第一章 シノブ君へのオモイ5
大晦日のことを考えすぎて気がそぞろになっていると、母から叱責が飛んだ。
わかっていると答え、少し手を動かすが、またいつの間にか考えに没頭してしまった。
「一時間も同じ窓を拭いてどうしたの?」
さすがにおかしいと思ったのか、母が不思議そうな顔で聞いてきた。
「……別になんでもない」
「体調でも悪い? だったら無理しなくていいからね」
「大丈夫大丈夫。体調は万全だから」
「だったらいいけど。あんた、今年はいろいろと運が悪かったからね。怪我したり、倒れたりで入院繰り返して。今までそういうの無縁だったのにね。……本当にやばいときは言いなさいよね」
含みがある言葉だった。
明らかに不自然な事件・事故で入退院したことについて、兄から理由をつけてもらっているとはいえ、母親として思うことがあるのだろう。
それでも踏み込もうとせずに、基本的に見守る姿勢でいてくれることは俺にとって本当にありがたかった。
痛みを失ったことについてすら、兄しか知らない。もしばれでもしたら、今みたいに自由には動けなかっただろう。
その兄だって、口うるさいが事情には深く踏み込んでこない。
「心配かけてばかりで、悪いとは思っている」
先日の整理機構との諍いで起こったことは、『俺自身』をないがしろにした結果だということは感じていた。
感情に任せて『想い』を粗末に扱い、自分を失いかけ、唄華を危険に晒した。
「悪いとは思っているね……。でも、改める気はないんでしょう?」
手にぞうきんを持ったままの母が、俺の隣に座る。
「気を付けたいとは思っているし、できる限り努力する」
「そこで、『もうしない』って言わないところ、小さいころから変わらないわね」
やれやれと大げさにため息を吐かれた。
「本当に頑固で大変だったわ。あんたは自分の考えが正しいと思ったら、絶対に曲げないんだもの。謝りなさいって言っても、納得できない限りずっと口をへの字に曲げて黙ってる。自分が間違ってると思うことに対しては、ちゃんと改められるから、まぁいいかなとはおもっているけど。これからも親として注意はするし、心配はさせてもらうわ。でも、あんたが本当に正しいと思ってすることを、止められるとも思っていない」
「……正しいこと、か」
「本当は自分を大切にすることを一番にしてほしい。それを正しいことにしてほしい。だけど、あんたは納得がいかないんでしょ? だから、止められない。あはは、母親としてダメだなぁと思うんだけどね。昔からあんたが意地になってしがみついている何かに、悪いとも間違っているとも言えなかったから」
母とこんなことを話すのは、初めてだった。
いつもは俺をからかうだけの母が、笑みを崩さないまま訥々と自分の思いを語る。
「あんたの選んだ道が、きっとあんたの幸せにつながっていると信じることにしてるよ」
何も、言葉を返せなかった。
手を動かし続けて、何度も何度も同じ個所を拭いて、顔を向けることすらしなかった。
母がどんな表情をして俺を見上げていたのか、知ることができなかった。
「それにね。あんた、唄華ちゃんと付き合いんだしたんでしょ? あんたが無茶しても、優秀なあの子がフォローしてくれそうだから大丈夫かなって」
「ぶふぉ!」
拭いたばかりの窓に向かって、噴き出した。
「…………えっと……鈴璃か?」
絶対に誰にも言うなと言ったのに!
「あれま、本当だったのね。ずっとぼーっとしているから、恋煩いだろうと思って適当に言ったのに。そうかー、やっと唄華ちゃんの気持ちを受け止める度量が持てたのね」
母を見ると、お母さん嬉しいと涙を拭く動作をしている。
さっきまでのシリアスな雰囲気はもう微塵も残っていない。
「大晦日、友達と初詣に行くって言ってたのも唄華ちゃんとのことだったんだね。ねぇ、赤飯炊いたら家出する?」
「……今からでも家出ていいか?」
「刻兎は、初彼女記念の赤飯、食べはしなかったけど、ラップで包んで冷凍してくれたわよ」
兄はすごかった。
「大切にしたい人ができることは幸福なことよ。だから、大切にする方法について、ちゃんと向き合いなさいよ」
掃除に戻るのか、母は立ち上がって、去り際に言葉を残す。
「唄華ちゃんは、あんたが傷ついた時に泣いてくれる人でしょ?」
スキップしながらうきうきに去っていく背中に複雑な思いを抱く。
俺が選ぶ道は、もう決めてしまった。
決してこの道を、あいつは認めないだろう。
そして、俺自身も本当はその道を選びたくはなかったんだ。
果たして、正しい道と言えるだろうか。
幸せに、繋がっているだろうか。




