表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖女を選んだのなら、もう殿下の尻拭いはいたしません  作者: 風谷 華


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/22

第7話「裏切りの兆し」

 王城の朝は、前日までの騒ぎが嘘のように静かだった。


 静か――というより、音が吸い込まれている。


 誰もが余計な言葉を口にしたくなくて、息を潜めているのだ。


 廊下の大理石は磨かれ、窓から差す光が白く滑る。


 薔薇園から漂う甘い香りが、今日は少し強すぎる気がした。


 香が強いのは、匂いで空気を誤魔化したい時だ。


 王城は、いつもそう。


 


「サラ様」


 侍女のミレイユが、いつもより低い声で呼んだ。


 彼女は手に薄い封筒を持っている。


 淡い灰色の蝋封――王子側近府の印だ。


「筆頭側近レオン様からです」


 レオン・ヴァルディス。


 王子の筆頭側近。冷静沈着、無表情、仕事ができる。


 そして――王子の無能さを一番よく知っている男。


 私が封を切ると、紙は乾いた音を立てた。


 


> 本日午前、側近府にお越しください。

> 緊急の実務案件が発生しています。

> 可能であれば、アクア様も同席を。


 


 この男からの知らせは、いつも短い。無駄がない。


 "緊急"の文字が、紙より重く感じた。


 私は息を吸う。


「……来たわね」


 ミレイユが顔をしかめる。


「殿下のせいでございますか」


「殿下"だけ"のせいではない。けれど殿下が火をつけた」


 私はドレスの袖を整えた。


 今日の色は深い紅。炎の家の色。


 鎧のように重い布が、肩にのしかかる。


「アクアに伝えて」


「はい」


 ミレイユが去った後、私は窓の外を見る。


 遠くの訓練場で騎士たちが剣を交える音がかすかに聞こえる。


 金属のぶつかる音。掛け声。砂埃。


 王城の外では、いつも通りの生活がある。


 でも王城の中だけが、世界の中心みたいな顔をしている。


 ――この歪みが、国を壊す。


 そんな予感が、胸の奥に沈んでいた。


---


 側近府は、王城の華やかさから少し離れた場所にある。


 廊下の装飾は控えめで、壁の色も落ち着いている。


 花よりも書類、香よりもインクの匂い。


 ここは"実務"の空気が支配している。


 扉を開けると、紙の束と、忙しない足音と、冷たい緊張が押し寄せた。


「サラ様」


 レオンが立っていた。


 黒髪、灰色の目。


 表情はいつも通り薄い。だが目の下にほんの僅かな影がある。


 寝ていない。もしくは眠れなかった。


「お越しいただき感謝します」


「状況を説明して」


 私は挨拶を省いた。


 礼儀を省くほどの緊急だと分かっている。


 レオンは頷き、机の上の書類束を指で叩いた。


「貴族院が動きました。昨夜、保守派の重鎮が集まり、王子殿下の"反逆発言"に抗議文を起草しています」


 抗議文。


 それはまだ"紙"だ。


 だが紙は、次に血になる。


「早いわね」


「火種が大きすぎました」


 レオンは淡々と答え、次の紙を差し出した。


「さらに、商務院からの連絡です。隣国ルーデンが、穀物関税の協議を前倒ししてきました」


 私は眉をひそめる。


「……前倒し?」


「はい。こちらの混乱を見て、強気に出てきています」


 私は紙を読み、即座に理解した。


 ――政治の揺れは、外から狙われる。


 王城の中で繰り広げられる茶番は、他国にとっては好機だ。


 国が揺れた瞬間に条件を突きつける。


 それが外交だ。


「殿下は?」


「聖女様の講義に同席中です」


 レオンの声は冷たい。


 冷たいが、それは彼の感情ではない。事実として冷たい。


 私は思わず笑いそうになった。


「国が揺れているのに、講義?」


「殿下は、現実の重さに対して、鈍いところがあります」


 レオンは淡々と言った。


 だがその言葉には、積もった疲労がある。


 


