第4話「聖女の微笑」
祝宴の翌日、王城は甘い疲労を引きずっていた。
廊下に漂う香は昨日より薄い。
けれど代わりに、眠り足りない人間の息遣いと、浮かれた声と、忙しさの匂いが混ざっている。
朝の光は白い大理石の床に反射して眩しく、窓辺のレースが風で揺れるたび、光の帯が床を滑った。
王城という場所は、いつも完璧な顔をしている。
だが完璧さは、人間の弱さを覆い隠す薄い膜でもある。
――あの子がその膜を、どんなふうに裂くのか。
私は自室で髪をまとめながら、そんなことを考えていた。
「サラ様、本日の予定でございます」
侍女のミレイユが銀盆の上に手帳を置く。紙の角がきっちり揃っている。
彼女はこういう小さな正確さを、怒りながら守る。
「午前は聖女様の作法と礼節の基礎。午後は王城内の案内と、要人へのご挨拶。殿下より、"サラ様とアクア様が責任を持って"とのことです」
"責任を持って"。
それはきれいな言葉だ。
けれど王子が言うと、「面倒はお前たちが引き受けろ」に聞こえる。
私は淡く笑った。
「ええ。国のために必要なことだもの」
ミレイユは唇を尖らせる。
「国のため、ですか」
「ミレイユ」
「……失礼いたしました。でも、殿下は聖女様に酔っております。昨日の祝宴でも――」
「聞いているわ」
私は鏡越しに自分の目を見る。
緑の瞳はよく"強い"と言われる。
けれどその強さは、心に刃を向けることで保ってきた硬さでもある。
ミレイユは言いにくそうに続けた。
「聖女様は……可愛らしいお方です。ええ、可愛らしい。ですが、侍女たちの間ではもう――」
「もう?」
「"王妃様"と呼ぶ者が出ています」
私は、息を吸って吐いた。
早い。あまりにも早い。
噂は王城の血流だ。止めることはできない。
だからこそ、噂をどう流すかが政治になる。
――あの子は、噂を流す側だ。
私はドレスの袖を整える。
今日の色は深い紅。炎の公爵家の色。
見せ札。強さの演出。私の鎧。
「行きましょう」
王城の礼節教室は、白い壁と金の縁取りで整えられている。
窓の外には剪定された庭木、遠くに噴水。水音がかすかに響く。
教室の空気は、薄い緊張で満ちていた。
アクアがすでに席についている。
金髪をまとめ、青い瞳は穏やかに笑っている。
その微笑みの奥で、彼女はきっと、部屋の空気を測っている。
そして中央には、春木桃が座っていた。
黒髪は丁寧に整えられ、白い肌にはわずかに血色が差している。
昨日の祝宴の疲れは、顔に出していない。
出していないのではない。出し方まで計算されている。
「おはようございます、サラ様。アクア様」
桃は立ち上がり、昨日より少しだけ慣れた所作で礼をした。
完璧ではない。でも"頑張っている"と思わせるには十分だ。
「おはようございます、聖女様。今日は礼節の基礎から始めましょう」
私が言い終わる前に、
「はい!」
桃が勢いよく返事をする。
少し大きい。けれど不快ではない。
"元気で素直"に見える絶妙さ。
私は心の中で、冷静に評価する。
――できる。
この子は、学ぶ速度ではなく、見せ方が速い。
午前中の授業は、王城の礼節の基本を教える内容だった。
貴族への挨拶。視線の高さ。言葉遣い。
立ち方、座り方、扇の扱い方。
誰に先に挨拶し、誰に後回しにするか。
頭を下げる角度でさえ、政治になる。
桃は吸収が早かった。
しかしそれ以上に、"失敗の仕方"が上手い。
わざと、ほんの少しだけ間違える。
わざと、少しだけ戸惑う。
そして、すぐに直す。
