第8話「宣言」
王城の大広間は、昼の光で白く眩しかった。
高い天井の装飾が光を反射し、柱の金の縁取りがきらりと瞬く。
赤い絨毯は壇へ向かってまっすぐ伸び、左右に並ぶ貴族たちの影が細長く床へ落ちていた。
華やかで、整っていて、完璧な舞台。
――だからこそ、怖い。
舞台が整いすぎている時、そこでは誰かの人生が"演目"として消費される。
私は絨毯の端に立ち、指先で手袋の縁を軽くつまんだ。
布は滑らかで、宝石は冷たい。
王妃候補として着ける装飾は、いつも私の体温を奪う。
隣でアクアが静かに息を吸う。
「……今日、来るわね」
「ええ」
私は微笑みを崩さずに答えた。
大広間にはいつもより多くの貴族が集まっていた。
老臣、貴族院の議員、軍務の要職、商務院の顔役、そして奥方たち。
彼らは笑っている。礼儀正しく。穏やかに。
でもその笑いの奥で、皆が同じことを考えている。
――王子は誰を選ぶのか。
――そして、誰が落ちるのか。
空気は静かに熱を帯び、香の匂いがいつもより濃い。
甘い香は、焦りや不安を隠すためのものだ。
王城はいつも、香で現実を誤魔化す。
鐘が一度鳴った。
ざわめきが、ぴたりと止まる。
壇の奥の扉が開き、第一王子グレイ・モンナイスが姿を現した。
胸を張った歩き方。王位継承者としての衣装。
そして――自分が"主人公"だと信じ切った目。
その隣に、春木桃がいた。
白に近い淡い色の衣。黒髪は丁寧に整えられ、頬には控えめな血色。
歩幅は小さいが、迷いはない。
まるで最初からここに立つために生まれてきたみたいに。
桃は、私とアクアを見た。
ほんの一瞬。
値踏みする視線。
そしてすぐに、怯えたような微笑みに変わる。
――上手い。
王子は壇の中央へ立ち、皆を見渡した。
「諸君」
声が大広間に響く。
天井で反響し、重みを増して落ちてくる。
「我が王国に聖女が降ったことは、すでに知っているだろう」
拍手が起こる。
だが拍手をしているのは主に"新しい流れに乗りたい者"たちだ。
保守派は拍手をしない。笑わない。目だけが冷たい。
王子は気づかない。
彼は拍手を"民意"と勘違いする。
「聖女・春木桃は異界より召喚された特別な存在だ。彼女は神の祝福を受け、我が国に新しい希望をもたらす!」
桃が一歩前に出て、丁寧に頭を下げる。
「恐れ多いです……。私はただ、この国のために、できることを……」
その声は少し震えている。
守ってあげたくなる震え。
しかし私は知っている。
その震えは"選ばれるための震え"だ。
王子は彼女を見て、満足げに頷いた。
「桃はすでに、衛生改革の案を示してくれた。民の命を救うだろう!」
貴族たちがざわめく。
民の命。それは確かに大義だ。
だが大義は、刃にもなる。
"民のため"という言葉で、反対者を悪者にできるから。
王子は続ける。
「そして――」
その言葉の前に、彼はわざと間を置いた。
舞台の演出。自分が注目されていることを確認する仕草。
私はその間に、背筋を伸ばした。
来る。
アクアも息を止めたのが分かった。
王子が宣言した。
「私は、春木桃を正式に、我が妃として迎えることを決めた!」
――一瞬、音が消えた。
誰も息をしていないように感じた。
花の香りすら止まったような錯覚。
次の瞬間、ざわめきが爆発する。
「な……」「今、妃と……」「王妃候補制度は……」「二大公爵家は……」
言葉が割れ、空気が揺れる。
扇が一斉に動き、視線が剣のように飛ぶ。
私の頬に、熱が走った。
怒りではない。屈辱でもない。
――理解だ。
ああ、王子は本当に"国"ではなく"自分"で選んだ。
国の均衡も、制度も、派閥も。
全部、自分の感情の前に投げ捨てた。
桃は両手で口元を押さえ、涙を滲ませた。
「殿下……そんな……」
驚いたふり。選ばれたことに震えるふり。
でも、その目の奥には確かな勝利がある。
王子が彼女の肩を抱き、誇らしげに言った。
「桃は特別だ。彼女こそ、この国を導く」
導く?
