一章 ユメから醒めるトキ1
七月上旬。
定期テストが終わったその日、俺は学校から家まで徒歩二時間の道のりを、てくてくと地道に歩いて帰っていた。夕焼けが綺麗に空を染める頃になって、ようやくあと一キロ程というところになった。なるべく車の通りが少ない道を通り、少し細い路地へと入ったとき、
「深漸くーん……遅いよぉ」
「…………」
道路の真ん中、道を塞ぐようにして、知り合いの女子が寝転んでいた。
「知り合いって酷いよ~。同じ街の同い年で同じ中学出身で同じ高校の、しかも、同じクラスで隣の席の私に対して、そんな距離を置いた言い方しないでよ。傷つくな~」
地の文を読むな。
訂正。知り合いでもない、初めて見た謎の物体Aは、道路の上を左右にごろごろ転がりながら不満そうな声でブツブツと呟く。
「謎の物体Aってのも、センス無いね。私、生き物じゃなくなってるし、私のイニシャルにAなんて入ってないしー」
……なんだろ、あれ。
手足バタバタさせて、奇妙な言語を喋る未確認生物がいる。
無視だ。無視。
「待って! 私はあなたを待って、もう一時間もここにいるんだよ」
じゃあ、早く起きろ。
うつ伏せになって宣誓するように右腕を伸ばした物に、俺は冷たい視線をぶつける。
「わっ、今、ゴミって言った! 酷い! 今をときめく、ピッチピチ、ピッチピチした女子高ー生に! あんたそれでも男か!! 女か!! ニューハーフか!!」
……後、家まで一キロくらいか……。早く帰らないと、日が暮れてしまう。ここは車も滅多に通らない道だし、ゴミぐらい放置しても問題ないだろう。今時の男子高校生はめんどくさいことが嫌いなんだよ。道端にあるゴミを拾ってやるほど優しくもない。
逆に、踏みつける。
「むぐっ! ぐはっ!」
ゴミに片足を乗っけた瞬間、大切なことを思い出した。今日は母に早く帰ってくるように言われていたのだ。早く帰らねば、あの四十になってもまだヤンきーな母にくどくど文句を言われてしまう。
「このやろー!!痛いじゃん。もー!!」
ゴミが突然立ち上がり、俺の前に立ち塞がる。
「ゴミって確定すんなー!!」
……めんどくさ。
いいかげん、こんな茶番に付き合うのも疲れたんだけど。
もうどいてくれー。邪魔しないでくれー。
頼むから、まじで。
…………ん?
どうしたことだろう。ゴミがモジモジしている。頬まで赤らめて、一体どういうことだ?
「あ~、えっと……、それは恥ずかしいな。やめて……くれない?」
……?
「マジで頼むから、私のしっ、下着ほしいな~……だなんて」
「そんなことは思ってねー!!」
かすってもいねー! なんでこの段階でそんな間違いを。
違う違う違う違う違う!
それはお前の妄想の産物だ。なに考えてんだ、おめーは!
さっきまで、普通に会話できてたじゃん! いや、まあ心で会話できる方がおかしいのだが。
「……ふぅ」
「そこでなぜ、お前がため息をつく」
「だって、本当に私ず~っと待ってたんだよ。三十分くらい前までは、ちゃんと立ってたし」
少なくとも、三十分間は寝転がっていたということか。
「制服と顔が砂まみれになってるぞ。見苦しい」
「ん? そんなん叩けばいいだけじゃん」
不思議そうに首をかしげて、スカートを叩き始める。
「……」
俺がバカだとでも言いたいのか、こいつ。
彼女が着ているのは、俺たちの高校――私立 深橋学園の女子の夏服。ピンクと薄紫のチェックのスカートと、白の半袖のカッターシャツ。胸元にはスカートと同じ柄のリボンがついている。俺たちの年度から女子の制服はモデルチェンジされ、なかなか評判もいい。
それなのに、こいつはこんな粗雑な扱いをして、もったいない。
男子は創立以来変わらない、白のカッターシャツにグレーのネクタイという地味なものなのに。
「常識的に考えて道路で寝るなと遠回しにいう、俺の優しさに気づかないのか」
「うん。全然」
爽やかな即答。
ブチッ、と自分の血管が千切れた音が頭に響いた。
むかつく。女子でなかったら生かしていない。
「女子だからこその発言に決まってるじゃーん。ブイ」
「そうか……失せろ」
笑顔でブイサインを決める少女。これほど腹立たしい存在はない。
「あはははは。楽しいねっ!」
「何がだ」
脈絡もなく笑い出した。完璧に壊れてる。イカれてる。
痛恨のミスだとしかいいようがない。
角曲がるとき、こいつがいるような予感がちらっとしたんだ。
時間がかかっても、遠回りするべきだった……!
