第5話「揺らぐ立場」
王城の空気は、目に見えない糸で織られている。
その糸は言葉ではなく、視線と噂と沈黙で作られる。
どこで誰が笑ったか。誰が誰に頭を下げたか。誰が誰の隣に立ったか。
それだけで、糸は結び直され、絡まり、誰かの首に巻きつく。
聖女召喚から数週間。
王城は、見た目だけはいつもより華やかだった。
廊下の花は増え、香の匂いは濃くなり、窓辺のレースは新品に替えられている。
だがその華やかさは、薄い膜に過ぎない。
膜の下で、争いが育っている。
私は朝の回廊を歩きながら、靴の踵が石床に落とす乾いた音を数えていた。
ひとつ、ふたつ、みっつ――。
音が響くほど、この場所は静かだ。
静かだから、気配が際立つ。
通り過ぎる侍女が、礼をしながら目だけで私を測る。
いつもならすぐに逸らす視線が、今日に限って少し長い。
「……サラ様」
侍女のミレイユが小声で呼んだ。
彼女の横顔は硬い。
気が強い侍女が、わざと怒りを飲み込む時の顔だ。
「朝から、侍女たちが変です。誰も声を大にしては言いませんが――」
「分かってるわ」
私は微笑みを崩さずに言った。
「"聖女派"ができたのでしょう」
ミレイユが唇を噛む。
「はい。殿下の寵愛が目に見えておりますから。貴族の奥方方も……早いのです」
早い。
それは昨日も思ったことだ。
王城の噂は血流だが、血流が早くなる時は、必ず何かが壊れ始めている。
「本日は"青薔薇の間"でのお茶会がございます」
「承知している」
青薔薇の間は、アクア家――ユーハイム公爵家の影響が強いサロンだ。
水の家。柔らかさを装いながら、裏で冷徹に均衡を取る家。
炎の家であるブレイム公爵家と、表向きは対立している。
けれど実際は、互いの存在が王国の均衡を支えている。
二大公爵家が対立しているから、王家は王でいられる。
どちらかが崩れれば、王家は飲み込まれる。
その均衡を、王子は自分の"恋"で壊そうとしている。
私は歩きながら、胸の奥に薄く刺さる痛みを無視した。
――恋ではない。
あれは依存だ。
崇拝に酔って、自分の価値を補充しているだけ。
それでも、壊れれば痛むのは国だ。
そして、最初に血を流すのは私たちだ。
青薔薇の間は、窓が大きく、光が柔らかい。
白い壁に青い装飾、涼やかな布、銀の食器。
水の家の美意識は、いつも冷静で清潔だ。
部屋に入った瞬間、空気が一度止まるのを感じた。
奥方たちが並び、若い令嬢たちが扇で口元を隠し、侍女たちが茶器を運ぶ。
その全員が、表向きは微笑みながら、心はひとつの話題で燃えている。
――聖女。
私は丁寧に礼をする。
「ご機嫌よう、皆様」
「まあ、サラ様。お美しい」「本日も気品が――」
褒め言葉が降ってくる。
だが褒め言葉は、時に刃になる。
褒めることで、"今まで通りでいてくださいね"と縛る。
変わることを許さない。
席につくと、早速その話題が出た。
「聖女様は、本当に可憐でいらっしゃるわ」
「殿下が夢中になるのも無理はない」
「異界の方なのに、礼節も覚えが早いとか」
私は紅茶の香りを吸い込み、笑みを保った。
「努力家でいらっしゃいますわ」
しかし、奥方の一人がわざとらしく首を傾げた。
「でも……聖女様は、王妃候補ではなかったのですものね?」
空気がぴんと張る。
私は微笑みを崩さない。
「ええ。最初は」
「最初は、ですか」
別の奥方が扇越しに笑う。
「殿下が"守る"とおっしゃったそうですもの。貴族院でも。あれほど公に――」
私はカップを置く。音を立てない。
自分の指が震えないように、カップの熱で落ち着かせる。
「殿下は慈悲深いお方ですわ」
慈悲という言葉で、王子の幼さを覆う。
そうすればこの場の空気は荒れない。
――しかし、荒れるべきなのだ。
このままでは、均衡が壊れる。
そう思った瞬間、聞き慣れた鈴の声が部屋に落ちた。
「皆様、楽しそうなお話ですこと」
アクアが入ってきた。
金髪が光を拾い、青い瞳は穏やかに微笑んでいる。
水の家の娘。空気を読む達人だ。
彼女が席につくと、空気が少しだけ冷えた。
火と水が揃うと、周囲は必ず緊張する。
奥方たちは、アクアに向かって微笑む。
「アクア様、聖女様は本当に可憐ですわね」
アクアはカップを受け取りながら、穏やかに言った。
「可憐でいらっしゃいますね。ええ。殿下がお好きそうな"守りたくなる"方で」
その言い方。
柔らかいのに、刺す。
奥方たちが一瞬だけ固まる。
だがすぐに笑い声が起きる。
笑い声は、空気を誤魔化すためのものだ。
「まあ、アクア様ったら」
私は横目でアクアを見る。
彼女は涼しい顔をしている。
でも、その目は部屋の隅の隅まで見ている目だった。
――誰がどちらの派についたか。誰が誰に目配せしたか。誰が"サラの立場が揺れた"と喜んでいるか。
アクアは観察者だ。
そして観察することで、身を守ってきた。
私はその視線を真似できない。
私は、戦ってきた。勝ってきた。
勝つことでしか、自分の価値を保てなかった。
その差が、胸をちくりと刺す。
お茶会が終わる頃には、派閥の糸がさらに絡まっていた。
部屋を出ると、回廊の空気が少し重い。
ミレイユが私の隣で唇を噛んだ。
「……サラ様。皆、楽しそうでした」
「人は誰かが落ちるのを見るのが好きなのよ」
私は淡々と言う。
「サラ様が落ちるはずがありません」
