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魔力なしで家を追放された長男ですが、最後までついてきたメイドと外れ領地を最強にします  作者: Mu no Shosha


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第5話 屋敷の夜、俺のメイドにだけは隠せない

夜の屋敷は、昼とは違う顔をしていた。


良くなったわけじゃない。

ただ、嘘が減っていた。


昼間の大きな屋敷というのは、たとえ腐りかけていても、まだいくらか芝居ができる。

人の足音がある。扉が開く。仕事の音がする。厨房から煙が上がる。使用人が行き交い、薪が運ばれ、皆が“日常”という名の薄い布を被せて、秩序のように見せかける。


だが夜は違う。


隙間風が、本当に寒い場所を教える。

静けさが、空きすぎた区画を暴く。

軋む木が、まだ保っている場所と、ただ惰性で立っている場所を告げる。


東の村から戻った時、俺はそれを玄関をくぐる前に感じた。


フェルスガルドは、もう完全に放置された屋敷ではなかった。

だが、生きた屋敷ともまだ言えない。


ちょうど中途半端なところだ。

長く積もった汚れを動かし始めたばかりの家が、一時的にかえって醜く見える、あの段階。


それでも変化はあった。


使用人たちが椀や毛布やましな薪を運んでいる。

階段近くには新しい蝋燭が二本灯っている。

脇の廊下は少しだけ清潔になり、厨房の匂いも“ひどい”から“食べ物”へ近づいていた。


そして何より、屋敷全体にあの空気があった。


命令に従うことに慣れた人間が、そろそろ“考えて動く”ことを求められるかもしれないと察した時の、あの張った空気だ。


階段の前で少しだけ足を止める。


体が重かった。

村の共同窯を触った反動は、俺を倒すほどではなかったが、安くもなかった。

石の鎧でも着たまま眠り、まだそれが骨へ張りついているような感覚。首の付け根が細く痛む。実に不愉快で、まったく英雄的ではない。


もちろん、エレナは俺が認める前に気づいた。


「旦那様は、そのままお部屋へ」


そう言って、彼女は自分の肩に掛かっていた俺の外套を外しながら、露骨すぎない手つきで整える。


「命令口調だな」


「ええ」


「まだ報告を見たいんだが」


「旦那様がその報告の上に死体みたいに倒れ込んだ後でも見られます」


ギャランが東棟へ続く階段の途中でこちらを見た。


「彼女の言う通りです」


俺は顔を向ける。


「お前、最近それを言う頻度が増えてないか」


「どっちです? 彼女が正しい方ですか、それとも旦那様が自分を誤魔化す方ですか」


「今すぐお前を解任したくなってきた」


「そうすると、口の利かない人間ばかりが残ります。フェルスガルドには悪い傾向ですね」


また少し気に入った。

それはあまり良くない。気に入る男はたいてい頭の中で存在感を増やしすぎる。


「一時間後、執務室へ来い」


俺は言う。


「本当の状況を聞く。警備も、周辺もだ」


「旦那様が一時間後にまだ立っていれば」


「立っているわ」


エレナが、俺より先に答えた。


その言い方には、判断権が俺にあるようにはあまり聞こえなかった。


南棟の廊下は、戻った時より少し見やすくなっていた。

灯りが安定している。

奥の窓には、布と新しい木材で仮の塞ぎがされていた。


小さい修正だ。


だが、小さい修正というのは、まだ間に合うかもしれない場所にしか生まれない。


部屋へ入って最初に気づいたのは、温度だった。


