2026/3/20_8:04:30
時間は少しさかのぼる。
田中検察官逮捕当日の朝である。
藤堂は、妻たか子、娘舞、息子瞬と共に玄関ドアを出た。
生まれたばかりの瞬はたか子が胸の前で抱きかかえている。
4階からの階段を降りると目の前が駐車場であり、そのまま自家用車へ歩いて向かっていると、声をかけられた。
「おはようさん、また来たよ」
藤堂が振り向くと、母親英子が父一郎と男3人を連れ従えてて笑っている。
「うおっ!なんだよ、この間、来たばっかりじゃねえか。なんか用事があるのか?」
と尋ねると
「お前も連絡よこせよ。たか子さんから聞いたよ、舞が殺人犯とトラブルになってるから、今日は、捕まえるため、仕事に出るって!」
藤堂は
「あっ、そうか!それでわざわざ来たのか」
と納得したが
母英子は
「人出が多い方がいいだろう!今日は舞のボディガードってことで腕っぷしの強えの3人連れてきたんだ」
としたり顔である。
3人とも藤堂が見知っている男らである。
というか3人は岩手の田舎に残っている小学校・中学校の時代の同級生らである
藤堂は千葉県の警察官試験を合格したため、千葉に出てきたが、同級生の大半は岩手の田舎で働いている。
3人とも漁師で、漁協の組合に入っている。
「一ちゃん久しぶり!その娘が舞ちゃん?」
「千葉県って初めて来たよ、ここもすごい都会じゃない?」
「その殺人犯って、すぐ捕まえられるの?何か手伝おうか?」
同級生の宏、智弘、洋一が、ちょっと興奮した体で話しかけてきた。
藤堂は笑いながら
「なんか順調にいきそうだよ、今日の午前中には逮捕できると思う。何か悪いなあ、わざわざ来てもらっちゃって…」
成り行きを見守っていたたか子も
「わざわざすいません、今日だけお願いします。」
と頭を下げる。
それを見ていた舞も
「お願いします」
と大きな声で挨拶した。
すると同級生の3人とも笑いながら
「声、おっきくて一ちゃんの娘だって納得できるねえ」
とご満悦である。
藤堂は右手を顎に当て、しばらく考えこんだ後、舞に耳打ちする。
舞は、一旦、官舎の玄関の鍵を持って階段を上がっていった。
たか子は首を傾げ
なんだ?
と訝しんだが、すぐ舞は戻って来た。
舞は、黒色の薄手のジャンパーを着こんで、手には今日の新聞を持っている。
藤堂は舞から新聞を受け取ると、車のボンネットの上で新聞紙を正方形に切り、いわゆる『折り紙』をやりだした。
たか子が再び
なんだ?
と見守っていると藤堂は母親の英子に向かい
「じゃあ、せっかく岩手から来てもらったんだからサービスしてもらうよ。」
と言い出した。
すると3人の同級生は「了解」と言いながら舞の前で屈み、騎馬戦の騎馬を作った。
そして、新聞紙を折り紙にして作った『兜』を舞の頭に載せる。
舞は騎馬に乗ると薄手のジャンパーのファスナーを下ろした。
すると中から『風林火山』の文字が現れた。
たか子は、夫のコーデ力について評価0どころか、マイナス評価であった。
『風林火山』Tシャツと『神』Tシャツを勝負服として使用していることから、その判断は正しいと言えるだろう。
だが少し前、たか子が出産のため入院した際の舞の『昭和のアイドルオタクコーデ』を目の当たりにして、吹きだして笑ってしまい、
意外と侮れない
と思うようになっていた。
また舞はたか子が笑っている様子を見て
流石父ちゃん、楽勝でお母さんを喜ばせた
ということで父親のコーデ力を高評価していた
今回は『戦国武将コーデ』と言っていいだろう。
舞が騎馬に乗ると、3人は『ソイヤ』と言って立ち上がる。
舞は
「ふぉおおおおーっ」
と興奮している様子だ。
すると藤堂夫の父一郎が
「一、でかした!」
と叫んで、自分の携帯電話で撮影しだした。
また、舞は新聞紙で作った兜を手に取り父親に尋ねる。
「父ちゃん、確か前に昆虫の中で一番カブトムシが強いって言ってたよね」
ドラ父ちゃんはそれを聞くと
「ごめん、舞!確かに俺は昨日までカブトムシが一番だと思っていた!だけど別の可能性があることに気付いた。」
等と言い出した。
たか子は不穏な空気を感じていた。
昨日は仕事を終えて帰宅するとドラ亭主も自分も舞も瞬もテレビで劇場版『トリック』の放送を見ただけで就寝している。
昨日、昆虫に関連する案件などなかったはずなのだ。
たか子が首を傾げていると舞は
「前に健太が一番強いのはヘラクレスっていうやつだって言ってた」
とコメントするとドラ父ちゃんは首を横に振り
「ヘラクレスはよく分からないけど、その名前から言ってもガッチュ石松虫はおそらく相当強い!世界チャンピオンクラスだ。カブトムシより強いかもしれない」
等と言い出したのだ。
たか子は
そうきたか
と思いつつ
「息をするように自然な形で娘に嘘を教えるんじゃない。あんたはフィクションって言葉の意味知らないのか」
と窘めた。
しかし藤堂は
「フィクション?ハクション大魔王なら知ってるんだが……大魔王の親戚か」
とたか子の創造のはるか斜め上を行く『返し』をしたのだった。
通常は、目立たない様にして登校すべきかもしれないが、藤堂はまるっきり逆をいった。
官舎から吾妻小学校は300メートルほどの距離であるが、舞は騎馬に乗って登校した。
正門の前に立っていた学校の先生は心なしか顔が引きつっている。
世に言う『ドン引き』である。
舞を小学校まで送り届けると、義母と義父、同級生らがドラ亭主の前に集まり話し合いが始まった。
「今日、犯人が捕まったら、お祝いでみんなでご飯食べよう!サンマにアワビにマツタケもいっぱい持ってきたから」
と母英子が提案する。
義父も
「他にも、警察の人何人か連れて来いよ。持ってきた量ただ事じゃあないから…」
と付け足す。
前回はうに丼祭りだったが、今回はマツタケご飯祭りに決まり、ドラ亭主とたか子はそのまま捜査本部のある我孫子警察署へ向かった。
我孫子警察署に到着すると、たか子はすぐさま、冴島宛にラインメールを送った。
前回、義母と義父が訪れた際、冴島に家へ来てもらって和気あいあいに過ごすことができたため、味をしめたのだ。
冴島には悪いが義母と義父らの間に入ってもらおう。たか子は冴島が義母らとの間の緩衝材になると計算していた。
冴島からの返信はすぐに来た。
冴島も逮捕祝いに参加することになった。
取り敢えず、これでよし!後は適当に捜査本部員の中で2~3人拉致して家に連れて行けば、いいだろうと考えていたところ、逮捕手続を行う埼玉県警の捜査員が近づいてきた。
たか子が挨拶すると
「すいません、埼玉の上田です。ちょっとお願いしたいことがあるんですがあ…j」
と話し出し
「こいつ、うちの若手なんですが、勉強のため天才捜査官に捜査のイロハを教えてもらってもいいでしょうか。天才捜査官の技を一つでも二つでも身に着ければ今後役に立つと思うんで…天才捜査官について回って勉強するように言ってあります」
と申し立て金親涼子を指差してきた。
たか子が
今日はやたらと腰が低い感じだな、昨日とは大違いだ
と少し驚いていると金親本人も
「いやあ、うちの班長、上田次郎って言う名前の割には『ぶっつり学者』じゃなくてしょっぱい刑事なんですけど、本人精一杯頑張ってるんで愛想つかさないでください」
と
どこから目線の言葉だ
と言いたくなる程の言動で全く物おじしていない。
たか子は
しょっぱい刑事ってなんだ
と掘り下げてツッコミしたくなったが上田警部補が鬼の形相で金親をにらんでいたの
でツッコミを自重した。
どうやら金親も昨日『トリック』をテレビで見たらしい
たか子は
「いやあ、名前が『湯川学』で『実に面白い』とか言い出したら逆に恐れ多くて話しできないですから…」
とよく分からない返しをするが、ここで閃いた。
そうだ、この金親ちゃんも逮捕祝いに家に連れて帰ろう
と考えたのだ。
たか子は
「あっ!そうだ!今日、私の家で、逮捕のお祝いするんだけど、何か予定とか入ってる?一緒に夕飯とか食べない?」
と尋ねると
「いやあ、今日は姉の家に泊まる予定で、姉に鰻牛特盛をたかろうと…」
等と言い出した。
たか子が
「ああ、そっかあ!鰻牛特盛の予定かあ、こっちもマツタケご飯だったんだけど、残念」
と苦笑いしたが、それを聞くと金親は、顔色が変わり、すぐさま携帯電話で電話しだした。
「あっ姉ちゃん?今日の鰻牛キャンセル!天才捜査官のうちでマツタケご飯パーティーやるから来ないかって誘われたから、一緒に行こう」
とのことで金親姉妹も逮捕祝いに参加することになった。
それから暫くすると捜査本部のある我孫子警察署3階道場の扉が開かれ、田中貢が現れた。
すると徐に、金親が田中に近付き、声高々に言い放った。
「田中貢だな!お前を傷害事件の被疑者として逮捕する!」
そして
「お前のやったことはすべてマルっとお見通しだ!」
と付け加えたのだった。
田中は、一瞬、唖然としていたが
「なんだと、傷害?」
と呟くと逮捕状を確認した後、藤堂と大場を見つめ
「なるほど、天才捜査官殿、お見事だ」
として逮捕に応じたのだった。
田中には、すぐ腰縄付き手錠が掛けられた。、
そしてこのタイミングで再び、3階道場の扉が開き、志村検察官が入室してきた。
道場の外で、逮捕の動向をうかがっていたものと思われる。
志村検事は、部屋へ入るなり皆へ
「志村と申します。以後、連続殺人事件の方は私が担当します。」
と告げた。
また、捜査本部の庶務席から
「それじゃあ、埼玉さんは、被疑者を2階の取調室まで引致してくれ!取調官は大場班長お願いしていいですか?弁録録取等諸々お願いします。」
との声が飛ぶ。
しかし、それを聞くと志村検事は
「大場班長が取り調べ担当と言うのは駄目です。傷害事件で言えば被害者の父親と言うことになります。藤堂班長お願いできますか?」
と申し立てた。
捜査本部は主眼を殺人事件に置いていたため、大場が傷害事件の被害者の父親になる
ことをうっかり失念していたのだ。
被害者の親族が取調官になることは通常あり得ない。
藤堂も志村検事に言われて、はじめて
そうか、大場は被害者の父親になるのか
と気付いたのだった。
実は、藤堂はこれまで、取調官になることを遠慮することが多かった。
藤堂は、警察で出世したいとはおもっておらず、ずっと捜査員をしていたいと思っているため、取調官は別の者にやらせていたのだ。
別に、取り調べが苦手と言うことではなく、むしろ、取調は得意だ。
しかし、殺人事件の取調官は、犯行を自供させた場合表彰を受けるケースが多く、表彰数は昇任試験に多大に影響するのだ。
つまり出世しやすい面があり、藤堂はこれまで、ちゃっかり避けていたのだ。
藤堂は今回も、
取調は大場に頑張ってもらおう
等と他力本願を画策していた。
藤堂にとって正直、想定外の展開であったが
今回はやむを得ないな
と腹をくくるしかなかった。
取調室では先ず
弁解録取書の作成
が行われ、続いて、写真撮影、指紋採取の後、DNAの採取が行われることになった。
道場で、身体検査令状を取得していることを告げていたため、スムーズに行われた。
取調室の奥側、事務机の向こうに田中が座り、出入口ドア側、事務机の手前に藤堂が座り、ドア脇の席に赤川が座った。
赤川は公務用のパソコンを携えている。
赤川の横には埼玉県警の金親が陣取っている。
藤堂は田中に
「まあ、釈迦に説法なような気はしますが、一応言っておきます。あなたには、黙秘権に弁護人選任権があります。それと取調べの状況は録音録画されてます」
と告げると、田中は
「ああ、その辺は省いていいよ。良く知ってる」
と申し立ててきた。
藤堂は
「それじゃあ、早速、弁解録取書を作成しますが、逮捕状に書いてあった内容について、何か弁解することありますか?」
田中は
「いや、間違いないよ。あの通りだ。それと弁護士は東京弁護士会の寺山弁護士にお願いします。」
と申し立てたため、藤堂は弁解録取書にその旨を記載した。
田中はその弁解録取書を確認すると、末尾に署名した。
藤堂は奥書を記載した後、弁解録取書を金親に手渡す。
金親はそれを受け取ると取調室を出ていった。
捜査本部に書類を届けに行ったのだ。
続いて、藤堂は
「傷害事件について、小学1年生に平手打ちをした理由は何ですか?」
と問うと田中は
「そちらの想像通りだよ。看護師を襲おうとしたら邪魔をするどころか、ハリセンで俺を殴ってきたからカッとなって殴ってしまった。看護師を襲おうとしたのは、その数時間前に人を殺した際に右手を怪我をして病院で治療してもらったんだが、その看護師は藤堂さん、あなたと知り合いみたいだったから口をふさごうと思ったんだよ」
とズバリな内容を供述してきた。
藤堂は
「それ、そのまま書類にしても大丈夫ですか?」
と問うた。
被疑者の中には、正直に話すが署名はしないという被疑者もいるため確認したのだ。
「いいよ、大丈夫だよ。サインもするよ。」
と田中が申し立てたため、赤川はあからさまに興奮した様子で、供述調書を作成しだす。
藤堂も
なんだ、全部正直に話すつもりか
と少し驚いたが、田中は
「意味もないところで、争うようなことはしない。でも勝負は終わったわけじゃないよ」
等と言い出した。
藤堂は、不穏なものを感じたが、そのまま続ける。
10分ほどすると、取調室備え付けのプリンターから印字された供述調書が出てきたので、藤堂が確認して、内容を確認し読み上げると田中は
「いいよ、その内容で間違いない。」
と申し立て、すぐさま署名した。
田中が署名し終わったところで、金親が戻ってきたが、藤堂はすぐさま供述調書の奥書を記載して、それを金親へ渡した。
金親は、供述調書を受け取ると内容を確認し
「うおっ、殺人も認めるんだあ」
と呟きつつ、再び、取調室から出て行った・
次いで藤堂は身上調書に取り掛かる。
警察は48時間以内に、身柄と一件書類を検察官に送致するが、事件の概要に関する被疑者の調書と被疑者の生い立ちに関する身上調書を付けるのが一般的だ。
藤堂が
「生まれは北海道でしたっけ?」
と確認すると
「そう、北海道の室蘭市白鳥台のアパートで父親は分かりませんが、母親の名前は恵子で私は長男。母はいわゆるシングルマザーでした。母は私が小学3年生の時に亡くなっています。何か事故と言うことらしいです。母が亡くなってからは叔母の家に引き取られました。
地元の小中学校を卒業してから室蘭栄高校を卒業し、大学は東大の法学部卒です。大学卒業後、検察官になり、神奈川、埼玉、東京の検察庁に努め、現在に至るって言う感じです。友達はさっき言った寺山弁護士さんが仲がいいと言えば仲がいいです。一緒に司法試験を受験した中です。付き合っている彼女とかはいません。酒もタバコももやりません。趣味はドライブですかね。預貯金は2500万円ほどですかね。他に財産と言えるようなものはないです。あっと、車も財産と言えば財産か?」
と答える。
流石に検察官だけあって、身上調書に記載すべきことを聞かれる前に話してきた。
赤川は必死に話した内容をもとに供述調書を作成していく。
人によるが、藤堂は弁解録取書は手書き、供述調書は基本パソコンで作成している。
供述調書は取調官本人がパソコンで作成する場合もあるが、今回は取調の補助官である赤川が作成する形をとっている。
一通り、書類を作成し終えたところで田中が話し出した。
「別に不思議がる必要はないですよ、藤堂さん!別に何もかもあきらめたわけじゃあない。検察官らしい戦い方をお見せしますよ」
とのことだったため藤堂は
「ひょっとして、模倣犯的なことを考えてますか?」
と尋ねる。
田中は、笑いながら
「流石、天才捜査官ですね、その通りです。でも私も鬼じゃない。『いろはにほへと』を見つけて立件出来たら、すべて認めようかと思ってます」
と答える。
その頃、捜査本部、つまり3階道場では、驚愕の言葉で賑わいを見せていた。
「うおっ!殺人事件の関与も調書に書かれてあって、サインもしてるじゃねえか」
「嘘!いきなり認めたのか?」
「まあ、DNAの鑑定で、すぐ明らかになるからな」
等々である。
通常は、証拠を提示されて、はじめて認めるパターンが多いため、殺人事件については、DNAの鑑定結果が出てから認めるものと捜査員の大半は思っていた。
もちろん、中には証拠を提示されても否認する奴もいる。
被疑者の自供がある場合、捜査はスムースに進行する。
捜査員は、皆、笑顔になっている。
志村検事もニコニコである。
しばらくすると、道場に藤堂と赤川と金親が戻って来た。
藤堂は道場に入るなり
「明日から、北海道に捜査行ってくるわ。我孫子の事件は認める様子だが、それ以外は認めない腹みたいだ。だけど『いろはにほへと』の最初の事件を見つけて立件出来たら、全部を認めるって話してる」
そして
「まあ、絶対認めるって保証はないけど、俺の勘では本当に認めるって思うよ。」
と付け加えた。
それを聞いていた大場は
「でも、なんで北海道なんだ?根拠はあるのか?」
と至極当然な疑問をぶつける。
すると藤堂は
「まあ、それも勘と言えば勘だけど、あいつは北海道出身で、小さい頃母親を亡くして、親戚に引き取られて育ったらしい。そんでもって身上調書にも書いたとおり『母親を事故で亡くした』みたいなことになってるけど、その時の話し方に違和感があった」
と告げる。
大場は
「わかった。赤川と一緒に行ってこい。何かわかったら連絡をくれ。あと、こっちの関東で『いろはにほへと』の事件が分かったら連絡するから、すぐ戻ってこい」
とそこで、埼玉県警の上田が口を挟む。
「それなら、うちのホープの金親も一緒に北海道へ連れて行ってくれ。どういう捜査をするのか勉強させてほしい。千葉県の次はうちの番になるし…。」
とのことで、翌日から北海道での出張捜査が決定した。
大場だけでなく、捜査員は、すべからく、被疑者の取調官の直感を重視する。
書類、調書を見ただけでは分からない実際に取調を行った担当者の『違和感』は見過ごせないのだ。
庶務席にいた藤堂妻は、30分ほどで、3人の羽田空港から千歳空港まで航空チケット、室蘭市のホテルの予約を取る。
捜査本部の責任者である米山補佐は
「それにしても我孫子の事件は認めるのに、他の事件を認めないってことは、死刑を回避したいってことだろうけど、でも、どう言い訳する気だ?」
と首を傾げる。
志村検事も
「そうですね、どういうことなのかな?あの人が意味のないことをするとも思えないんですけどね」
と米山の疑問に同意する。
すると藤堂は
「おそらく、我孫子の殺しは、それまでの『いろはにほへと』事件を模倣したって言うつもりでしょう。検事と言う立場だったから、手口の同一性は証拠にならないということで裁判を戦う気なんでしょう。」
志村検事は
「ああ、なるほどねえ。」
とだけ言って頷く。
そして
「ちなみに、傷害事件の方はどうしようかと考えてたんだけど、今日取った調書を最大限にいかすためにも、起訴します。」
と付け加えた。
捜査本部員全員、傷害事件はDNAを取るための別件であり、重要とは考えておらず、起訴猶予でもしょうがないと思っていたので皆安堵している。
捜査本部事件は往々にして時間との戦いと言う面もあるため、傷害事件の起訴は時間的なプレッシャーがなくなるため、捜査に余裕ができるということなる。
この日の午前、読日のデスクでは、警察からの
田中貢が傷害で逮捕された報道
とその1時間後、検察からの
検察からの「いろはにほへと」連続殺人事件の担当検事が傷害事件の被疑者として逮捕された報道
がなされ、荒れ狂っていた。
すぐさま、報道特番で生放送がおこなわれることになった。
検察は、午後2時から、
記者会見を行う