 そのとき、扉が開き、アクアが入ってきた。


 淡青のドレスに鮮やかな金髪が映える。


 青い瞳は今日も凛としている。


 彼女の表情は穏やかだが、歩みは早い。


「呼ばれたわ」


「ありがとう、アクア」


 私が言うと、アクアはレオンを見た。


「状況は?」


 レオンは端的に答える。


「内側は貴族院の抗議。外側は隣国の圧。さらに――」


 彼は一瞬だけ言葉を切った。


「王城内の派閥が"聖女派"と"王妃候補派"に割れ始めています」


 アクアの睫毛が揺れる。


「もう?」


「もうです」


 レオンはため息すらつかない。


 つく余裕がない。


 私は机の上の書類を一枚ずつ見ていく。


 抗議文草案。隣国からの要求。商務院の焦り。貴族たちの署名の動き。


 そして、最後に一枚の小さな紙。


「これは?」


 私が問うと、レオンの目がほんの僅かに細くなる。


「噂の報告です」


 噂。王城の血流。そして毒。


 私は読んだ。


 


> "サラは聖女を妬み、陰で潰そうとしている"

> "アクアは表向き優しいが裏でサラと組んでいる"

> "王子殿下が選ぶのは聖女で決まり"

> "王妃候補制度は時代遅れ"


 


 最後の一文で、私は理解した。


 桃が動いている。


 まだ証拠はない。


 でも私の直感がそう言っている。


 アクアが静かに言った。


「誰が流しているの?」


「特定はできません。ただ……流れ始めた場所が、侍女たちの間です。次に奥方へ、次に貴族へ」


 王城の噂は、まず侍女が運ぶ。


 侍女は情報の蜘蛛の糸だ。


 そして桃は"侍女に優しい"。


 優しい顔で、味方を作る。


 私は指先で紙を折り、机に置いた。


「……殿下を呼ぶべきね」


 アクアが頷く。


「でも殿下は、"反逆"と言った自分を引っ込められないわ」


「引っ込められないから、側近が困る」


「はい」


 レオンが無表情のまま肯定する。


 無表情で言われると、余計に重い。


 私はレオンを見る。


「レオン。あなたは殿下に何を言うつもり?」


 レオンは少しだけ視線を落とした。


 その動きは、彼にしては珍しい。


「殿下の前で、私が正面から否定すれば、殿下は意地になります」


「つまり?」


「殿下が"自分で気づいた"形にする必要があります」


 アクアが小さく笑った。


「面倒な王子ね」


「はい」


 レオンは否定しない。


 私は心の奥で、小さな違和感が膨らむのを感じた。


 ――私たち、いつまでこの人の尻拭いをするの?


 その芽が、静かに顔を出す。


 国のため。殿下のため。


 それは便利な檻だ。


 その檻の中で、私たちは息をしてきた。


 でも今、息が苦しい。


 


 私は息を吐き、現実に戻る。


「まず、隣国の関税協議は止められない。こちらの準備は?」


「資料は揃えています。しかし、殿下の署名が必要です」


「殿下に署名させる。今日中に」


 アクアが続ける。


「貴族院への火消しは?」


「殿下が"反逆"の言葉を撤回しない限り、燃え続けます」


 私は考える。


 撤回させるには、殿下が"桃のために"撤回したと思わせるのが一番だ。


 国のためではなく、桃を守るため。


 その形なら、殿下は動く。


 ――つまり、桃を利用する。


 私はその結論に苦いものを感じる。


 でも、政治は綺麗事では動かない。


「聖女様は今日、何を?」


「衛生改革の提案書を殿下に提出する予定です」


 衛生改革。


 民には響くだろう。貴族にも一部は刺さる。


 だが、やり方次第で反発も生む。


 アクアが低い声で言った。


「桃は、"民の味方"の立ち位置を取るつもりね」


「そうすれば貴族の反発は"悪者扱い"になる」


 私が言うと、レオンが頷く。


「はい」


 私は机に指を置き、決める。


「殿下に会い、署名を取ります。関税協議の準備を進めます。貴族院の抗議に対しては、殿下から言葉を柔らかく言い直させましょう」


 アクアが眉を上げる。


「殿下にできるかしら?」


「できないなら、国は壊れていくでしょうね」


 私は淡々と言った。


 レオンが小さく頭を下げる。


「助かります」


 その一言が、胸に刺さった。


 助かります。


 彼は側近だ。


 なのに、王子ではなく、私たちに頭を下げる。


 ――裏切りの兆し?


