一章 ユメから醒めるトキ2
「ただいま」
「おかえりなさいっ」
築十二年、二階建ての素朴な一軒家である深漸家の玄関を開けると、元気な声とともに、ぱたぱたという足音が聞こえた。
「おかえりなさい、お兄ちゃん」
出迎えにやって来たのは、淡い水色のワンピースを着た、ツインテールの少女。幼い顔立ちにふさわしい綺麗な瞳で俺を見る。
その瞳に気圧され――――俺はごくりと小さく唾を飲んた。
「よっ、よう、鈴璃。元気だったか?」
「うん!」
「遅いよ、バカ息子」
不機嫌そうな顔で、母はリビングから顔だけを覗かせた。
「今日は早く帰って来てって、言わなかった?」
「悪い、電車乗り遅れた」
定期代を無くしたことを言っていないため、さらりと誤魔化す。微妙に母の眉間に皺が寄ったが、元々目つきが悪いので許容範囲レベルってとこだ。
「まぁ、いいわ。これから出発するから、留守番よろしく」
いつもより若干気合いの入った格好をした母は、一旦引っ込んだかと思うと、重そうなボストンバックを持って玄関に現れた。
「あれ? 父さんは?」
「駅で待ち合わせ。せっかくペアで温泉旅行が当たったんだもの。若い頃のデート気分を味わうつもり」
年齢より少し若く見える母は、お気に入りのミュールを履く。
「鈴璃ちゃん?」
「はいっ!」
元気に返事をした幼い少女の髪を、母は優しく撫でる。
「明後日には帰るから、お留守番よろしくね。明日はもう少しでっかいお兄ちゃんも来るから、このちっこいお兄ちゃんが何か悪さしたらすぐ言いつけてね」
「ちっこい言うな」
あの無駄にでかい兄と比べられたら誰だって小さく見える。俺の身長が普通で、俺が小さいというわけではない。
「大丈夫だよ、伯母さん。鈴璃ね、いっつもお留守番してるから、お留守番得意なの。知らない人が来て
も、絶対開けたりしないよ」
「……そう、それは頼もしいわ」
少し言葉に詰まったように見えたが、母は微笑を崩さずに言った。
「それにお兄ちゃんがいるから。鈴璃ね、ちっとも寂しくないよ」
「そうね。――あんた、鈴璃ちゃんをよろしくね」
ドアノブに手をかけ、いつになく真剣な表情で言う母に、俺は強く頷く。
「もちろん。母さんも、しっかり疲れを取ってこいよ」
「それこそもちろんよ。じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃーい」
鈴璃の元気な声と共に、ドアが開いて閉まる。
バタン……。
ドアが閉まった後も、俺と鈴璃はその形のまま立ち尽くしていた。……ていうか、何の沈黙?
微妙に雰囲気が重い。
「……腹減ったか?」
「うん。ペコペコだよ」
俺の何とか絞り出してみた言葉に、鈴璃は頷く。それで、わずかに空気がなごんだ。
「え~っと、母さんが作ったカレーが冷蔵庫に入ってるはずだから、俺とお前の二人分チンしてくれ」
「了解ッ」
ぱたぱたと遠ざかっていく足音を聞きながら、俺はようやく靴を脱ぎ、玄関に上がった。そして、すぐ手前にある自分の部屋に入ると、後ろ手で閉めた。
「……ふー」
そのまま戸に背中をもたれかけて、ずるずると座り込む。掌を見ると、嫌な汗が出ていた。
「情けねぇな、おい」
こんなんで、俺はあの事を鈴璃に聞けるのだろうか。
両親が不在の機会を狙って、やっと来たチャンスなのに。
尾城儀鈴璃。俺の従妹。俺の父さんの弟の娘で、俺の叔父さんの娘。急遽、叔父さんが海外赴任となり、俺の家で預かることになった。
「……よっ、と」
掛け声をかけて立ち上がり、カバンをベットに放る。部屋着を取り出すため、タンスを探る。
その間も、俺の思考は止まらない。
果たして、本当に尋ねるべきなんだろうか。
鈴璃に。あいつに、あんな事を尋ねていいのだろうか。
怪訝に思われるだろうし、一歩間違えれば深く傷つけてしまうかもしれない。
でも、もし俺の勘が正しければ、間違っていなければ。
ごくり、と喉をならして、俺は自分の右掌を見つめた。
だとしたら、本当にそうならば、一体どうするつもりなんだ。
真実は、痛いだけだ。いつだって、そこに優しさはない。
この世界は嘘と欺瞞で覆われていて、だからこそ人は辛いこと悲しいことがあっても何とか生きていける。
