番外 『炎』のキオク
彼が暮らしていたのは、自分の家のドアの前だった。
薄暗い路地に、ひっそりと隠れるように建っている傾きそうな家。その家のドアの前に身を抱えて蹲っているのが彼の毎日だった。
彼の家には、たくさんの男が来た。それらは全て、母親の男たち。彼らの中には、その子供をただの置物と捉えるやつや、顔をおもいっきりしかめて暴言、暴力をあびせるやつもいた。まれに、彼に菓子を与えてくれる者もいたが、そんなのはほんの一部だ。
だから嫌いだった。そんな男たちも――自分の母親も。
たまたま出来た子供。堕ろす金がもったいない、そして老いた時の労働力がいるという理由だけでこの世に産み落とされた。
思い出したようにパンを投げつけ、家の中には一切入れない。彼の体はやせ細っていた。彼自身も、自分がここまで生きているのは奇跡だと認識していた。
そんなすさんだ生活の中、彼を癒すものがあった。
ジッポに灯る、小さな炎。
冬の寒さに凍えていた時、きまぐれである男が投げてよこしてきたジッポが最初だった。
こんなちっぽけな火で温まれるはずがない。しかし、その揺らめきは彼を魅了した。ジッポのオイルが尽くと、虫のように嫌っている男に媚をうってまで求めるほど、その火に惹かれて仕方なかった。
赤い揺らめき。指を近づけると、熱くて、痛い。
生を感じた。
彼に、血を吐いてでも生き抜くことを誓わせたのは――炎だった。
そんな、ある日。
夜も更け、慣れた寒さの中、うとうととまどろんでいた彼の耳に、激しい口論の声、叫び、怒鳴り声、そして――悲鳴が聞こえた。
とっさにドアを開けた。勝手に開けたら酷く殴られてしまうことも忘れて。
部屋には、胸を真っ赤に染めて動かない男と、包丁を手にして呆然としている母親だった。
『あっ、……あんたか』
母親は彼に気付くと、なぜかほっとしたようにそう言った。
『ねぇ……、あんたは私の子だものね。私の、味方になってくれるわよね』
母親は彼の名を呼ばない。いつからか、きっと最初から、彼には名前などなかったのだ。
それを、母と呼べるだろうか。
否。彼の眼には、目の前にいる女が母親には見えなかった。
目に映るのは、汚らわしい血に染まった女、それだけ。
だから、無言のまま、無表情のまま、手にしていたジッポに火を灯し、投げつけた。
ジッポは偶然にも、その部屋を暖めていたストーブへと――。
ものすごい火勢。見たこともないほど大きな炎。
家の外からそれを眺め、彼は高揚して頬を赤くした。
暖かい……。
なんて、暖かいんだろう。
彼は熱をもった体で、家を背に向け走った。
走って、走った。消防車の音がする。
どこに向かっているのかわからない。ただ、笑いながら走り続けた。
ぼすんと、角をまがったところにいた人物とぶつかって、やっと止まった。
背が高く、年齢の割にがっちりとした体格をした老人は、煙草の煙を燻らせて、鋭い視線で彼を見た。
『火の匂いがするな……』
その言葉に、彼はびくりと身を震わせた。
『火を付けたな』
老人の言葉に震えながらも、彼はぎゅっと拳を握り締めて言った。
『俺は正しいことをした。あの汚い家を、綺麗な炎で覆ってやったんだ』
声を張り上げる少年に、老人は見透かすような瞳で言う。
『正しいことをした……か。なら、なぜお前は泣いている』
『えっ……、えっ、あれっ』
彼の目からは、絶えず涙がこぼれていた。ぬぐっても、ぬぐっても涙は止まらない。
手で目を抑えつけ、なんとか流れる涙を止めようとした時。
大きな手が彼の腕を握り、それを制した。
『受け入れろ、自分の弱さを。正しさを求めるなら』
彼は涙を抑える手段を失い、とうとう声まであげて泣いてしまった。
今でも、どうして自分が泣いていたのか彼にはわからない。
老人はずっと、彼の腕を握っていた。
