第10話 内通者を吐かせたら、ようやく敵の巣が見えてきた
屋敷が息を吹き返すと、音も変わる。
少し前までのフェルスガルドは、鈍い場所だった。
悪い意味で、だ。
隙間風。
手入れ不足の床板。
火力の足りない鍋。
終わらない雑務に追われる使用人の足音。
中庭を踏む兵の靴も、“領地を見ている男”ではなく“ただ番を消化する男”の音だった。
全部が惰性だった。
だが今は違う。
その下に、別の響きがある。
意志だ。
大きくはない。
だが確かに感じる。
廊下。
中庭。
厨房の動き。
ギャランの兵の置き方。
エレナが声を荒げず家を組み直していく手際。
フェルスガルドは、ようやく“立っている死体”をやめ始めていた。
痩せていて、傷だらけで、目つきも悪い。だが確かに起きている。
当然、そうなると秃鷹も真面目に旋回し始める。
ハベルから取った文は、まだ暖炉のそばの机に開いたままだった。
北の火程度で状況は変わらない。
傷んだ壁は結局崩れ、飢えた男は夜を売る。
使える扉はまだ内側にある。
待て。
待て、か。
いいだろう。
待たせてやる代わりに、噛みつく瞬間はこっちで決める。
窓の外では風が壁を引っ掻いていた。
執務室の暖かさも、数日前なら「ひどい」と言っただろうが、今の俺には十分ましだった。
自分の基準が落ちていく速度に少し引く。
ギャランは机の向こうで腕を組んでいる。
エレナは俺の右。少し近い。そこまで考えた時点で負けな気がしたので、それ以上は意識しないことにした。
「薪搬入口には手をつけるな」
俺が言うと、ギャランはすぐ頷いた。
「分かっています。問題は、何を流すかです」
文へ視線を落とす。
「価値がありそうで、だが出来すぎていないもの。外の連中が動く程度には旨そうで、なおかつ“罠だ”と思われない情報だ」
エレナが静かに言う。
「オーゼンの荷ですね」
「そうだ」
ギャランが文を指で軽く叩いた。
「向こうは、あの荷をどう扱ったかも見たがっているはずです」
「もちろんだ。荷そのものが餌で、同時に観測でもある。どこへ運ぶか、誰が触るか、どこに置くか、俺が礼を言うか蹴るかまで含めてな」
「蹴った方です」
ギャランが言った。
「いい感じに」
「安心したよ」
粗い見取り図を机へ広げる。
古い管理用の図に、エレナが修正を書き足したものだ。
物資の流れ、厨房、薪、石炭、盲点になる廊下、風の入る壁、痛んだ扉。
見ていて腹が立つほど分かりやすい。
この家、最初から彼女に渡っていれば、もっとましだったんじゃないかと思う瞬間がある。
「薪搬入口はここです」
エレナが西棟裏を指す。
「夜は人が少ない。石炭置き場の匂いで多少はごまかせる。厨房からも離れているので、普通の使用人はあまり近寄りません」
ギャランが外側を指した。
「外からだと、崩れた石の影まで寄れます。道を知っていれば、主庭からは見えません」
その線を指でなぞる。
「自然に近づける人間は?」
エレナがすぐに答える。
「薪、石炭、灰、鍛冶補助、重い清掃の人間。厨房はマルタがよほど手薄な時だけです」
「名前を出せ」
エレナは書類から二枚抜く。
「トビン。薪。疲れていますが実直。
ヴェイス。鍛冶補助。単純ですが手は悪くない。
コルム。石炭と灰。
ネリス。灰捨てと重清掃。
代役のペルは東の溝へ」
「この中だと?」
エレナは迷わず一つを叩いた。
「コルムです」
「理由は」
「消え方が上手すぎるからです」
横目で見る。
「半分、勘だろ」
「半分です。残り半分は私の苛立ちです」
「立派な判断基準だな」