導くのは王だ。妃は支える存在だ。
なのに王子は、自分の責任を"彼女"に預けようとしている。
私は唇の裏側を噛む。
――ほら、噛みつきなさい。怒って。嫉妬して。悪役になって。
心の奥の、愛に飢えた自分が囁く。
私はゆっくり息を吸った。
違う。私はもう、意地悪で自分を守らない。
だから、私は微笑む。
王妃候補の顔で。炎の家の娘の顔で。
一歩前へ出る。
赤い絨毯の上で、ドレスの裾が重く揺れる。
宝石が光を弾く。視線が私に集中する。
私は礼をした。
「……殿下。おめでとうございます」
声は澄んでいた。
自分でも驚くほど、静かだった。
貴族たちがざわつく。
「サラが祝福した」「余裕を見せた」「いえ、あれは……」
解釈が飛び交う。
でも私は知っている。
これは祝福ではない。
これは、"私はあなたの舞台の悪役にならない"という宣言だ。
王子が満足そうに頷く。
「さすがだ、サラ。お前は理解がある」
理解?
理解しているのは、あなたの幼さよ。
アクアが一歩前に出る。
淡青のドレスが光を受けて揺れ、彼女は穏やかに礼をした。
「……殿下。聖女様。おめでとうございます。どうか国のために」
その言葉は柔らかい。
だがその奥に、冷静な釘がある。
国のために。
王子が一瞬だけ眉をひそめた。
"国"という言葉は、彼にとって重い。
だから彼はすぐに別の言葉で誤魔化す。
「もちろんだ。だからこそ、私は決めた」
王子は壇の下を見渡し、声を張った。
「サラ・ブレイム、アクア・ユーハイム」
名指し。
私の背筋が自然に伸びる。
呼ばれることは、王妃候補としての"仕事"だった。
そして今、呼ばれるのは――処分のためだ。
王子は続ける。
「お前たちは今後、"王妃候補"の立場から外れる」
言葉が、胸に落ちた。
石が水底へ沈むみたいに、重く、静かに。
周囲の貴族たちがざわめく。
「外れる……」「まさか……」「二大公爵家は黙っていないだろう……」
王子は構わず言い切った。
「お前たちは、桃の補佐につけ。聖女を支える役目を果たせ。お前たちの教育は無駄ではない。むしろ――今こそ役に立つ」
つまり。
私たちは"王妃候補"ではなく、"聖女のための道具"になれということだ。
私は顔色ひとつ変えない。
変えたら負けだ。
変えた瞬間、噂が完成する。
――サラは嫉妬した。サラは怖い。サラは悪役。
私はその型に嵌らない。
けれど、胸の奥で、檻がきしむ。
国のため。殿下のため。勝つため。選ばれるため。
その檻が、今、私の体を締め付ける。
アクアが私の隣で、ほんの僅かに息を吐いた。
彼女の指先が震えたのが見えた。
――最大の恐れ。
私はアクアを失うのが怖い。
アクアは私が不幸になるのが怖い。
だからこの瞬間、私たちは互いに互いを守るために、笑ってしまう。
私は微笑み、王子へ言った。
「承知いたしました」
言った瞬間、会場がざわめいた。
「従った」「さすが炎の娘」「強い……」
王子は満足そうに頷く。
「よろしい。これで決まりだ」
その時だった。
壇の端に立つレオン・ヴァルディスが、わずかに視線を落とした。
ほんの一瞬。
口元が、僅かに歪む。
*それはマズい。*
言葉はない。でも、顔が言っていた。
私は、その一瞬を見逃さなかった。
レオンはすぐに無表情に戻る。
何事もなかったかのように。
でも私は確信する。
彼は理解している。
――王子が今、国の均衡を壊したことを。
――サラとアクアを切り捨てたことが、未来にどう響くかを。
会場では拍手が起こっていた。
聖女派の拍手。新しい流れに乗りたい者の拍手。
そして、王子に逆らえない者の拍手。
拍手の音は、雨みたいに降ってくる。
桃が涙を拭いながら言う。
「皆様……ありがとうございます……」
その声は震えている。
けれど、その震えはもう"勝者の震え"だ。
私はその拍手の中で、静かに思った。
――私たち、殿下のために生きすぎていたのかもしれない。
そして同時に、心の奥の芽が囁く。
――殿下も国も捨てて、自由になってもいいのかもしれない。
この瞬間、私は"捨てられた"のではない。
"降りる道"を示されたのだ。
まだ降りない。
でも、道は見えた。
大広間の光が、急に眩しく感じた。
眩しさの中で、私は微笑み続ける。
悪役にならないために。
そして、いつか檻を壊すために。