『おい、この炎を見てどう思う?』
やっと落ち着いた彼に、老人は豪勢なジッポに灯した炎を見せた。
『すっごい……。今まで見てきたやつと、全然違うよ。こっちの炎は……きっと、ずっと消えない』
目を丸くした少年の答えに、老人は頷く。
『お前、《魔女狩り》になる気はないか?』
『まじょがり?』
『法では裁けぬ罪人を処刑する存在だ。自分のためでも、誰がためでもなく、一つのルールを守るために、その身を捧げる者。お前は、その道を歩む気はないか?』
彼の言葉は、正義に殉じる騎士のようだった。憧れた。今まで自分がいたのとは違う、清廉とした力強い世界。
彼は、迷わなかった。
老人は彼の師匠となり、彼は老人の弟子となった。
名ももらった。フォルケルトという、誇りにできる名前を。
まだ幼い彼と老人は見た目は祖父と孫だったが、彼は祖父にしてはひどく厳しい人だった。
だけど、その大きな姿はいたことがない父を連想させ、フォルケルトは尊敬と親愛を深めていった。
彼のもとで学ぶことは喜びだった。修行が厳しくても、学校に通えず普通の生活ができなくても十分幸せだった。
だが、彼の師は他の否理師から軽んじられていた。
《罪人》も、情報を得るために会う否理師も、『魔女を殺せない魔女狩り』と笑う。
師は寡黙な態度でその言葉を風のように聞き流していたが、フォルケルトはずっと不満だった。そんな馬鹿にした罪人が、気持ちよくあっさりと殺された時は胸が多少スカッとするが、もやもやは残った。
師に何度も聞いたが、険しい表情で黙殺された。
時が経つうちに、様々な否理師の話を聞き、やっとそのわけを知った。
理不尽に憤り、心の底から《魔女》を憎悪した。
そしてある日、師は病に倒れ、あっけなく逝ってしまった。
名誉を取り戻せないまま、蔑まれたまま。
《魔女狩り》を継いで一年、《魔女》再来の噂を聞いた時、一辺に今まで積りに積もった感情が弾けた。
《魔女狩り》は正義の代名詞。
正義の執行者として、《魔女》を処刑する。
嫌悪と憎悪をぐちゃぐちゃにたぎらせて挑んで――――負けた。
「師匠……」
機内の中、フォルケルトはぽつりと小さな声で呟いた。
どの客も寝入っていて、薄暗い空間の中、眠れず起きているのは彼だけだった。
彼の脳裏に一つの記憶が浮かんでいた。激しい感情の中に埋もれて忘れていた記憶。
『なぁ、フォルケルト……お前は、終末を信じるか?』
病床で、弱り切った体で師は不意にそう尋ねてきたことがあった。
傍らで看病していたフォルケルトは、その言葉からすぐに魔女を連想して顔をしかめた。
『信じない。あんな、いかれた妄想。あんなやつの言うことなんて、俺は絶対に信じないからな』
嫌悪を露わにして強い言葉で言いきったフォルケルトに、師は笑った。
『あぁ……そうだな』
柔らかく、苦笑して――それは自虐の笑みにも見えた。
師は厳格で、いつも顔を厳しく強張らせている人だったから、それはフォルケルトが見る初めての師の微笑みだった。
あれほど衝撃的だったのに、なぜ自分は忘れていたのだろうか。
「なぁ、師匠……」
《魔女》に負け、終末を見た彼は呟く。
「《魔女》を狩れない《魔女狩り》は、どうしたらいいんだろう」
あと、三年で終わる世界。
信じるとか、信じないかは別としてあの光景が瞼から消えない。
眠れないのに、目を閉じる。そして、思う。
師が目を背けた終末に、自分はどう向かえばいいのかを。
いかがでしたか?
彼もまた再登場させたいな~とは思いますが、いつになるか未定です。
そろそろ一部(予定)が終わります。
だけど世界はまだしばらく終わりません(笑)
未熟な点が多い小説ですが、世界が終わるころには少しは向上できていたらいいなと思います。
これからもよろしくお願いします。
感想&指摘もどんどんお待ちしております!