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聖女を選んだのなら、もう殿下の尻拭いはいたしません  作者: 風谷 華


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第20話「檻の扉は、開いた」

 王位継承の儀は、冬の朝に行われた。


 夜明けの光が薄く、空は真珠貝の内側みたいな色をしていた。青でも白でもない、冷たい灰色。王城の尖塔には霜が張りつき、旗が湿った重さで揺れている。その旗の刺繍は金だが、今日の光の下では燻んで見えた。


 広場には貴族たちが整列している。礼装の色が並ぶ。赤、紫、深緑、濃紺。それぞれの家の色が、冬の空気の中でくすんでいる。城門の外には民衆の影。遠くから見ると、黒い点が地面に広がっているようだった。


 ざわめきはある。でも歓声ではない。


 ――期待と不安が混じった、重い音。




 玉座の間の扉をくぐると、空気が変わった。


 外の冷気が遮断され、燭台の熱がじわりと頬を包む。けれど温かいとは言えない。脂の焼ける匂い。蝋が溶ける甘い匂い。大きな燭台が左右に並び、炎がゆらゆらと揺れている。その揺れ方が、まるで呼吸みたいだ。


 赤い絨毯が玉座まで一直線に伸びている。踏むたびに、底の厚い靴が沈む感覚がある。柔らかすぎて、足元が頼りない。


 王冠は台座の上に置かれていた。


 金と宝石。磨き上げられた表面が、燭台の炎を反射してちかちかと光る。美しい。でも、見ていると目が痛くなる。


 私は正装を纏って立っていた。


 重い。いつもより、ずっと重い。


 王妃候補の象徴である深紅のドレス。金糸の刺繍が胸元から裾まで走り、何重にも重ねられた布が足首まで落ちている。歩くたびに布が床を引きずる音がして、それがまるで鎖みたいだと思う。肩の部分だけで、これだけ重い。肩に乗るのは布だけじゃない。「役割」がのしかかっている。


 これを着ている限り、私は"候補"だ。


 隣にはアクア。淡い水色のドレスが、燭台の光を柔らかく反射している。彼女の金髪は丁寧に編み込まれ、首筋に沿って流れていた。表情は穏やかだ。でも今日の穏やかさは、いつもと少し違う。諦めではなく、決意に近い静けさ。


「今日で、一区切りね」


 アクアが小さく言った。


「ええ」


 私は視線を前に向けたまま答える。絨毯の赤が、視界の端でじっとしている。


「あなたはどうするの」


「……旅に出ようと思う」


 私はわずかに目を細める。


「本気?」


「本気」


 彼女は笑った。唇の端が柔らかく上がる。でもその笑みの奥に、覚悟の芯があった。


「私はずっと"調整役"だった。誰かの間に立って、空気を読んで、波を消して。……でも、波の外に出てみたい」


 胸がきゅ、とする。


 アクアがいなくなる。その未来が、今日から始まる。でも今は、それでいい。


「あなたが息をしやすい場所へ行きなさい」


 アクアは私を見た。青い瞳が、燭台の炎を映してゆれる。


「サラは?」


「私は残る」


 即答だった。


 この空気が、嫌いじゃない。派閥の匂い、政務の重さ、貴族たちの視線。うんざりするほど知っている。それでも、面白い。この国の歯車が、どこかで噛み合う瞬間が。


「私は、この国が嫌いじゃない」


「うん。知ってる」


 アクアは小さく頷いた。その横顔に、迷いはなかった。


 鐘が鳴った。


 低く、重く、玉座の間の石壁に響いて、消える。




 重い扉が、ゆっくりと開いた。


 グレイ・モンナイスが入場する。


 白と金の正装。肩章が広く、胸元の装飾が多い。昨日まで苛立ちで満ちていた顔が、今日は別の何かで覆われている。感情を押し込めた顔。石膏を塗ったみたいに、表情が固まっている。


