第一話 クズ男の戯言 Sideハイドランジア
「まだ、妻の記憶は戻らないのか」
「はい。申し訳ございません」
私の質問に無表情で受け答えをするのは、妻イベリスが輿入れの際、実家である伯爵家から連れてきたアリッサムという侍女だった。
乳姉妹だと聞いているが、双子かと思われる程よく似ている。
強いて言うならば、妻のほうが全体的に華やかで、流石は伯爵令嬢といった気品が漂っていた。
窓際に座って外を見つめ続けるイベリスは、色白の肌が透き通るよに美しく、匂い立つような色香も感じさせる。
ただ、彼女には私の記憶がない。
三年前、二十七歳だった私は、十五を迎えたばかりの妻と形ばかりの結婚をした。
とは言え、子供にしか見えない彼女と子作りする気にもなれず、私は長年恋人にしていた幼馴染のロベリアと別邸で生活していた。
本宅には、父の代から仕える優秀な執事と侍女長がいる。
領地に関することも、弟夫婦が現地に拠点を置いて取り仕切ってくれていた。
私は、王都の社交で人脈を作り、我が領地の特産品であるワインの売り込みをする。
皆それぞれに、役割分担が出来上がっていたことで、何の問題もなく月日は流れた。
だが、三日前、本宅よりイベリスが高熱で倒れて生死をさまよっていると連絡が入り急行した。
幸いにも一命を取り止め、目を覚ましたのだが、
「貴方が、私の旦那様なのですか?」
と聞かれて肝を冷やした。
結婚式以来、三年も会っていないのだ。
覚えているはずもないと思ったのだが、そうではないらしい。
侍女のアリッサムから手渡された妻の日記には、私への思いが綴られていた。
初めて顔合わせをした日に、運命の人だと感じたこと。
私の強面だと揶揄される硬い表情を、愛しいと思ってくれていたこと。
自分が子供だから、相手にされないと悲しく思っていたこと。
十五歳から十八歳に至るまでの毎日、イベリスは、美しく丁寧な文字で思いの丈をしたためていた。
それが途切れたのは、熱を出した日。
そして目覚めた時には、日記の存在は彼女の記憶の中から綺麗になくなっていた。
更に、私を複雑な気持ちにさせたのは、私以外の人間の存在を覚えていることだった。
執事も侍女長も、さらには厨房の下働きまで、イベリスを心配して見舞いに来た全ての使用人に、優しい微笑みで受け答えをする。
それなのに、私に対してだけは、視界に入っても、ぼんやりと空中を見つめてニコリともしない。
最初は腹立たしさを覚えたが、怒鳴れば怯え、手を挙げようとすれば使用人全員が止めに入る。
家格は侯爵が上でも伯爵家から多額の資金援助を受けており、もしイベリスに怪我でもさせれば直ぐに返済を請求されるからだ。
「又来る」
吐き捨てるように言うと、侍女は、慇懃に深々と頭を下げた。
言葉にせずとも、
『早く出ていけ』
という気配を感じさせる姿だ。
このアリッサムという女は、丁寧な対応の中にも、私への嫌悪感を隠さない。
それが益々私を苛立たせるのだが、何故か強く叱ることが出来ない。
彼女のうちに秘めた意志の強さと真っ直ぐにこちらを見つめてくる視線の圧に、たじろいでしまう自分を感じる。
普段なら、私の方が他の人々に感じさせるであろう感情だろう。
人より大きな体躯。
凛々しいというより、厳しい顔。
立っているだけで存在感がある自分を、更に大きく見せる術を常に考えてきた。
喋り方やちょっとした所作。
動じない感情と否と言わせない威圧感。
父が早世したことで、早く家督を継いでしまった私は、日々の積み重ねでなんとか侯爵家当主としての威厳を保っている。
それを根底から覆されるような感覚は、私を不安にさせた。
アリッサムの前に立つと、ポロポロとメッキが剥がされてしまう恐怖を感じるのだ。
それから逃れるように早々に妻の部屋から退散し、本宅にある自室に戻った。
別邸のロベリアからは、毎日帰ってきて欲しいと手紙が来る。
しかし、妻の記憶喪失を伯爵家へ知られるわけにはいかない。
家人たちは皆、妻の味方と言っていい。
見張っていないと、いつ伯爵家へ連絡を取られるか分からない。
しかも、三年もの間イベリスを放置してきたのだ。
記憶喪失の原因が熱のせいだとしても、すべての責任は私にあることになるだろう。
私は、侯爵家の当主として、家格の釣り合った女を妻にしなければならなかった。
だから、まだマシと思える女を選んだ。
別邸にいるロベリアは、幼馴染だ。
結婚前からの関係で、別れるつもりなどない。
男爵の一人娘である彼女は、一応、貴族という身分を持っているが、その程度の爵位では、侯爵夫人にはなれない。
私と長年連れ添った為、社交界でも名を知られ、新しく結婚相手を見つけることなど不可能だろう。
当然、男爵家も、ロベリアの代で終わりだ。
私と居る為に、彼女は多くのものを失った。
そんな可哀想なロベリアは、それでも私についてきてくれるという。
ここまで慕ってくれる女を捨てるなど、私には出来ない。
「ふぅ」
私は、小さくため息をついた。
テーブルの上には、妻の日記がある。
三年に及ぶ文章量は、分厚い三冊に詰め込まれている。
こんなにまで、私を想ってくれていたのか……。
それを顧みなかったことへの罪悪感が頭を痛くする。
この日記のなかで、イベリスは、三回誕生日を迎えていた。
申し訳程度に送ったプレゼントを、宝物のように褒め称え、大切に使ってきた情景が読むだけで伝わってくる。
私は、彼女との日々を埋めるように、日記を読み続けていた。
別邸の幼馴染を忘れてしまうほどに……。