との発表もしていたことから、深山キャップは冴島に
「冴島、お前、記者会見行ってこい!場合によっちゃあ、お前が生放送で解説しろ。カメラマンは西川、お前がいっしょに行け」
との声がかかる。
報道特番は午後2時からと決まったらしく、会見時間はおあつらえ向きな形となった。
どうやら、報道特番中、検察の記者会見を前面に出し、系列外の放送曲を出し抜く腹づ
もりらしい。
冴島とカメラマンの西川はハイと短く返事し、バックとカメラを抱えてデスクを後に
した。
冴島は東京の高等検察庁の庁舎前で、5分程度撮影した後、すぐ会見場に入ったが、会
見場はまばらだった。
他社も数社来てはいたが、来ている記者は記者席に静かにたたずんでいる状態で、熱量
は感じられない。
冴島は
そりゃ、そうか、他社でこの記者会見の重要性を分かっている者はいないのかもしれない
と一人考えていると、会見のため現れた大原検事総長が話始める
「ええ、本日午前8時20分、千葉県において田中貢検察官が傷害事件の被疑者として逮捕されました。送検は翌日です。刑事事件を取り扱う検察官が傷害で逮捕されるということとなりましたことを重く受け止め、報道発表させていただきました。深く反省し、二度とこのようなことを起こさない様、指導を徹底したいと思います。」
そして
「田中貢のプロフィールにつきましては、事前にお渡ししている資料の通りです。それと、私は検事総長と言う立場ですが、責任を痛感し、後任の引継ぎが終了し次第、検事総長を辞職したいと思います。誠に申し訳ありませんでした。」
と締めくくった。
他社の記者は、検察官が逮捕されたと言っても検事総長が辞職するまでの内容だろうかとと首を傾げ、ポカーンと呆気にとられている。
会見は、すぐさま、質問タイムへ移行した
冴島は質問タイムに入ると真っ先に挙手をしたため、大原から「はい、読日さん」と指名された。
冴島は
「読日の冴島です。正直、私は、この後の展開もある程度見えていますが、辞職には反対です。他の誰かが検事総長であったならば、防げた案件だとは思えません。酷い人だったら逆に、もみ消しに走るケースも考えられる程の案件だと思っています。辞める必要があるんでしょうか」
と切り込む。
他社の記者は、
なんだ次の展開って
検察官の不祥事には違いねえけど、検事総長が辞職するほどの案件じゃねえだろう
今回も読日、何かネタ隠し持ってんな
等の囁き声が漏れ始める。
大原は冴島を見据え
「ああ、そうか、読日さんは天才捜査官の記事を書いている新聞ですよね。確かに他の誰かだったら防げたのか言われると分かりませんが、誰かが責任を取らなければならない案件です。警察の捜査には全面的に協力します。」
とここでいったん言葉を切った後続けた。
「事情を知らない新聞社の方に取ったら、『意味が分からない』『何言ってんだ』と首を傾げたくなると思いますので、ルール違反と言えばルール違反ですが、少しお話しますと今回の傷害事件の動機面で『いろはにほへと』殺人事件の関与があると聞いています。後は警察の捜査を待ちたいと思います。」
と申し添えた。
大原の発言で場の空気が一瞬にして変わった。
記者の間に
なんだ、いろはにほへとの連続殺人と関係あるのか
被疑者が検察官ってことか
傷害は別件逮捕か
だから読日は冴島が来ているのか
等の言葉が漏れだす。
会見場は、事の重大性をようやく認識した他社の記者の挙手が続く形となり、瞬く間に騒乱状態となった。
会見を終えると冴島はテレビカメラを前に「いろはにほへと」連続殺人事件について解説を始める。
これが冴島のテレビレポーターとしての初仕事になった。
特番の司会者は解説を聞いた後、興奮を抑えきれず冴島に対して、「別件逮捕について」「今後の捜査の焦点は」等、色々質問を始めたが以前、刑事として捜査してきた経験を活かし、無難に質問への回答を行い、やり取りを終える形となったのだった。
後日明らかとなったが、この時の特番は、視聴率33パーセント越えの快挙を達成する。
また、前日から缶詰め状態にされて仕事をしていたため、午後5時30分には帰路に就く形となった。
状況を知らなかった他社は、この日徹夜状態で頑張ったものの、紙面の内容で読日に完全に後れを取る形となったのであった。
特番のレポーターの役目を終えた冴島は一旦、読日のデスクへ戻ったが、事前に明日の1面の内容等の半分以上は仕上がっており、そこへ検察の記者会見の内容をを付け足すだけであったため、午後6時には退社し、藤堂宅へ向かうことになった。
また我孫子警察署の捜査本部も早々に翌日の送致準備が終了したため、午後5時30分には皆帰路に着くことになった。
埼玉県警の金親は、我孫子警察署から、一旦姉の金親京子の家に立ち寄った後。藤堂宅を訪れる。
藤堂妻から
お客様用の食器が少ないから、できればご飯茶碗等用意してもらうと助かる
などと言われていたため、策を弄すことにしたのだ。
金親涼子は、
「すいません。今日は姉の家に泊まることにしたんですが、自分の家じゃないから、普通のご飯茶碗がなくて、今日はこれでお願いします」
と言って藤堂妻と共に出迎えた藤堂一の母親にしれっと
ラーメン用の大きな丼
と姉京子の普通サイズのご飯茶碗を手渡す。
横で見ていた藤堂の父親は、それを見てプッと吹き出す。
藤堂の父親は
マツタケご飯と聞いてたくさん食べたいのだろう
と納得の笑顔になったのだ。
藤堂の母親も笑顔になり
「何か、一の小学生時代思い出すねえ」
と呟く。
そう、藤堂一は、小学生時代町内でナンバーワンの食いしん坊であり、いっぱい食べるためなら平気で嘘をついていた。
母親の英子は、一の嘘に気付いても
子供が、たくさん食べるために言う言葉は嘘とは言わない
等と言う意味不明な理論を打ち出し、これを了承して不問にしていたのだ。
その後、舞の騎馬戦の3人組に仕事を終えた冴島も加わり、逮捕祝いと言う名の宴会が催されることとなった。
冴島は藤堂の両親が訪れていることを知っていたため明日発売予定のスポーツ紙を持参し、義母・義父とも大喜びである。
紙面には
天才捜査官「いろはにほへと」連続殺人犯を傷害で別件逮捕
の見出しが躍っていた。
藤堂の父一郎は
「うわあ、家で見る用と神棚に上げる用と職場で見る用であと3部欲しかったなあ」
と呟くが母英子は
「3部は明日、コンビニで買えばいいよ。でも、まだ、本当は大バカ野郎だってばれてないんだねえ。冴島さんピンチになったらいつでも、私に連絡よこしてね。遠慮はいらないよ」
と喜んでいる。
この日、食卓での話題は、金親姉妹の丼に端を発し、町内一の食いしん坊であった藤堂の小さい頃の話で盛り上がる。
それは藤堂が9歳で小学3年生の頃である。
クリスマス過ぎの年末、雪が降った日であった。
藤堂は、学校から帰宅するが、雪の予報だったため傘を持って行ったはずなのに。頭に雪がうっすらと積もった状態で帰宅したため、英子は驚いて
「傘持ってったでしょ、どうしたんだい」
と問い詰めるが、藤堂は曖昧な返答に終始する。
藤堂にとって母英子は父一郎より断然怖い存在で、何か言いにくいことがあれば父一郎の方へ相談していたため、父一郎がそっと
「学校で何かあったのか」
と聞くと、ようやく本当の話をした。
この前年の冬、藤堂は風邪をひいたが、その時、母英子に
何か食べたいものはあるか
と聞かれ、生まれて初めて、「桃缶」を食べることができた。
それに味を占め、また「桃缶」を食べるため、風邪を引けば「桃缶」を食べられると思い、雪が降る中、傘を差さずに帰宅したのだ。
子供がたくさん食べるためにした言葉は嘘としない英子であったが、この時ばかりは激怒した。
そして、藤堂一は、この頃、町内ではやっていたお仕置き
夕飯抜き
を食らうことになる。
しかし帰宅して4時間ほど経過すると一の部屋から
「母ちゃん、ごめんなさい。腹減ったあ」
等と延々と声が響く形になった。
最初は無視をしていたが、眠たくなってきたのか、一の声が小さくなってくると、英子は隣で寝ていた一郎を蹴飛ばして起こし
「どこかから『桃缶』買ってこい」
と告げ、一のために好物のハンバーグを作り出す。
もう、夜9時をすぐていたため、田舎の岩手の近所のお店は皆しまっている状態だ。
「この時間、どこも開いてねえよ」
と不平を言ったが、英子は聞き入れない。
「うるさい、何とかしろ。一が腹すかしてんだろう」
と怒鳴る。
結局、父一郎は生家へ連絡し、桃缶があることを確認して生家へ向かう。
生家に到着し、一郎が事情を説明すると、生家の母、つまり一からすると祖母は
「こんな時間、雪の中、桃缶のため自分の亭主を生家へ使いに出すなんて…」
と呆れ
「英子さんに、私から文句言ってやるわ」
等と妙な展開になったが、年末のため、集まっていた親戚を連れ藤堂宅へ着くと、そこで
親戚一同が目にしたのは、泣きながら英子が一にハンバーグを食べさせている状況だった。
文句を言おうと思っていた一の祖母もそれを見て固まり、また一が夜中に集まった親戚らを見て、不穏に思い
「なんだい、母ちゃんの敵は俺の敵だぞ」
と告げると、一の祖母は
「あははは、お祖母ちゃんはお母さんの敵じゃないよ、お母さんに来年も組合長やってほしいってお願いに来ただけなんだよ」
と誤魔化す。
岩手の田舎では、孫に嫌われるということは大事件である。
即座に誤魔化した祖母は、ある意味ファインプレーと言ってよかった。
また英子は後に
「『ご飯抜き』ってお仕置きは私には無理だね!逆にこっちが泣きたくなる」
と語ったという。
こののち藤堂家では、この時のことを『桃缶事件』として語り継がれることになる。
藤堂家の食卓には、マツタケご飯に、サンマ塩焼き、アワビのステーキ等が並び、1時間足らずで皆食べ終えた。
金親涼子がラーメン用の丼で2回おかわりをしたのは流石だ。
金親京子も腹いっぱいとなり、逆に苦しそうですらある。
藤堂の両親と騎馬戦の3人組、はホテルを取っており、夕食を終えると藤堂宅を後にすることになった。
また金親姉妹も金親京子宅へ帰ろうかと言う矢先、金親涼子が藤堂の義母英子に話しかける。
「今日はもう、ホテルに帰るんですか」
と話しかける。
英子が
「そうだよ、孫の顔も見たし、明日には岩手に帰るよ」
と答えると、金親姉妹はお互い、顔を見合わせて頷き
今度は姉の金親京子が
「もし、良かったら、私のうちに泊まっていきませんか」
と言い出す。
実は金親姉妹にとって藤堂の母、英子は顔やスタイル等はにつかないものの、既に他界した母に雰囲気が似ており、姉妹で、こっそり
母ちゃんに似てる。もっと、ゆっくり話がしたい。大丈夫そうだったら、姉京子宅へ泊めて、まったりしよう
と話が出来ていた。
英子は一旦
「明日も仕事大変なんだろう?会うの今日が最後ってわけでもないだろうから、ゆっく
り休みなよ」
と断るが、金親涼子は
「私は、明日から北海道へ出張捜査です。実は私は、息子さんの一番弟子ですから、色々
と息子さんのことも知りたいですし、私と姉でお母さんのこと、がっつり接待しますんで
…」
等と本当の理由は隠して、勝手にほざき、いつの間にか、ちゃっかり自称藤堂の一番弟子
となっていた。
英子は
「ほう、私を接待してくれるのかい?何か特技もあるのかい?」
と尋ねてしまう。
瞬間涼子は、
もらった
と思いつつも、平静を装い、藤堂宅庁舎外の外駐車場で、
「見てて、渾身の浅田真央風トリプルアクセル」
と言うと、すぐさま
なんちゃって浅田真央風のトリプルアクセル
を決めた。
脇で見ていた騎馬戦3人組や冴島らはオオーと歓声を上げると涼子は一瞬でドヤ顔に
なり、姉京子も
「いやあ、これは本物の浅田真央もびっくりのトリプルアクセルだったねえ、お母さん
も見ましたよね」
と煽る。
見事な姉妹の連係プレーだった
しかし英子は、やにわに右手を上げ
「物言いだよ」
と言い放った。
フィギュアスケートの世界では、聞くことのない一言で涼子は「物言い?」と言ったき
り呆然とし一瞬、固まったが、即座に京子が
「涼子、思い起こせば母ちゃんはフィギュアスケートも好きだったけど、相撲も大好き
だった。これはやむを得ない展開かもしれない」
となだめて落ち着かせる。
また、英子は
「今のは、回転力不足だね、今のは2回転半だ。3回転してなかったね。私は勢いに騙
されないよ」
と追い打ちをかける。
涼子は、警察の同期生に駄目だしされたことを思い出し
「ひょっとしてお母さんは浅田真央のファンで、私が浅田真央って名乗ったことを怒っ
てるんですか?」
と素直に尋ねる。
英子は
「私は真央ちゃんも好きだけど、一番は羽生結弦が好きなんだよ。大会があると4回転
を見に行ったもんさ。だからジャンプには、うるさいんだ」
と告げる。
涼子は
しまったあ、そういうことか
と気落ちしたが横にいた京子が「私のも見て」
と言い出し、両足を肩幅より若干開き、両手を空に伸ばしたかと思うと体を大きくの
けぞらせ
「荒川静香風イナバウアー」
等と叫んだ。
金親京子は高校生の頃、新体操部に所属し、成績はいまいちだったものの体はほかの同
級生と比べると格段に柔らかくなっていた。
脇で見ていた、藤堂夫婦、冴島、騎馬戦3人組は「おおー」と感嘆の声を上げ、舞も
「ふおおー、金親どん、格好いい」
として拍手した。
英子は
そうきたか
と呟いた後
「私は羽生結弦も浅田真央も好きだけど、荒川静香も好きなんだよ。涼子ちゃんも、
京子ちゃんも単体では1本に足りないけど、合わせて1本だね。じゃあ、今日はやっか
いになるね」
とのことで、藤堂の母は金親宅へ向かうことになった。
安心した金親京子は小声で
「そうだった、母さんはフィギュアスケートと相撲だけじゃなく、柔道も大好きだっ
た」
と妹涼子へ告げ、英子が「合わせて1本」と言ったことについて意味不明な理論を展開
したのだった。
翌日朝、藤堂、金親、赤川の3人は羽田空港で飛行機に乗り、座席に着くと離陸を待っていた。
すると金親がニヤリと不敵な笑みを見せ、バッグから何やら小物を取り出し、藤堂と赤川に向け
「それじゃあ、向こうに着くまで一勝負やりますか」
等と言い出した。
藤堂と赤川が呆気に取られていると
「楽しい旅にするには、やっぱり、これでしょう」
として手にしていた物を披露する。
トランプだった。
すかさず、赤川が
「いや、お前、遊びに行くんやないんやで!捜査に行くんやぞ!座席について5分もたってないのにいきなりボケかますなや」
つツッコム。
金親は
「いや、一緒でしょ。旅も捜査も楽しくやらなきゃ」
そして
「自信ないなら、ちゃんと手加減してあげますから」
と言い放つ。
この一言で赤川は完全に我を忘れた。
「おんどれ、ええ度胸や、誰が自信ないねん。手加減なんて全然いらん。このワイは古今東西、全ての遊戯を身に着け、できない遊戯なんてない。遊戯を極めすぎて、自分で遊戯を考えるほどの男やぞ。おんどれの井の中の蛙っプリを見せてやるわ」
等と答え、知らず知らずのうち金親の術中にはまっていく。
2人の会話を聞いていた藤堂もバッグから、何やら長方形の板を取り出す。
よく見るとそれは、携帯用の将棋盤だった。
昨日の夕食で冴島と会い、北海道への出張捜査のことを話したところ、冴島が
「私も、こっそり北海道へ行きます。」
と言っていたため、どこかで会った時のため将棋セットを用意していたのだ。
赤川は
「いや、あんたも、遊ぶ気、満々だったんかい」!」
と突っ込んだが
「いや、トランプやるんならテーブルみたいのが必要だろう」
と返す。
赤川が「捜査に行くんやぞ」と言ったものの、これを聞いてなかった周囲の乗客らは連続殺人事件捜査の捜査員一行だとはだれも思うまい。
飛行機内では和気あいあいと過ごした。
千歳空港に到着するとまず、ホテルへ直行し、
チェックインするとすぐ、最初の目的、室蘭警察署へ向かう。
室蘭警察署で刑事課庶務係に手土産を差し出した後、藤堂が
「すみません。千葉県から来ました。藤堂と言います。お電話で少し話をしていると思うんですが田中貢と言う者の捜査で、以前、室蘭に住んでいて田中が小学生の頃、母親が亡くなったと聞いています。当時の資料は残っていませんか」
と尋ねる。
しかし庶務が空理の村田は
「はい、話は伺ってます。しかし結果から言いますと、倉庫を探しましたが、記録は残っていません。30数年前の話で記録は廃棄処分になっています。」
とのことだった。
まあ、これは想定内だ。
以前は殺人事件の公訴時効の関係で15年は保存していたが、流石に30年は保存していない。
今は、公訴時効がなくなったため、署の運用で、永年保存としている警察署もある。
刑事訴訟法が改正の関係である。
田中貢の母親の関係は記録が残っていないだろうとは思っていた。
が、いわゆる代行検視を行った刑事には話が聞ける可能性があったため、わざわざ北海道へ赴いたのだ。
庶務係の村田は
「当時検視を担当した刑事も皆、退職されていますが、その中で当時検視を担当した刑事らのうち、リーダーであった鳥居満さんには連絡が取れました。今日いらっしゃるのが分かっていましたので警察署に呼んであります。相談室で待っていてもらっています。」
として藤堂、赤川、金親の3人を相談室に案内した。
そこには70歳を超えると思われる白髪の男性が椅子に座っていた。
藤堂は名刺を渡しつつ
「千葉県の捜査一課の藤堂と言います。」
と言うと70代の白髪男性は『鳥居』と名乗ると
「私は以前、室蘭警察署刑事課強行班で刑事をしていました。田中さんの検視については覚えています。検視記録はもう廃棄してあるようですが、あの時のことはよく覚えています。というのも、あとで遺族や保険会社等ともめる可能性があったからです。」
として一旦話を区切るとテーブルの上に置いてあった茶封筒から50枚程度の写真を取り出した。
それをテーブルの上に並べる。
通常、検視時に写真撮影を実施するのは必須だ。
が、検視の記録と同時に写真のネガも廃棄される可能が高い。
「通常は廃棄される検視時の写真撮影のネガですが、記録廃棄時にネガから現像して、写真の形で私が保管していました。先ほども言ったように後で関係者ともめる可能性がある案件だったためです。まあ、それでも写真を撮って個人で保管していたのは、本来、処罰対象でしょう。」
ここで間を置くと鳥居は続けて
「当時私は事故死と判断しましたが、遺体発見当初は殺人事件の可能性も視野に入れていましたので、通常の検視業務よりも余計に写真撮影を実施した次第です。」
と申し立てた。
本来検視業務で50枚もの写真を撮ることはないが、殺人事件の疑いがある場合は、30年前とは言え、50枚、舞写真を撮るのは納得できる。
事件性の疑いがない場合であれば、遺体の姿勢を明らかにするため、衣服を着た状態、脱いだ状態、衣服を取り除いた状態での背面、顔部特に眼部のアップ等が撮られるのみで数枚程度である。
並べられた写真は、遺体状況の他、現場の状況と言える室内の写真も撮られていた。
藤堂は、取られた写真の中から遺体が握っていた紙について尋ねる。
「これは、何ですか」
と尋ねると鳥居は
「ええっと、これは……」
と言って少し考えると
「思い出しました。これは死者の息子さんが当時、習字の授業で書いたものです。支社の田中恵美は息子のが習字の授業で書いた半紙を握り締めていました。理由は分かりません。確か『いろはにほへと』と書かれていたと思います。」
と申し立てた。
同席した赤川と金親は息をのむ。
そして
「こりゃあ、いきなりビンゴですね。」
と赤川が古臭い言い回しをすると金親も
「ま?」
と言って驚く。
後で金親に聞くと
マジか?