無知な者がこの世でもっとも幸福なのだ。
俺が今、確かめようとしているモノだって、知らなければ、わからなければ万事みんな幸せでいられるんだ。
そんなことがわかったからって、何になる。
ただ――最悪な事実が明らかになるだけ。
「……うっ!」
猛烈な吐き気がして、体を九の字に曲げる。
目に映るのは、見慣れた自分の部屋じゃない。
ゆっくりと広がる、赤い染み。
赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤。
「……全く、情けねぇな」
そうだ。だからこそ、確かめなければいけないんだ。
あれは、俺のせいなんだから。
だから、
真実を、俺は知る義務がある。
「お兄ちゃーん。もう、支度できたよ」
カレーの匂いが漂い、鈴璃の澄んだ声が俺を呼ぶ。
「わかった。すぐ行く」
吐き気を抑え、なるべく大きな声で返事をした。
急いで服を着替えると、部屋を飛び出してキッチンに向かう。
「お兄ちゃん、遅いよ」
既に椅子に座っていた鈴璃が、不満げに唇をとがらす。
「悪いな」
と言いながら、BGM代わりのテレビをつけ、俺も鈴璃の前に座る。
家族四人が囲むには少し大きめのダイニングテーブルの上には、二人分のカレーライスと、氷が入った麦茶、(冷蔵庫にあったのだろう)きゅうりとトマトのサラダが並んでいた。
「ありがとう、全部支度してもらって」
「ううん。鈴璃、家では味噌汁とか肉じゃがとか作ったことがあるんだよ。パパが、ママの味に似てるって誉めてくれたんだ」
「……へぇ、そうなんだ」
それから「いただきます」をして、益体もない、意味のない会話をした
鈴璃が一方的に喋って、俺が相槌を打つ。
楽しくなかったとは言わないが、俺は話に集中できず、気持ちばかり焦っていた。
肝心な質問は何一つ出来ないまま、時間は過ぎ、残っている飯の量は減ってきていた。
俺の分はあと一口、鈴璃のカレーも後二分もかからず食べ終わるだろうというとき――。
――『二週間前から、立て続けに起こっている謎の失神事件。被害者は、依然として意識を取り戻さない状態で――』
「怖いね」
テレビのニュースを聞いて、鈴璃は呟いた。
「怖い?」
と、聞くと鈴璃は「うん」と頷く。
「だって、この街で起こってるんでしょ? 事件にあった人たち、まだ入院してるみたいだし。ニュースを見たパパも心配だって、パソコンにメール来てた」
「叔父さんが?」
「うん」
鈴璃は、俺の後ろの方にあるテレビを見ながら言った。
「今からでもアメリカに来ないかってあったけど、鈴璃、飛行機も外国も怖いしなー。それ言ったら、しょうがないなって、パパ許してくれた。でも、気を付けなさいって、何かあったら直ぐに知らせなさいって。飛行機が無かったら、泳いででも来てくれるって言ってたよ」
「泳ぐって、太平洋をか? 相変わらずだなぁ、叔父さん」
大げさだと言いたいところだが、あの人なら本当にしてしまいそうだ。
無理もない。鈴璃は昔から、叔父さんにとって大切すぎるほど大事な娘なんだから。
叔父さんにとって、かけがえのない存在。
「……なぁ、鈴璃」
「何?」
あどけない、無垢な表情。そこには裏も表も何もないように見えた。
最後の最後まで躊躇する。言うべきか、否か。
しかし、俺は勇気を振り絞って聞いた。
「額の傷、まだ残ってるか?」
「えっ、……うん」
「見せてくれ」
「……うん」
鈴璃はためらいながらも、少し長めの前髪を手でかきあげる。
額の左側。そこには、五センチほどの大きな古傷が斜めに走っていた。
生々しい、過去の古傷。
唾をぐっと飲み込んで「ありがとう、もういい」と言った。
鈴璃は不思議そうな顔で俺を見ながら、前髪をすいて傷を隠した。
「その事故のこと、覚えてるか?」
俺はなるべく平坦な声を意識しながら尋ねた。鈴璃は戸惑いながら、「……あんまり」と答える。
「あの事故のせいでママが死んじゃったことは、知ってるけど、でも鈴璃が小さい頃だったからよく覚えてなくて……」
「俺と遊びに行った帰りだったよな」
「……そうだったけ?」
すっかり忘れているのか、鈴璃は首をかしげた。
