表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖女を選んだのなら、もう殿下の尻拭いはいたしません  作者: 風谷 華


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/22

第19話「選ばないという選択」

 翌朝、王城の中庭は白く霞んでいた。


 夜のうちに降ったのか、霜が芝に薄く張りついている。一面に、薄い白の膜。踏めばすぐに消えるのに、踏まれるまでは整然と広がっている。噴水の縁も、彫刻の指先も、凍った砂糖菓子みたいに白い。水盤の表面だけが薄く凍っていた。その下で、水が動いているのか止まっているのか、分からない。


 息を吐くと、白い煙がふわりとほどけた。


 冬ね。


 私は外套の襟を少しだけ上げる。首筋に当たる冷気が、一瞬だけ鋭く刺して、すぐに外套の熱に押し返された。こういう冷たい朝は、頭が冴える。余計な感情が削ぎ落ちて、答えだけが残る。


 ――私はどうするのか。


 王子は王になる。桃は政務に入り始めた。レオンは胃を痛めながら、殿下を"王の形"にしていく。貴族たちは、派閥の匂いを嗅ぎながら次の主を探す。


 そして私は、相変わらず"王妃候補だった女"として見られる。


「サラ様」


 背後から声。ミレイユだ。気が強くて、主人を守るためなら噛みつく侍女。足音が速い。急いでついてきた音だ。


「今朝も、廊下で噂が……」


「分かってるわ」


 ミレイユは悔しそうに眉を寄せる。眉の間に、深い縦皺が入る。


「殿下が王になれば、サラ様が王妃に――って。勝手なことを!」


 勝手なこと。本当にそう。


 "殿下が必要だから"。"国のためだから"。"公爵家の娘だから"。


 いつも、いつも、理由を外側から貼られてきた。


 私は歩きながら、霜を踏む音を聞く。しゃり、と小さく鳴る。足の裏に、薄い抵抗が伝わってすぐに消える。この音が好きだ。嘘がない。


「ミレイユ」


「はい!」


「私は、王妃にはならない」


 ミレイユが止まった。霜を踏む音が、一拍だけ途切れた。目を見開く。


「……え?」


「殿下の隣に立つ未来は、私の未来じゃない」


 ミレイユが一瞬、口を開きかけて、閉じた。主人の決意を、邪魔したくない顔。唇を噛んで、それからゆっくり息を吐いた。


「……分かりました。サラ様が決めたなら」


 その言葉が、少しだけ胸に温かいものを落とした。


 誰かに"許可"されなくてもいい。でも、誰かが"あなたの選択"を受け止めてくれると、足が軽くなる。霜を踏む音が、少し軽くなった気がした。




 執務棟の前は、いつもより人が多かった。


 書類の束を抱えた官吏が二人、廊下の端で何かを確認し合っている。顔色の悪い商務院の人間が、壁に寄りかかって目を閉じている。立ったまま眠っているのかもしれない。兵士が一人、剣を腰に下げたまま、書類に印を押していた。誰もが忙しい。誰もが余裕がない。城全体が、王位継承の準備で浮き足立っている。