の略らしい。
写真の1枚に、『いろはにほへと』と書かれた半紙が出てきた。
藤堂が
「先程、事故死という風におっしゃいましたが、内容はどのようなものですか」
と尋ねると
「簡単に言うと『服毒』ということなりますが、この服毒は死者本人が誤飲したものと判断しました。理由は、流し台に毒が付着した空のマグカップが1個あって、そのマグカップから検出されたのは死者本人と息子の指紋だけだったからです。使われたのは、農業で使われる害虫駆除用の農薬でした。台所の下の棚から農薬入りの容器を発見しました。親戚の人から聞いたところ、田中さんが住んでいた地域は田舎の農村で以前から、容器を見たことがあったそうです。また、田中さんは酒で酔っている状態だとなんでも混ぜて一気飲みする癖があったそうです。マグカップの中には農薬の他に強い酒が入っていました。」
とのことだった。
また藤堂は
「現場では、争った跡等の不審な状況はなかったということでいいですか?」
と尋ねる。
鳥居元刑事は
「その通りです。田中恵美は貢と言う息子と2人暮らしで、この日は日曜日で、家にいたのは息子のみです。隣近所に聞込み捜査をしていますが、不審な人物の目撃情報等は一切ありませんでした。」
と答えたが藤堂は更に
「息子と2人暮らしということですが、生活ぶりはどうだったのですか?」
と質問した。
鳥居は
「いわゆるシングルマザーで、暮らしぶりは良くありません。スーパーでパートをして生計を立てていたとのことですが、貯金する余裕はなかったと思われます。
もちろん自宅から金品が盗まれた話はありません。あと、パートだけでなく母親はいわゆる売春をしていたとの話が合って、それが原因で何者かに殺されたと推測する捜査員もいましたが、売春客ともめたという話は浮上しませんでした。それと当時小学生の息子の貢君の話では『自分が母親にカップを渡した』とのことを話していますが毒物の混入については一切話していません。後は母親が亡くなってショックだったのか何を尋ねても俯いて何も語らないという状況でした」
と申し立てた。
藤堂は
うーん
と呟くと
「大体の内容は分かりました。この写真は全部証拠品として提出してもらっていいですか?」
と尋ねる。
鳥居は
「ええ、もちろん構いません。」
と頷いたことから、赤川と金親に合図を送り、持参した任意提出書とその続紙に提出品
の品目を記載させる。
20分程度で任意提出書は完成したため、署名をもらう。
そして
「すみませんけども、現場の方も確認したいんですが…」
というと、
「分かり案した。昨日、捜査にいらっしゃると聞いたんで、住んでいたアパートの大家さんに連絡したところ、部屋は現在空き部屋になっているようです。もちろん当時の家具等はありませんが、室内の状況はある程度、確認できると思います。大家に連絡すれば鍵を借りて中も見れる状況になっています」
とのことだった。
室蘭警察署から車で30分程度の距離にあるとのことだったため、刑事課庶務係の村田が運転する公用車に、藤堂、赤川、金親に鳥居が一緒に乗り込んだ。
その時、室蘭警察署の駐車場内に泊まっていた車両のセレナから女性が降車してきた。
セレナから降りてきた人物は冴島だった。
冴島は藤堂に駆け寄り
「よかったあ、やっぱりここだったんですね!藤堂班長!北海道に出張捜査って言うから、ここにヤマ張ってたんですよ」
藤堂は
「冴島も来たのか!じゃあ一緒に行こうよ!どうせついてくんだろ!小さな車に5人乗りは疲れそうだと思ってたんだ」
とのことで冴島の運転するセレナに藤堂、金親、赤川の3人が乗り込み車両2台で現場に赴くことになった。
通常、刑事がマスコミと一緒に現場に向かうなどありえないが、冴島が元刑事でライバルと言うこともあって、すんなり話はまとまった。
現場に向かう最中、赤川が冴島に話しかける。
「今日も、ごっつ、藤堂はんのこと書いとりましたな!見ましたで読日のスポーツ紙!他のところは上辺だけ書いてた感じでしたけど、冴島さんのところは、がっつり掘り下げてましたなあ」
冴島は
「よかったあ、書きすぎてて文句言われるかと思って冷や冷やしてました。」
と言うと赤川は
「それじゃあ、車乗らしてくれた代わりに、いい情報教えてあげまっせ」
として話し出した。
「『いろはにほへと』の一番最初の被害者は田中の母親みたいですぜ!立件は時効だから無理ですけど……」
と言うと冴島は
「ええええええー」
と絶叫した。
冴島は
「いやあ、それは私に言っていいんですか!既に書く気満々になってますけど…」
と言うが、赤川は
「今更でっしゃろ!、いつも読日だけ、スクープ連発してたら、そりゃあ分かりまんがな。いつもは藤堂はんがリークしてたんでっしゃろ、今度余裕があったら、こっそりワイのことも天才捜査官2号ということで、のっけてください」
と言い出す。
藤堂は
「俺は、自分ではリークしている気、まったくないんだが…」
と言うが、冴島は笑うばかりである。
現場に到着すrと、60代の男性が
「このアポアートの大家の田島です。鍵も用意しています。入りますか」
と促してきた。
藤堂が
「お願いします」
として頭を下げると捜査員全員で中に入る。
アパートには『白鳥台ハイツ』と記載されており、大家はその白鳥台ハイツの102号室のドアのカギを開錠していた。
田島は
「聞いたかもしれませんが、いわゆる第一発見者は私なんです。この日は日曜日で子供の貢君は遊びに出てて不在だったんですが、私は家賃をもらいにここへ来たんです。時々、家賃を滞納していたので、暮らし向きは良くなかったんでしょう。」
と申し立てた。
室内は8畳一間にダイニングキッチン付きで、押入れの上にロフトもついている状態だった。
田島は更に
「家賃は1月36,000円です。田中恵美さんは8畳間の中央に置かれたテーブルの脇に倒れている状態で、テーブルの上に毒が付着したマグカップが置かれている状態でした。」
とのことを告げる。
一緒にアパートに入った鳥居は、台所の戸袋を開け
「ここに、農薬が入った容器が置いてあったんです。」
と告げる。
藤堂は、室内をぐるっと見回し
「なるほどですねえ…」
と独り言ちた。
鳥居は更に
「30年以上前ですので周囲には防犯カメラ等は一切ありません。」
と告げると
「何か分からないことがあれば、何でも聞いてください。答えられることであればお話しします。」
としたところで、様子をうかがっていた金親が「ハイ」と言って挙手する。
金親は
「ちなみになんですが、田中恵美さんは生命保険とかは入っていたか分かりますか」
との質問をする。
横にいた藤堂は、少し驚き
「おおっつと!俺もそれが一番聞きたかったんだ!」
と頷く。
鳥居は
うーん
と唸り声をあげると
「流石に、するどいところをついてきますね」
とした上で
「実は、生命保険の関係があったため『事件性』について、捜査員の間で当時もめたのです。」
として一旦間を置き
「田中さんは、生命保険に加入していていました。しかし加入してわずか半年で亡くなった形になります。保険の受取人は死者の姉で保険金は7000万円と、当時で言えば相当な高額だったのです。そして、貢君はその姉に引き取られました」
と申し立てた。
藤堂は
「では、その姉の連絡先と住所分かれば教えてください」
と伝えると、鳥居は準備していたのか住所と電話番号を告げたのだった。
そして最後、藤堂は
「今日聞いた内容で供述調書を作成しますので、明日も室蘭警察署にお越しいただけますか」
とすると、鳥居は「分かりました」と頷いた。
最後、藤堂の脇にいた赤川は
「田中恵美の関係、鳥居さんは今でも事故だと思っているんですか?田中貢が毒を盛って殺したという可能性はどう思うてるんですか」
とズバリな質問を繰り出した。
鳥居は少し考えていたが
「私は今でも誤飲による事故だったと思っています」
と言ってアパートを後にしたのだった。
初日の捜査はここまでで、一旦ホテルに戻り今後の方針を話し合うことにする。
ホテルの藤堂の部屋で話し合われた。
藤堂は
「明日、赤川は鳥居さんから調書を取ってくれ。金親は大家の田島さんから調書を取ってくれ。俺はその間、田中を引き取ったという田中恵美の姉に話を聞いてくる」
として仕事を割り振ったが赤川は
「調書はいいですけど、田中貢の犯行と言うことでそれを念頭に!ということでいいんですか?」
と尋ねる。
一口に供述調書と言っても、方向性が分からなければ作成できない。
藤堂は
「いや、これは事件じゃなさそうだ。今日鳥居さんと田島さんが言ったまんまの内容で構わないよ」
と応える。
赤川と金親は驚き
ええええええ
と声を発した後、赤川が
「それは、やっぱり誤飲で事故って意味ですか?」
と尋ねるが、藤堂は首を横に振り
「俺が写真を見た限り、あれは田中恵美の自殺だ」
との剛速球を投げ込む。
再び赤川と金親は
ええええええ
と絶叫する。
更に藤堂は
「遺体には他殺を疑わせる痕跡は全くない。田中貢が殺人をほのめかしているから、おそらく、毒をカップに入れてそのまま渡したのは田中貢なんだろう。ただし、母親の田中恵美は毒入りと分かった上でそれを飲み干して死んだんだ。だから田中貢は自分が殺したと思っているが実際は母親の覚悟の自殺だよ。」
との衝撃的な推理を示す。
赤川は
「自殺の根拠は何ですか?」
と尋ねると
「いくら酒に混ぜたからって、一口で異物が混入されているというのは明らかだったはずだ。普通は途中で吹きだしてしまって飲めない。農薬での服毒って言ったって、青酸性の毒じゃないから、一口で即効で死ぬなんてことはない。飲み干している状態って言うのが根拠と言えば根拠だ」
そして
「自殺の動機を見つけるのが、次のキーだ。保険金の話が出たが俺はそれが関係していると思う」
とのことを赤川と金親に伝えると2人とも考え込んでしまう。
すると、藤堂は
「自殺の動機を早く見つけたいって言う意味で、明日、死者の姉に話を聞きたいんだ」
と2人に伝える。
赤川と金親は、翌日の供述調書作成の準備を始めるため自室へ戻っていった。
藤堂は田中恵美の姉、三島もえに電話し、先ずアポイントをとる。
「千葉県警の藤堂と申します。田中貢さんの関係でお話をお聞きしたいんですがよろしいでしょうか」
と尋ねたところ
「あ、…はい…、何か朝からマスコミの取材の方が来ていて、今、近所迷惑になっている状態なんです。できれば私の方が警察の方に出向く形でよろしいでしょうか。午後からであれば私の方が出向きますので…」
ということで室蘭警察署の取調室を借りて事情聴取をすることになった。
日本中が注目する連続殺人事件の被疑者の生家ということで、マスコミも気合が違う。
赤川と金親の供述調書の方は午前中には終了していたため、午後から3人そろった状態で事情聴取を実施する。
田中恵美の姉三島もえは70歳くらいの女性で、着物姿で現れた。
「私が三島もえです。田中貢の育ての親ということになります。」
として話始め
更に
「貢は妹の恵美が亡くなった際、うちで引き取って育てたのです。幸か不幸か妹は生命保険に加入していたため、その保険金で大学まで出すことができました。貢は、あまり笑わない子で、うちにはあまりなじめなかったのかもしれません。大学卒業後、検察官になったのは知っていますが、大学卒業後はほとんどあっていません。連続殺人事件の容疑者なんですよね!本当に驚いています。」
等と申し立てた。
藤堂は
「当時室蘭警察署にいて、妹さんの検視を担当した刑事さんに昨日、状況を聞きました。今、生命保険の話が出ましたが、受取人は貴方だと聞きました。貴方は生命保険の受取人だったことをいつ知ったんですか?」
と尋ねる。
「妹が生命保険に加入した時に電話で聞きました。そして『私に何かあれば、貢のことを頼みます』って言っていたのです」
との回答だった。
また藤堂は
「当時の妹さんと貢君の暮らしぶりについてはどのようなものだったんですか」
と尋ねると
「妹の暮らしぶりは良くありませんでした。シングルマザーで、妹と私の両親も既に他界している状態でしたので頼る人がいなかったのです。貢は、家ではあまり何も言わないようだったのですが、どうも、シングルマザーということで『いじめ』にあっていたようです。」
とのことを応える。
そして
「立ち入ったことをおたずねしますが、いじめの原因については『シングルマザーであったこと』以外に何か知ってますか」
とのことを尋ねる。
三島もえは、答えるかどうか逡巡した様子だったが、意を決してはなしだした。
「妹はパートで生計を立てていましたが、それだけではどうしようもなくて、どうも売春していたようです。そのため、学校でいじめられていたんです。」
とのことを告げる。
藤堂は、いったん
なるほど
と呟くと
「私は昨日、当時の恵美さんの検視を担当した刑事さんに話を聞いたんですが、刑事さんは誤飲による事故死じゃないかと言ってましたが、私は正直、自殺だった可能性を考えています。」
と剛速球を投げ込んで
「それについて異論はありますか?」
等と尋ねる。
三島もえは目と口を大きく開けて、驚愕の表情を見せた。
三島は
「流石は都会の刑事さんは、やっぱり違いますねえ」
と答えたところで藤堂がさらに
「確かに、自殺であれば保険金は手に入らないという契約であれば、保険金詐欺も考えられる案件ですが、詐欺罪は既に時効ですし、私は詐欺は専門外になります。それをどうこうしようとは思っていません。ただ田中貢本人は、はっきりと言っている訳ではありませんが、母親の死について調べてほしい素振りだったので、わざわざ北海道まで来たのです。教えてくださいませんか」
とすると
「わかりました」
と応えると、持っていた黒色音セカンドバッグから1通の封筒を取り出し藤堂の前
に置いた。
それは
三島もえ宛てのもの
で差出人は
田中恵美
であった。
封筒の中には便箋が2枚入っており
お姉ちゃん、ごめんなさい。
お姉ちゃんがこれを読んでいる時、私はすでに死んでいるでしょう。
私は今、死ぬのは怖くありません。
ただ貢のことが心配なのです。
先日、学校の担任の先生から聞いたのですが、貢は『いじめ』にあっているようなのです。
それは、私が売春をして生活費を稼いでいるということが噂になっているせいらしいのです。
色々考えましたが、先日お姉ちゃんに電話で話したように、私は生命保険でお姉ちゃんを受取人にしています。
貢は勉強ができる頭の良い子です。
今日の朝、貢が私にお酒の入ったマグカップを差し出してきました。
今まで見たことのない表情で差し出してきたので、おかしいと思ったところ、お酒に農薬を混ぜて私に渡してきたのが分かりました。
私はこれを飲み干そうと思います。
そこでお姉ちゃんにお願いがあります。
私が死んだ後、貢のことを面倒見てほしいのです。
私は酔っぱらうとなんでもかんでも酒に混ぜて飲んでしまう変な癖があるということにすれば、自殺ではなくなって、いくらかでも保険金が下りると思うのです。
勝手言ってごめんなさい。
貢のことを、どうぞ、よろしくお願いします
田中恵美
と綴られていた。
三島もえは、
「これは妹が亡くなった翌日に郵送されてきました。刑事さんに話そうかどうしようか迷いましたが、妹の願いは、私ども三島家で貢を引き取って、できれば頭の良い貢を大学まで出してほしい。貢に幸せになって欲しいということだと思い、これまで誰にも言わないできました。」
と答えたのだった。
いつの間にか三島の目から涙がしたたり落ちていた。
当時のことを思い出したのだろう。
藤堂は頷き、その場で供述調書を作成するとともに
「手紙を任意提出してもらっていいですか?正直に言いますと母親、田中恵美さんを田中貢が殺害したのではという疑いがあったんですが、この手紙はそれを否定する証拠になります。と言っても、当時、貢君は小学生ですので、仮に貢君が殺害した場合であっても触法少年と言って当時の刑法から言えば責任能力は否定されます。少なからず、この案件が今現在容疑がかかっている連続殺人事件への関与があると思われますので、協力をお願いします」
と素直に申し向ける。
三島もこれに応じ
「妹の件は、手紙にある様に自殺に間違いありません。どうか貢のことをよろしくお願いします」
として頭を下げたのだった。
藤堂は
普通に裁判すれば死刑になる可能性が高い