寒い。

だが、昨夜ほど攻撃的じゃない。


考えるより先に暖炉の脇へ手が伸びる。


【南棟寝室・暖炉】

熱効率:36%

熱循環:中

薪消費:従来比で改善

機能安定性:許容範囲


少し上がっている。


満足するには早い。

だが、手を入れたものが“その場かぎり”ではないと分かるだけで、かなり気分が良かった。


エレナが扉を閉め、革の書類入れを小机へ置いた。

それから、すでに決めていたことをただ実行する人間の顔で俺を見る。


「座ってください」


「最近、お前が当然みたいに俺へ指示を出すのが気になってきた」


「管理上の勝利だと思って諦めてください」


暖炉脇の椅子へ腰を下ろす。

別に言われたからじゃない。

体が数秒前からそのつもりだっただけだ。俺の威厳が、その事実を追いかけるのに少し遅れただけである。


エレナは水差しと布を用意し、いつの間に持ち込んでいたのか、小さな木箱を開いた。

中から出てきたのは、濃い色の小瓶。苦い薬草と薄い酒精の匂いがする。


眉を上げる。


「お前、薬まで隠して持ち歩いてるのか」


「今さらですか」


エレナは乾いた声で言った。


「旦那様が自分の体で不便な奇跡の実験を始めるずっと前からです」


危うく笑うところだった。


彼女は濡らした布を持ち、何の断りもなく俺の頬へ手を添えて顔を光の方へ向ける。


「鼻血はまだ出ますか」


「領地規模の愚行をすると、たまに」


「今日は少ないと助かります」


布が肌へ触れる。

最初は水の冷たさ。次に、彼女の手がじわじわと温度を持つ。乾いた血を拭い、目元を見て、それから小瓶の蓋を抜いた。


「少ししみます」


「気遣いが雑で美しいな」


「黙ってください」


こめかみと首筋へ薬液が塗られる。

匂いは強い。苦く、鋭く、鼻に刺さる。

最初は確かに痛い。だがそのあとで、頭痛が一歩だけ引いた。消えるわけじゃない。ただ、少しだけ偉そうな顔をやめる。


目を閉じる。


「どこで覚えた」


俺が聞くと、エレナは首の後ろへ薬をすり込みながら答えた。


「私よりずっと愛想のない女に」


「それは本当に存在するのか?」


「ええ。葉を潰す手順を間違えるたびに、木の匙で叩かれました」


「急にその人へ興味が出てきた。俺が会った貴族の半分より面白そうだ」


「それは旦那様の知る貴族の質が悪いだけです」


そのまま少し沈黙が落ちた。


暖炉の火が低く鳴る。

外では風が壁を撫でていく。

エレナの距離が近い。近すぎる。だが、あまりにも自然すぎて拒絶のしようがない。


彼女が離れると、むしろ空気の方が悪く感じた。


「そろそろ話してください」


エレナが言う。


目を開ける。


「何をだ」


「旦那様が、触れたものから何を見ているのか」


……ああ。


そこへ戻るか。


もう曖昧に流す段階ではなかった。

エレナは見すぎている。馬車、暖炉、倉庫、共同窯。しかも彼女は、俺が誤魔化してもいずれ自分で形へたどり着く種類の人間だ。


椅子へ深くもたれる。


「機能が見える」


そう言った。


「状態、価値、効率、損耗、危険。そういうものだ。物が、自分の限界や欠陥を勝手に申告してくるみたいな感じに近い」


エレナは口を挟まない。


「魔法じゃない。少なくとも、俺が子どもの頃から聞かされてきた魔法とは違う。属性も精霊も詠唱もない。もっと乾いている。構造に近い。俺の権限の下にあるもの、あるいはそれに近いものに触れると、“数値みたいなもの”として把握できる。それを、無理をすれば少し動かせる」