「ええ。ああいう男は有能か、危険か、その両方です」
ギャランも補足する。
「レレンが言っていた“炭の手の奴”とも合います」
十分だ。
小さな屋敷で、うまく消えすぎる男はだいたいろくでもない。
「よし」
俺は言う。
「コルムにはこちらのために動いてもらう。本人の意思とは関係なくな」
エレナはすでに次へ進んでいた。
「で、何を流しますか」
少し考える。
要るのは、真実味だ。
今のフェルスガルドならやりそうだ、と相手が思うこと。
しかも“わざわざ手を出す価値がある”と思わせること。
そこで決めた。
「明朝、夜明け前に、押収した物資の一部を西から動かす」
ギャランがすぐ地図を見た。
「どこへ」
「二次道沿いの高台倉だ。油、塩、工具。少人数で。北の正面は使わない」
ギャランが眉を寄せる。
「白樺の高い曲がりの上ですか」
「ああ」
「道が細い。林が近い。見通しも悪い」
「だからいい」
エレナが腕を組む。
「露骨に“待たれたがっている計画”ですね」
「“待たせる側に回りたい”とも言う」
ギャランは地図を見ながら短く息を吐いた。
「もし今夜流れれば、向こうは朝までに人数を置けます」
「何人くらいで来る」
「測りなら四から六。本気で恥をかかせたいなら八。ただ、まだこちらの兵力を完全に読み切れていないなら、大きくは動かない」
「十分だ」
「旦那様、本気で休む気がありませんね」
「今さらだろ」
そこから先は速かった。
情報は紙ではなく、口と廊下に落とす。
マルタとニルスに箱を急ぎで分けさせる。
西廊下で、ちょうど“聞かれて困るが、忙しすぎて黙る余裕がない話”に見せる。
俺も後から通り、「夜明け前、西から出す。余計な口は要らん」と重みを足す。
重要なのは、秘密っぽくしないことだ。
現場判断っぽくすること。
数時間後、屋敷は疲れた夜の暗さに沈んでいた。
真っ暗ではない。
だが、明るくもない。
使用人の往来に必要な灯りだけがある。
西廊下は、石と煤と古い薪の匂いがした。
この手の場所は好きじゃない。だが、真実はだいたいこういう廊下で育つ。
マルタはさっき通った。
空箱を運ばせながら、わざと聞こえる程度に文句を言っていた。
「秃鷹の贈り物を厨房の近くに置くな、だってさ。まったく、面倒な仕事を増やしてくれるよ」
いい。
そのあと、俺も時間を見て廊下へ行き、十分に聞こえる声で言った。
「油と工具の半分を第四見張りまでに西へ。音を立てるな。余計な口も要らん」
エレナもそれに短く答える。
「承知しました」
それで十分だ。
今は待つだけ。
俺たちは、西棟上の狭い物置に潜んでいた。
元は別の用途があったのだろうが、今は見張りにしか価値がない。
小さな観察窓から、下の薪搬入口と石炭袋の置き場が見える。
ニルスはもう返した。
顔は相変わらず、“自分が重要なのか巻き込まれているだけなのかまだ分かっていない若者”のままで、少し面白かった。
「夜でもこの辺りは十分ひどいな」
俺が低く言うと、観察窓の前にいたエレナが答えた。
「醜い場所の方が、人は何をしているかに正直になります」
「お前、その答え気に入ってるな」
「旦那様にしか使っていません」
……困る言い方をする。
ギャランも上がってきた。
大男のくせに、必要な時だけはちゃんと静かだ。
「外は配置済みです」
彼が言う。
「低い石壁の外に二。古井戸の影に一。林沿いに二。外の回収役が来てもすぐには取りません。中の鼠も見たいので」
頷く。
「コルムは」
「寝床へ戻ったように見えました。そう見える男は面倒です」