ということは口にしなかった。
ここまで来たところで、藤堂は自分の携帯電話で捜査本部に連絡する。
そして
連続殺人事件の一番最初は、田中貢の母親の死であること
しかし実際には自殺であったこと
を告げる。
電話の向こうでは
ええええええー
との絶叫がこだまする状況であった。
そして藤堂は
「こっちでの用件は済んだから、明日、帰る」
と告げたのだった。
それから必要ないと言えば必要なかったが協力してくれた冴島にも
北海道での用件は終了したから帰る
とだけ告げたが、事情を知っている口の軽い赤川が
母親の死は実は自殺で殺人事件ではなかったこと
を伝えてしまっていた。
冴島は、スクープするのではなく藤堂に
「田中貢の母親の話は分かったんですが、捜査に支障が出るといけないので、新聞に載せていい段階になったらワンギリしてほしい」
とお願いし藤堂も
「そうしてくれると助かる」
として、暗にこれを了承したのだった。
翌日、藤堂、赤川、
金親の3人は意気揚々と帰路に着くことになる。
最終日、午前中は土産物屋によってから昼過ぎに千歳空港へ到着し、午後一番の便で捜査本部のある我孫子警察署へ向かう。
帰りは同じ便に冴島も乗っていた。
帰りの便、やはり座席に座って5分もたたないうちに金親がトランプ、藤堂が将棋盤をテーブル代わりに取り出す。
金親が
「それじゃあ、出張捜査記念のポーカーバトルを始めますか」
と言い出す。
北海道への行の機内では、金親の圧勝と言ってもいい状態だった。
埼玉県警で『強運の持ち主』と言われるだけのことはある。
赤川は
「まあ、最後の最後、勝つのはワイやけどな」
と意気込みを見せるが、金親は
「おやあ、行の飛行機の時、私にコテンパンにやられたのお忘れですか?千葉県警の捜査員はその程度の記憶力で務まるんですか?」
と煽る。
赤川が
「このアマ、俺の本気見せたる!」
と言うが
「ちょっと懸念があるとすれば冴島さんの実力がよく分からないことだけど…でも、赤川さんいるからビリは免れそうですね」
とまた煽る。
赤川は
「それじゃあ、仮想千葉県警対埼玉県警の再戦やな、泣かしたる」
と意気込む。
ここで冴島が口を挟む。
「そういえば、埼玉県警でも田中を容疑者と考えていたって噂がありますけど……、しかも金親さんが容疑者として田中を浮上させたって聞きましたけど本当ですか」
と質問してきたのだ。
金親は
「まあ、そういわれると確かに私ってことになるのかなあ…」
と曖昧に返答する。
そして
「不完全ナンバーでセレナが1台浮上していたんですけど、現場に近いコンビニで防犯ビデオ画像を確認したら、私が解析したコンビニの防犯ビデオにガッツリ、そのセレナが映っていて完全ナンバーまで分かったんです。そのセレナの所有者として田中が浮上したんです。」
と申し立てた。
また
「現場近くにコンビニが3件並んでいる場所があって上司の上田班長と、一線署にいる私の同期の佐原と私でだれがどのコンビニの防犯ビデオを解析するか決める時、私の友達からサンクスのスイーツでおいしいのがあるって聞いてたんで3店舗のうち、私がサンクス選んだら、見事にアタリでした。日頃の行いですかねえ……千葉県警のどこかのハゲとは違って私普段から行いいいんで」
とのことを申し添えると、赤川が
「なにおう、お前らの被疑者の割り方は、センスも何もないただの運やんけ!そんだけで、でかい顔しとったんかい!それとお前、ハゲ言うな」
との抵抗を示したため、行の飛行機同様、赤川と金親は視線で火花を散らすことに
なる。
藤堂は淡々とカードチェンジを行い、冴島はわずかに笑顔になっていた。
戦いは終盤を迎えていた。
赤川が
ぐうー
と唸る。
終盤に来て、金親の10のワンペアに赤川はキングのワンペアだったが金親の余裕の顔に騙され、勝負をあきらめてしまいチップを取られてしまったのだった。
これでチップ数は金親50枚、冴島35枚、藤堂30枚、赤川は5枚で単独ビリを独走状態となっていた。
そして最終戦を迎える。
金親の快進撃は止まらなかった。
最後、藤堂はブタ、冴島はワンペアで赤川は最後スリーカードで意地を見せるが、無情にも金親の役はフルハウスであった。
赤川が再び唸る。
ぐ、ぐうー
すかさず金親が赤川のプライドをへし折りにかかる。
金親は
「この、小物があ!跪いて私に謝罪しろ!」
等と中国のショートドラマに出てくる悪役の様な一言を放ったのだ。
赤川は、
「く、くそ!こんな、ちんちくりんに負けるとは…」
と肩を落とす。
尚も金親は、ゆるめずとどめを刺しに行く。
「ほら、早よ、額づいて土下座しろ」
と詰め寄るが、藤堂は赤川に助け舟を出そうと話を変えにかかる。
「赤川、女房にいつか機会があった聞いてくれって頼まれてたんだけど、お前いつも休みの日何やってるの?ハリセン作ったりゲーム考えたりしてるのは知ってんだけど…、彼女とかいねえの?」
と尋ねると、赤川はすかさず
「いやあ、千葉県の女の子、見る目ないのか、彼女おりませんねん!」
と応える。
金親は即座に反応する。
「いやあ、見る目あるから彼女おらんのやろ?見る目どころか、あんたの頭
お祖母ちゃんくらいの老眼でも1キロ先からハゲってわかるもんなあ」
と強烈な一撃を放つ。
金親は基本大阪出身で関西弁だが赤川につられて関西弁が出てくるようになってきたらしい。
哀れ赤川、二の句が継げない。
千葉県警が埼玉県警に惨敗を喫しそうなまさにその時、赤川が大技を繰り出す。
機内で床に右ひざを付けると
「ワシにはこんなピンチでも、流れを引き戻す必殺技がある。」
と負け惜しみをのたまう。
しかし、金親は慌てず
「流れを引き戻すも何も、たった今、勝負着いたやん!埼玉県警の圧勝や!」
と答えた瞬間だった。
赤川はスーツの内側のポケットに手を入れると小さな紙製の箱を取り出した。
藤堂、金親、冴島の3人は呆気にとられる。
何が始まるんだ
と思った瞬間、赤川は衝撃の一言を言い放った。
「ワシと結婚してくれ」
藤堂、金親、冴島の3人は
ハアー?
と驚く。
周囲でバトルの様子を見ていた乗客も
「ええええーっつ!」
と叫び驚きを隠せない。
前振りも何もなく、いきなりのプロポーズだ。
そして胸ポケットから取り出した紙製の箱を開くとそこには
プラチナ製の指輪
が入っていた。
どうやら赤川も中国のショートドラマのファンらしい。
一番驚いたのは金親だろう。
金親は顔を真っ赤にさせ、固まっている。
今度は金親が二の句を告げない状態となった。
この時には、千葉県警対埼玉県警の戦いであることを覚えているものなど誰もいなかった。
しばらく固まっていた金親だが数十秒後、やっと、我に返りようやく一言言い放つ。
「と、とりあえず、土下座して謝罪しろ!」
が
「自分の亭主を土下座させる妻がどこにおんねん」
と言ってこれを拒む。
金親は再び固まった。
確かに流れが変わったと言えなくもない。
「くそう、負けを認めたくないからって、卑怯な技使いやがってえ…」
と言い終わらぬうちに赤川は片足を床に着いた姿勢から立ち上がり、一瞬の間に金親をお姫様抱っこしていた。
いつの間にか赤川はドヤ顔になっていた。
「その年になったら、大概わかるやろ!大人は卑怯ななんや」
そして
「沈黙はイエスってことでええか?」
と確認する。
更に顔が真っ赤になった金親は
「と、とりあえず、降ろせや!」
と言うが、赤川は
「返事が聞こえんなあ」
と続ける。
やむなく金親は
「わ、わかった、わかったから、とにかく降ろせ!なんでもええから」
と叫ぶ。
藤堂は驚いていた。
え、それはプロポーズの返事はイエスってことか
今ので、プロポーズが成功したのか
千葉県警対埼玉県警の戦いはもうどうでもいいな
赤川に春が来た
と思わずにいられなかった。
当の赤川も驚いたような顔をしている。
顔が引きつっているが一応は喜んでいる様子がうかがえる。
周りで見守っていた乗客の中には引きつった笑いで拍手を送っている者もいた。
羽田空港のロビーで藤堂はこっそりと赤川に尋ねる。
「何で、あの場で指輪なんか持ってたんだ。最初からプロポーズする気でいたのか?」
すると
「んなわけあるかあ!ワシみたいに失恋のベテランになると、いつでも剛速球投げられるように準備しとくもんや!大谷翔平みたいやったやろ」
とのことだった。
また、冴島も金親に質問していた。
冴島が
「あのプロポーズ受けて、本当に良かったの?赤川のどこが気に入ったの?本当はその気なくて、場の雰囲気見たいので勢いで言っちゃったって言うんなら早めに訂正しといた方がいいと思うよ。赤川、変な顔してたけど、あれ、めっちゃ喜んでる顔だったよ」
と尋ねると金親は
「北海道行く時にもポーカーやったんだけど、そん時から思ってた。うちの亡くなった父ちゃんに雰囲気が偉く似てる。負けた時のいい訳の仕方とか、勝った時の喜びようとか……捜査なければずっとトランプしてたいくらい楽しかった。プロポーズを受けた理由はそれ!」
また
「結婚して、一緒に生活してみて、やっぱり無理だと思ったら、慰謝料、ふんだくってやるから、それでよしとする!でも私は埼玉県警でナンバーワンの『強運』の持ち主らしいからきっと大丈夫だと思う」
と笑顔で答えたのだった。
そして
「冴島さん凄いねえ、あれ『めっちゃ喜んでる顔』って分かるんだあ?父ちゃんもあんな感じで、めっちゃ喜ぶと顔が引きつるねん。例えるなら、ドジャースがプレーオフの試合、最終回のチャンスの場面でピッチャーゴロを打ってしまったけどピッチャーの暴投で勝っちゃった時の顔」
と付け足したが、冴島にはたとえ話が難しくて、顔が引きつっていた。
いずれにしても、出張捜査は大収穫と言ってよい結果だった。
翌日、我孫子警察署において取り調べが行われることになった。
逮捕罪名は『傷害』だが、本日の取調は『殺人・死体遺棄』である。
DNA鑑定の結果はすでに出ており、千葉県での殺人事件は逮捕令状が取れる状況
であるが、被疑者の対応を見るためのものである。
つまり、素直にすべて供述する気があるのかどうなのかを見極めるためである。
取調べ前、藤堂は、米山補佐と話をすることにした。
藤堂は米山補佐と道場の隅に行き話し込む。
「米山補佐、今日1日、取り調べてみてやはり否認のようなら取調官を変えてもらっていいですか?」
とお願いする。
米山は当然驚く。
これほどの大事件であれば、取り調べをやりたいと言う者は多いが『変えてくれ』とお願いされるケースはほとんどない。
米山は
「なんだ、自信ないのか?」
と尋ねるが、藤堂は
「いや、昨日ちょっと考えたんですが、このまま続ければ、うちのだけじゃなく全
部起訴されます。そうするとどうなるかと言うと俺、表彰されちゃうと思うんです。すると警部確定しちゃうような気がするんです。私はそれを避けたいんです」
と、ずばり本音を吐き出す。
うすうすは気づいていたが、ズバリ言われて米山補佐は困ってしまった。
刑事にとって警察の階級、警部補と警部では天と地ほどの差がある。
警部補は捜査の要であるが警部は捜査というよりは管理職的立場になってしまうのだ。
つまり、捜査が好きな人は警部補以上の階級になりたくないものもいる。
米山は「藤堂がそれを避けて、重要事件の被疑者取調べをしたがらない」というこ
とは分かっていた。
そのため
「いや、もういいだろう。お前が筆頭班長だから、被疑者を逮捕で来たんだ。今更取調官を変えた程度じゃ、お前の功績には影響ないよ。間違いなく表彰される。」
と伝えるとがっくりと項垂れる。
多くの警察官は年に一度の昇進試験で上の階級を目指す。
承認を目指さない警察官は完全に少数派だ。
しかし藤堂は粘る。
少しでも抵抗したい。
「こうしましょう。今日は1日、本気で取調べします。今日、うちの我孫子事件以外の供述が変わらない場合、俺を変えてください。変わったらそのまま取調官をします。これでどうでしょう。」
米山は悩んだ。
藤堂は田中がすべての犯行を認めるだろうと思っているのか、認めるにしても後日だろうと思っているのか、悩ましいところだ。
米山は
「わかった。そうしよう。ただ今日オチようが、後日オチようがお前は間違いなく表彰される。それは覚えておいてくれ」
とのことで取調べ前の話し合いは終了した。
が米山はただ、藤堂の話を受け入れたわけではなかった。
取調室に入る赤川と金親をこっそり呼び出した。
藤堂が周囲にいないことを確認すると、
「藤堂が取調官変わりたがってる。田中が犯行を認めたら、階級が上がるほどの表彰をもらうだろう。しかし、藤堂はずっと刑事でいたいからそれを拒んでいるんだ。
俺の見立てでは、田中は千葉県の事件はあっさり認めるだろう。そして起訴される。
それだけで、もう、表彰の対象1番手だ。」
と言うと一旦間を置き
「お前らを呼んだのはほかでもない。藤堂との約束で、藤堂は今日一日は本気で取り調べるって言ってる。あの言い方だと、今日1日だけだと怪しいが、ずっと取調官を続けたらオトせると思っている節がある。お前らが見ていて、『ここだオトせる』と思ったらお前らも前面に出てオトしてしまえ。援護射撃だ!今日オチようが明日オチようが藤堂は表彰される。あいつの警部補としての最後の事件になるかもしれない。最後なら花道を通ってもらいたい」
と捲し立てた。
赤川は
「いやあ、昇任したくない警察官ってホントにいるんですねえ!ずっと捜査していたいって気持ちはわからんでもないですけど……分かりました。援護します」
また金親は
「大丈夫です。私は一番弟子ですんで、見事な援護射撃かましてやりますよ。藤堂班長が警部に上がったら、埼玉県警の時代になるかもしれませんし…」
等と言って了承した。
これが大きな喜劇の始まりだった。
取調室で田中は余裕の表情を見せている。
藤堂は
「そういえば、北海道に出張捜査に行ってきましたよ。おかげで『いろはにほへと』が何なのか分かりました」
と告げる。
田中は、笑顔になり
「ああ、だから、ここ何日か取調べがなかったんですね、」
と応じると
「それで、立件的にはどうです?」
と尋ねてきた。
藤堂が、
「まあ、知っての通り、完全に時効ですよね」
と応えると
「時効がなかったら立件できたと思いますか」
と更に尋ねてくる。
藤堂は
「立件も何も、あれは事件じゃないですね」
と応えると、
「藤堂さんが見てもやはり事故ですか」
等と更に食いついてきた。
取り調べの様子は、カメラで録画されており、刑事課内で閲覧可能だ。
藤堂は、田中の質問を聞いて少し間を置き
「向こうの検視を担当した刑事さんにも状況を聞きましたが、刑事さんの判断と私の判断は違います」
と言うと、田中はさらに笑顔になり
「どの辺が違うんですか?」
と質問する。
藤堂が答えようとしたところで田中が更に
「そういえば、藤堂さんはダイイングメッセージを否定しているんですっけ?私はあると思います。」
と付け加えてきた。
藤堂は
「私はダイイングメッセージって、小説の中の妄想だと思ってます。実際にはありません。仮に私が死にそうな状態に陥っていたとしても犯人を示す何かを残そうなんて思わないでしょう。」
そして、ここで一旦間を置き
「私が死にそうな状態であったなら、犯人じゃなく、自分が愛している家族の名前を書いてしまうでしょう。人生の最後に自分を殺そうとしている人物の名前なんて書かないと思うんです。貴方のお母さんが、あなたが書いた習字の『いろはにほへと』を握り締めていたのは、毒をもった人物があなたであるという意味じゃなく、自分が愛しているのがあなたであるということを表しているにすぎません。」
と答えた。
田中はそれを聞くと、顔色が変わり
「そうでしょうか、私は母が自分に毒をもった人物を表そうとして、あれを示したんだと思います。」
と否定してきた。
そして
「話が途中になってすいませんねえ」
と前置きした後
「あれは間違って服毒してしまった事故ではなく、覚悟の自殺だったと思います」
との判断を示すと田中は予想外だったのか
「はああ?自殺だとー」
と大きな声を張り上げた。
「そうです。間違いありません。」
そしてあらかじめ用意していた姉宅に郵送された手紙のコピーを田中に示した。
「これはお母さんが亡くなった翌日に、姉宅に郵送されてきたみたいです。これを読んで事件だとか事故だとかいう人はいないでしょう。自殺だったんです」
とした後
