覚める者1
鎖国をしているこの国に入るのには手間取ったが、入ったのちは首尾よく物事は進んだ。
今の体は清国の娘のものだが、化粧や衣装さえこちらのものに合わせればそれとはわからない。薬売りの真似事をしていれば、旅をしていることに疑問を持たれることもない。
今回の《生》の目的としては、師に――神――に会うことだった。そのために気配の感知に鋭敏になる術を生み出し、過去の感覚を頼りに地道にさがすつもりだった。
「まさかこんなに早くみつかるとは」
だから、江戸に来てあっさりと見つけてしまったときには拍子抜けした。
神は――彼女は呉服屋の娘として親の手伝いをしていた。
黒く艶やかな黒髪、白い肌をもつ年ごろの美しい娘。まさしく看板娘なのだろう。彼女が微笑みかけると男はふらふらと吸い込まれるように店に入っていくし、女は彼女の美しさにあやかりたくて鮮やかな帯や布に手を伸ばす。
鏡としての師しか知らない私は、戸惑ってしまう。どうしても声をかけられず、向かいの団子屋に居座って、団子を食べながら呉服屋を覗いていた。
団子の空き皿が二枚、三枚となり、このままではいけないと思いつつも、勇気が出ない。
もう精神的には仙人の域に達するほどの年月を経ていたのに、師が目の前にいると思うだけでみるみる気持ちが萎縮してしまった。情けない。こんな愚かな弟子の姿を神に見せてもいいのだろうか。
幻滅されるのではないか。いや、そもそも神にとって取るに足らない出来事で忘れられてしまっていたらどうしよう。
不安がむくむくと湧き上がって、夕刻の朱が町に指し始めても、首を傾げ、頭を掻き、どうすることもできないでいたその時だった。
聞き捨てならない言葉が聞こえた。
「おみき! 俺と夫婦になってくれ!!」
私は俯いていた顔をばっと上げた。すると着物を着崩した軽薄そうな男が、神の手を握っていた。
はぁ⁉ と私はお茶をふいてしまった。
むせこみながら、さっき聞こえた言葉はなんだったのか、幻聴かと疑ったが、声は通りに響く。
「俺はお前のことが好きだ。大好きだ。愛している。お願いだ。一生のお願いだ。夫婦になってくれ」
うるさく愛の言葉をまくしたてる男に対して、おみきと呼ばれた神は呆れたといった風にはぁとため息をついた。
「いい加減にしてくれませんか。私はあなたと夫婦になる気はございません」
「そんなことはない! お前の運命の相手は俺で、俺の運命はお前だ。俺たちは一緒になることが生まれる前から決まっていたんだ」
危うく持っていた茶飲みを割りそうになった。男の口からぽんぽん飛び出してくる軽い一言一言が私の勘にひどく触った。
「なんだあれは」
思わず口にしてしまった私に、団子屋のばばが「いつものことですよ」と返す。
「いつものこと?」
「そう。あそこの大店の旦那は、身分違いの娘と大恋愛をして波乱万丈乗り越えて今の幸せを得た。だからこそ娘にも自分たちのように燃える恋をしてほしいと、求婚者を募ったんだよ。その求婚者の一人があの男なんだよ」
「ということは、あれみたいな求婚者がほかにも」
「いやいや。お姫様はかぐや姫のようにつれなくてね、他の求婚者はみーんな諦めてしまったんだよ。あの男だけだよ。つれなくされても、塩をまかれても、毎日こりずにやってくるのは」
どうやらその果てに町の風物詩のようになってしまったのだろう。通行人や他の町人もこの光景をほほえましく見守っている。
しかし私には腹ただしいものとしか映らなかった。どうみても嫌がっている娘に無理やり言い寄っている風にしか見えない。
神を困らせるなど、無礼にもほどがあった。
「好きだ好きです好きなんだ。おれと一緒になってくれー」
「うるさいです。黙っていただけませんか」
土下座して頭を地にこすりつけ始めた男と神の間に、私は分け入って窘める。
「誰だ、お前は」
男はぽかんとして、汚れた顔を上げた。
「私は」
「あら、おすず。久しぶりね」
柔らかな声がして、そっと肩に手を置かれた。
「おみきの知り合いか」
「えぇ、昔の馴染みなの。数年ぶりね。お父上は元気?」
「え、あの、その」
顔を覗き込まれて、しどろもどろになる。心臓が早鐘をうった。
昔、頭に直接送り込まれていたものとは違う、少し高くて柔らかな声。
なのに、懐かしい。
「久しぶりに語らいましょう。今日はもうお仕事終わりだから、このまま部屋にあがってよ。いいわよね」
「は、はい……」
「というわけで、鈴太郎さん。今日はもう帰っていただけますか」
私に向けての言葉とはうって変わり、ぴしゃりと冷たく神は言った。
言われた男、鈴太郎は仕方ないなと頭をかく。
「また明日な。おみき」
「……」
神は無言で男を一瞥すると私の背を押して、家に上がるようにせかす。
私は神に急に話しかられたことの戸惑いと、男に対して抱いた「ざまぁ」という自分らしくない気持ちに戸惑いながら、慌てて座敷へとあがった。
二人きりになった途端、気配ががらりと変わった。
「驚いた。生きてたんだねぇ」
私をまじまじと見る目には光はない。冷たい氷のような視線。先ほどの男に向けたものとも違う。
しかし、私の中で過去の神と今の神が一致したのはこの時だった。
あの時も、今と同じようにこの存在が自分にぶつける感情は冷たい、呆れのようなものだったから。
「お久しぶりです」
だからやっと声を出すことができた。
私は彼女の足元に平伏する。かつて鏡に向かってやっていたことを、自然と体がなぞっていた。
「お会いできてうれしいです。神様」
「ふぅん」
つまらなそうに言うと、神はその場に座る。
「それで」
「え……」
「何が目的で、ここに?」
「それは今度こそ神に、私の師を」
幸せにするために参りました。
と、言った瞬間に自分でも自分の目的を自覚した。ずっとこれが心残りだったから、私は神を探そうとおもったのだ。
「それで」
「え……」
「具体的には、何を私にしてくれるの?」
「あっと、それは」
勢いで出てしまった言葉故続かず、私は顔が熱くなるのを感じた。神に感謝を伝えたい。神にこれまでの自分の成果を示したい。神に自分の成長を見せたいと。いろいろ考えていたのに、混乱するばかりで何一つ具体的には浮かばなかった。
まるであの頃の、最初の私に戻ってしまったかのようだ。
「えっと、神様は今、幸せですか?」
「わからない」
とっさに場をつなごうとして出た言葉だった。それに対して神は自分と別れた時と同じ答えを返した。
「でも」
違ったのは、その続きがあったことだ。
「もう少しで何かをつかめる気がする。私はきっと……」
その先を言いよどんで、神は私を見た。まっすぐと。
「私を幸せにしに来たというのならば、この先を教えてくれ」
今までなかった先へ続く言葉が告げられた。