そのたびに教師が褒める。
「素晴らしい覚えの早さです」「さすが聖女様」「異界から来られたとは思えません」
桃は頬を染めて、控えめに笑う。
「そんな……皆様が優しいからです」
――優しいから。
それを言われて嫌な気持ちになる者はいない。
むしろ"自分は良い人間だ"と錯覚する。
私は指先でペンを回しながら、彼女を観察する。
桃は言葉の選び方が巧い。
そして、視線の投げ方が巧い。
褒められたら、必ず王子の方を見る。
王子の席は教室の端、今日も見学に来ている。
見学という名の"陶酔"だ。
王子は、満足げに頷いている。
「ほらな。桃は素晴らしい。お前たちの教育が良いのだ」
――違う。
桃が、王子を気持ちよくさせているだけだ。
アクアが私の方へほんの少し視線を寄せる。
「分かってる?」とでも言いたげに。
私は小さく目を伏せる。
分かってる。
午前の授業が終わると、王子が立ち上がった。
「よし。午後は王城の案内だ。桃に我が国の素晴らしさを見せよう」
桃は嬉しそうに頷く。
「はい、殿下!」
その返事の音に、王子はさらに胸を張る。
王城の案内は、形式的な散歩ではない。
誰の領域を先に見せるか。誰の派閥に敬意を払うか。
それが政治になる。
だからこそ、午後の案内は"危険"だった。
王城の回廊を歩く。
窓から差す光が、私たちの影を床に伸ばす。
赤いドレスの裾が揺れ、桃の淡い色の衣が風を受ける。
アクアの淡青のドレスが、涼しげに揺れる。
三人が並ぶ姿は、周囲にとって"絵"になる。
そして王子は、その絵の中心に自分がいると思っている。
王家の祖廟、図書室、礼拝堂、舞踏の間、庭園――。
桃はどこでも同じ反応をする。
驚いて、感動して、そして必ず一言添える。
「殿下のお国は素晴らしいですね」
"殿下のお国"。
王子はくすぐられる。
国を褒められたのではない。自分を褒められたのだ。
そして、問題は起こった。
王子がふと足を止め、窓の外の訓練場を指さした。
「桃。あそこにいるのが王都騎士団だ。強いぞ。王国の誇りだ」
訓練場では騎士たちが剣を交えている。
金属がぶつかる音。掛け声。砂埃。汗の匂い。
桃は目を輝かせ、少し身を乗り出した。
「わあ……!」
そして、次の瞬間。
彼女はわざとらしく足をもつれさせた。
「きゃっ――」
小さな悲鳴。身体がよろける。
そして当然のように、王子の方へ倒れ込む。
王子は慌てて彼女を抱きとめた。
「危ない!」
桃の手が王子の胸元に当たり、彼女は顔を赤くして俯く。
「す、すみません……わたし、慣れてなくて……」
周囲の侍女たちが息を呑む。老臣が眉をひそめる。
だが、王子は見えていない。
彼は"守った自分"に酔っている。
「大丈夫だ、桃。誰にでもある」
桃は潤んだ目で王子を見上げる。
「殿下……優しい……」
その一言で、王子の心は完全に落ちた。
私は、胸の奥が冷えるのを感じた。
――今のは偶然じゃない。
桃は"倒れる角度"まで計算していた。
ドレスの裾の動き、王子の位置。視線を集める場所を選んだ。
そして最悪なのは、ここが騎士団の訓練場を見下ろす回廊だということ。
騎士たちも見ている。
彼らの視線の先で、王子が聖女を抱きとめた。
それは噂になる。いや、噂にされる。
――王子が聖女を選んだ。
誰よりも早く、そういう空気が作られる。
桃はそれを狙っている。
王子がご機嫌のまま、次の目的地を指示する。
「このまま貴族院へ行こう。桃を紹介する。皆に示すのだ」
私は思わず口を挟んだ。