「どうもあなたのお母さんは貴方が学校でいじめられているのを知っていたみたいです。しかもいじめの原因が自分にあるということも知っていました。ただ、子供を養うためには身を売って稼ぐしかできなかった。そこで思いついたのが自分に生命保険をかけて事故のように見せかけて自殺することだったんです。貴方は自分が毒物の入ったマグカップを母親に手渡したから自分が殺したと判断したんでしょうが、お母さんは毒入りと知っていて、敢えて飲み干したんです。そうであれば、完全に自殺です」
そして
「お母さんの姉宅にあなたは引き取られましたが、あなたは大学進学も果たしています。お母さんの姉がそうしたのは自分の妹の願いをかなえたかったためだと思います」
と付け加えた。
以後、田中は沈黙する。
何か思いふけっている様子だ。
その後、何度も何度も田中は手紙のコピーを読み返す状態が続き、午前中の取調は終了した。
午前の取り調べを終え、取調の状況を刑事課の部屋で見ていた志村検事は興奮したように藤堂に近付き
「お母さんの件、事件じゃなかったとは聞いてましたけど、自殺だったんですねえ……、それにしても、お母さんの件が、田中に凄く響いているのが分かりました。午後の取調が楽しみですね」
と話してきた。
藤堂は
「そうですね、今日の午後が勝負だと思ってます」
とこれに応じる。
そして午後の取調が始まった。
田中は、明らかに顔色が悪い。
目も赤くなっている。
想定外の話をされてひどくショックを受けているのが見て取れた。
午後の取調が始まって10数分、藤堂と田中の間に沈黙が流れた。
志村検事は刑事課の部屋で取調べの状況を確認している。
その時である。
「お…ち…ろ、お…ち…ろ」
と変な声が聞こえてきた。
最初は皆、何の音だと首を傾げていたが、そのうちに気付く。
取調室に一緒に入っている埼玉県警のホープ、金親の声であることに気付いたのだ。
声はどんどん大きくなっていく
「み、つ、ぐ!お、ち、ろ!」
そして皆、意味が分かった。
あろうことか、金親は取調室の中で「落ちろコール」をしていたのだ。
金親の上司、上田も午後の取調の時には刑事課の部屋で様子を見守っていたが、気付いた瞬間には顔は青ざめていた。
途端、刑事課の部屋が騒つく。
「あれ、いいのか」
「すげえ、斬新的な取り調べだ」
「コールしてるのは埼玉県警の人だろ、埼玉県警じゃ、あんな斬新な取り調べやってるのか?」
「藤堂班長もびっくりじゃないか」
「よく見ると、藤堂班長、わらってるぞ…」
刑事課のザワつきは大きくなる。
埼玉県警の上田は
「すいません、あのバカ、取調室から引っ張り出します」
として取調室へ向かおうとしたが志村検事が止める
「いや、ちょっと待ってください。藤堂班長が笑ってるってことは何か作戦かもしれませんので様子を見ましょう」
と告げたのだ。
いつしか志村検事も笑っている。
そして我孫子警察署の刑事課員の一人が気付く。
「落ちろコールは良いけど、なんか聞いたことあるんだよなあ」
と言い出したのだ。
そして
「何かと思ったら、この落ちろコール、猪木ボンバイエのメロディでやってるよ」
と衝撃の一言を放ってしまった。
上田は顔を真っ赤にして
「やっぱり、行きます。行かせてください」
と言ったが、周囲の皆で止める。
映像を見ると、いつの間にか
「み、つ、ぐ、落、ち、ろ」
と猪木ボンバイエのメロディーでコールしていた。
しかし、衝撃はまだ終わらなかった。
5分程度、コールが続いた後、田中が供述調書にサインしだしたのだ。
金親がコールしている最中、赤川が供述調書を作成していたのだ。
調書の内容は他県、神奈川県の殺人死体遺棄事件、警視庁の殺人死体遺棄事件、埼玉県の殺人死体遺棄事件を田中が実行したという内容である。
こうして田中貢の事件は全て藤堂が取り調べをすることになったのだった。
全面自供である。
取り調べが終わり、藤堂、金親、赤川の3人が刑事課の部屋にやってくると
志村検事が大喜びだ。
「見事な取り調べでしたね!あんな取り調べ始めてみましたよ」
それはそうだろう。ふつうあり得ない。
しかし金親は
「でも、本当はタンバリンでもあれば、もっと早く落ちたと思うんですよねえ」
と呟き、志村検事は目に涙を浮かべながら大笑いする。
それを聞いた埼玉県警の上田は
「なにい、タンバリンだと…」
と鬼の形相で金親をにらみつける。
金親は
「いやあ、私なりに気を使ったんですよ。流石に取調室にタンバリンを持ち込むのは上田班長怒るかなって…」
上田はそれを聞き
「ふざけんな、タンバリンなくても、俺は怒ってんだよ」
として金親の首根っこをつかんでいた。
捜査本部では、田中の全面自供を聞き大いに盛り上がっていた。
なんか、すげえ取調だったらしいぞ
志村検事が「こんな取調見たことない」って言うほどベタボメだったらし
い
全面自供だって
噂じゃ、埼玉の金親が取り調べですげえ技出したんだって…
でも、それでも納得してなくって、もっといい撮り調べになってたはずだって言ったらしい
金親の噂は千葉県だけじゃなく、もちろん埼玉県警にとどろいた。
そんな捜査本部だったが、夕方になるとだめ押しの捜査情報がもたらされた。
田中がひそかに契約していたアパートが判明したのだ。
千葉県の事件はともかく、他の神奈川・東京・埼玉の事件は現場が判明しておらず捜査は難航するかに思われていたが、藤堂のライバル大場がアパートを見つけ出したのだ。
やはり大場の母親に持たらされた情報を大場が取捨選択して、吟味し、千葉県船橋市に半年分の家賃を支払った者がいたが、住んでる気配がないとの情報をもとに割り出したのだ。
面割捜査により契約したのは田中貢本人と認められた。
そのアパートはすぐに検証令状を取得する手はずとなる。
この日、捜査会議狩猟後、車を止めた駐車場へ向かう藤堂は志村検事に話しかけられる。
「藤堂班長すいません」
と声を掛けられ、振り向くと志村検事が笑顔で話しかける。
「今日の取調は藤堂班長の指示だったんですか?」
と尋ねてきたが
「あれは、私もびっくりしました。埼玉県警さんも、もの凄い捜査員持ってますねえ」
と返す。
志村検事は笑いながら
「でも、全面自供です。おめでとうございます。」
と続けると
「田中は遅かれ早かれ自供したと思います。最初の3件は秘密のアパートでの犯行だったのに千葉県だけ現場を明らかにしています。おそらく私に捕まえて止めてほしかったんだと思います。」
と答えると一旦間をおいて
「田中は母親を自分が殺したと思っていました。最初の神奈川の事件では、自分の母親は売春をしていたことで自分に殺されたのに、のうのうと生きてるのが我慢ならなかったんでしょう。東京と埼玉も同じです。3件同じ手口で成功しているのに手口を変える必要性はないにもかかわらず、千葉県のケースでは現場でそのまま殺害して、遺棄しています。ずっと続けられるとは思っていなかったんだと思います。というか、私を意識していた可能性もあると思っています。私に捕まえてほしかったと言うことです。そして、できれば母親が亡くなった原因は自分が毒を盛ったからだと明らかにしたかったんだと思います。だから『いろはにほへと』を立件しろみたいなことを言ったんです。今日、母親は自殺だったことを知って、留置場に戻って泣いたんでしょうね、午後の取調の時には目が赤くなってました。あそこまで行けば俺にじゃなくてもすべて自供していたと思います」
と伝えると志村検事は大きく頷き
なるほど……
納得しました
と藤堂に応える。
そして最後、藤堂は
「でも、やっぱり大場の活躍は凄かったわ!あのアパートを見つけたら自供がなくても完全に起訴されたでしょうし、当然有罪ですというか死刑ですけど…俺のライバルだけはありますね…」
と申し添えたのだった
金親京子が勤務する成田日赤病院では、毎年恒例の研修医の実習時期が訪れていた。
外科・内科・麻酔科等に千葉大医学部から研修医が10数名訪れていた。
金親はナースだから関係ないということはできない。
ナースのシフトで、週に1回程度の夜勤で、研修医と勤務することになる。
千葉大医学部ではこの年、留学生を3名受け入れており、国際色豊かな研修医メンバーとな
っていた。
中には研修医から、そのまま、成田日赤病院へ就職する者もいる。
今年の留学生はヴェトナム人2名、フランス人1名が研修に来ていた。
ヴェトナム人の1人はグエン・ヴァン・サーミ、もう1人がチャン・テイ・リタという名前
で2人は幼馴染で許婚者同士と言う間柄でもあった。
グエン・ヴァン・サーミには兄、グエン・ヴァン・ミューラがいて、ミューラも医師をして
おり、この前年研修医として成田日赤病院に来たが、そのまま成田日赤病院に勤務するよう
になった人物だ。
サーミとミューラは、実は母国ヴェトナムで既に医師免許を取得しており、また、ミューラ
はヴェトナムで『神の手』として知られるほどの外科の名医であった。
2人は自分の両親と縁のある日本でも医師免許を取得したいという思いから、来日してい
る。ただサーミは日本では内科の研修をしている。
実はサーミには、家族で病院を経営するようにしたいという夢があり、兄が外科で既に大成
しているため、自分も外科は一通りできたが日本では内科を極めようと思っていた。
両親は医療関係の仕事には携わっていないが、父は漁師、母は食堂を経営して地元では裕福
な暮らしができていた。
また2人には、姉が1人グエン・ヴァン・チャームがおり、姉は医学ではなく、薬学を極め、
ヴェトナムでは薬局を経営している。また2人の妹のグエン・ヴァン・シャルは医療関係で
はなく、以前母親が務めていた水産会社に勤めている。
サーミの許婚者リタは外科でも内科でも無く、麻酔科の研修医だ。
フランス人研修生、フランソワ・ロゼーヌは外科の研修医である。
フランソワは、裕福な財閥のお嬢様で外科医の研修医となる。
他の研修医は皆日本人であるが、その中の1人、財閥出身の南野一平も外科医の研修生であった。
ある日、外科の研修医南野がナースステーションへ訪れた。
そこには、5名程のナースの他、研修医のリタがいたが、南野は徐にリタに話しかけた。
「リタ!今度の土曜日、一緒に飯でも食いに行かないか」
と話しかける。
ずばり、デートの誘いである。
しかしリタは
「ごめんんさい。用事があるので無理です」
とすげなく断る。
リタには、許婚者がいるという事実を知らない研修医もいる。
「この間から、何回かお誘いを断っていますが、お互い、まだ研修医と言う立場なんですから、今は研修に集中した方がいいんじゃないですかね」
とリタは付け加える。
周囲で話を聞いていたナースらは、ウンウンと頷いている。
そのナースの中で、金親が口を開く
「いやいや、南野先生、私が知る限り、断られるの今回で4回目ですよね。少しは成長しましょうよ。4回断られるってことは、脈なしですよ。心肺停止状態です。普通の人は、前回断られた時点で諦めていると思いますよ。ひょっとしたら知らないかもしれないので一応言っておきますけどリタ先生には許婚者がいるんですよ。内科の研修医ですけど、ずばりイケメンです。そんじょそこらの男では歯が立ちません。しかも性格もよくて、患者からの評判は良いと聞いています。逆に南野先生は、申し訳ないですけど、人種差別、パワハラ、セクハラの大三元テンパイの危険人物と聞いてます。そんじょそこらの普通の人だって勝てないのに、大三元テンパイの人は勝つの難しいと思いますよ。大谷翔平みたいな物凄い人が、助っ人として協力でもしない限り、無理です。末期がん状態です」
と情け容赦ないコメントを繰り出す。
これを聞いて南野は
「なにおう?俺のようなイケメンで将来有望な男でも可能性0だって言うのか」
と応える。
ナースステーションは一気に凍り付く。
聞いていたナースは誰しも
何で、あいつ、自分がイケメンだと思っているの?
家に鏡ないのか?
将来有望って自分でいう奴、マジでいるんだ?
金親ちゃんが、言いにくいことを、ズバリと言ってくれたのに、全然聞いてねえの
か?
リタ先生を口説く前に、眼科と耳鼻科で診察してもらえ
等と思っていた。
ある程度経験を積んだナースは、医師やナース仲間らの噂に敏感になってくる。
リタ先生の許婚者の話や南野の大三元の話は、よく噂の的となっていた。
金親は己を知らない南野のため、再び、口を開く
「そもそも、リタ先生は、患者にはもちろんのこと、ほかの医師や、ナース、掃除のおばちゃんにまで慕われる聖女みたいな人です。そんな聖女が毎回、南野先生のプライドに配慮しつつ、メンツをつぶさない様にと言葉を選んで断っている姿を見ると、見ているこっちが助けてあげたくなっちゃうほどです。中国人じゃないんだから南野先生のメンツなんてどうだっていいのに……リタ先生は繊細なんです。ずばり、スーパーデリケートです。私だったら、デート断るのに使う言葉は『無理』の一言だけです。南野先生の将来性は分かりませんが顔面偏差値はそれほど高くありません。」
と、やはりズバリと言ってのけた。
流石に南野も黙っていられない。
「お前、よくも俺のことそこまで悪しざまに言えたもんだ。リタはスーパーデリケートだがお前のメンタルは強すぎんな。鋼のメンタルだわ。このスーパーバリケード女!」
「いやいや、私のコメント聞いて正気でいられるあんたもバリケード男だ」
金親の術中にはまり、話がそれかけたが
「リタ先生の許婚者、マジ、パネェイケメンだよ。あんたには何かウリはあんのか?フェラーリ持ってるとか、芸能人と友達とか?オグリキャップ飼ってるとか、仕事ができるとか?大三元が『なんちゃって』でもない限り勝負になんねえだろ!野球で言えば7回、10対0でコールド負け寸前って言う状況だ」
と駄目押しのコメントを繰り出したが、ここで若干流れが変わる。ナースステーション前をリタの婚約者サーミ、兄のミューラ、外科部長の片桐光一、研修医のフランソワが通りかかったのだ。
リタ、金親、南野が同時に気付く。
ここで南野がサーミに向かって呼びかける
「おい、そこの研修医!お前俺とオペで勝負しろ、俺が超一流の外科医であることを証明する」
等とほざくがサーミはポカンとして唖然としている。
リタは顔が青ざめている。
予想外の展開だったのだろう。
外科部長の片桐らもナースステーションに到着する少し前から言い争いの声が聞こえていた。
ミューラがいた去年は別として、片桐は、年々研修医の質が落ちているのを実感していた。
ずばり覇気がないのだ。
外科医であれば、自分の腕でどんなオペでも成功させてみせるという気概を持って研修に当たってほしいと思っていた。
片桐は
「オペで勝負だって?面白そうだけど、どういう勝負なんだ?」
と尋ねると南野は即座に
「オペの失敗は問題外にしても、同程度困難なクランケの手術が必要な症例があった時に俺とこのクソベトナム人でオペ時間を争うって言うのはどうでしょうか?」
と答えた。
今度は脇で見ていたフランソワが口を挟む。
「あらあ、おもしろそうね!やりましょうよ!見てみたい!」
とやや興奮気味に話す。
ミューラは
「別にいいと思うけど、同程度に困難なオペかあ、すぐには無理じゃない?」
と告げたうえで、サーミを見て
「サーミはそれで勝負しても大丈夫か?」
と尋ねる。
サーミは
「は、はあ」
等と、あまり乗り気ではない様子の生返事で応える。
ここで、せっかくだったら2人とも本気の戦いを見たいと思ったフランソワが再び
「じゃあ、勝った方には、年代物のロマノコンティをプレゼントするわ。1本100万円くらいのやつ」
と煽り始める。
こうなると病院でナンバーワンの煽りの名手金親も黙っていない。
というか、少し焦っていた。
サーミ先生はあまり乗り気ではないみたいだ。
リタ先生から、サーミ先生がベトナムでは外科手術も経験していると聞いているが、南野先生は曲がりなりにも外科の研修医だ。
しかも自分で将来性があるなどとほざいている。
きっと自信があるんだろう。
内科の研修医であるサーミ先生が不利に決まっている。
少しでも、やる気になってもらわないと負ける可能性が高い。
ここまでサーミ先生が、良い研修医であることを知らしめるためとはいえ、南野先生をぼろくそに言ってしまっている。
サーミ先生が負けるようなことがあれば、私のメンツは丸つぶれだ。
どうするか?