「動かせる」


彼女が繰り返す。


「改善、修正、場合によっては強化。たぶん、逆もできる。試していないが」


「人は?」


火を見ながら答える。


「まだ分からない」


「まだ試していないのか、まだ届いていないのか」


横目で見る。


「お前、本当に嫌なところを先に聞くな」


「長所ですので」


息を吐く。


「兆候はある。人間に関わる成長や素質や規律、そういうものに触れられる可能性は感じている。ただ、まだ手を出していない」


「なぜです?」


「代償だけじゃない」


そう言ってから、少し間を置いた。


「意味が重い」


エレナは黙っている。


「壁や窯に触るのとは違う。もし人を“調整”できるなら、それは統治と侵入の線が曖昧になる」


その言葉は、自分で口にしても嫌だった。


エレナは水を注ぎ、一杯を俺へ、一杯を自分へ置いた。


「何を動かしているのか次第です」


「それでもだ」


「それでも、はい」


彼女はあっさり認めた。


「ですが、道具の全体像も分からないうちに怖がって遠ざけるのは愚かです」


水を取る。


「試せ、と?」


「学べ、です」


エレナは真っ直ぐに言う。


「旦那様が早い段階で良心を気取っても、領地の危険は減りません」


きつい。

だが、価値のある言葉は大体そのまま刺さる。


「お前」


少しだけ苦く言う。


「そういうことを、ずいぶん迷いなく言うな」


彼女の目が一瞬だけ落ちた。

本当に、一瞬だけ。


「誰だって、遅かれ早かれ、無垢と理解のどちらかを失います」


そう答えた。


それ以上は聞かなかった。

今はまだ、そこへ踏み込まない方がいいと分かっていた。


扉が二度叩かれる。


「入れ」


ギャランが薄い書類束を持って入ってきた。

濡れた雪が外套の端から落ちる。彼の視線が俺、エレナ、部屋の匂い、濡れた布へ一度だけ流れた。


何も言わない。


いい。

こういうところで余計なことを言わない男は助かる。


「警備と周辺の報告です」


書類を受け取る。


……ひどい、とまでは言わない。だが、十分きつい。


フェルスガルドの外壁は、主要部こそまだ使えるが、北側の二か所は大雪の前に補強が要る。

東の見張り所は灯油と縄が不足。

北西の、使われなくなった鉱道付近では盗賊の動き。

十一日前には行商人が一人消えている。

そして隣領の男爵オーゼンが、紋章を見せない下っ端を使って、境界の労働者へ“保護”と称した接触を始めていた。木材や革を安く買い叩くための下見だ。


「隣領主か」


俺が問うと、ギャランは頷く。


「オーゼン男爵です。表立っては来ません。否認しやすい顔だけを寄越します」


「分かりやすくて助かるな」


「助かるのは向こうです。今までは」


紙をめくる。


警備兵の数は多くない。

だが、完全に使い物にならないわけでもない。問題は装備、遅配、士気――お決まりの腐敗三点セットだ。


「実際に戦えるのは何人だ」


「“まともに”なら、私を除いて四人」


「残りは」


「腹を空かせた盗人を追い払う程度なら使えます。本気で安心はできません」


「実に明快だ」


ギャランは肩をすくめる。


「整理して言うと、そうなります」


エレナは横で黙って聞いていた。


「オーゼンは」


俺は尋ねる。


「どのくらい前からこちらを試している」


「誰も強く出てこないと確信し始めてからです」


「ダーランは知っていたな」


問いではなく言った。


ギャランは一度だけ頷く。


「知っていて黙っていたでしょう。内側をわざと弱く見せれば、自分の取り分を増やせますから」


「内側の鼠と、外の死肉漁りか」


俺は鼻で笑う。


「辺境らしくて泣けるな」


ギャランが腕を組む。


「北側の巡回を増やすべきです。壁の再点検も。あとは兵に、屋敷へ主人が戻ったと分かる何かを見せることです」


「何が効く」


俺が聞くと、彼は即答した。


「一週間のまともな飯。少なくとも一度の満額支給。曖昧でない命令。あとは一つ、見せしめ」


「何のだ」


「無能と横領に、もう逃げ道がないという見せしめです」


それはその通りだった。


「ダーランか」


「首を吊れとは言いません」


ギャランは言った。


「ですが、“これで終わった”と兵に分からせる必要はあります。武装した連中は、噂より処分を信じます」


エレナがその前に口を開いた。


「旦那様は、威圧を急いで腐らせるような真似はしません」


「少し考えていたんだがな」


「いいえ。旦那様が考えていたのは、屋敷全体が一度で背筋を伸ばす程度には冷たい方法です」


「それは効く」


「短くは」


エレナは切った。


「その後に腐ります」


ギャランが俺と彼女を見比べる。


「彼女が正しい」


目を閉じる。


「お前たち、最近やたら結託してないか」


「旦那様が、効率と演出をよく混同するだけです」


エレナは平然と言う。


「本当にお前は、言い方がうまい時ほど腹が立つな」


「材料が豊富ですので」


立ち上がり、窓辺へ向かう。


外はもうほとんど夜だった。

雪と灯りがまだらに中庭を切り取っている。倉庫の方では兵が二人動き、厨房からは以前より安定した煙が上がっていた。


外壁の影は、守りというより疲労に見えた。


窓枠へ手を置く。


【フェルスガルド領主館】

構造健全度:41%

全体熱快適度:18%

行政効率:27%

内部忠誠:不安定・微増

即時政治リスク:中

外部からの敵対的探り:増加中


……面白い。


屋敷の側も、こちらを少しずつ認識し始めている。

“内部忠誠:不安定・微増”。

物にまで評価される領主というのも、妙な気分だった。


手を離して振り返る。


「明日の朝、三つだ」


俺は言った。


「一つ、警備兵と装備の完全な棚卸し。二つ、東棟と西廊下の点検。小規模な崩れと隙間を優先して潰す。三つ、ダーランの処分をこの屋敷全員へ見せる」


ギャランが待つ。


「で、どうするんです」


「殺さない」


二人とも黙って俺を見る。


「まだ、な」


そう付け足す。


「殺せば早い。だが、それだけでは回収できるものが減る。ダーランには、関わった名前を全部吐かせる。隠した資産を返させる。主要な使用人、警備兵、村の代表の前で責任を認めさせる。地位も財も快適さも剥がす。その後で、まだ生かしておく価値があるか決める」