「全面的に同意する」
それから、長い時間だった。
寒い場所での待機は、人間の時間感覚を壊す。
風。
板の鳴り。
遠くの扉。
時々、袋の向こうで小さく動く何か。
そして、すぐ近くにエレナがいる。
それを意識するとろくなことにならない。だから観察窓だけを見るようにした。
「何ですか」
彼女が、振り向きもせずに言った。
「何がだ」
「今、また見ていました」
「お前、俺に目でもあるのか」
「いいえ。旦那様は、そういう時だけ静かさが変わるので」
「不公平だな」
「お喋りな人の弱点です」
ギャランが低く息を鳴らした。
聞こえないふりをした。
「この家、いずれ全員が俺に言い返してきそうだ」
「そうなりますね」とエレナが即答する。
「旦那様がそうしているので」
その時だった。
足音。
三人とも一瞬で止まる。
下の廊下。
軽い。
慣れている。
急がず、遅すぎず。
最初に影が灯りを切る。
次に本人が現れた。
コルム。
やはりな。
背も年齢も、記憶に残りにくい。
手は黒い。
肩は少し丸い。
屋敷の一部みたいに見える男。
だが今は違う。
下の薄明かりの中で、その体には、はっきり意志があった。
コルムは周囲を見て、石炭袋の奥へ手を入れた。
一枚引き抜き、代わりに新しい紙を差し込む。
……いい。
回収と投下を同時にやる。
それだけで十分、慣れている。
ギャランが耳元に近い声で言う。
「ここで取りますか」
ゆっくり首を振る。
まだだ。
欲しいのは鼠じゃない。
その先だ。
コルムは紙を服へしまい、何事もなかった顔で去った。
また待つ。
今度の本命は外側だ。
寒さがじわじわ骨へくる。
床の冷たさが靴底から上がる。
観察窓の前で、エレナはまだ動かない。
その白い息だけが、時々薄く闇に混じった。
やがて、外から石を擦るような小さな音。
次の瞬間、低い壁の向こうから影が滑り込んできた。
軽い。無駄がない。短い外套。鎧はなし。
“いないように動く”ことそのものが技術になっている人間だ。
男は石炭袋へ寄り、紙を入れ替える。
迷いもなく。
速い。
灯りが頬の一部を掠めた。
商人じゃない。
村の男でもない。
ああいうのは、消える側の人間だ。
影はそのまま消えた。
ギャランはすでに後ろへ下がっている。
「追います」
「行け」
俺が囁くと、彼は階段を一息に下りた。
物置に残ったのは、俺とエレナだけ。
空気がまた変わる。
「当たりでしたね」
「ええ」
「嬉しそうに見えない」
「その先が見えたからです」
そういうところが、本当に厄介だ。
エレナは“当てた瞬間”より、“次に何が壊れるか”を見る。
外から、小さな口笛。
風に溶けるほど短い合図。ギャランだ。
「行きましょう」
下へ降りると、西の兵が一人待っていた。袖に雪。
「隊長より。使い走りは白樺の高い曲がりまで。そこに六人、馬三。紙を受け取った後、二人が旧道へ。残りは西へ散ったとのことです」
十分だ。
輪郭が出た。
屋敷。
受け渡し。
外回収。
待機班。
これはもう、ただの探りではなく牙だ。
執務室へ戻ると、エレナが先に紙を広げる。
俺へ差し出す。
書かれていたのは、流した内容そのままだ。
荷の一部は夜明け前に動く。
油、塩、工具。四人。西出し。高台の曲がり。高台倉。
銀箱は別。
よく出来ていた。
自分で書いておいて、少し感心するくらいに。
「噛む」
俺が言う。
「確実に」
エレナが答える。
「銀箱がちょうどいいです」
十五分後、ギャランが戻ってきた。
雪を肩へ乗せ、顔は嫌なくらい満足そうだ。