「あぁ。俺がもっとしっかりしてれば――――」
アンナコトニハ――――。
「お兄ちゃんが気にすることじゃないよ」
間髪入れずに、鈴璃は言った。
「悪いのは、あのトラックの運転手さんだよ。鈴璃はよく覚えてないけど……パパが全部教えてくれた。お兄ちゃんにはどうしようもできなかったし、むしろ――ママは鈴璃のせいで死んじゃったんだよ」
「鈴璃……」
「鈴璃を庇って死んじゃった。だから……お兄ちゃんが悪いわけじゃ」
「ごめん、鈴璃。そんなことを言わせるつもりじゃなかった」
何やってんだ、俺は。自己嫌悪で気が狂いそうになる。
精一杯笑いかけて、身を乗り出して鈴璃の頭を撫でた。
「俺は……悪くないな。でも、お前はもっと悪くない。そのことは間違えるな。嫌なこと思い出させて、ごめんな」
罪悪感から俺はただ慌てて、昔そうしたように鈴璃を慰めた。
鈴璃もあの頃と同じように照れるように笑って、
「在須お兄ちゃん」
俺の、名を。
「……」
俺は俯いて、ゆっくり手を下ろす。
「お兄ちゃん?」
俺の変化に戸惑う鈴璃の声が、やけに虚しく響く。
「なぁ、鈴璃」
俺は胸を掴まれるような、息苦しさを感じながら問う。
「この二週間、毎晩、お前どこに行ってるんだ?」
俺はちらりと、後ろのテレビを見やる。もう、とっくのとうに話題は変わっていて、天気予報が明日は晴天だと告げていた。
「えっ?」
「みんなが寝た後、二階にあるお前の部屋から、お前が飛び降りてどこかに行くのを俺は感じてた」
鈴璃がわけがわからないとでもいうように、ポカンとしている。
それを見て、俺は自分の弱さに歯噛みする。
違う。聞きたいことはこんなことじゃない。
今度こそ俺は聞く。確固とした確信を持って。もう、迷わない。迷えないほどの絶対の勘が、俺に告げていた。
「何で――お前、生きてるんだ?」
しん――と、した一瞬の静寂。
テレビの音はしているはずなのに、あまりにも静かな。
「とっ、突然なに言ってるの? お兄ちゃん」
「俺はお前が事故に遭うのを見た。お前がトラックに跳ねられるのを見た。お前から真っ赤な血が零れおちるのを見た」
赤い血。残酷な命の色。
「その時、感じた。お前が空っぽになって、死んだってことを」
「……」
「俺の勘が異様に鋭いのは、お前も知ってるだろ? 親戚内ではそれなりに有名だからな」
鈴璃は目を見開いたまま押し黙る。何も言わない。呆然としたその表情からは何も読み取れない。
俺は無視して、ただ問い詰めるように言葉を重ねる。
「なのに、生きてた。いや――それ自体はいいことなんだ。ただの勘違いだったってだけなんだから。でも事故に遭うまでの鈴璃と今のお前は、何というか――存在が違うんだ。鈴璃は家族以外で唯一、俺の名を呼ぶのを許したやつだ」
《在須》という名前。言動や行動はちんぴらっぽいが、意外とメルヘンチックな母親により『不思議の国のアリス』からつけられた。幼稚園と小学校とからかわれ続け、いつの間にか書くことすら嫌になった。
家族以外に呼ばれるのは、今でも我慢ならない。しかし――唯一の例外、妹のように思っていた鈴璃だけには呼ぶことを許していた。逆に呼ばれるのがくすぐったいほど、嬉しかった時期もあった。
なのに、
「さっき名前を呼ばれたとき、やっぱり思った。お前は――違う。鈴璃の雰囲気はそんな感じじゃなかった。五歳までの鈴璃には、お前のような底知れない違和感はなかった。俺はお前をどうしても、鈴璃だとは思えない」
「……」
「なぁ――お前、いったい誰なんだ?」
そう言いつつも、断言しておきながら、俺はなお望んでいた。
願っていた。
ただの勘違いだと思わせてほしい。笑ってもいい、泣いてくれてもいいから信じさせてくれ。
鈴璃が生きているという夢を見せ続けさせてくれ、と。
それなのに、
「あーあ、ばれちゃった」
鈴璃の顔で、声で、そいつはニッと薄く笑った。
「すごい才能だね。在須お兄ちゃん」
赤。
赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤。
広がる赤い染み。
腕の中で徐々に冷たくなっていく少女。
心臓の音は聞こえず、息もしていなかった。