ギャランがわずかに顎を引いた。


「十分に公だ。十分に屈辱でもある。使える」


「後から追加で叩ける余地も残ります」


エレナが言う。


「ああ」


俺は頷く。


「違いを見せる。怒りだけじゃなく、方向でな」


ギャランは空になった書類入れを手に取った。


「兵には伝えます。東棟の見張りも増やしておきましょう。あの男が雪の中を脂肪ごと転がって逃げる前に知りたいので」


「少し見たい気もする光景だ」


「運が良ければ」


ギャランが出ていくと、部屋がまた静かになった。


さっきまで三人いた空間は、二人になるだけで急に近い。


俺は椅子へ座り直す。

今度は少し隠す気もなく重かった。


エレナが見下ろす。


「ようやく、きちんとひどい顔になりましたね」


「見栄えの一貫性を大事にしている」


彼女は無視して書類をまとめた。


「ここで食べてください」


「小食堂でそれらしく見せた方がいいんじゃないのか」


「必要ありません」


「俺の細い野望がどんどん潰されていくな」


「旦那様に必要なのは外聞ではなく、熱いスープです」


扉を少し開けて誰かを呼ぶ。

しばらくしてマルタが食事を運んできた。


濃いスープ。予想よりずっとましなパン。香草を混ぜたほぐし肉。根菜の煮たもの。

派手ではない。だが、ちゃんとした食事だ。


マルタは卓へ置きながら言った。


「厨房の竈、さらに回るようになりました。共同棟の窯も、最後まで熱が持ちましたよ」


「そうか」


「村の連中も分かってます」


「なら結構」


マルタは一度だけ頷き、出ていった。

あれはまだ忠誠ではない。だが、十分に仕事の顔だ。


食べ始める。

三口目で、ようやく自分がどれだけ空腹だったか思い出した。


エレナは立ったまま、まだ紙を見ている。


それが少し気に障った。


「座れ」


彼女が顔を上げる。


「仕事中です」


「俺もだ」


「旦那様は食事中です」


「そうだ。だから、一人だけ人間扱いされているみたいで落ち着かない」


エレナは数秒だけ俺を見た。

反論するか迷って、それを面倒だと判断した顔だった。椅子を引き、向かいへ座る。


「満足ですか」


「かなり」


小さめによそって彼女の前へ出す。

エレナは皿を見て、それから俺を見る。


「これは新しい形の権力行使ですか」


「丸一日、屋敷と村を立たせ続けた人間が、俺の前で立ったままなのが気に入らないだけだ」


彼女は匙を取る。


「言い方だけが妙にひどいですね」


「自覚はある」


二人で少しの間、黙って食べた。


嫌な沈黙じゃない。

空っぽでもない。

同じ一日を充分に使い切った人間同士だけが持てる、重さのある静けさだった。


先に口を開いたのはエレナだった。


「テッサから伝言がありました」


「今か?」


「村を出る前にです。共同棟が明日もあの調子なら、女たちで東の溝作業の人間向けに追加の汁物を作るそうです」


顔を上げる。


「試してるのか、歩み寄ってるのか」


「両方です」


「悪くない」


エレナは一口飲んでから続けた。


「それと、リナは暖まってから咳が少し落ち着きました」


それは思ったより静かに、だが深く胸へ入った。


「……そうか」


「ええ」


また食事へ戻る。


この屋敷へ来てから食べた中で、一番ましな味だった。

洗練されているわけじゃない。

ただ、役割を果たしている。悪い時代に必要なのは、だいたいそういう食事だ。


「エレナ」


「はい」


「村で、お前が言ったこと」


彼女は匙を置く。