「白樺の高い曲がりに二。さらに後ろに二、馬付き。林の側にも気配あり。ちょうどこの文どおりの荷を待っています」
紙を机へ置く。
「なら、与える」
エレナが腕を組む。
「先に、どの程度の狂気か聞きましょう」
「単純だ。荷車一台。工具は本物を少し。油も少し。塩も量を合わせる。銀箱は上だけ本物の音を作る。見える護衛は四。左右に伏兵」
ギャランが地図へ目を落とし、ゆっくり頷いた。
「十分です」
「俺も行く」
二人が同時に顔を上げた。
そしてほぼ同時に言う。
「駄目です」
見事なくらい揃っていた。少し腹が立つ。
「最近、やたら息が合ってないか」
エレナは平然としている。
「旦那様は、倒れそうな時ほど前へ出たがるので」
ギャランも続ける。
「隊長の後ろで済む立場の人間が、自分から危険へ行きたがる理由の大半は、誇りと判断の混同です」
「違う」
俺は言った。
「今回、向こうに覚えさせたいのは“ギャランが有能”だけじゃない。フェルスガルドの主が、自分で餌を見て、自分で噛ませる側へ回っていることだ」
ギャランが少しだけ顔をしかめる。
「嫌な理屈ですが、通ります」
「だろう」
「腹は立ちます」
「だろうな」
エレナが俺を見る。
「理屈は分かります」
「なら」
「それでも行かせたくありません」
その言い方が妙にまっすぐで、一瞬だけ返答が遅れた。
「……行く」
エレナは短く黙り、それから言った。
「なら、私も行きます」
今度は即座に否定した。
「駄目だ」
露骨に不機嫌そうな目が返ってくる。
「旦那様だけが、無茶を“責務”と呼べると思わないでください」
「待ち伏せだぞ」
「知っています」
「危ない」
「今のあなたがその台詞を使うんですか」
ギャランが髭を撫でる。
どこを見ればいいのか迷っている顔だった。
「決着だけ早くしてください」と彼は言った。
「私は朝の殺し合いの準備がしたいので」
エレナは視線を逸らさない。
「銀箱が餌です。旦那様は相手を見る。ギャランは配置を見る。なら、旦那様を見ている人間がもう一人必要です」
「必要ない」
「必要です」
少し声を落として、彼女は言った。
「ルーチェ。あなたは、自分で思っているより、計算と衝動の境目が危うい時があります」
その呼び方は反則だろう。
そう思った時点で半分負けている。
「……荷車からは出るな」
俺が言うと、エレナはわずかに顎を引いた。
「半分だけ受け入れます」
「残り半分は?」
「必要になったら考えます」
最低だ。
だが、それで決まった。
夜は短かった。
というより、ほとんど眠れなかった。
少し横にはなった。
だが頭の中は、白樺の曲がり、高台倉、銀箱、伏兵、その繰り返しだ。
まだ暗いうちに起きる。
厚手の外套を着て廊下へ出ると、エレナは当然のように先に待っていた。
今日はメイド服ではない。
濃色の服、厚い布、歩きやすい靴。
それでも、一目で分かる。エレナだ。
「本当に、お前は何も半端にできないな」
俺が言うと、彼女はすぐ返す。
「その言葉、そっくり旦那様へ返します」
二人で中庭へ下りる。
夜明け前の中庭は別の場所だ。
雪は白ではなく灰。
空気は冷たさというより刃。
馬は重い息を吐き、荷車は黙って待っている。
ギャランが兵を一人ずつ見ていた。
銀箱は荷の奥、黒い布の下。中身は石と、表面だけ本物の硬貨。
「落ちるなよ」
ギャランが言う。
「最初にそれか」
「そこからです」
荷車へ乗る。
エレナが向かいへ座る。
「今ならまだ置いていける」
俺が言うと、彼女は冷たく返した。
「その場合、先に旦那様を荷台から落とします」
