序章 戯れの終わり
その時が来ることを、知っていた。
自分がこの訪れを変えられないことを、彼は痛いほどわかっていた。
全てを知っていた。この世界で起こったこと全て、この世界を作る理そのものも、この先に待つ自分が変えられない【運命】についても、全てを知っていた。
「知っていても、変えられないことが分かっていても……【全能】でなくても抗うことを選ぶのが人でしてのぅ」
道化は目の前に立つものに、語り掛ける。道化が潜伏しているホテルの一室に現れた来訪者。目の前にいる人の形をしたそれは、無表情に道化の言葉に耳を傾けることもせず、細い腕を伸ばしてくる。
自分の小さな頭が掴まれる直前に道化は躱す。道化をつかみ損ねたそれは、逃げられたことに対する苛立ち等はまったくないようで、淡々とゆっくりとまた腕を伸ばしてくる。
他に何か思うことがあるようで、どこか上の空といった様子。
そうだろう、それにとってこの訪れは、ただ落としたものを拾いに来ただけなのだ。ここで失くすこともありはしない、時間をかける必要もない、作業なのだから。
「少しは儂の話を聞いてはくれんのか。あなたの代わりに、我々はこの重荷をずっと背負ってきたのじゃから。あなたのものじゃ、当然返す。だが、今は儂の話を聞いては……」
「ちょっと! そこ避けて!」
突然割り込んできた声と共に、道化とそれの間に樹木が生える。太い木々が緑の覆いとなって、それの視界を遮った。
「道化! こっち」
少女、由己が自分よりも小さな体の道化を引っ張って逃げようとする。
「来るなと言ったのに……」
道化は苦い顔をした。唯生が彼女を引き留められなかったことを、由己が自分を助けるために廊下をかけてきていたことを、リアルタイムで知っていたが、それでもそう言わずにはいられなかった。
そう思うことは止められなかった。
例え、知っていても。
「……そういうことじゃ、神よ」
小さな森があっさり解ける。驚愕し、体を強張らせた由己を、道化は庇うように背に隠す。
「神よ。我らは、【全知】を受けた我らは、全てを知ってしまった。世界が自分たちが思っていたような素晴らしいものではないと知ってしまった。先代の多くが、知ることの絶望に耐え切れず、自ら命を絶ってしまった。それでも誰も【全知】を返そうとはしなかった。引き継いでいった。それが何故かあなたにはわかるじゃろうか」
神は答えない。聞いてすらいない。そのことを道化は知っていた。でも、言葉を紡ぐことを止められなかった。
「儂も全知を求めて、絶望し、後悔した。あれほど望んだ全ては、味気なく退屈なもので、知ることで自由すら奪われた。でも、儂はこの歳まで生き続けた。あなたが拾いにくるまで、自らこの【全知】を返すことはしなかった。それはなぜか。これ程までに儂を苦しめる重荷であったのに!」
神に問う。神は答えない。
無慈悲に乱暴に掴まれた頭から、零れ落ちていく何か。
長い間身の内に在ったものが、削げ落ちていく感覚。
涙が出たのは、一体どういった感情のためか。
道化は胸の内で叫ぶ。
この知でさえ及ばぬ領域があることを。それが悔しくて。焦がれるほど知りたくて。狂うわけにも、諦めるわけにもいかなかった。
だから――――。
全てを取り戻した神は、道化を掴んでいた手を離した。背を向け、立ち去ろうとする。
「あなたに、感謝を……」
ごっそりと大きなものを失った喪失感に朦朧としていたが、自分を揺さぶる由己のおかげでわずかに保てた意識で道化は告げる。
この無知を知らせてくれたものへ。
ただ伝えたいことは。
「ただ、感謝を」
神は一瞥すらしなかった。
全てを取り戻した彼女は、ただ彼のもとへ。
最終章です!
ここまで来るまで長い時間が経ってしまいましたが、もうしばらくこの結末にお付き合いよろしくお願いいたします。