何気にサーミ先生からは妹の涼子と同じ食いしん坊オーラを感じる。
食べ物で釣ろう
と思いついたのだ。
金親は
「サーミ先生、私も勝ったら『銚子丸』おごるわ」
とフランソワに対抗する発言をする。
『銚子丸』は言わずと知れた回転ずしのチェーン店である。
フランソワが100万円のロマノコンティなのに、なぜかそれに張り合う様に金親が申し出は回転ずしのおごりは、せいぜい2万円分も食べれば腹いっぱいである。
文字通り、桁違いの煽りではあったが、サーミはこの申し出に食いつく。
「ええええええ!『銚子丸』おごってくれんの?1回行ってみたいと思ってたんだ!やる気出てきたわ」
とテンション爆上がり状態である。
最初金親の発言を聞いていたナース達は
いや、銚子丸あえていらねえだろ
ロマノコンティは100万円だよ、それだけで凄いのに
バカだバカだとは思ってたけど、やっぱり金親は文字通り桁違いのバカだってことが証明されたわ
等と思っていたが、サーミの食いつきは周囲を驚かせた。
ナースらは
サーミ先生、めっちゃ食いついてきたね
これは金親マジックか
外国人にとって寿司はやっぱり、この日本ではがっつりステータスなんだろうな
と思わずにはいられなかった。
こうして昼食前、オペ勝負をすることは決定したが、都合よく同程度の難易度のオペなどそう簡単にはないと思っていたミューラだが、この日の午後勝負することとなる。
昼食休憩時、金親は8階の食堂に赴いたが、その後方を研修医のリタがついていく。
金親は食堂のBランチを注文し、食べ始めると、隣の席に研修医のリタが座った。
金親は一瞬、おやあっと思いつつ
「なんかオペバトルという、変な展開になっちゃいましたね」
と話しかけるとリタは
「あの、そのバトルで、金親さんにお願いがあるんですけど…」
と申し出てきた。
金親が
「あの大三元野郎、調子に乗ってますよね!おもいっきり恥かけばいいですけどね」
と言うとリタは正直マージャンは詳しくないのか半笑いの状態で
「あっ、それはどうでもいいんだけど…さっき金親さん勝った方に『銚子丸』奢るって言ってたけど、あれ私が引き継ぎたいの」
と言い出した。
金親が
「えっ?引き継ぐって言っても、万が一、南野先生が勝ったら、あの大三元野郎と『銚子丸』行くことになっちゃうよ」
と返すと
「多分、サーミが負けるなんてことはないと思う。サーミが勝つと金親さんと食事に行くってことになっちゃうから、そっちの方が私にとっては怖いの」
と申し立ててきた。
金親は
さすがはリタ先生、私の財布を心配してるのかな
正直、どちらが勝っても私にとっては大打撃だろう
大三元野郎に勝たせたくない一心でつい口から出ちゃったんだよなあ
サーミ先生が勝ったところで、サーミ先生と付き合えるわけでもないし、正直メリットは何もないんだよなあ
と思いつつ
「じゃあこうしよう。南野が勝ったら私が南野に奢ってサーミ先生が勝ったらリタ先生が奢るってことにしよう」
と提案する。
リタは
初めての銚子丸はサーミと行きたかった
にらんだ通り、サーミも行きたかった様子だし
こう言っては何だけど…、金親さんが恋のライバルになる展開は避けたい
金親さんはサーミの好みにがっつりはまっている。
他のナースや研修医ならともかく、金親さんは、正直私にとって脅威になりう
る
と考えつつ、
「それでお願い!サーミもやる気満々になったし、多分負けない。だてにベトナムで『神の手』って言われてないよ」
と答えた。
金親は
「えっ?神の手はお兄さんのミューラ先生でしょ?」
と尋ねるが
「あれは、ベトナムの偉い代議士先生達を手術ですくったからできたあだ名だけど、私も麻酔医として、その手術に立ち会ったから知ってる。本当はサーミの手柄なの。執刀医は公にはミューラ先生だけどサーミも第一助手として手術に参加していて、オペのクライマックスに頑張ったのは実はサーミなの。でもサーミは兄にスターというか看板になってほしくて手柄を譲ったって言うのが本当のところなんだよ。」
とのことだった。
金親はそれを聞いて
なんだ、サーミ先生が神の手か
私がでしゃばる必要全くないじゃん
弟が兄のため手柄を譲るとか、いつまでも私に食事をたかる涼子に聞かせてやりたい話だ
と思いつつ、安堵したのだった。
いずれにしても、内密の話であったが『銚子丸』の奢りはリタ先生が行うこととなっ
たのだった。
同程度に困難な程度のクランケの手術はすぐには現れないとの大方の予想であった
が、この日の午後、いきなり南野研修医とサーミ研修医が外科病棟に呼ばれた。
サーミ研修医は内科の研修医であったが、外科部長の片桐が内科部長の内藤に事情を説明して2人のオペが開始されることになった。
この日の午後、正面衝突の交通事故が発生し、当事者2名とも、成田日赤病院に緊急搬送されたのだ。
ただ、そのまま研修医に執刀させるわけにはいかず、南野先生には副外科部長と言う立場のミューラ医師、サーミ研修医には外科部長の片桐が付き添ってのオペとなった。
オペ中何かしらのトラブルが発生した場合、外科部長と副部長が対応するということだ。
搬送された2人のカルテが作成され、レントゲンが撮影された段階で、搬送された2人のうち、どちらをサーミ研修医と南野研修医でオペするかが話し合われた。
クランケの1人は30歳男性で既往症等無く、問診、レントゲン等の結果から
3本の肋骨骨折を含む肺座礁
と診断され、もう1人は45歳男性で既往症等無く、問診、レントゲン等の結果から
肝座礁
との診断結果だった。
南野研修医は2人のレントゲンを見比べて
「サーミ先生、俺はどちらでもいいから、そっちで、選んでよ」
と申し向けつつレントゲン写真を手渡す。
サーミ研修医はレントゲン写真を見比べ
「それじゃあ、俺は肋骨骨折を含む肺座礁のクランケを持ちます」
と答えると、南野はニヤリと笑う。
どちらでもいいとは言ったものの、肝座礁の方をやりたかったのだろう。
サーミ研修医のオペの方が15分早く始まった。
サーミのオペには外科部長の他、麻酔医としてリタ研修医、器具出しのナースとして金親の指導担当をしている松下由紀がついた。
松下は30歳ながら、婦長の次に仕事ができると評判の優秀なナースであった。
ある意味、盤石の態勢である。
そして南野がオペに取り掛かる。
南野研修医には、ミューラ外科副部長の他、器具出しのナースとして金親がつく。
実は金親は、若いがなかなかに優秀との評価を受けており、オペで器具出しを任されるようにもなっていたのだ。
病院によるかもしれないが、成田日赤病院では器具出しを任せられるナースは後の婦長候補にもなりうる重要なポジションである。
婦長は金親の将来性を鑑み、ナンバーツーの松下に金親の指導を任せているという状況である。
通常、経験年数1年程度のナースである金親にオペの器具出しなどさせない。
なんと金親はこれでも、ナース界ではエリートと言ってもいい存在なのだ。
ナースは人間的に面白いだけでは済まないのである。
「メス」
次いで
「コッフェル」
南野の声が続く。
実際のところ、金親は驚いていた。
金親は
なるほど、自分で将来性があるとほざくだけはある。
とても研修医のオペとは思えない。
流れるようにスムーズだ
しかも、肝座礁で最も重要な出血のコントロールがうまい。
その後もトラブルなくオペは終わり、金親も南野も汗だくになっていた。
ただ1点、南野がしている手術用のマスクの口元部分に血がにじんでいるを見つける。
どの段階で返り血を浴びたのだか分からない。
いずれにしても無事にオペは成功した。
毎回オペ後に思うが、仕事をした感があり、自分が充実している気持になる。
「ふう、終わった」と言って金親がオペ室を出た時には3時間が過ぎていた。
そこで金親は気づく。
隣のオペ室は、まだ「手術中」のランプがついたままだ。
金親は
うおっ、マジか
サーミ先生、まだ終わってないんだ
これって、南野先生の勝ちってことか
サーミ先生、が勝ったらリタ先生のおごりだけど、南野先生の勝だと私のおごりだよ!
と一気に気持ちが落ち込んでいく。
オペの状況は、誰でも確認できるようになっている。当然ビデオ録画もされている状
況だ。
金親は隣のオペの状況を確認するため、オペ室脇にある記録確認室に入った。
記録確認室には既に外科の研修医であるフランソワ研修医がおり、満面の笑みをた
たえていた。
金親はフランソワ研修医に
「こっちのオペはまだ、やってるんですか?隣はさっき終わったところです。何かトラブルでもあったんですか」
と尋ねたが、フランソワ研修医は
「トラブルじゃないけど……いやあ、いい勉強になったわ」
等と言って喜んでいる。
金親は
いやあ、確かにフランソワ研修医の立場だと、どっちが勝とうが問題ないんだろうけど…
正直私は大打撃なんだよ、南野が勝つと……
お嬢様にとっては100万円の損失ってへでもないんだろうなあ
と更に落ち込む。
それから30分ほどしてサーミ研修医のオペも終わり、皆でナースステーション戻る。
ナースステーションでは、オペ勝負の噂でもちきりだった。
「いやあ、南野先生、勝っちゃったねえ、びっくり、これじゃあリタ先生へのちょっかいやまないだろうね」
「神様も意地悪いねえ」
「南野の奴、馬にけられるまで邪魔しそう…」
等である。
金親の指導ナース松下もナースステーションに戻って来た。
しかし、何か松下は先程のフランソワ研修医同様、満面の笑みをたたえている状況だ
った。
金親は
「主任、お疲れ様です。笑顔ですけどなんかいいことあったんですか?」
と尋ねる。
松下は笑顔のまま
「いやあ、サーミ先生って内科の研修医ってことだったけど、そんじょそこらの研修医じゃないねえ、びっくりした。あんなオペ間近で見れたのは凄いことだ。あたしゃ、外科のどの先生よりオペが上手いと思うわ。確かに、今回、時間の勝負だったけど、あれは負けとは言えないでしょう。」
とのことだった。
金親は意味が分からず
「どういうことですか」
と更に尋ねると、
「サーミ先生のクランケ、肋骨骨折と肺座礁だけじゃなく脾臓破裂もしてたんだ。それなのに、この時間でオペが終わってるって奇跡だよ」
と興奮気味に付け加えた。
金親は
「奇跡ですか…」
と呟いて一旦間を置いた後
「つまり大谷翔平のフィフティ・フィフティ達成みたいな感じのオペってことですか」
と意味不明な例えを持ち出す。
金親の上司、松下は野球オタクで、何でも野球に例えると喜んでくれるため金親は野球ネタを振ったのだ。
しかも松下は大の大谷翔平ファンだ。
「お前、大谷翔平なめんじゃねえよ!フィフティ・フィフティは誰もやったことがねえ大記録だ。サーミ先生のオペも凄かったが、せいぜいフォーティ・フォーティってところだ」
等と意味不明な返しで応戦する。
また松下は
「そっちの南野先生のオペはどうだったよ?ブルージェイズ戦の山本由伸みたいにバッチリ決めたか?」
と意味不明な質問を金親に浴びせる。
金親は
「いやあ良かったですけど、そこまでじゃないと思いますよ」
と答えた後
「山本由伸って電車を縦列駐車させるんですよね?」
と付け足すが松下は
「なんだよ、電車を縦列駐車って?そりゃあ、山本由伸構文って呼ばれるやつだろ。ファンが『山本由伸は意味不明なくらい凄い』ってことを表すため作った作り話だよ。そんなの信じる奴なんかいねえよ」
と即ダメ出しを食らわせる。
金親はそれを聞き
「ええっ?それじゃあ、山本由伸が生まれたばっかりの時、立ち合いの医師に平手打ちして車に母親を載せて帰ったって言うのもひょっとして作り話ですか?」
と答えるが、ここまで来ると誰も話についていけない。
松士は溜息を洩らし後
「金親、そんなの信じる奴はいねえ!常識で考えろ」
と若干キレぎみで応える。
一旦、話が落ち着いたタイミングで金親が尋ねる。
「でも、結局、今回の勝負はどっちの勝ってことになるんですかね」
と疑問を投げかけるが、松下もそれには黙り込む。
そこへ外科部長、副外科部長、サーミ研修医、南野研修医の4人がやってくる。
そして外科部長の片桐が
「今回はオペで勝負と言う形で、2人には頑張ってもらった。いろいろと考えたが今回の勝負は無しだ。引き分けが妥当な判断だ」
とのことで丸くお染まる形となった。
また
「一応、サーミ研修医にはリタ研修医が『銚子丸』で奢って、南野研修医には金親が奢るということでいいんじゃないか?フランソワ研修医の酒は休みの日2人で半々分け合って飲めばいいだろう」
と付け足す。
何となく始まった『なんちゃって勝負イベント』なのに、きっちり負け分の支払いはしなければいけなくなった金親は、当然、がっくりと肩を落とす。
外科部長と副外科部長は、勝負の結果を告げるとすぐナースステーションから去って行った。
翌日、金親は南野研修医の姿を見るや駆け寄り
「南野先生、昨日の勝負の関係で『銚子丸』奢りますよ!今日仕事終わってからでいいですか?」
と尋ねる。
金親は
いやなことは、さっさと終わらせてしまおう
と思い、南野に促したのだ。
しかし南野は
「いやあ、外科部長は、ああ言ってたけど、ありゃあ流石に俺の勝とは言えねえよ!俺にもプライドくらいある。ここでお前に奢らせたら、後で何言われるか分からないし、想像もしたくねえ、お前のコメント、何気にがっつり破壊力あるから…」
と以外にも遠慮する旨申し立ててきた。
逆に金親は
ここで奢っておいて、後でチャンスがあったら、これをネタにクソミソに言っ
てやりたい
と思っていたため
「大三元テンパイのくせに何、遠慮してんですか?いいですよ、奢りますよ!そんな顕微鏡で探してようやく見つかる程度のちっちゃなプライドを振りかざして遠慮されたって、逆に怖いだけですから」
と返す。
流石にこれには
「てめえ、人を怒らせる天才だな!わかった、それじゃあ、今日、『銚子丸』じゃなくていいから昼飯でも何か奢ってくれ。それで貸し借りなしだ。」
とのことで南野に金親が昼飯を奢ることで話がまとまる。
金親は
勝った
とほくそ笑む。
『銚子丸』じゃなければ打撃は小さいと思ったのだ。
そこで、選んだのは、妹が大好きな『すき家』だ。
以外にも南野は、すき家が初めてらしく、妹がよく注文する鰻牛特盛に驚きながらも満面の笑みで完食する結果となった。
2人は病院に戻ってくると、ナースステーションで談笑していたサーミ研修医とリタ研修医に遭遇する。
南野が金親を示して
「今、この、ちんちくりんから昼飯奢ってもらって帰ってきたところだ。『銚子丸』じゃなくて『すき家』ってところっだったけどな。そこの鰻牛特盛を奢ってもらった。意表をついて上手かったよ」
と言うと、サーミ研修医が思いのほか食いつく。
「ええっ!鰻牛特盛だって?どんな感じなの?」
と興奮した様子で尋ねる。
南野は
「ああ、鰻丼と牛丼が合体した感じの奴だ」
というと
「なんだって…!鰻丼と牛丼が合体?」
と言って興奮した様子だ。
そこでリタ研修医が
「ああ、サーミは鰻丼も牛丼も好きだからなあ」
と告げる。
サーミは
「リタ!今度の休みは『銚子丸』奢ってもらうけど、その次は俺が『すき家』奢ってやるから一緒に行こうぜ」
とのことで研修医カップルは順調そうだ。
ほどなくして、サーミ研修医も南野研修医もナースステーションから去って行ったがリタ研修医は金親に話しかけてきた。
リタは
「金親さん、私、サーミとデートする時、いつも食事する場所で悩んじゃうの!『銚子丸』と『すき家』は分かったから、ほかにどんな店がおすすめか教えてくれない?」
等と尋ねてきた。
金親は決してデートの達人ではない。
むしろ今、彼氏はいない。
がドヤ顔で言い放った
「デートの時の食事の場所でしょ?まかせて!私だったらあと『青山』っていうラーメン屋とか『麦家』のつけ麺もいいなあ」
どう考えても、デート関係なく、自分が行きたい店を述べただけだ。
しかし聖女のリタは
「ありがとう!金親さんの好み、がっつりサーミと一緒みたいだからためしてみるね」
とお礼を言って帰って行った。
この2日後のことである。
金親が病院8階の食堂で昼食を食べていると、細目で白髪の70代くらいの男性と40代の外国人女性が金親の対面の席に座った。
男性は灰色上下のスーツ姿で女性は家政婦のような恰好をしている。
他にも十分テーブルは開いているので
わざわざ向かいに座るなんて何か用があるのかな
と思っていると男性の方が胸のポケットから名刺を取り出し
「突然すみません。金親さんでらっしゃいますよね」
と話しかけてきた。
金親が
「はあ、そうですけど」
と答えると男は安心したような感じで笑顔になり
「先日はありがとうございます」
とお礼を言ってきた。
金親は
なに、何、何?何事?