「そんなに嫌がらないでよぅ。深漸くんのその勘のよさのせいで、昨日もここで待ってたのに逃げられちゃったんだから。泣いちゃうよ? 泣いて、汚されたって喚いていいのかな?」
「……悪かった」
こいつと出会った時点で、人生を諦めなかった俺が悪かったんだな……うん。
「深漸くんは大袈裟だな~。せっかく私が待ってあげたんだから、もっと喜んでほしいよ」
「そうだ、何でお前は道路のど真ん中で寝てたんだ?」
「いいじゃん。私ん家の前なんだしー。私の勝手でしょ」
「よくねーよ、近所迷惑考えろ。たっくさぁ、素直に目的を白状しろ。上野」
俺がそういった瞬間、上野は突然どこからともなく黄色いカードを取り出した。
「イエローカード!」
「……は?」
「私を名字で呼ぶ人には、イエローカード。レッドカードになったら、恥ずかしいことしてもらうよ……
って深漸くんには前も言ったのに」
「……あぁ、なんかそんな話もあったな」
「記憶力ないなー。まぁ、いいや。今回のも貸しにしてあげる。いつか、万倍にして返してもらうかねっ。た・の・し・みっ!」
うふふ、とカードを口元にあてて、何やら夢想している。背筋がぞっとするかんじがしたが、たぶん気のせいだろう。
「じゃあ……唄華。お前なんで、そんなに自分の名字を呼ばれるのを嫌になったんだ? 去年までは普通によかったのに」
上野、もとい唄華に尋ねる。
「ちょっと、家庭の事情? 心の事情? 世界の事情? でね。それに深漸くんだって、名前を呼ばれたら怒り狂うくせに。中学の時、『俺の下の名を呼んだやつは全員ぶち殺す』って言ったの誰だったけ?」
「さぁ? 誰がそんなこと言ったんだろうな」
俺が言ったのは、『これ以上、俺の名前を連呼したやつは、どうなるかよ~くわかってんだろーな?』ってやつだから違うな。
「同じでしょ?」
「いや、違う。俺は疑問形にして相手に多少の配慮はしている。それ以降は、名前に関して特に何も起こってないしな」
「その台詞を言っている深漸くんの後ろに、深漸くんの名前をからかった子たちが転がってたからね~」
……忘れとけ。過去は埋めとくものだ、掘り返しちゃいけない。
「俺の名前の場合はさ、からかわれまくったから嫌いっていうか、トラウマになったていうわかりやすい理由があるだろ。だけど、お前の名字ってそういうんじゃないだろう。嫌う理由が一切わからない」
「わかってないなー。平凡だからこそ、気に入らないんだよ」
「そうかよ」
無駄なこと聞いた。こいつは凡人と価値観が違いすぎる。まともな意見を聞こうと思うのが間違いだ。
「私は深漸くんの名前の方が羨ましい。とーっても可愛いし、ふりふりの青いワンピース着せたくなる」
「黙れ。人のコンプレックスを抉るな」
この名前のせいで、今までどれほど辛い目に遭ってきたことか。母親に生んでくれたことには感謝しているが、この名前に関しては憎悪している。
「じゃあ、もう一度聞くけど――唄華、どうしてお前、こんなところで俺を待ってたんだ?」
話をそらす意図もあって、俺は唄華にそう尋ねた。唄華は、なぜそんなことを聞くのかと言いたげな態度で答えた。
「だって、私ん家の前って深漸くんの通学ルートだから、ここで待ってたら来るかなって。でも深漸くん、来るの遅いよ。何で電車通学やめちゃったの?」
「俺が聞きたいのは、お前がここにいた理由じゃなくて、待っていた目的の方だ!」
ちなみに電車通学をしないのは、半年分の定期を買うように親に渡されたお金を紛失してしまったから。催促なんて出来ず、自転車で先週まで通っていたが、その相棒もとある事故でただのガラクタと化した。
別に歩くのは嫌いじゃないからいいにしろ、その金を無くしたのも、自転車がぶっ壊れたのも全部、唄華が関わっているのだが。こいつ、忘れやがったな。
「目的……。目的ねぇ~」
「まさか、なんの意味もなくここにいたってことか?」
まぁ、こいつならあり得るけど。
しかし、珍しく神妙に首を振った。
「えっとね、深漸くん」
