第6話「王子の選択」
王城の朝は、いつも綺麗だ。
窓から差し込む光は薄い金色で、白い石の廊下を柔らかく照らす。
薔薇園から流れてくる香りは甘く、噴水の水音は規則正しく、まるで"何も問題などない"と言い張るみたいに整っている。
けれど今日は、その整い方が不気味だった。
静かすぎる。
侍女たちの足音が控えめで、騎士たちの鎧の擦れる音が遠く、誰もが声を抑えている。
その抑えた声の中で、噂だけが生き物みたいに動き回っているのを感じる。
「サラ様」
ミレイユが鏡の前で髪を整えながら言った。
彼女の指は普段より速い。怒りと緊張が混じっている。
「本日、殿下が"聖女様の件"で公開の場を設けるそうです」
私は目を細めた。
公開の場。
それはつまり、"宣言"に近い。
「どこで?」
「大広間です。貴族が集まります。……おそらく、王妃候補のお二方もお呼びでしょう」
私は紅いドレスの襟元を指先で整えた。
布地は重く、宝石は冷たい。
王妃候補の象徴のような衣装は、美しいが、同時に鎖みたいだ。
「……分かったわ」
声は落ち着いている。
落ち着いているように"見せている"。
心の中は、ざわざわしている。
父の言葉が刺さっているからだ。
――潰せ。勝て。負けた炎は灰だ。
そして、私自身の決意も刺さっている。
――悪役には戻らない。意地悪で誰かを踏まない。
この二つの刃を抱えたまま、私は今日も王城を歩く。
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大広間は、朝の光で白く眩しかった。
高い天井には金の装飾。壁には王家の紋章が並び、赤い絨毯が一直線に伸びている。
香が焚かれ、花が飾られ、音楽隊の楽器が控えめに音を整えていた。
"発表の場"の空気だ。
貴族たちは左右に分かれて並ぶ。
誰がどこに立つかで派閥が見える。
視線が集まる場所は三つ。
王子の立つ壇。私とアクア。そして――聖女・春木桃。
桃は白に近い淡い衣をまとい、王子の少し後ろに立っていた。
一歩後ろ。
しかし、視線は彼女に集まる。
その立ち位置がすでに巧い。
王子の背後に立つことで"支えられる存在"に見せる。
でも距離を取りすぎないことで"選ばれた存在"に見せる。
桃は微笑んでいる。
あの微笑みは、見る者の心を安心させる。
でも私は、その微笑みが"武器"だと知っている。
アクアが隣に立つ。
今日も淡青のドレス。涼やかな顔。
彼女は小声で言った。
「来るわね」
「ええ」
「殿下の"選択"が」
鐘が鳴った。
王子が壇に立つ。
グレイ・モンナイス。
傲慢で、承認欲求が強く、決断力がない。
なのに今日だけは、決断した顔をしている。
それが、怖い。
決断というより、酔いだ。
自分の物語に酔っている顔。
王子が声を張り上げた。
「諸君。我が王国に聖女が降ったことは、すでに知っているだろう!」
ざわめき。拍手。
貴族の一部が熱狂し、一部が沈黙する。
「聖女・春木桃は、異界より召喚された特別な存在だ。彼女は神の祝福を受けている」
――神。
その言葉が、政治を宗教に寄せる。
危うい方向だ。
老臣の何人かが眉をひそめる。保守派の目が冷たくなる。
王子は気づかない。
彼は桃を見る。
その目が柔らかい。
崇拝ではなく、依存の目だ。
「桃は、我が国に多くをもたらすだろう。民の衛生、救済、そして……希望だ」
桃が一歩前へ出て、控えめに頭を下げる。
「恐れ多いです……殿下。私はただ、皆様の役に立ちたいだけで……」
謙虚。
その言葉が王子をさらに燃やす。
「だからこそ――私は決めた」
王子が、胸を張る。
大広間の空気が一段硬くなる。
誰もが次の言葉を待つ。
王妃候補として育てられた私の身体が、無意識に背筋を伸ばす。