と驚きつつ名刺を見るとそこには
南野家筆頭執事
五十嵐英正
と書かれていた。
即座に
「執事?執事って漫画とかに時々出てくる、あの…執事ですか?」
等と問いかける。
男は頷きながら
「そう!そうです。その執事です」
と返したが金親は
そんなの本当にいるのか
と再び驚いてしまう。
男は、隣の外国人女性を示し
「この子は家政婦です」
と紹介する。
女性は頷いて
「家政婦のアンです。ベトナム出身です」
と申し立てた。
すかさず金親は
「ええっ!家政婦さんはミタという名前じゃないといけないんだと思ってました」
と意味不明な返答をすると執事は笑い出し
「あははは、それは変なテレビの見過ぎです。こりゃあ、早速1本とられましたなあ」
と昭和生まれのおっちゃんみたいな返しを見せた。
金親は
この執事、思った以上にやりよる
と感心したが、すぐさま気を取り直し
「名刺に、南野家筆頭執事って書いてありますけど、あの大三元テンパイ男って実は、どこぞのお坊ちゃんなんですか」
と核心に迫る。
執事は頷きながら
「南野一平様は愛知県にある南野家の分家の御曹司でしたが、彼が8歳の頃、両親が殺人事件で亡くなられた関係で、本家で養子として迎え入れたという経緯があります。母親は犯行現場である自宅で殺された様子ですが、父親は救急搬送され手術しましたが結局助かりませんでした。おそらく、一平様が医者を目指したのは少なくとも父親を助けたかった無念からだと思います。一平様には妹がいて今、17歳ですが、本家で2人を引き取ってから、ずっと妹を守りながら医者の道を志していました。」
とのことを告げる。
そして
「私としては、本当は、南野家の会社事業を継いでほしいと思っていましたが、一度に両親2人とも亡くしたショックはあまりに大きかったらしく、医者の道をあきらめませんでした」
と付け加えた後
「今日、金親さんに声を掛けましたのは、一平様が立派に医者としてやっていけるのかということを率直に聞きたいためです。先程、金親さんは一平様のことを大三元テンパイと表現されましたが、あなたでしたら、言いにくいことでも率直に教えていただけると思ったからです。アンをこの場に立ち会わせたのは、アンが20数年、一平様に仕えており、一番信頼できる家政婦だからです。」
とさらに続けた。
金親は
「じゃあ、私の感触でよければお話しします」
として話始めた。
「立派な医者になれるかと言うのは、正直分かりません。ただオペを見る限り、才能はあるんだと思います。」
と言ったところで、執事が話を止める。
「えっ?一平様に医者の才能がある?」
と言って驚いたからだ。
金親が
「先日、大三元のオペに立ち会いましたが、既に研修医とは言えないベテランの医者と言っていいくらいのスキルを持っています。ただ問題は医者はスキルがすべてという訳ではないことです。」
と一旦区切った後
「大三元というのは人種差別・パワハラ・セクハラの三つの気質を併せ持つクソ男って言う意味です。スキルはあってもその腐った性根を直さない限りいい医者にはなれないかもしれません」
とズバリ本音を語った。
それを聞いた執事が
「人種差別にパワハラ・セクハラですか」
と言って不思議そうな顔をする。
そして
「私はそのような様子を見たことないので、納得しかねますが…」
と言ったところで、家政婦に顔を向ける。
すると家政婦は
「私は全く心当たりがない訳でもありません。」
と言ったうえで
「さっき、少し殺人事件の話をしましたが、犯人は自宅で雇っていた海外出身の庭師・執事・運転手らでした。私は事件前から一平様を知ってますが事件後から外国人、詳しく言うとアジア系の外国人を怖がると言うか嫌悪するみたいな態度をしばしば見せるようになりました。おそらく事件の影響だと思います。多分、パワハラと言うのもアジア系の外国人に対してだけだと思います。セクハラはリタさんに対してだけですよね。あれはリタさんが私と同じ、ベトナム人だからだと思います。一平様なりにこのままじゃいけないと思って、アジア系の外国人とのコミュニケーションをとろうとしてリタさんに無暗にちょっかいを出してしまっているんだと思います。一平様はベトナム人は優しいというイメージがあるんだと思います」
と付け加えた。
金親にとっては
なるほど、大三元にはそんな裏があったのか
と納得できるものだった。
ここで再び執事が尋ねる。
「先ほど少し言ってましたが、ベテラン医師並のスキルがあるというのは?」
やはり首を傾げながらである。
金親は
「私はあの大三元野郎に貸し借りは全くありませんので敢えて褒めるいわれもありません。技術は研修医の枠をだいぶ超えていると思います。」
というと
「一平様は、うちで長年勤めたものであれば皆知ってますが血が苦手なはずです。小さい頃などは血を見ただけど気絶したりしてました。これも事件の影響だと思われますが…」
とびっくり情報が飛び出した。
金親は
「オペを見る限りそんな兆候はなかったと思いますよ」
と答える。
執事は
「いやあ、金親さんにお話を聞けて良かった。医者で十分やっていけそうなら私も安心です。一平様が血を克服したのであれば、あなたの言う大三元も克服できると思います。ありがとうございました。」
とお辞儀して帰ろうとしたところで、金親が尋ねる。
「血を克服したって言うのは、家で何かしてたんですか。研修医と言う立場なのに、研修そっちのけで、しょっちゅう、リタ先生の周りを徘徊して、正直ウザい感じなんですが…」
すると
「どのように克服したのかは、私は医学に詳しくないので分かりませんが、世界各国で行われたオペの動画やレントゲン写真を取り寄せて見ているのは知っています。中には結構なお金を支払って取り寄せたケースもあります。私が知る限り、毎日、帰宅してから医学関係の勉強を欠かしたことはないと思います。ですから、そんなに一生懸命なのに、半端な医師にしか、なれないのであれば、家業を継いでほしいと思っていたのです。」
また
「そういえば、先日、一平様とデートをなさったことも知っています。大変喜んでおられました。一平様の笑顔を久しぶりに見た感じがします」
とのことだった。
金親は
あの『すき家』は南野家ではデートってことになっているのか
恐ろしいな
笑顔で話されると否定しづらい
と思ったのだった。
最後執事は
「そういえば、一平様の妹の蘭子様も金親さんのことを気にしていましたので、いつか会いに来るかもしれません。その時はよろしくお願いします」
と不穏な一言を残しかえっていったのだった。
『いつか』が翌日になることをこの時誰も知らなかった。
蘭子が高校から帰宅し、自室に入ろうとしたところで、気付く。
メイド兼友達のラスクとメルダがひそひそと何やら話している。
ラスクが
えええー、嘘!
と言って驚き、メルダが
ほんと、ほんと
と言って頷いている。
ラスクもメルダも南野家に来て5年になり、蘭子にとっては年の近い友達と言うか家族というか妹みたいに思っていた。
蘭子がメルダに尋ねる。
「何、何、何か面白い話あるの?」
と尋ねる。
メルダは即座に
「蘭子様、一平様がデートしたって話聞いてますか」
とのことで、質問に質問で返してきた。
途端、蘭子の声が屋敷に響いた。
「な、なにぃー」
ラスクとメルダが固まるほどの絶叫だった。
妹蘭子は超がつくほどのいわゆるブラコンだったのだ。
蘭子はラスクとメルダを即座に自分の寝室に招き入れた。
通常、夕方以降、主人が帰宅してから、家政婦が主人の寝室に入ることはない。
それが南野家のルールだからだ。
蘭子にとって兄一平のデートとはルールを破ってでも確認したい内容だった。
2人を寝室に招き入れると、先ずメルダから事情聴取が行われた。
メルダの話によれば、
南野家の運転手佐藤洋一が帰宅した後メルダに
執事長の五十嵐がアンを連れて兄一平の勤め先に赴いた
という話をしたが、その赴いた理由についてメルダが尋ねたところ
一平の勤め先での評判の確認と仲の良い人物についての情報収集がなされ、仲の良い人物の関係で
ナースをしている20代女性
が浮上した
というのだ。
24歳と言う一平の年齢からすると、彼女がいてもおかしくないが、これまで仲の良い
異性の話を全く聞いたことのなかったのでメルダが驚いたのも無理はない。
しかし、蘭子にとっては
ナースをしている20代女性
という情報は、それだけで納得できる情報ではなかった。
どういう女性なのか、容姿は、性格は、家族関係は、そして何より
兄との結婚可能性
が知りたかった。
すぐさま、蘭子はラスクとメルダに
「家政婦のアンを連れてきて」
と頼む。
するとラスクとメルダは固まる。
ラスクとメルダにとって、アンは南野家の家政婦の中ではトップの存在だ。
面倒見がよくて優しいのは知っているが、2人にとっては恐れ多い存在だったのだ。
そのため2人は
「アンさんを呼ぶのはどうでしょうかねえ。蘭子様は、知らないかもしれないけど、私ら家政婦の中ではトップの存在なんですよ!もし、情報が間違ってたら『変な噂流すんじゃねえ、死にてえのか』って言われて怒られちゃいます、ヘタすれば首だってありえます」
と拒むが
「もしアンが怒ったら、私が守るから。兄ちゃんのスキャンダルネタをほっておくなんて私にはできない。アンだって納得してくれるって…」
と何とか言いくるめ、アンを呼びに行かせる。
アンが蘭子の寝室に入るなり、満面に笑顔を讃えていた。
誰が見ても機嫌がよい状態であるのは明らかだ。
「蘭ちゃん、もう一平様の話聞いたんだ!耳が早いねえ!そうなの!デートと言ってい
いのかは分からないけど一緒に食事に言ったのは確かだよ。そして家に戻ったら一平
様は滅茶苦茶ご機嫌だったの。相手は金親京子さんていう24歳のナース、私が見た感
じじゃあ、容姿端麗で、嘘がつけないまっすぐな人だよ。金親さんは一平様のことを
職場でしか知らないため、大三元とか言って悪く言ってたけど、説明したからある程度
誤解は解けたはず…金親さんが言うには一平様には医師として才能があるように話し
てたわ。」
蘭子は職場の人間が兄について「医師として才能がある」と評価したことで笑顔になっ
たが
「大三元って何?」
との質問をする。
当然そこは分からないだろう。
金親さんの話では
「職場で一平様は人種差別にパワハラ、セクハラで性格的に3つの問題があるという説明をしていたの。それを大三元っていう風に説明していたの」
としたが次いで
「そのため私と執事長で、それは両親が亡くなった殺人事件の影響だろうって説明してきたわ」
蘭子は頷く。
「デートってベトナム人のリタって娘の話かと思って警戒してたけど、別の人だったんだね」
とすると
「そう、別の人。私、リタに許婚者がいるって知らなくて『リタは気立てがよくて優しい娘だ』って一平様に勧めていたから、ようやく肩から荷が下りた感じがするわ。正直あの金親さんって言うナースだったら一平様の結婚相手として『大丈夫』って太鼓判押せるわ。それに話しっぷりも面白いの。蘭子様も気に入ると思うわ」
と即答だ。
アンに限らず、蘭子も、既に一平の周辺の女性について調べており
一平がリタを気に入っているらしい
という情報は入っていた。
蘭子にとってアンは、母親的存在だ。
事件があった以前から優しくしてもらっていた。
今現在の南野家当主、南野次男と妻郁子とは今でもぎくしゃくしているが事件前から知っているアンは特別だ。
一平と蘭子は南野次男夫婦の養子になっているが、養子になることを同意する際、アンに新しい家に来てもらうのを条件に来てもらった経緯がある。
こういった事情もあってアンは南野家の家政婦長となっているのだ。
蘭子は話を聞き終えると
「こんな時間に呼び出してごめんね!ラスクとメルダから少し話を聞いて詳しい話を聞きたかったから来てもらったの。2人を怒らないでね!多分、近いうちに、その金親って人にあってくると思う。」
とのことで、アンと執事長の予想道理の展開となる。
あくる日、蘭子は学校をこっそり抜け出し、一旦、こっそりと帰宅した上、セーラー服から普段着に着替えて病院に向かった。
運転手には3万円を渡し
「今日のことは誰にも言わないで」
と口止めする念の入りようだ。
向かったのは病院にある8階食堂だ。
あたりを見渡し、話を聞きやすそうな人を探す。
すると病院の患者なのか、小学生らしい患者数人と談笑しているナースを見かける。
ナースは、その一人に
「恵美ちゃんもう少しで退院だね、今度お祝いに私の必殺技教えてあげるよ!イナバウアーって技なの!この技を使えるようになれば、将来、オリンピックで金メダル取れるよ!」
等と息をするように自然に嘘をついている。
その姿はとても美しかった。
話しかけられた恵美ちゃんも、周りの子も、はしゃいでいる。
「本当かよー」
と疑いのまなざしを向ける男の子に
「嘘だと思うなら、調べてごらん!昔、私が荒川静香って人に技を教えたからフィギュアスケートって種目で金メダル取ったんだ」
とこれまた自然な感じでシレっと嘘をつく。
蘭子は
この人、何か口軽そうだな
と判断
この人から、金親ってナースがどんな人か
それと、ついでに兄貴の評判も
聞こうと思い、子供らとの談笑がひと段落着くのを待つ。
そして入院患者らの昼食時間となり、子供らが病室に戻っていったタイミングで声
をかけた。
蘭子はナースに
「すいません。ちょっとお話聞かせてもらっていいですか」
として話しかけ
「なんか、この病院に『金親さん』って素敵なナースがいるって聞いてるんですけど、知ってますか?」
と尋ねる。
ナースは、最初びっくりしたような表情だったが、すぐさま
「私に『金親さん』のことを尋ねるとは、ある意味お目が高い。彼女のことならなんでも聞いてください。なんでも答えられると思いますよ」
と言ってドヤ顔になる。
「名前は『金親京子さん』って聞いてるんですけど、他は全然情報がなくって…」
と言うとナースは
「金親さんはね、容姿端麗・頭脳明晰・品行方正といった感じで、現代のナイチンゲールって呼ばれるほどです。」
と言っていると食堂の入り口から、怒鳴り声が聞こえてきた。
「金親―!いつまで油売ってんだ!早く来い」
見ると年配の女性だった。
ナースの顔色は一瞬で青くなり
「婦長、すんません。これにはやんごとなき事情がありまして…」
と返事をすると婦長の横に立っていたピンク色のナース姿のギャルっぽい女性がナー
スに駆け寄り
「金親姉さん、大丈夫です。婦長は何とか私が誤魔化しときます」
と言ってナースはギャルナースと一緒に婦長の元へ帰って行った。
蘭子は
うええ、私、直接、本人に聞いちゃったんだ
と驚くが
金親が自分を容姿端麗・頭脳明晰・品行方正と話していたこと
を思い出し
かなり、おもしろい人じゃないか
それに、同僚から結構、慕われているらしい
アンが認めるのも分かるわ
と納得し、そのまま車に戻っていったのだった。
やり取りを思い出し、この日、蘭子は1日中、笑顔であった
この日、成田日赤病院の外科では緊急の会議が行われることになり就業時間後、カンファレンス室に外科部長を筆頭に、外科副部長、医師、研修医、ナースが集められた。
それだけならまだしも、内科の研修医であるはずのサーミ研修医、麻酔科研修医のリタ研修医までもが集められている。
メンツから考えても不穏な空気がする。
会議冒頭外科部長が口火を切った。
「先日、内科の研修医サーミと外科の研修医南野さんがオペで対決をするという形になったが、内科の方から苦情が来ていてね……そのため、会議を開かせてもらった。
内科の方で凄い噂になっているが、実際はサーミが勝っていたのに外科のメンツがつぶれるから引き分けにしたという因縁を付けられている。うちとしては、別に内科とケンカしたいわけじゃない。ちゃんと皆、納得しているということで会議を開いてコンセンサスを取りたいと思ったんだ。南野研修医のクランケは肝座礁、サーミ研修医のクランケは3本の肋骨骨折と肺座礁、そして脾臓破裂までしていた。ここまで何か異論はあるか」
として皆に尋ねる。
「無いです」
皆が頷く。
「それで、内科の方では、そもそもが脾臓破裂までしているのを知っていて敢えて外科では、内科研修医のサーミに時間がかかるオペをさせたんじゃないかって言ってきたんだ。」
そこで外科部長はサーミ研修医に向き、
「レントゲン等では分からなかったが、肺座礁の治療行為を行うため開腹したところ脾臓破裂を発見したというこでいいよな」
と尋ねる。
サーミ研修医は
「は、はあ、そんな感じで…いいです」
と何か、奥歯にものが挟まったような返答をする。
次いで外科部長は、南野研修医を向いて尋ねる。
「南野研修医も肝座礁のオペに集中するのみで、サーミ研修医のクランケが脾臓破裂までしているという認識はなかったということでいいね」
と尋ねたが南野は首を横に振り答える。
「いえ、サーミ研修医のクランケが脾臓破裂しているのは分かっていました。ただ、サーミ研修医が、あのクランケをどのようにオペするのか見てみたかったので黙っていました。」
と答えた。
途端、カンファレンス室がザワつく。
その中で若手外科医の1人が
「ええつ?何でわかるんだよ、俺見たけどレントゲンだけじゃ分からなかったぜ」
と尋ねると南野は
「あのレントゲンを見れば十分です。おそらくサーミ研修医もレントゲンを見て脾臓破裂を分かっていたはずです」
と答えた。
皆、サーミ研修医を注視する。
するとサーミ研修医は
