「てっ、てめぇ何してんだよ!!」
俺はそう怒鳴るのと同時に、勢いよく振りかぶった拳で男の顔を殴り飛ばした。
するとあっけなく男は地面へ倒れていき、その隙に少年は逃げ出す。
「大丈夫? 怖かったね」
唄華がお姉さんぶって、えづく少年と、その傍らで泣き出しそうな顔をしている弟を慰めているのをちらりと見ると、俺は視線を男に戻す。
男は座り込んだ姿勢のまま頬を押え、顔を俯けている。
俺は自然と身構えていた。勘が告げる。
こいつはやばいぞ、と。
「……その勇敢さは、美しいな」
顔を上げないまま呟かれる声にぞっとする。
否が応でも、これこそが常軌を逸した狂気を孕んだ声なのだということが分かった。
ゆらりと白髪を不気味に揺らしながら立ち上がる。
自らの頬を撫で、にこりと微笑む。
「久しぶりに君のような若者に会えてうれしいよ。ここしばらく美しいと思える心根を持つものと出会えなくてね」
親しげな口調、穏やかな笑み。さっき感じた狂気は覆い隠されていた。
男は、しかし残念そうに眉根を寄せた。
「とても嬉しいのだが……つい《美》を守りたいがあまり騒ぎを起こしてしまったね。まぁ、ここから逃げるのは簡単だが、そうなれば私が去った後、君たちは人を呼ぶだろう。警備員や職員、果ては警官まで来るかもね。それらによってこの美しい空間を穢されるのは、我慢できないな。だから――――ここで君たちは消しておこう」
「な……」
何でもないかのように告げられた言葉。
男は調子を変えることなく言う。
「大丈夫。君たちの《思い》は全て、素晴らしい《美》に捧げてあげるんだから」
男の手がスーツの内に消える。
と思うと、その手にされたものがダーツのように放たれた。
避ける暇などない。それは俺の胸にめがけて飛来して――
しかし、当たるはずだったそれは、跳ね返され、床に転がった。
「えっ?」
俺自身も呆然としてしまう状況だ。
カラコロと転がるのは彫刻刀。それは突き刺さる寸前、まるで俺の胸の前にバリアーでも張ってあるかのように、傷一つつけないまま、音もなく弾き返された。
「あれっ? おかしいな」
男も首を傾げている。そのままずんずんと俺に近づいてくる。
混乱したまま、俺は後ずさるが男は構うことなく歩み寄ってきた。
「もしかして、君は《否理師》か?」
否理師。その言葉にどきりと心臓が鳴る。
「どうして、それを……」
「ん? 否理師に刻まれている根本的な理を知らないのか? ……なるほど、君は《起源》なんだね。珍しい、納得だ」
訳が分からないことをペラペラしゃべり、不意に言葉を途絶えさせた。
俺を憐れむように見て――――
「そんな貴重な存在だが、あと三年もしたら『終わって』しまうのだね」
聞き取りにくい、微かで囁くような声だったが確かにそう呟いた。
「! お前……!?」
終末のことを言っているのか……?
だが男は一瞬見せた憂い顔を引っ込め、ニコリと穏やかな笑みを浮かべた。
「ふふふ。今日は少し気分がいいな。君のような若い才能に出会え、何よりこんなに素晴らしい絵にも会えた。今回は君に免じて、その少年たちの美を穢す行いを許してあげよう。ねっ、坊やたち、もうこんなことはしないよね」
少年たちはがくがく震えながらも頷くしかなかった。
それを満足気な顔をして見届けると、くるりと背を向け男はあっさりと去ろうとする。
「待て」
と、俺はとっさに声をかけた。
「お前……何者なんだ」
「否理師だといったじゃないか。称号は《芸術家》。この世の《美》を守護するのが私の目的」
こちらを振り向き、優雅な動作で一礼する。そして、何事もなかったかのように悠然と去って行った。
ただ呆然としていた俺に、唄華は弾んだ声で言った。
「なんか、非日常なにおいがするね」
その眼に宿る、燃えるような好奇心に、俺はうすら寒いものを感じた。
何かが始まった。
そう、日常の合間に隠れる異常ではなく、異常そのものが。
×××
帰ってすぐにエンドの部屋に行き、尋ねた。
容姿、雰囲気、そして何より《想片》の形を聞くと眉をひそめた。
「それは……罪人だ」
二十年前、紛争地域で美しい遺産を守るためだと、その場にいた四十七人の思いを食らい尽くし、それからも、たびたび人殺しを繰り返してきた、過剰に《美》に固執する否理師。
《芸術家》。
デュケノア・レオ・ジョバンニ。
とうとうまた日常が壊れる時が始まりました。
今度の相手は《芸術家》
《終末の魔女》、《魔女狩り》とは違う『一般的』な否理師です。