鎖が引き絞られる感覚。
王子が宣言した。
「私は、聖女・春木桃を公に擁護する。彼女に向けられるいかなる疑念、批判、妨害も――私への反逆とみなす!」
一瞬、音が消えた。
空気が凍るとはこういうことかと思った。
次の瞬間、ざわめきが爆発する。
「反逆……?」「殿下、言い過ぎでは……」「いや、聖女は奇跡だ」「王妃候補制度はどうなる」「二大公爵家の均衡は」
言葉が飛び交う。
扇が揺れ、指が動き、視線が刺さる。
私は、笑みを崩さない。
崩せない。
崩した瞬間、「嫉妬だ」と言われる。
――ほら、悪役が怒ってる。
そう言われる未来が見える。
私はそれを拒否する。
隣でアクアが、ほんの少し息を吸った。
彼女も同じことを考えているのが分かる。
王子は続ける。
「そして……桃の教育は、引き続きサラとアクアが担え。だが覚えておけ。彼女を傷つけることは許さぬ」
その言葉は、表向きは命令だ。
だが実際は宣告に近い。
――お前たちは監視される側だ。
王妃候補であるはずの私たちが、聖女のために存在するように配置される。
胸の奥が、静かに燃える。
怒り。屈辱。そして、恐怖。
――選ばれない恐怖。
愛に飢えた私が囁く。
*ほら、噛みつきなさい。この場で否定しなさい。桃を貶めなさい。そうすれば、あなたが上に立てる。*
私はその声を、ゆっくり踏み潰す。
違う。私は、意地悪で自分を守らない。
私は一歩前に出た。
赤い絨毯の上で、私のドレスの裾が重く揺れる。
視線が一斉に集まる。呼吸が止まる。
私は微笑みながら、礼をした。
「承知いたしました、殿下」
その声は澄んでいた。
怒りも嫉妬も見せない。
見せたら負けだ。
この場で感情を見せれば、"役割"に押し込まれる。
王子が満足げに頷く。
「うむ。分かっているな、サラ」
私は心の中で冷たく返す。
分かっているわ。
あなたが今、国を危険に晒していることを。
式が終わると、大広間は一気に"派閥会議"に変わった。
貴族たちは小さな塊になり、囁き合い、扇の陰で言葉を交わす。
足音が忙しく動き、絨毯が擦れる。香の匂いが濃くなり、息が詰まる。
私はアクアと共に大広間を出ようとした。
そのとき、桃が近づいてきた。
「サラ様」
呼び止める声は柔らかい。
だが、呼び止めた瞬間に"私の周囲の空気"が変わるのを感じる。
桃は周囲に聞こえる程度の声で言った。
「殿下が守ってくださるとおっしゃって……私、嬉しくて。でも、サラ様やアクア様にご迷惑をかけたくありません」
完璧な言葉。
"迷惑をかけたくない"と言うことで、"迷惑をかけている"現実を先に認めさせる。
私は微笑む。
「迷惑ではありません。国のためです」
桃は少し首を傾げ、まるで無邪気に言った。
「でも……皆様、私のことを見ていました。怖かったです」
怖い。
怖いと言えば、周囲は"守るべき存在"として扱う。
王子が後ろから近づく。
「桃、心配するな。私がいる」
桃はほっとしたように王子を見る。
「殿下……」
その一瞬で、王子の胸は満たされる。
彼の劣等感が撫でられる。
私は、理解する。
王子は桃を愛しているのではない。
桃に"救われた気分"を愛している。
そして桃は、それを知っている。
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大広間を出た瞬間、空気が変わった。
中の熱気が嘘みたいに、回廊は静かだった。
窓から差す光が細く伸び、床に長い影を落とす。
私は歩きながら、胸の奥の違和感を振り払おうとした。
でも、振り払えなかった。
「……アクア」
私の声は思ったより小さかった。
「何?」
「私たち……」
言葉が喉で止まる。