頬が夕日のせいで真っ赤に染まっている。珍しくおどおどした様子で、口を開いては閉じ、なにかを言うことを躊躇している。
「どうした?」
急に変わった唄華の調子に不審に思いながらも、俺は聞いた。
「あっ、あのね……」
さっきまでのふざけた雰囲気は微塵もなく、必死な顔で言った。
「私、深漸くんのことが……好き……なんだけど。私と、付き合ってくれないかな」
×××
俺の高校、私立深橋高等学校はそれなりの実績を持つ進学校である。そこの二年生で成績学年トップというのが、唄華という少女の立ち位置である。
学力だけに限れば、過去、現在、そしておそらく未来においても、深橋高校で彼女の右に並ぶ者はいないだろうと囁かれるほどである。
さらには唄華は資格マニアで、あらゆる資格を総なめにしている。英検、漢検一級は当然のこと、危険物取扱者試験乙種や秘書検定一級のようなものや、あまりにもマイナーすぎて、どう転んでも役に立たなそうなマニアックなものにも手を出している。
運動神経も決して悪くなく、特定の誰ということはなく、全ての人とすぐに仲良くなれる社交性も持っている。
あまりにも優秀すぎる彼女だが、しかしあまり優等生として見られることは少ない。
天才と呼ぶのも控えめな気がするほどのスキルを持つ彼女を揶揄する言葉は《奇人》だ。
性格、思考が破綻している。
完璧な人間がいないことの証明かのように、彼女の人格はあまりにも常軌を逸している。
享楽のままに生き、無邪気に、さながら狂人のようでもある。平凡を厭み、常に非日常を求めている。いつも笑っていて、彼女が泣いているところなんて、中学の時からの付き合いだが一度も見たことがない。
そんな唄華からの告白。
上目遣いの、おどおどした様子で俺を見つめるその顔は、不覚にもかわいいと思ってしまう。
性格のことさえなければ、こいつは学年で三番目にかわいいと言われている美少女なのだ。ぱっちりとした二重瞼に整った顔立ち。肩にかかる色素の薄い柔らかな髪。いつも笑顔で明るく、奇人ではあるが見てていて飽きない。
何も知らない男子なら、あっさり落とされてしまうに違いない。
何も知らなければ、だが。
「……これで何回目の告白だ?」
俺が静かに問うと、唄華はあっさり被っていた猫を脱ぎ捨て、にっと笑った
「六回目!」
「……もう、やめないか」
「いやっ! イエスって言ってくれるまで諦めないんだからっ」
「…………」
最初の告白は、もう一ヶ月前になる。
『ねぇ、深漸くん。クラスの理穂ちゃんねぇ、井崎先輩と付き合ってんだって』
『はあ、それで?』
『理穂ちゃんが、彼氏がいるのは幸せだって、青春の塊だって言ってた。だから、付き合わない?』
『……はあ?』
『私と、付き合って』
回想終了。もちろん、俺は即断った。
しかしそれからというもの、こいつはあらゆる手で俺を落とそうとしてくる。一度メイド服を来てきた時は、かなり引いた。似合いすぎてて、引いた。
「んで、今回はオッケーくれるのかな?」
「なにアホなことを言ってるんだ。断固として断るに決まってるだろう」
「……ガーン」
口で言って、愕然とした表情のまま唄華は固まる。
ついていけず、ため息が出てくる。家が一番近いクラスメートだからって、何で俺ばっかり災難な目に遭わなければいけないんだ。
「おい唄華、もう今日の告白ごっこは終わっただろ。早く道をあけろ」
「ごっこじゃないもん……」
目元に手を当て、わざとらしく落ち込んだ声を出す。唄華のよくやる演技だ。幼稚園児を相手している気分になる。
「どうして付き合ってくれないの? 私、こんなにも深漸くんのこと愛しているのに」
「軽口叩くな。俺は遊びとか興味本位とかで、誰かとそういう関係になりたくない」
「ふーん。身持ちが固いことで。それとも、あの噂が本当なのかな」
ニヤリッと、口元を歪めて唄華は俺をまじまじと見る。その視線に思わずたじろいだ。
「何だよ、噂って」
「深漸くん、ロリコン疑惑」
……は?