「性格が悪い」
「役に立っているでしょう」
車は出た。
西道はこの時間になるとさらに狭い。
黒い木々。
灰色の雪。
息の音だけが妙に近い。
兵たちは喋らない。
必要以上に怖がらず、必要以上に強がらない。
いい状態だった。
白樺の高い曲がりが近づく。
地図で何度見ても、実際は別だ。
ここは待ち伏せに向きすぎている。
右に高まりと古い納屋。
左に浅い溝と林。
前後は細い。
荷車が少し減速した。
待つ。
静かだ。
あと少し。
そこへ、左の林から鳥が飛び立つ。
次に影。
「来る」
俺が低く言った直後、向こうが仕掛けてきた。
左から二人。
一人は先頭の馬へ。
もう一人は荷車脇へ短剣で。
後ろにも気配。
右、納屋側にも。
早い。
だが、待っていた側から見れば十分遅い。
石壁の陰にいた兵が一人目を横から落とす。
二人目は荷へ触る前に手首を切られた。
右からの二人へ、ギャラン側が横から噛む。
一気に狭くなる。
白い息。
短い叫び。
雪を蹴る音。
弩の一発。
馬が鳴く。
俺は荷車から飛び降りた。
着地と同時に体が痛みを思い出す。
だが、どうでもよかった。
一人が銀箱へ回ろうとしている。
こちらにはまだ気づいていない。
間合いへ入る。
剣筋は悪くない。雑魚ではない。
受ける。
冷えた鋼がぶつかる感触は骨まで来る。
角度をずらし、手首を流し、そのまま柄で顎を打つ。
男が崩れる。
立ち直る前に押し倒し、剣を踏み飛ばす。
「生かせ」
少し先で、ギャランが別の一人を落としていた。
相変わらず嫌になるくらい速い。
その時、エレナの声。
「左、ルーチェ!」
振り向く。
馬の陰を使って、別の男が荷車の下から弩を向けていた。
狙いは俺だ。
考えるより先に、荷車へ手が伸びる。
【輸送荷車】
安定性:3
耐久:3
横荷重:偏りあり
編集可能
ほんの少しでいい。
横の安定。
押す。
痛みが目の裏へ走る。
だが、間に合う。
車輪が雪へ深く食い、荷車が半尺ほどずれる。
それだけで十分だった。
短矢は、俺ではなく荷板へ刺さる。
男が次を込めようとした。
できない。
エレナがもう降りていた。
外套の下から抜いた短刃が、男の手へ入る。
深くはない。だが再装填には十分まずい位置だ。弩が落ちる。
その直後、ギャランが肩で潰した。
短い静寂。
馬の荒い呼吸。
風。
雪の上で呻く敵。
数える。
五人。
一人死亡。
三人負傷、生存。
一人が林へ逃げる。
「逃がすな」
弩手が一発。
脚を抜いた。
男が倒れる。
いい。
生きている方が価値がある。
大きく息を吸う。
失敗だ。血の味が戻る。
「ルーチェ」
エレナが来ていた。
息が少し荒い。
目がいつもの静けさを捨てている。
あの顔は見たくない。俺のせいでそうなっていると分かるからだ。
「平気だ」
「平気ではありません」
口元を拭うと、やはり赤い。
「後で」
エレナは不満そうだったが、今は引いた。
ギャランは生き残りを仕分けている。
「一人はすぐ吐く」
彼が言う。
「道の男にしては手が綺麗すぎる」
荷車脇で倒れていた男へ近づく。
三十代半ば。
靴は良い。
外套の裏、袖口に暗い緑の縫い。
めくる。
エレナが先に言う。
「家色です」
ギャランも見て、低く吐く。
「オーゼンの外回りだ」
男はまだこちらを睨んでいた。
「名前」
沈黙。
ギャランが手へ刃を当てる。
「名前だ」
「……ハベル」
「続きは」
少し押す。
「ハベル・ブレン」
「誰に動かされた」
「主の名は言わん」
「なら、人の名を言え」
俺は言う。
