第7話「裏切りの兆し」
王城の朝は、前日までの騒ぎが嘘のように静かだった。
静か――というより、音が吸い込まれている。
誰もが余計な言葉を口にしたくなくて、息を潜めているのだ。
廊下の大理石は磨かれ、窓から差す光が白く滑る。
薔薇園から漂う甘い香りが、今日は少し強すぎる気がした。
香が強いのは、匂いで空気を誤魔化したい時だ。
王城は、いつもそう。
「サラ様」
侍女のミレイユが、いつもより低い声で呼んだ。
彼女は手に薄い封筒を持っている。
淡い灰色の蝋封――王子側近府の印だ。
「筆頭側近レオン様からです」
レオン・ヴァルディス。
王子の筆頭側近。冷静沈着、無表情、仕事ができる。
そして――王子の無能さを一番よく知っている男。
私が封を切ると、紙は乾いた音を立てた。
> 本日午前、側近府にお越しください。
> 緊急の実務案件が発生しています。
> 可能であれば、アクア様も同席を。
この男からの知らせは、いつも短い。無駄がない。
"緊急"の文字が、紙より重く感じた。
私は息を吸う。
「……来たわね」
ミレイユが顔をしかめる。
「殿下のせいでございますか」
「殿下"だけ"のせいではない。けれど殿下が火をつけた」
私はドレスの袖を整えた。
今日の色は深い紅。炎の家の色。
鎧のように重い布が、肩にのしかかる。
「アクアに伝えて」
「はい」
ミレイユが去った後、私は窓の外を見る。
遠くの訓練場で騎士たちが剣を交える音がかすかに聞こえる。
金属のぶつかる音。掛け声。砂埃。
王城の外では、いつも通りの生活がある。
でも王城の中だけが、世界の中心みたいな顔をしている。
――この歪みが、国を壊す。
そんな予感が、胸の奥に沈んでいた。
---
側近府は、王城の華やかさから少し離れた場所にある。
廊下の装飾は控えめで、壁の色も落ち着いている。
花よりも書類、香よりもインクの匂い。
ここは"実務"の空気が支配している。
扉を開けると、紙の束と、忙しない足音と、冷たい緊張が押し寄せた。
「サラ様」
レオンが立っていた。
黒髪、灰色の目。
表情はいつも通り薄い。だが目の下にほんの僅かな影がある。
寝ていない。もしくは眠れなかった。
「お越しいただき感謝します」
「状況を説明して」
私は挨拶を省いた。
礼儀を省くほどの緊急だと分かっている。
レオンは頷き、机の上の書類束を指で叩いた。
「貴族院が動きました。昨夜、保守派の重鎮が集まり、王子殿下の"反逆発言"に抗議文を起草しています」
抗議文。
それはまだ"紙"だ。
だが紙は、次に血になる。
「早いわね」
「火種が大きすぎました」
レオンは淡々と答え、次の紙を差し出した。
「さらに、商務院からの連絡です。隣国ルーデンが、穀物関税の協議を前倒ししてきました」
私は眉をひそめる。
「……前倒し?」
「はい。こちらの混乱を見て、強気に出てきています」
私は紙を読み、即座に理解した。
――政治の揺れは、外から狙われる。
王城の中で繰り広げられる茶番は、他国にとっては好機だ。
国が揺れた瞬間に条件を突きつける。
それが外交だ。
「殿下は?」
「聖女様の講義に同席中です」
レオンの声は冷たい。
冷たいが、それは彼の感情ではない。事実として冷たい。
私は思わず笑いそうになった。
「国が揺れているのに、講義?」
「殿下は、現実の重さに対して、鈍いところがあります」
レオンは淡々と言った。
だがその言葉には、積もった疲労がある。
そのとき、扉が開き、アクアが入ってきた。
淡青のドレスに鮮やかな金髪が映える。
青い瞳は今日も凛としている。
彼女の表情は穏やかだが、歩みは早い。
「呼ばれたわ」
「ありがとう、アクア」
私が言うと、アクアはレオンを見た。
「状況は?」