「殿下。貴族院への紹介は、段階を踏むべきです」
王子が振り返る。
「なぜだ?」
「聖女様はまだ礼節の基礎を学んだばかり。議員たちは保守的です。今の段階で強引に推せば反発が――」
「反発?」
王子は鼻で笑った。
「誰が反発する? 聖女は奇跡だ。国の希望だ。反発する者は国に逆らう者だろう」
――それが、小さな政治ミス。
王子は"反発を敵認定"した。
まだ何も起きていないのに、先に対立軸を作った。
老臣の顔がさらに強張るのが見える。
アクアが視線を伏せる。
ミレイユが私の後方で息を呑んだのが分かる。
「それに、桃は私が守る。私が決めた」
"私が"。
国ではなく、私。統治ではなく、感情。
桃は、さりげなく王子の腕に手を添えている。
支えているようでいて、縛っている。
彼女は小さく言った。
「殿下……皆様にご迷惑をかけたくありません」
謙虚な言葉。
だがその言葉は、王子をさらに燃やす。
「迷惑など誰も感じぬ。むしろ、見せねばならぬ。王国が聖女を迎えたと」
――見せねばならぬ。
演出。
彼は政治を"舞台"だと勘違いしている。
桃は伏し目がちに微笑んだ。
その微笑みの奥に、確かな勝利がある。
私は見てしまった。
貴族院の前室は、重い空気に満ちていた。
黒い木の扉。壁には歴代議員の肖像画。
香は強く、古い紙の匂いが混じる。
ここは王城の中でも特に"保守"が濃い場所だ。
王子が扉を押し開ける。
「諸君! 紹介しよう。異界より召喚された聖女、春木桃だ!」
議員たちの視線が一斉に桃へ向く。
値踏み。探り。警戒。
桃は一歩前へ出て、丁寧に礼をした。
「はじめまして。春木桃と申します。突然この国に参りましたが、皆様のお役に立てるよう努力いたします」
完璧。
それだけなら、反発は抑えられたかもしれない。
だが王子が続けた。
「彼女は私が守る。彼女に逆らう者は、国に逆らう者だ」
空気が凍った。
議員の一人が、ゆっくりと立ち上がる。
「殿下。聖女召喚は確かに吉報。しかし、王妃候補の教育制度と派閥均衡は――」
王子が手を振る。
「古い。今は奇跡の時代だ」
"古い"。
その一言は、保守派に対する侮辱だ。
彼らの誇りを踏んだ。
私は背筋に寒気が走る。
桃は、俯いている。
困ったような顔をしている。
だが、その困り方は"丁度いい"。
「私のせいで……」と見せて、「殿下を守りたい」と見せて、「皆様に認められたい」と見せる。
どの表情も、彼女の利益になる。
議員たちの視線が、私とアクアへ移る。
"お前たちはどうする"という視線。
私は一歩前に出る。
「殿下。聖女様は、国の希望です。だからこそ、制度と秩序の上に丁寧にお迎えするべきです」
王子が苛立った顔をする。
「またお前は――」
その言葉の続きが聞こえた気がした。
可愛げがない。堅物だ。だから選ばれない。
胸の奥で、愛に飢えた部分が蠢く。
嫉妬が舌を出す。
――ほら、噛みつきなさい。あの女を引きずり下ろしなさい。
私は、その声を握り潰す。
違う。私は意地悪で自分を守らない。
私は淡々と続ける。
「今、貴族院に"逆らう者は敵"という軸を作れば、反発は確実に強まります。殿下のためにも、国のためにも」
王子は顔を赤くし、声を荒げた。
「私は王だ! いずれ!」
その瞬間、議員たちの目が冷たくなった。
"未熟"だと判断された目。
王子は自分で自分の首を絞めているのに、気づかない。
桃が小さく声を上げる。
「殿下……私のせいで……」
王子はすぐに彼女へ向き直る。
「違う。お前は悪くない」