 それは貴族の裏切りだけではない。


 王子を支えてきた仕組みそのものが、王子から離れ始めている。


---


 私たちは側近府を出て、王子のいる講義室へ向かった。


 回廊を歩くと、すれ違う侍女たちの視線が妙に刺さる。


 さっきまでの静けさはなく、どこか落ち着かないざわめきがある。


「サラ」


 アクアが小声で言う。


「気づいてる?」


「ええ」


「もう、私たちを"王妃候補"じゃなく、"障害物"として見る目が増えた」


 私は口角を上げる。


「なら、堂々と歩きましょう」


 堂々と歩くことは、時に抵抗になる。


 


 講義室の扉の前まで来ると、甘い笑い声が聞こえた。


 桃の声。王子の声。周囲の者たちの"安心した笑い"。


 その笑いは、現実から目を逸らす笑いだ。


 扉を開ける。


 王子が桃の話に頷いている。


 桃は黒板の前で、簡単な図を描いていた。


 清潔、手洗い、井戸の整備。


 民の生活を良くする提案。


 確かに有益だ。


 だからこそ、怖い。


 王子は私たちを見ると、少し不機嫌そうに言った。


「何だ、サラ。授業の邪魔をするな」


 私は礼をし、微笑む。


「殿下。緊急の政務でございます」


 王子が眉をひそめる。


「今でなくてはならぬのか?」


 桃が心配そうに言う。


「殿下……国のことは大事です。私のことは後で……」


 その一言で、王子の顔が揺れる。


 "桃が国を優先した"。


 王子は気持ちよくなる。


 私はその気持ちよさを利用する。


「隣国ルーデンが関税協議を前倒ししてきました。本日中に殿下の署名が必要です」


 王子が一瞬だけ黙る。


 分からないのだ。関税協議の重さが。


 だが桃が言った。


「殿下、民の食が揺らぐのは怖いです。署名しましょう」


 王子は頷いた。


「……よし。署名する」


 ほら。


 王子は"桃の言葉"なら動く。


 私は胸の奥で、冷たいものを飲み込む。


 そして、次を投げる。


「貴族院が、殿下のご発言に抗議文を準備しています」


 王子の顔が赤くなる。


「反逆者どもめ!」


 桃が小さく怯えたように肩をすくめる。


「殿下……そんな……」


 王子の怒りが、桃の怯えで少しだけ揺れる。


 私はその隙に言う。


「殿下。聖女様を守るためにも、言葉を柔らかくするべきです。今のままでは貴族院が敵に回り、国が揺れます」


 王子が唇を噛む。


 プライドが邪魔をする。


 だが桃が言った。


「私のせいで国が割れるなんて……嫌です。殿下……どうか……」


 王子が拳を握りしめ、苦々しく言った。


「……分かった。言い方は変える」


 変えるだけ。撤回ではない。


 でも十分だ。火消しの第一歩。


 レオンが横で静かに息を吐いたのが見えた。


 彼の肩がほんの少しだけ落ちる。


 私は理解する。


 私たちが今やっているのは、国を守っているようでいて――


 王子を支える仕組みを延命しているだけかもしれない。


 


 そのとき、胸の奥でまた芽が囁いた。


 ――殿下も国も捨てて、自由になってもいいのかもしれない。


 私はその芽を、今は握り潰さない。


 育てる必要がある。


 なぜなら――この先、私たちは"捨てられる側"に置かれるから。


 捨てられた時、初めて自分で降りるために。


---


 講義室を出ると、回廊の光が眩しかった。


 眩しいのに、心は冷たい。


 アクアが小声で言う。


「サラ。今、殿下を動かしたのは桃よ」


「ええ」


「私たちの努力じゃない」


 私は微笑む。


「努力は、誰かに見えるためにするものじゃないわ」


 口ではそう言った。


 でも胸の奥は、少しだけ痛んだ。


 ――私たち、国のために生きすぎていたかもしれない。


 その思いは、じわじわと形になる。


 遠くで、桃の笑い声がした。


 王子がそれに笑い返す声。


 王城は今日も美しい。


 でも、その美しさの下で、それぞれの糸が切れそうになっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