私は一度息を吸い直した。
「私たち、いつから"殿下のために"生きていたのかしら」
アクアが足を止めた。
「……どういう意味?」
私は回廊の窓辺に立ち、外を見た。
庭園では庭師が剪定をしている。
花は王家の色に揃えられ、形を整えられ、決められた位置に植えられている。
美しい。でも、自由じゃない。
「王妃候補として育てられて、礼節も外交も、政務も覚えて……」
「ええ」
「それって、殿下のため? 国のため?」
私は自分の手を見る。
指先は震えていない。でも心は揺れている。
「……それとも、"私たちがそうあれと言われたから"?」
アクアは少し黙った。
そして、静かに言った。
「どちらも、かもしれないわ」
私は苦笑する。
「国のためって、便利な言葉ね」
アクアが小さく笑う。
「ええ。"あなたが我慢する理由"としては」
その一言が刺さる。
私は今まで、"国のため"という言葉で自分を縛ってきた。
王子が未熟でも。父が厳しくても。派閥が汚くても。
"これは国のため"と思えば、飲み込めた。
でも。
今日の宣言を思い出す。
*――彼女に逆らう者は反逆だ。*
あれは国のためだった?
違う。
あれは、王子のため。
もっと言えば、王子の不安を守るため。
私はゆっくり言った。
「もし」
アクアが私を見る。
「もし、私たちが"殿下のために生きる"のをやめたら」
風が吹いた。
レースが揺れ、光が揺れる。
「どうなるのかしら」
アクアはすぐに答えなかった。
それが彼女らしい。感情で返さない。一度、考える。
「……国は回らなくなるかもしれない」
「ええ」
「でも」
彼女は続ける。
「私たちは、生きられるかもしれない」
その言葉に、胸の奥が小さく震えた。
生きる。
今まで、私は"役割を果たすこと"を生きることだと思っていた。
王妃候補であること。勝つこと。負けないこと。
でもそれって、"役目"であって、"私"ではない。
私はぽつりと言った。
「殿下が、誰を選ぶかなんて……本当はどうでもいいのかもしれないわね」
言った瞬間、自分で驚いた。
どうでもいい?
私はあれほど、選ばれなければ価値がないと思っていたのに。
アクアが静かに言う。
「怖い?」
「ええ。怖いわ」
私は正直に答えた。
「だって、選ばれない私は、何もないと思ってたから」
アクアは私の隣に立った。
「でもね、サラ」
彼女の声は穏やかで、でも芯がある。
「選ばれなくても、あなたは消えない」
私は目を閉じる。
胸の奥で、何かが軋む。
檻だ。
王妃候補という檻。勝たなければ価値がないという檻。国のためという名の檻。
それが、ほんの少しだけ揺れた。
「もし」
私はもう一度言った。
「もし、殿下も国も捨てて、自由に生きてもいいとしたら」
アクアは、微かに笑った。
「あなた、昔ならそんなこと言わなかったわ」
「ええ」
私は自嘲する。
「昔の私は、嫉妬して噛みついてた」
「今は?」
私は空を見上げる。
「……まだ、噛みつきたいわよ」
正直に言うと、アクアがくすっと笑う。
「でも、噛みつかない」
「噛みついたら、また檻に戻るから」
アクアは頷いた。
「なら、あなたはもう半分、自由よ」
自由。
その言葉は、まだ遠い。
でも今日。
王子が"私たちを守る側"ではなく"監視する側"に置いた瞬間。
私は初めて思った。
――私、殿下のために生きなくてもいいのかもしれない。
その思考は小さい。まだ種だ。
でも、確実に植えられた。
遠くで、桃の笑い声が響く。
甘くて、無邪気で、完璧な声。
私はその音を聞きながら、心の中で呟いた。
国のため。殿下のため。
……それ、本当に"私のため"だった?
もし違うなら。
いつか。
私は、選び直すことができるんだろうか。