守る。守る。守る。
その姿は一見、優しい。
だが政治の場でそれをやれば、ただの偏りだ。
私は、桃の横顔を見る。
彼女は涙を滲ませている。
それが議員の一部の心を動かすのが分かる。
「可哀想に」「異界から来て不安なのだろう」「殿下が支えるのも当然だ」
空気が割れていく。
賛成と反発の亀裂が生まれる。
桃は泣いているふりをしながら、亀裂の位置を正確に知っている。
――怖い。
アクアが一歩前へ出た。
「殿下。聖女様は努力なさっています。ですが、議員の皆様も国を思ってのご意見です。どうか、今日のところは――」
アクアの言い方は柔らかい。
誰も傷つけない。空気を整える。
王子の怒りが少しだけ収まる。
「……ふん。アクア、お前は分かっているな」
王子は、アクアを褒める。
その瞬間、私の胸の奥で、また嫉妬が熱を持つ。
――ずるい。あなたはいつも"正しく"立ち回れる。
昔の私は、その嫉妬でアクアを傷つけた。
意地悪で、彼女の居場所を削った。
私は目を閉じ、息を吐く。
違う。私はもう、そうしない。
貴族院を出た回廊は、さっきよりも暗く感じた。
窓から差す光が細く、床に落ちる影が長い。
香の匂いが濃く、息が詰まる。
桃は小さく震えながら歩く。
「ごめんなさい……私、迷惑を……」
王子が肩を抱く。
「気にするな。お前は正しい」
私は、その背中を見ながら思う。
正しい、ではない。
王子が"正しいと言いたい"だけだ。
桃は私の方をちらりと見た。
その目には、ほんの一瞬だけ光が宿る。
勝利の光。
そしてすぐに、怯えたような表情に戻る。
私は理解する。
この子は、微笑みで人を刺す。
刃を見せないまま、相手の立場を削る。
部屋へ戻る途中、アクアが私の隣に寄った。
「サラ」
「ええ」
「今日の殿下、ひどかったわね」
「ひどい、というより……幼い」
私が言うと、アクアは小さく頷く。
「桃は……」
「計算している」
アクアの青い瞳が細くなる。
「泣き方が綺麗すぎた」
私は苦笑した。
「あなたもそう思った?」
「ええ。――でも、サラ。あなた、今日は噛みつかなかった」
「……頑張ったのよ」
「偉い」
その言葉が、少しだけ胸を温める。
だが同時に、胸の奥に別の痛みが残る。
私は今も、勝たなきゃと思ってしまう。
有能でなきゃ価値がないと思ってしまう。
選ばれない恐怖がまだ残っている。
それを、意地悪で埋めるのは簡単だ。
噛みつけばいい。桃を潰せばいい。王子に認めさせればいい。
でもそれは、私が捨てたい生き方だ。
その夜、私は自室の窓辺に立った。
外の庭園では、噴水が月光を弾き、薔薇が白く浮かんでいる。
昼間の騒がしさが嘘のように静かだ。
けれど静けさの中に、確実に"亀裂"が走っているのを感じる。
王子が踏んだ小さな政治ミス。
貴族院に生まれた反発。
派閥がざわめく気配。
そして桃は、その亀裂を広げるだろう。
私は窓枠を握り、心の中で静かに決めた。
――私は悪役にならない。
でも、何もしないわけじゃない。
この檻の中で、私は私のやり方で戦う。
噛みつくのではなく、折れない。
意地悪ではなく、秩序で制す。
そして、いつか。
「殿下のために生きる」その檻を、私自身の手で外す。
庭の暗がりで、誰かが笑ったような気がした。
もちろん風の音だ。薔薇の葉が擦れる音だ。
それでも私は知っている。
この王城は、静かに人を狂わせる。
甘い香りで。美しい光で。
そして、"選ばれる"という毒で。
私は、その毒にもう酔わない。