「落ちないようにするのが、私の仕事」
私はそう言いながら、自分の胸の奥が冷えるのを感じた。
落ちない。落ちたら不要。落ちたら愛されない。
その恐怖は、まだ消えていない。
――だから勝つ。
その思考は、私をここまで支えてきた。
同時に、私を檻に閉じ込めている。
その日の午後、父からの呼び出しが届いた。
ブレイム公爵――炎の家の当主。
厳格で、勝利至上主義。王家への忠誠が強い。
そして、私にとって"檻の象徴"。
王城の客間。重い木の扉。赤い絨毯。金の装飾。
炎の家らしい、強さを誇示する部屋。
扉を開けると、父が窓辺に立っていた。
背中が大きい。
その背中を見ただけで、私の背筋が自然に伸びる。
「サラ」
低い声。
私は礼をした。
「お呼びでしょうか」
父は振り返らないまま言った。
「聖女が現れた」
「はい」
「王子が浮かれている」
「……はい」
父がゆっくり振り返る。
その目は冷たい。
娘を見る目というより、武器を見る目だ。
「お前の立場が揺れている。理解しているか」
「理解しております」
「ならば勝て」
即答だった。
勝て。
その一言で、胸の奥がきゅっと縮む。
「お前はブレイムの娘だ。炎は負けない。負けた炎は灰だ」
父は歩み寄り、私の顎を上げさせるように指で触れた。
その仕草は優しさではない。
確認だ。価値を測るための。
「お前が王妃になれば、我が家は王家と結びつく。二大公爵家の均衡も保たれる。お前が負ければ――」
父は言葉を切る。
言わなくても分かる。
負ければ、私は不要。負ければ、私は価値がない。
私は微笑む。
「負けません」
そう言った瞬間、胸の奥で、愛に飢えた私が息をした。
――褒めて。認めて。価値があるって言って。
でも父は言わない。
彼は勝利しか認めない。
「ならば、聖女を潰せ」
父の声が落ちた。
私は息を止めた。
「……潰す、ですか」
「お前のやり方でいい。噂でも、礼節でも、力でも。王子が迷うなら、迷えぬように追い込め」
それは、私を"悪役"に戻す命令だった。
かつて読んだ小説の中で、サラはそうしてアクアを追い詰めた。
愛に飢え、意地悪になり、嫉妬で噛みついた。
私は、その道へ戻りたくない。
私はゆっくり息を吐く。
「父上。私は――」
「言い訳は要らない」
父の声が鋭くなる。
「お前は勝てばいい。勝てば全て許される」
勝てば。勝てば。
その言葉が、私の檻をきつく締める。
私は笑みを保ったまま、心の中で叫びそうになる。
――勝たなければ、生きていてはいけないの?
私の価値は、勝利だけなの?
「お前が王妃になれなければ、ブレイムは王城から退く。お前はそれを望むのか」
望むわけがない。
国を守るという大義もある。
でもそれ以上に、私は"負ける恐怖"に縛られている。
私は静かに答えた。
「望みません」
父が頷く。
「ならば、やれ」
部屋を出た時、私は指先が冷たくなっているのに気づいた。
回廊の光が眩しい。
でも、眩しいほど、心が暗くなる。
ミレイユが駆け寄る。
「サラ様……!」
「大丈夫よ」
嘘だった。
胸の奥に、二つの声がある。
――聖女を潰せ。
――悪役になるな。
私はどちらも拒否できない。
国のために動く必要はある。
でも意地悪で誰かを傷つけるやり方は、私が捨てたい。
そんな私の表情を、誰かが見ていた。
アクアだ。
回廊の向こう、柱の陰に立っている。
彼女はいつもの微笑みをしていない。
青い瞳が、まっすぐに私を見ている。
「……サラ」
近づいてくる足音が静かだ。
水の家の娘は、いつも音を立てない。
音を立てないことで、気配を消す。
それが彼女の生存戦略。
アクアは私の前に立ち、低い声で言った。
「今の顔。悪役になりそうって感じだった」
私は喉が詰まった。
「……ならないわ」
「悪い方に変化するときって、自分では分からないのよ」
その言葉が刺さる。
「あなたは今、狩られてる。派閥も、父も、殿下も。皆、あなたを"役割"に押し込もうとしてる」
私は苦笑する。
「あなたは、全部見えてるのね」
「見えてるから怖い」
アクアの声が少しだけ震えた。
「あなたが壊れるのが一番怖い」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
嬉しい。救われる。
でも同時に、それは依存の甘さだ。
私はその甘さに溺れたくない。
「アクア」
私は静かに言った。
「私は……勝ちたいの。負けたら、何もなくなる気がする」
アクアは私を見つめた。
「そう思わせる檻があるのよ。あなたの中に」
私は笑う。笑うしかない。
「檻だらけね、私たち」
アクアは小さく微笑んだ。
「だから、壊すの」
私は彼女の言葉の奥を読む。
――壊すのは、王子の檻。父の檻。
そして私たちの相互依存の檻も。
私は頷いた。
「……壊すわ」
その瞬間、遠くの回廊で笑い声が聞こえた。
桃の声だ。
柔らかく、甘く、周囲を安心させる声。
王子の声が混じる。浮かれた声。
王城の空気は、確実に傾いている。
私は知っている。
ここから、立場はさらに揺らぐ。
派閥は動く。王子は迷いを見せずに聖女へ傾く。
そして、私たちは――選ばれる側ではなく、捨てられる側に置かれる。
でも。
私はもう、愛に飢えた意地悪な女には戻らない。
その代わりに。
私は私のやり方で、檻を壊す。