 足音が絨毯に吸われる。それでも歩くたびに、会場の空気が動く。


 玉座の前に立つ。


 老臣が一歩前へ出て、羊皮紙を広げた。皺の深い手が、かすかに震えている。長年、この国に仕えてきた手だ。


「本日をもって、グレイ・モンナイス殿下は国王となられる」


 声が天井まで届く。石造りの高い天井が、声を跳ね返す。


 王冠が台座から持ち上げられた。


 老臣の両手で捧げ持たれた王冠が、ゆっくりと彼の頭へ近づく。


 一瞬だけ、広場のざわめきが止んだ。


 城外の民衆も、城内の貴族も、誰もが息を呑む。


 王冠が、彼の頭に乗せられた。


 ……もう殿下じゃない。


 王だ。


 拍手が起こった。手のひらが打ち合わさる音が、波みたいに広がっていく。形式的な音。でも、音には変わりない。城外の歓声が遅れて届いて、石壁越しにくぐもって聞こえた。


 王は、玉座に座った。


 深く沈む椅子。肘掛けに指をかける。その姿は、まだ少しだけ小さい。王冠の重さに、まだ慣れていない。


 レオンが一歩下がって立つ。無表情のまま、しかし目だけが鋭い。


 桃は王の右側に控えた。白い衣装の袖の下に、折り畳まれた書類が見えた。儀式の最中から、もう実務の準備をしている。


 分かりやすい。


 王は象徴。歯車は周囲。


 老臣が羊皮紙をめくる。紙の擦れる音がやけに大きく聞こえた。


「続いて、王妃について――」


 その言葉で、会場の視線が一斉に動いた。


 貴族たちの目が、私とアクアへ向く。


 品定めする目。計算する目。「次は誰が中心に立つのか」を測る目。


 私は一歩、前へ出た。


 絨毯が沈む。金糸のドレスが引きずられる音がする。


 ざわめきが走った。


 王が眉をひそめる。視線が私を射貫く。


「……サラ」


 その声は、王の声になろうとしている。まだなりきれていない声だ。


 私は深く一礼した。


「陛下」


 その呼び方を口にするのは、これが初めてだ。


 王の喉がわずかに動いた。呼ばれ慣れていない名前を、今飲み込んでいる。


「本日をもって、私は王妃候補の立場を辞退いたします」


 会場が凍った。


 老臣が目を見開く。隣の貴族に視線を走らせ、また私を見る。桃の手が止まる。レオンの眉がわずかに動く。


 貴族たちのざわめきが、波紋みたいに広がっていく。


 王の顔が赤くなる。じわりと、耳の付け根から頬へ。


「何を……」


「私はこれまで、"王妃になるため"に教育を受けてきました。ですが、それは"陛下のために生きる"という意味ではありません」


 王の拳が、膝の上で白くなる。


 私は視線を逸らさない。金の王冠が燭台の光を反射して、ちかちか光る。それでも、目を逸らさない。


「私は国のために働きます。王妃という役割ではなく、公爵家の娘として、政治に関わる立場で」


 老臣が口を挟もうとする。


「だが――」


「陛下」


 私の声が、老臣の声を静かに遮った。


「私はあなたの隣に立つために生きてきたのではありません」


 広間が、静まり返る。


 燭台の炎だけが揺れている。ゆらり、ゆらり。その揺れが、妙に大きく見えた。


 王の目が揺れる。怒り。焦り。そして――ほんの少しの、理解。


「私は、陛下のためではなく、この国のために生きます」


 沈黙。


 だれも動かない。


 そのとき、桃が一歩前へ出た。


 白い衣装の裾が揺れる。深く、一礼する。


「陛下。私も、王妃としてではなく、政務に関わる者として陛下を支えます」


 上手い。


 "隣に立つ女"ではなく、"働く女"として構図をずらした。誰も否定できない言い方で。


 老臣が混乱する。貴族たちも、互いに視線を交わす。


 でも、否定できない。政務は回らなければならない。


 レオンが静かに言った。


「陛下。本日の決断を」


 王の喉が鳴る。視線が、私へ向く。


 依存でも、怒りでもない。


 ――試される目。


「……許可する」


 その二文字で、会場の空気が動いた。


 氷が割れる音はしない。でも確かに、何かが変わった。


 私は深く一礼する。


 これで終わり。




 儀式が終わり、広間を出る。


 廊下に出た瞬間、冷気が頬を刺した。玉座の間の熱が、嘘みたいに消える。石造りの廊下は、冬の午前の光が窓から斜めに差し込んでいて、床に細長い影を落としていた。