「単純でいられなくなる、という話ですか」


「そうだ」


「ええ。言いました」


「お前は本気だった」


「もちろんです」


視線を合わせる。


「それで、困ってる」


少し考えてから、彼女は言った。


「……困る、というのとも少し違います」


「じゃあ何だ」


彼女は一瞬だけ俺の手元へ目を落とし、それから戻した。


「乱れます」


思わず笑いそうになった。


「本当にお前は、感情まで管理不良として扱うな」


「そうしないと保てませんので」


「保ててるのか」


聞いてから、少し早かったかもしれないと思った。


エレナは予想以上に長く沈黙した。

だが逃げなかった。


「以前ほどは」


静かにそう言った。


胸の奥が妙に締まる。

分かっていたことだ。

ただ、それを彼女自身の声で聞くと、形が生まれる。


火の明かりが彼女の横顔を柔らかく切っていた。

整った服。乱れない手元。いつも通りの姿。

それでも今、この場にあるのは弱さじゃない。


慎重に差し出された、本物の不安定さだ。


それは厄介だった。

あまりにも大事に扱う必要がある。


「じゃあ」


俺は言った。


「俺は何をやめるべきだ」


彼女は鼻先で小さく息をこぼした。笑いにもため息にも似ていた。


「分かっていたら、乱れていません」


「不親切だな」


「ええ」


「少し卑怯でもある」


「それもそうですね」


そこに本気の棘はなかった。

ただ、痛みが少し混ざっただけだ。


頭を傾ける。


「なら、聞き方を変える。俺は何を、見ないふりするのをやめるべきだ」


エレナの指先が皿の縁を軽く握る。


「旦那様は、本当にこういう時だけ、最悪なほどはっきりします」


「火事も盗みも寒さもない時間は貴重だからな」


「理屈として強すぎます」


しばらく互いに黙ったまま見つめ合う。


やがてエレナが視線を落とし、ほとんど俺にしか聞こえない声で言った。


「二人きりの時くらい、“ただのメイド”として扱うふりをやめてください」


短い一言だった。


だが、妙に重い。


「エレナ――」


「別の呼び方をしてほしいとか、約束が欲しいとか、そういうことではありません」


今度は、はっきりと俺を見る。


「ただ、旦那様があの目で見ておいて、そのあとで全部を“主人とメイド”の枠に押し込めたふりをするのは、やめてほしいんです」


部屋がまた狭くなる。


外では風が鳴っていた。

暖炉が小さく弾ける。

遠くの廊下で誰かが薪を動かしている音がした。


それでも、そこだけ妙に静かだった。


両手を卓へ置く。


「俺は、ふりなんてしてない」


エレナの目が揺れずに返してくる。


「では、何をしているんですか」


答えは思ったより簡単に出た。


「失いたくないものを、下手に壊さないようにしてる」


そのまま言葉を継ぐ。


「この家で、俺が本気で失いたくないものなんて多くない。その一つを、お前で試したくない」


エレナは動かなかった。


しばし、どちらも何も言わない。


そのあと、彼女の方が先に視線を逸らした。

負けたからじゃない。ただ、そのまま受けるには強すぎたのだろう。


「それも」


彼女は小さく言う。


「余計に困ります」


「言いながら気づいた」


「遅いです」


「三日で一か月分くらい生きてるんだ。多少遅れる」


それが不意を突いたのか、エレナが短く笑った。

疲れていて、素で、危険なくらい綺麗だった。


「旦那様は、本当に時々だけ少し面白いですね」


「評価が低い」