「ごめんなさい。さっきは早く帰りたくて、ああ言いました。ああ言った方が丸く収まるかなって思って……今日これから、リタと『銚子丸』行くんです」
と答える。
ザワつきは治まらない。
ここで副外科部長ミューラが口を挟む。
「俺も、レントゲンを見て脾臓破裂は分かっていた。そしてサーミも気づいているはずだと思っていた。サーミのオペの腕は俺が一番知っている。だから放っておいたんだ。南野先生の腕は知らなかったから、もしあのクランケのオペを南野先生がやることになっていたとしたら、私は南野先生のオペに立ち会って場合によっては俺がやろうと思っていたんだ」
とのことを告げる。
先程、『レントゲンだけじゃ分からない』と言って医師もこれを聞いて押し黙る。
その周りでは
「それじゃあ、やっぱりレントゲンだけでわかるんだ」
として驚く。
話はすぐ終わるだろうと思っていた外科部長は慌てる。
「ええつ、それじゃあサーミ先生は何であちらのクランケを選んだんだ」
と尋ねる。
まっとうな疑問だろう。
サーミ研修医は
「勝負の内容が、時間を競うものだったからです。私も南野先生の腕がよくわからなかったので、私が肝座礁の方を選んでいたら、脾臓破裂のクランケは時間に焦って南野先生が見過ごしてしまうかもしれないと思ったんです。そうなれば、死んでいたかもしれません。そうすると必然的に私の兄も責任を取らざる得なくなってします。
知っているかもしれませんが兄はベトナムでは『神の手』と呼ばれる程の外科の腕を持っています。『神の手』の名声を汚してしまう可能性のある方は私には選べませんでした。でもレントゲンを見た段階で脾臓破裂と分かっていたのだとしたら、いらぬ心配だったのかもしれません。後日、南野先生のオペのDVDを見ましたが、南野先生なら脾臓破裂のオペも成功させていたでしょう」
とのことを皆に告げる。
再びカンファレンス室がザワつく。
サーミ研修医だけではないミューラ医師も頷いている。
ここでフランソワ研修医が口を挟んだ。
「念のため聞くんだけど、南野先生が肝座礁の方を選んだのは、勝負に勝つためってことでいいの?」
南野研修医は
「俺は勝負はどうでも良かった。ただサーミ研修医のオペの腕を見たかったんだ。正直に言うよ。前からサーミ研修医を知っていた。オペの腕が神レベルなのも知っている。この病院ではオペの状況をDVDで記録しているから、それを見れればそれでよかった」
とのことを答える。
ここでナースの松下が口を出す。
「いや、いや本当のこと言えよ。金親から聞いてるよ。リタ先生をサーミ研修医と取り合ってたんだろう。金親なんか大三元テンパイのくせにどうしようもない野郎だって息巻いてたんだ。どうしても勝負に勝ちたかったんだろう?」
とのことを言い出す。
そして成り行きを傍観していた金親に飛び火した。
皆の視線が金親に集まる。
「いや、まあ確かに私が南野先生を『大三元テンパイの危険人物』と言っていたのは認めます。その大三元なんですがどうも私の勘違いの疑いが出てきました。南野先生にはいわれのない噂を流してしまいましたので謝罪したいと思います。ごめんなさい。多分皆さま、私の土下座姿は見飽きたと思いますので、今回の件につきましては私の指導医であります松下の方で土下座いたしますので、それで御勘弁ください」
と言い放った。
当然
「なんで、しれっと私を巻き込んでんだよ。お前のために土下座なんてするかあ」
との松下の絶叫がこだまする。
近くにいた、何故か金親をリスペクトしているギャルナースの戸田桃はプッと吹き
出し大笑いだ。
「いやあ、ここで先輩の大技が出たわ、すげえ」
と感心している。
サーミ研修医と南野研修医も吹きだして笑っている。
そして金親は
「いずれにしても南野先生は大三元テンパイという二つ名を失い、ただの人となり下がったわけですが、実際、レントゲンだけで脾臓破裂を見破ったのは間違いないと思います。この人、『俺は才能あります』っていう感じのオーラ出していますが、実際には全くそんなことはありません。では何でレントゲンだけで見破れたかと言うと、金に物を言わせて世界中からレントゲン写真を取り寄せていることが判明しました。これはレントゲンフェチであることを物語っています。実は南野先生は正真正銘『お坊ちゃま』なんです。昔から、漫画でも金にものを言わせて勝負を有利に運ぼうとするのは日本の伝統芸と言っていいくらいのもんです。こいつが『お坊ちゃま』であることは確かです。私の言うことに間違いありません。」
すると心無い人たちからの誹謗中傷が金親へ炸裂する
「いや、お前、大三元テンパイは『勘違いでした』の一言で流しておいて、どの口が『私の言うことに間違いない』なんて言えるんだ」
とのもっとも反論がこだまし、会議は荒れる。
副外科部長、サーミ研修医、リタ研修医、フランソワ研修医は一様に驚いている。
その後、カンファレンス室に集まった全員、医師にも、ナースにも勝敗の決定につい
て尋ねられる。その理由についても尋ねられる展開になった。
これ以後の会議は、ある意味みっともないものだった。
医師は、誰もレントゲンで脾臓破裂を発見できていた者はおらず、レントゲンには触れずに勝敗の別を決めようと終始し、また、レントゲンについて触れる者が多少いたが、その時は『かつて自分もレントゲンでこういう症例を見つけた』等とする自慢話が続いたのだ。
医師らは外科の研修医、また畑違いの内科の研修医にまで負けたと認めたくないのだ。
プライドが邪魔して正直な話ができないのだ。
だが、概ね『やはり引き分けでよいのではないか』との意見が大半を占めた。
次いでナースの見解も『引き分けでいい』が大半を占めた。
そしてナースの一番最後が金親だったが、明らかに不満そうな顔をしていた。
外科部長が尋ねる。
「金親さんはどう思うんだい?」
と優しく聞く。
「何か、言いたいことがありそうな感じに見えるけど…」
と促すと、金親は
「本当に言っていいんですか?偉い先生方がいらっしゃる前で若輩者の私が言っていいのか、ずっと悩んでいました。」
途端、医師ら全員顔が引きつる。
なにかとんでもないことを言いそうな気配だ
と察知したのだ。
金親は
「皆さん私が大阪出身だと知ってますよね。それで、こんな体たらくなんですか?」
途端、カンファレンス室がどよめく。
いったい何を言うのかと皆が緊張する。
そして金親は。
「結果は引き分けでいいと思いますけど…」
と前置きした後、言い放った
「この会議、オチはないんでしょうか?」
等と……
最初、皆、呆気にとられ
はっ?
という顔していたがサーミ研修医、南野研修医、外科部長、外科副部長がぷっと吹きだ
すと皆、笑い出した。
発言が意表を突きすぎて、皆、一瞬固まってしまったのだ。
「いや、会議にオチは絶対に必要なものじゃねえだろ。落語じゃねえんだから」
との声が飛ぶ。
すると金親は
「大阪人なめんな!オチは必要だろ」
と言い返していた。
ふと金親が周りを見渡すと、婦長は顔を真っ赤にしてまさに鬼の形相だった。また指導担当の松下は顔を真っ青にして
「や、やっぱり私、土下座して謝ります」
等と言い出していた。
ギャルナースこと戸田桃は
か、かっけえ!
流石、金親先輩!
と興奮している。
爆笑が収まったところで、婦長と松下以外は笑顔でカンファレンス室を後にしたの
だった。
この日の夜、南野家では月に一度の家族団らん会であった。
南野家の本邸は名古屋にあるが、関東を拠点として千葉県船橋市にも別荘を持っている。
基本的に南野家は、夫婦共に東京で働いているし、一平も病院勤めなので、家族が夕食時に会うのは月に一度となっている。
この時ばかりは、家族のみならず執事長と家政婦長のアンも食卓を囲む。
蘭子は、夕食の冒頭
「お兄ちゃんの勤め先に行ってきた。お兄ちゃんがデートしたって言う金親さんに会おうとしたの」
といきなり剛速球を投げたため、一平の顔を引きつらせる。
一平が
「いや、デートって言うのか、あれ…、一緒に食事しただけだよ」
と否定したが蘭子は止まる様子がない。
「アン母さんは『嘘の付けない優しいいい人』みたいに言ってたけど、息を吸うように自然に、次から次へと嘘を並べ立てていたわ。でも、おもしろかったから許す!」
等と続ける。
一平は、今日の会議をお思い出しつつ、何があったのか問いただしたが、その行動は金
親の行動として納得のいくものだった。
蘭子が、金親が自分を評して容姿端麗・頭脳明晰・品行方正等と言ったことを告げると、
アンは驚いていたが、南野家当主と夫人は大笑いしている。
続いて一平が就業時間後に行われた会議での金親の発言を話すと、やはり皆一様に大
笑いしている。
蘭子も
「なるほど、大阪出身だから、笑いに厳しいのか!」
と納得している。
続いて蘭子は
「お兄ちゃん、そんな人なら、絶対人気あるから、頑張ってね!私は金親さんなら結婚
相手として文句ないと思う。いつかおうちに来てもらおうよ!」
すると南野家当主も
「その時は教えてくれよ、仕事を置いてでも会ってみたいわ」
夫人も
「そうねえ、私もあってみたいわ。何か金親さんが好きなモノとか聞いておいてよ!食べ物でもいいし、アクセサリーとかでもいいから」
と乗り気だ。
そこで執事長も話題に入る
「なんか、金親さんの妹さんが好きだということで『すき家』の鰻牛特盛って言うのを食べたんだそうですよ!一平様がご満悦だったんで、料理長に研究するように言ってあります」
と言うと蘭子が
「へええー、金親さんにも妹いるんだあ、妹さんにも会ってみたいなあ」
と言い出す。
家族団らん会がこれほど盛り上がるのは久しぶりだ。
皆が金親に会いたいと言って笑っているのを見るとなぜか嬉しくなってしまう一平なのだった。
その夜、一平は蘭子の寝室に呼び出された。
「お兄ちゃんに恋愛の初級講座を開きます。今日は初級編です。ちょっとコテコテだけど分かりやすいと言えばわかりやすいので…」
というと一平の携帯電話を取り上げた。
一平は通話の他は、医術関連の用語を確認するくらいしか携帯電話を使っていなかったが蘭子は一平の携帯電話を操作し、中国のショートドラマを展開させた。
そして
「今日は中国のショートドラマを基本に講座を進めます。」
とした上で
「中国のショートドラマの黄金パターンと言えば、お姫様抱っこ、アクシデントキス、片膝をついてのプロポーズと指輪装着がパターンです」
と語りはじめ、ショートドラマを見る様申し伝えると、
「ちなみに明日は中級編の腕輪装着です」
として1日で終わらす気がないことをほのめかす。
一平の顔は引きつっていたが蘭子は見て見ぬふりをする。
一平は深夜まで、中国のショートドラマを見て、中国ドラマにどっぷりつかっていったのだった。
翌日、一平は外科の研修医として中学生の盲腸の手術をすることになっていた。
肝座礁と比べれば難しいオペではない。
が、外科では不思議な空気が流れていた。
3週間前にも盲腸のオペをしたが、その時には3時間30分も時間がかかっていた。
盲腸のオペで3時間30分は、普通に考えて、普通の研修医の倍くらい時間がかかって
いる。
だから肝座礁のオペでは何時間かかるんだろうと心配する者も結構な数いたが予想と
は逆の結果を見せたので、それを知っている者は
人が変わったみたいだ
と驚いたものだった。
今回の盲腸のオペは、金親もオペに立ち会う。
オペの器具だしである。
南野が手術着に着替えていると、更衣室がノックされる。
「はい、どなた」
と南野が返事すると
「金親です、ちょっといいですか」
と神妙な声がした。
南野は
「もう、着替えたから入っていいよ、何か用?」
と尋ねると、金親はナースの白衣のポケットから大きな消しゴム大の大きさのものを
南野に差し出し
「今日、これ、試してみてください。ダメだったら、また別の奴考えましょう」
等と言ってきた。
金親が渡してきたモノは
市販されているガム
で『眠眠打破』等と書かれていた。
南野が
「これ、どういうこと?」
と尋ねると金親は
「いや、そういうことでしょ!気絶しない様に唇かみしめてしのぐなんて根性技、この令和の時代じゃ受けないでしょ。お前は昭和のオヤジか?」
と答える。
南野は俯いて
「知ってたのか、ありがとう」
と小声で感謝したのだった。
金親は
「それでも効果いまいちだったらグミタイプのもあるみたいだから、そっちを試しましょう」
と告げ
「マスクに血がにじむくらいだから結構痛いでしょう」
と付け足すと、南野は再び
「ありがとう」
と頭を下げた。
そう、南野が血を見ると気を失うという話を聞いた時から金親は疑っていた。
そんな症状なのに外科のオペをするなんて、よっぽど我慢してないと不可能だろう。
いったいどうやって誤魔化してるんだろうと考えた時、マスク口元が血でにじんでいたのを思い出し、南野が根性技を使っていると判断したのだ。
南野は、この日、盲腸のオペで、病院での最短記録を5年ぶりに塗り替える結果をたたき出した。
前回、倍の時間を要した手術を知っている者の驚きは半端じゃなかった。
南野自身の喜びようも半端じゃなかった。
金親に駆け寄ると
「あのガム、いいな!あまりのまずさで気絶する間もなかったよ」
と大喜びだ。
金親も調子に乗り
「大概のことは、私に任せておけば大丈夫なんですよ。なにせ正看護師ですから」
と相変わらずのドヤ顔での説明だ。
また、
「私の辞書には不可能とか、駄目とか、無理の言葉はないんですよ」
と調子づく。
すると南野は神妙な顔になり
「金親、少し話があるんだが聞いてくれないか?」
等と言い出した。
金親は
「その話には、オチはあるのか?」
と問うと南野は言いよどむ。
「いや、オチはないんだけど……」
とした瞬間だった。
「聞かん!」
と高速の返しを見せる。
かつて、将棋界には谷川浩二と言う棋士がいて、名人にもなったが彼は将棋の終盤『高速の寄せ』で、他を圧倒したものだった。
金親は高速の返しで他を圧倒する。
南野は、あまりの勢いで泣きそうな顔になったが、かわいそうな顔をする南野を見て金親が
チッ
と舌打ちしつつ
「分かったよ!言ってみろ!早よ!」
とせかすと途端、南野は笑顔になるとなぜか、突然右ひざを床に着ける体制を取った。
一瞬、何事かと思った金親だったが、南野は
「金親、俺と結婚してくれ」
と剛速球を投げてしまう。
金親は
「はっ?そんなの無……」
と口ごもってしまった。
本当は、そんなの無理と言おうとしたが、たった今、辞書に『無理』と言う言葉はないと言ったばかりだ。
調子に乗ったがため、自分の逃げ道をふさいでしまったのだ。
しかも金親は金親で、突然のプロポーズに顔が真っ赤になってしまう。
「てめえ、この正看護師金親様をはめたな」
と返答したかと思うと
「しょうがねえ、分かったよ。ただし条件がある。」
としてプロポーズを受け入れるセリフを吐いてしまう。
南野は
まさかのプロポーズ受け入れの発言
に一瞬にして有頂天になってしまう。
「何でも言ってよ!条件て言うのは?」
と尋ねると
「私には妹がいる。双子だから年の差とかはないんだけど、私は妹が結婚するまで面倒見るつもりだ。だから妹が結婚するまで待ってくれ」
と言ったが
「なんだそんなことか、妹も俺んちで暮らせばいいじゃねえか、結婚するのを待つまでもないよ!俺んち部屋いっぱいあまってるから丁度いいよ、家賃がなくなるだけども確実に今よりいい暮らしできるでしょ」
とのことで即答される。
金親は
お坊ちゃまをなめてた
場合によっちゃあ、プロポーズをうやむやにできるかもと思ったが、これはプロポーズを受け入れるしかない
と観念したのだった。
金親は片膝をついている南野を立たせると、左腕を上げさせて自分の頭を一平の左脇に寄せ右腕で光一の背中を支え、左手を光一の両ひざの裏へ移動させる。
南野が
「えっ?何やってんの?」
と質問すると
「いやあ、一般的にっプロポーズが成功した暁には、相手をお姫様抱っこして連れて帰るのが常識でしょう。中国ドラマみてないの?」
と言い出す。
南野は
「お前の方がお姫様抱っこすんのかい」
とツッコミを入れるが金親は
「大阪人なめんな」
と一言だけ返し一平は吹きだしてしまったのだった。
結局、昨日から始まった蘭子の恋愛講座は1日で終了することになった。
一平はその日、就業時間を終えて車に乗りこむと携帯電話で蘭子へ電話をかけ
る。
蘭子が電話に出ると一平は
「蘭子、お前の恋愛講座の成果がもうでたよ。金親にプロポーズした。」
と話すと
「ええーっつ!」
と大絶叫である。
続いて
「いやあ、早すぎでしょ……で、それで、それで…」
と結果を聞きたい感じだったので
「妹の面倒を見たいから、すぐにはできないみたいに言われたんだけど、妹も一緒に俺んち連れて来いって話したら、納得して、結婚してくれることになった」
というと
「ええええーっつ!」
と再び絶叫した。
そして
「分かった、妹さんの部屋は私が用意しとく」
として答えた後、
「アン母さん、兄ちゃん結婚するって、金親さんプロポーズ受けてくれたみたい…」
と電話の向こうで声がする。
どうやら蘭子は自宅と言うか船橋の別荘にいた様子だ。
アンの
「おめどとうございます」
との祝いの言葉
「今日からもう来るのかい」
「式は、いつにする?」
南野家当主と夫人の質問が続く。
皆大喜びだ。
次から次へと質問が飛んでくるため、一平は車で走り出せないでいたため
「こ、今度、彼女と休みの日が被った時、家に連れて行くから、その時に色々話しようよ」
として話を無理やり打ち切ったのだった。