「深漸くんは、ロリコンだ!」
「断定すんな!」
「ちなみに私は、ショタコン?」
「何故に疑問形? 知るか、そんなもん!」
それよりも、えっ、何? その根も葉もない噂。
「ふっふっふ。それが根も葉も茎も花もあるんだよね。深漸くんが、めっちゃ可愛い、まさにロリーな感じの子と、スーパーから出てきたところをうっかり見てしまったんだなー」
「あぁ、それは……」
「すかさず盗撮してネットに流したのは、この私だ!」
「お前が元凶かよ!!」
「あーはっはっは、写真をばらまかれてほしくなければ、私と付き合え!!」
「もう既にばらまいた後じゃねぇか!」
「……あっ! しまった!」
順序間違えた。と、唄華はぽつり呟いた。
「それに何を勘違いしてんだか。俺と一緒にいたやつは、ただの従妹だよ。二週間くらい前から、俺の家で預かってるんだ」
「なっ、なんと!」
唄華は大きくのけぞって驚いた。
「同じ屋根の下で、少女と同棲。なんてロリコンにふさわしいシチュエーション!」
「まず、俺がロリコンだっていう前提をやめろ」
ただの親戚だ。親戚とそんなふうになるわけねーだろ。スーパーのときも、俺とあいつの他に母親もいたし。
「ふーむ、深漸くんがロリコンだっていうなら、次なる告白の手はあれにしようと思ってたのに」
「あー、そうですか。どうでもいい、勝手にしてくれ」
「楽士くんに着て見せたら、鼻血を出して絶賛してくれたほどの逸品だったから、きっと深漸く
んもって思ったのにな~」
「……あんな変態と一緒にするな」
同じにされたくないクラスメート、ナンバーワンの男だ。
あいつとは、いつか話さなければならないことがある。
「まぁ、そんなやつのことなんかどうでもいい。さっさと道を開けろ、唄華。家に帰れ、そして一生出てくるな」
俺は右手にある唄華の家――カーキ色の屋根、二階建ての一軒家。築四年――を指差して言った。
「ん? もしかして深漸くん、私のこと心配してくれてるの?」
「あぁ?」
「五人も入院しちゃった、あの奇妙な事件のことだよ」
「あぁ、そういうこともあったな……」
二週間前だろうか。最初の被害者は、深夜に帰宅途中のOLだった。一人家路に着いたはずの彼女は、早朝、道端で意識を失っていたところを発見された。現在も彼女は、病院で意識不明の状態である。どこにも異常はないのに、外界からの刺激に対して一切反応しない。
それから、一定の頻度で同じ事件が立て続けに起きている。被害者は全員、二十代くらいの女性で原因は未だ不明。
都会と田舎の狭間にある、ベットタウンと言えなくもないこの街――紙邱に、こんな不可思議な事件が起こったのは初めてだ。死人は出ていないが、被害者はまるで停止してしまったかのように眠り続けている。
「不思議だよね。深漸くんはどう思う? 私としては、宇宙人地球侵略説がおもしろいなぁって思う」
「他人の不幸をおもしろがるな。めちゃくちゃ他人事だな。この紙邱で起きているっていうのに」
「だって、私の周りの人間、誰も被害にあってないし。文字通り他人事だもの」
「確かに、そうかもしれないが」
言わないだけで、案外みんなコイツと同じ気持ちなのだろう。
危機感の薄さ。自分にそんな非日常が降りかかるなんてこと、想像さえしていない。口では怖がっていても、とても本気にはなれない。少なくとも、紙邱は変わらなかった。そんな異常が訪れても、関係なく、時は流れていく。
「むふふっ、深漸くんが私のこと心配してくれてるっ」
嬉しそうに、その場でピョンピョン跳ねる。いい年になった高校生が。恥ずかしすぎる。
「勘違いするな。俺はただ早く家に帰りたいだけだ」
「お母さんから言われてるんだっけ?」
「そう言っただろう」
いや、正確には思っただけだが。
しかし唄華は、そういうことを言いたかったのではなかったようで、首をかしげて聞いた。
「それだけじゃないよね。深漸くんにとって、もっと重要なことがあるって感じ」
「…………」
奇妙なやつ。
そんなこと思っていないのに。
気づかれないように、思考に浮かべないようにしていたのに。
こいつがおもしろ半分で一年前に身に付けた読心術が、もう神業と言えるほど洗練されている。
本当に、ついていけない。
「なんもねぇよ、別に」
乱暴にそう言って、嘘をついた。
唄華に対して、そんなもの意味がないってことくらいわかっているが、それとこれは別だ。
……人に話せるようなことじゃないのだ。
唄華はキョトンとした表情をしたが、すぐに壊れたかと思うほど、無邪気で純粋すぎる笑顔になった。
「そっか。んじゃ、私はもう帰るね。今日の晩御飯、私が当番なの。ふふふ、腕を上げて、いつか食べさせてあげるね。私の手料理」
そう言うと、スカートの両端をつまみ上げ、しなを作る。
「あなた、ご飯にします? それともわ・た・し?」
「帰れ!」
「キャハハハハハ! んじゃーね、ばいば~い」」
元気よく手を振ると、くるっと俺に背を向けて、自分の家に向かって駆けていく。
家の扉を閉める間際、笑顔で手を振って――。
バタン、と音がして、唄華はあっという間にこの場から退場した。
唄華の少しましなところ。
他人が触れてほしくないところには、絶対に触れない、絶妙な距離をとること。だから、あんなんでも、唄華のそばから人が離れることはない。
あいつと関わるのは疲れるが、嫌いになったりできない理由はそこにある。
「またな、唄華」
俺はそう呟いて、再び家路に着いた。