レオンは端的に答える。
「内側は貴族院の抗議。外側は隣国の圧。さらに――」
彼は一瞬だけ言葉を切った。
「王城内の派閥が"聖女派"と"王妃候補派"に割れ始めています」
アクアの睫毛が揺れる。
「もう?」
「もうです」
レオンはため息すらつかない。
つく余裕がない。
私は机の上の書類を一枚ずつ見ていく。
抗議文草案。隣国からの要求。商務院の焦り。貴族たちの署名の動き。
そして、最後に一枚の小さな紙。
「これは?」
私が問うと、レオンの目がほんの僅かに細くなる。
「噂の報告です」
噂。王城の血流。そして毒。
私は読んだ。
> "サラは聖女を妬み、陰で潰そうとしている"
> "アクアは表向き優しいが裏でサラと組んでいる"
> "王子殿下が選ぶのは聖女で決まり"
> "王妃候補制度は時代遅れ"
最後の一文で、私は理解した。
桃が動いている。
まだ証拠はない。
でも私の直感がそう言っている。
アクアが静かに言った。
「誰が流しているの?」
「特定はできません。ただ……流れ始めた場所が、侍女たちの間です。次に奥方へ、次に貴族へ」
王城の噂は、まず侍女が運ぶ。
侍女は情報の蜘蛛の糸だ。
そして桃は"侍女に優しい"。
優しい顔で、味方を作る。
私は指先で紙を折り、机に置いた。
「……殿下を呼ぶべきね」
アクアが頷く。
「でも殿下は、"反逆"と言った自分を引っ込められないわ」
「引っ込められないから、側近が困る」
「はい」
レオンが無表情のまま肯定する。
無表情で言われると、余計に重い。
私はレオンを見る。
「レオン。あなたは殿下に何を言うつもり?」
レオンは少しだけ視線を落とした。
その動きは、彼にしては珍しい。
「殿下の前で、私が正面から否定すれば、殿下は意地になります」
「つまり?」
「殿下が"自分で気づいた"形にする必要があります」
アクアが小さく笑った。
「面倒な王子ね」
「はい」
レオンは否定しない。
私は心の奥で、小さな違和感が膨らむのを感じた。
――私たち、いつまでこの人の尻拭いをするの?
その芽が、静かに顔を出す。
国のため。殿下のため。
それは便利な檻だ。
その檻の中で、私たちは息をしてきた。
でも今、息が苦しい。
私は息を吐き、現実に戻る。
「まず、隣国の関税協議は止められない。こちらの準備は?」
「資料は揃えています。しかし、殿下の署名が必要です」
「殿下に署名させる。今日中に」
アクアが続ける。
「貴族院への火消しは?」
「殿下が"反逆"の言葉を撤回しない限り、燃え続けます」
私は考える。
撤回させるには、殿下が"桃のために"撤回したと思わせるのが一番だ。
国のためではなく、桃を守るため。
その形なら、殿下は動く。
――つまり、桃を利用する。
私はその結論に苦いものを感じる。
でも、政治は綺麗事では動かない。
「聖女様は今日、何を?」
「衛生改革の提案書を殿下に提出する予定です」
衛生改革。
民には響くだろう。貴族にも一部は刺さる。
だが、やり方次第で反発も生む。
アクアが低い声で言った。
「桃は、"民の味方"の立ち位置を取るつもりね」
「そうすれば貴族の反発は"悪者扱い"になる」
私が言うと、レオンが頷く。
「はい」
私は机に指を置き、決める。
「殿下に会い、署名を取ります。関税協議の準備を進めます。貴族院の抗議に対しては、殿下から言葉を柔らかく言い直させましょう」
アクアが眉を上げる。
「殿下にできるかしら?」
「できないなら、国は壊れていくでしょうね」
私は淡々と言った。
レオンが小さく頭を下げる。
「助かります」
その一言が、胸に刺さった。
助かります。
彼は側近だ。
なのに、王子ではなく、私たちに頭を下げる。
――裏切りの兆し?