 胸は軽い。


 足取りも、さっきより軽い。


 自室の扉を開けると、ミレイユが部屋の中央に立って待っていた。目が赤い。怒っているのか、泣いているのか、その両方なのか、分からない。口元が震えている。


「サラ様……!」


「手伝わなくていいわ」


 私はドレスの留め具に手をかける。


 背中の金糸の紐を、一本ずつ外していく。するりと緩んで、肩の重さが少しずつ減っていく。


 肩から布が落ちた。


 ずん、と床に広がる音がした。


 見下ろすと、深紅の布が足元で広がっている。燭台の光を受けて、艶やかに光っている。


 血みたいだ、と思った。


 原作の私は、この赤に飲まれた。嫉妬して、愛に飢えて、意地悪になって。強さを装って、壊れていった。


 でも今は違う。


 私は衣装棚へ向かい、扉を開ける。ずらりと並んだドレスの中から、一番端にかけてあった黒のドレスを取り出す。装飾は少ない。裾の重さが全然違う。


 袖を通す。


 身体が、すっと軽くなった。


 鏡の前に立つ。


 深紅でも、金でも、刺繍でもない。ただの黒いドレスを着た女が映っている。


 王妃候補ではない。ただのサラ・ブレイム。


 ミレイユが、絞り出すように言った。


「お似合いです」


 私は鏡の中の自分を見たまま、口の端を上げた。


「当然よ」


 そのとき、窓の外が白くなった。


 雪だ。


 細かい粒が、音もなく落ちている。窓枠の石に積もり始めた白が、みるみる厚くなっていく。空の灰色と混じって、世界が静かに塗り替えられていく。




 扉がノックされた。


 ミレイユが開けると、騎士服の男が立っていた。冬の外気を纏っている。肩に雪が積もっていて、溶けかけている。


 黒髪。無骨な顔。唇が一文字に結ばれている。


 カイルだ。


 彼は部屋を見渡し、床に広がった深紅のドレスを一瞬だけ見た。それから私を見た。


「……終わったか」


「ええ」


 私は肩をすくめる。大げさではなく、ただ事実を確認するように。


「王妃にはならなかった」


 カイルが、ほんの少しだけ笑った。口の端が上がるだけの、小さな笑いだ。


「知ってる。噂が城中を走ってる」


「早いわね」


「お前の決断は、だいたい早い」


 沈黙が落ちた。


 雪が窓ガラスに当たる音がする。細かく、かすかに。


 カイルが言う。


「後悔してないか」


 私は首を振る。


「してない」


 窓の外の雪を見ながら、少しだけ間を置いた。白い粒が、一つずつ落ちて、石畳に消えていく。


「勝たなくても、価値はあるって……やっと分かったの」


 カイルの目が、かすかに柔らかくなった。


「そうか」


 それだけだった。


 告白も、約束も、何もない。でも、それで十分だった。


 彼は窓の外を向いた。私も窓の外を向いた。


 二人並んで、雪を見ている。


 その静けさが、居心地よかった。




 振り返り、ミレイユに言う。


「明日から、実務に入るわよ」


 ミレイユの目がまた赤くなる。今度は怒りではなく、安堵だろう。


 カイルが低く笑った。


「忙しくなるな」


「望むところよ」




 雪は降り続ける。


 王城の尖塔が、白く霞んでいく。


 王は今頃、玉座に座っているだろう。重い王冠の意味を、まだ理解しきれないまま。


 桃は書類を抱えている。こんなはずじゃなかった、と思いながら、手を止めないまま。


 アクアは自室で、旅の荷物を思い描いているかもしれない。波の外の空気を、まだ知らない顔で。


 レオンは今夜も廊下で立っている。胃を痛めながら、それでも国を離れない。


 そして私は。


 窓の外に広がる白い世界を見ながら、ここに立っている。


 王妃の役割でも、候補の立場でもなく。


 サラ・ブレイムとして。


 誰かのためでなく、自分の足で。


 雪が一片、窓枠に積もって、静かに留まった。


 私はひとりごとのように呟いた。


「私たちは、陛下のために生きていたのではありませんわ」


 その言葉は誰にも届かない。


 窓ガラスに白い息が曇って、すぐに消えた。


 でも、自分の胸に刻まれた。


 それで十分だ。


 檻の扉は、開いた。


 ――第一章 完――

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