「肩書は嫌いだ」
男は目を閉じ、一度だけ耐え、それから吐いた。
「ヘルマーだ」
十分だ。
オーゼン本人ではない。
だが、その手としては上等すぎる。
「目的は」
俺が聞くと、ハベルは笑った。
「いつも通りだ。吠えるだけか、ちゃんと噛むか、見たかった」
腹立たしいが、悪くない言い方だ。
少しだけ周囲を見る。
荒れた雪。
守られた荷。
立っている兵。
まだ遠くに見える北の火。
そしてエレナ。雪と血の近くにいるには嫌になるほど似合っていた。
「答えは?」
ハベルがそう言いたげにこちらを見る。
「今日は、お前たちの方が噛まれた」
そう答えると、男は顔を逸らした。
それで十分だ。
そこからは処理だ。
生きている者を縛る。
死者を確認する。
武器を集める。
馬の位置も押さえる。
ギャランは二人を馬の待機地点まで走らせ、残りがいないことを確認させた。
いなかった。
戦ではない。
だが、ただの探りでもない。
一通り片がつくと、俺は荷車の側へ少し体を預けた。
少しだけのつもりだった。
エレナが近づく。
「荷車を動かしましたね」
質問じゃない。
「ほんの少しだ」
「その表現は、もう禁止にしませんか」
「お前、本当にそこ気に入ってるな」
「旦那様が使いすぎるんです」
彼女が布を出し、口元へ押し当てる。
「矢が刺さりかけていました」
「かすっただけだ」
「その言い方も禁止です」
……面倒な取り締まりだ。
そして少しだけ安心する自分がいて、腹立たしい。
その時、ギャランがちょうど声をかけてきた。
「旦那様」
ありがたい。
「何だ」
彼が小さな鉛印を見せる。
「ハベルの靴から」
受け取る。
無地の片面。
もう片面は、曲線と三本線。
「ヘルマーの荷印です」
ギャランが言う。
「帳簿に載らない荷へ使います」
指で転がす。
軽い。だが十分に重い。
「持ち帰る価値はあるな」
「ハベルも」
「当然だ」
帰り道は遅かった。
空は黒から白へ移り始める。
白樺の高い曲がりには、血、足跡、乱れた雪。
オーゼンが次にそれを知った時、少なくとも朝より気楽ではいられない。
それでいい。
荷車へ戻り、向かいに座る。
エレナの袖へ目が行く。手首近くに、布が掠った跡がある。さっきの弩だろう。
妙に腹が立った。
質の悪い方のやつだ。
「ナイフ、使えたんだな」
俺が言うと、エレナは少し間を置いて答える。
「最低限は」
「それは答えになってない」
「今はこれで十分です」
視線が、彼女の袖の擦れに落ちる。
「お前も危なかった」
エレナが俺を見る。
「その言葉、旦那様も使わないでください」
……言い返せない。悔しい。
屋敷へ戻る頃には、館も少しずつ目を覚まし始めていた。
北の火見台はまだ煙を上げている。
使用人が扉に現れ、兵が近づく。
ハベルは東区画の仮牢へ。
コルムも今日中に押さえる。
自分が“うまく見えないだけの男”ではなく、きちんと数えられていたと知る顔が少し楽しみだった。
荷車から降りようとすると、エレナが手を出してきた。
少しだけ、それを見てしまう。
「何だ」
「落ちずに降りてください」
「俺はそこまで――」
「今朝、“ほとんど刺さらなかった”人に言われても困ります」
……それを持ち出されると弱い。
手を取って降りた。
短い。
だが、短すぎない。
危ない長さだ。
足が地面についた瞬間、妙にはっきり分かった。
オーゼンだけじゃない。
俺をずらすものが、もう一つ形になり始めている。
エレナだ。
そして正直、どちらが俺をより不用意にするかは、まだ分からなかった。