それは貴族の裏切りだけではない。
王子を支えてきた仕組みそのものが、王子から離れ始めている。
---
私たちは側近府を出て、王子のいる講義室へ向かった。
回廊を歩くと、すれ違う侍女たちの視線が妙に刺さる。
さっきまでの静けさはなく、どこか落ち着かないざわめきがある。
「サラ」
アクアが小声で言う。
「気づいてる?」
「ええ」
「もう、私たちを"王妃候補"じゃなく、"障害物"として見る目が増えた」
私は口角を上げる。
「なら、堂々と歩きましょう」
堂々と歩くことは、時に抵抗になる。
講義室の扉の前まで来ると、甘い笑い声が聞こえた。
桃の声。王子の声。周囲の者たちの"安心した笑い"。
その笑いは、現実から目を逸らす笑いだ。
扉を開ける。
王子が桃の話に頷いている。
桃は黒板の前で、簡単な図を描いていた。
清潔、手洗い、井戸の整備。
民の生活を良くする提案。
確かに有益だ。
だからこそ、怖い。
王子は私たちを見ると、少し不機嫌そうに言った。
「何だ、サラ。授業の邪魔をするな」
私は礼をし、微笑む。
「殿下。緊急の政務でございます」
王子が眉をひそめる。
「今でなくてはならぬのか?」
桃が心配そうに言う。
「殿下……国のことは大事です。私のことは後で……」
その一言で、王子の顔が揺れる。
"桃が国を優先した"。
王子は気持ちよくなる。
私はその気持ちよさを利用する。
「隣国ルーデンが関税協議を前倒ししてきました。本日中に殿下の署名が必要です」
王子が一瞬だけ黙る。
分からないのだ。関税協議の重さが。
だが桃が言った。
「殿下、民の食が揺らぐのは怖いです。署名しましょう」
王子は頷いた。
「……よし。署名する」
ほら。
王子は"桃の言葉"なら動く。
私は胸の奥で、冷たいものを飲み込む。
そして、次を投げる。
「貴族院が、殿下のご発言に抗議文を準備しています」
王子の顔が赤くなる。
「反逆者どもめ!」
桃が小さく怯えたように肩をすくめる。
「殿下……そんな……」
王子の怒りが、桃の怯えで少しだけ揺れる。
私はその隙に言う。
「殿下。聖女様を守るためにも、言葉を柔らかくするべきです。今のままでは貴族院が敵に回り、国が揺れます」
王子が唇を噛む。
プライドが邪魔をする。
だが桃が言った。
「私のせいで国が割れるなんて……嫌です。殿下……どうか……」
王子が拳を握りしめ、苦々しく言った。
「……分かった。言い方は変える」
変えるだけ。撤回ではない。
でも十分だ。火消しの第一歩。
レオンが横で静かに息を吐いたのが見えた。
彼の肩がほんの少しだけ落ちる。
私は理解する。
私たちが今やっているのは、国を守っているようでいて――
王子を支える仕組みを延命しているだけかもしれない。
そのとき、胸の奥でまた芽が囁いた。
――殿下も国も捨てて、自由になってもいいのかもしれない。
私はその芽を、今は握り潰さない。
育てる必要がある。
なぜなら――この先、私たちは"捨てられる側"に置かれるから。
捨てられた時、初めて自分で降りるために。
---
講義室を出ると、回廊の光が眩しかった。
眩しいのに、心は冷たい。
アクアが小声で言う。
「サラ。今、殿下を動かしたのは桃よ」
「ええ」
「私たちの努力じゃない」
私は微笑む。
「努力は、誰かに見えるためにするものじゃないわ」
口ではそう言った。
でも胸の奥は、少しだけ痛んだ。
――私たち、国のために生きすぎていたかもしれない。
その思いは、じわじわと形になる。
遠くで、桃の笑い声がした。
王子がそれに笑い返す声。
王城は今日も美しい。
でも、その美しさの下で、それぞれの糸が切れそうになっていた。