「それでもかなり甘めです」


食事へ戻る。


そのあとは長くは話さなかった。

必要がない沈黙だった。

同じ一日を背負った者同士のものだ。


食事が終わる頃にはかなり夜も深くなっていた。

エレナは翌朝すぐに必要な書類だけを分け、残りを片づけようとした。


俺が先に立つ。


「それは俺がやる」


「旦那様はまだ半壊しています」


「腕はある」


「今のところは」


それでも盆を取って脇の卓へ運ぶ。

戻ると、エレナが扉のそばでこちらを見ていた。


「何だ」


「いえ」


少し首を傾ける。


「何かを計算し直しているだけです」


「不安になる言い方だな」


「正しい反応です」


それで少し笑ってしまう。


エレナは扉を開けた。


「今夜はもうお休みください。明日の朝になって勢いで北壁を額で直そうとしないで」


「その想像図はさすがに失礼だ」


「想像ではなく警戒です」


彼女が出ていこうとしたところで、呼び止めた。


「エレナ」


足を止める。

片手はまだ取っ手にかかったままだ。


「何でしょう」


躊躇は、思ったより少なかった。


「ありがとう」


彼女の目が少しだけ動く。


「茶も、薬も、屋敷も、村も……あと、ここにいてくれることも」


エレナの顔は大きく変わらない。

重要な時ほど、彼女はそうだ。

大きな表情の代わりに、肩が少し落ちる。沈黙の温度が変わる。瞳の冷たさがほんの少し和らぐ。


「前にも申し上げました」


彼女は静かに言う。


「私は、自分で選んでここにいます」


それだけ残して出ていった。


一人になる。


部屋には暖炉の半端な暖かさと、薬草の苦い匂いと、妙に落ち着かない静けさが残った。


フェルスガルドは、もう一方向だけへ動いているわけじゃなかった。


屋敷が動く。

村が動く。

警備兵たちも少しずつ立場を選び始める。

隣領は探りを入れてくる。

そしてエレナは、あの落ち着き払った顔で、俺の生活の中心へ一歩ずつ入り込んでくる。


窓辺へ行く。


夜空は晴れていて、その分だけ冷え込みが鋭い。

雪は中庭の灯りを鈍く返し、東棟の方では兵が一人歩いていた。ダーランは今頃、自分にとって都合のいい世界が終わったことを、やっと理解し始めているはずだ。


窓枠へ触れる。


【フェルスガルド領主館】

構造健全度:41%

全体熱快適度:19%

行政効率:31%

内部忠誠:不安定・上昇中

領主存在の認識:定着しつつある


“領主存在の認識”。


しばらく暗い庭を見つめた。


まだ早い。

信じるにも、安心するにも、勝ちを口にするにも。


だが、一つだけは確かだった。


フェルスガルドは、もう完全な異物として俺を見てはいない。


家も。

土地も。

人間も。


長く見捨てられてきたものにとって、それはかなり深い譲歩だ。


灯りを消し、寝台へ入る。


明日は重い。

ダーランを人前へ引きずり出す。

警備兵たちはますます色を分ける。

オーゼン男爵は、こちらの変化にいずれ気づく。

そして俺も、あの力がどこまで届くのかを、手遅れになる前に知らなければならない。


目を閉じる。


最後に浮かんだのは、処分待ちの管理人でも、北壁でも、盗賊でも、隣領の秃鷹でもなかった。


扉のところで振り返りもせず、“自分で選んでここにいる”とだけ言ったエレナの声だった。


正直に言えば――


それは、外のどんな脅威より厄介だった。

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