 その中心に、桃がいた。


 白い衣装の上から外套を羽織り、髪を後ろでまとめている。昨日までの"聖女スマイル"じゃない。視線が動いている。何かを確認し、何かを判断し、次へ移る。実務の顔だ。


 桃は私に気づくと、少しだけ視線を逸らした。霜の地面を一瞬だけ見て、また顔を上げる。敵意というより、気まずさ。


 彼女は私から殿下を奪ったつもりでいるのだろう。でも私は、殿下を"手放す"つもりでいる。


「……おはようございます」


「おはよう」


 それ以上、何も言わない。刺すなら、もっと効果的な場で刺す。今は国を回すことが優先だ。


 桃が背後で小さく息を吐いたのが分かった。白い息が、冷気の中にほどけた。彼女も、もう"物語"だけでは生きられない。




 執務室の扉の前で、レオンが立っていた。


 廊下の壁に背をつけず、扉の正面に立っている。いつでも動けるように。目の下の影が濃い。昨夜から寝ていないのかもしれない。


「サラ様」


「レオン。殿下は?」


「……中です。今朝は機嫌が良くありません」


「いつものことでしょ」


 レオンの口元がほんの少しだけ動いた。笑いではない。諦めに近い何かだ。その表情が一瞬で消える。


 扉の向こうから声が漏れる。分厚い木の向こうで、声が押しつぶされている。


「……何だこれは!」

「殿下、王位継承の準備です」

「だからって、こんなに決裁が必要なのか!」

「必要です……」


 桃の声に、官吏の声が混ざっている。今日も回っていない。桃が回そうとしている。


 私は扉を叩く。三回。はっきりした音。


「殿下。サラ・ブレイムです」


「……入れ」




 扉を開けると、熱が流れ出してきた。


 暖炉の火が大きい。外の冷気と室内の熱が廊下でぶつかって、境目で空気が揺れる。紙とインクの匂い。それと、誰かが朝食を持ち込んだのか、パンの焦げた匂いも混じっていた。手つかずのままだろう。


 机の上には書類の山。紙が積み重なって、端がよれている。床にも積まれ、窓枠の縁にも置かれている。椅子の背にも、紙が引っかかっていた。


 殿下は椅子にもたれ、髪が少し乱れていた。金の縁取りの上着は着ているが、胸元のボタンが一つ外れている。王の形を着ているのに、顔だけが疲れた子どもみたいだ。


 桃は机の端で書類を分類している。手際がいい。指先が迷わない。レオンは壁際で黙って立つ。監視役のように、しかし監視する目ではない。支える準備をしている目だ。


「……何の用だ」


「確認したいことがございます。王妃候補の扱いについて」


 殿下の眉が動く。苛立ちと期待と恐れが混ざった目。暖炉の光が横から当たって、その揺れが見えやすい。


「……お前は、俺の妃になるんだろう」


 当然みたいに言う。"俺のもの"みたいに言う。


 私は微笑んだ。


「いいえ」


 殿下の目が見開かれる。


「……は?」


 桃の手が止まる。紙が擦れる音が、途切れた。レオンの視線が鋭くなる。空気がピン、と張った。暖炉の火だけが、変わらず揺れている。


「私は、王妃にはなりません」


「お前、俺を侮辱しているのか!」


「侮辱ではありません。選択です」


 殿下が机を叩きそうになり、止まる。拳が机の上で宙ぶらりんになった。桃の視線が怖いのだろう。


「国のためだろう! お前は王妃候補として育てられた!」


「その"国のため"という言葉で、殿下は何を守っていますか」


 殿下が黙る。


「国益ですか。民ですか。それとも……殿下の安心ですか」


 殿下の唇が震える。言い返せない。控えの間で刺した場所だ。傷は、まだ塞がっていない。


 暖炉がぱちりと爆ぜた。


 レオンが小さく息を吐く。


 桃が、恐る恐る言う。


「殿下……サラ様は……」


「黙れ!」


 声が部屋に反響した。桃が肩を震わせる。でも逃げない。手を握りしめて、立っている。白い衣装の袖が、拳の形に歪んでいた。


 私はその様子を見て、一瞬だけ思う。


 檻を持ち込んだ子も、檻の中で苦しむのね。


「じゃあお前はどうする! 国を捨てるのか!」


「捨てません」


 殿下の目が揺れる。


「私は国に残ります。ただし、"殿下のために"ではなく、"国のために"です」


「意味が分からない」


「分からなくて結構です」


 私は容赦なく言う。


「殿下の隣に立たずとも、国を支える方法はいくらでもあります。実務、外交、派閥調整。殿下が今まで私に頼っていた部分を、"役割として"引き受けるだけ」


「結局、俺を支えるんじゃないか!」


「支えるのは国です」


 その言い方が、殿下にとって一番痛い。自分が中心じゃない。国が中心。王はその中心に立つだけ。


 殿下の喉が鳴る。でも言葉が出ない。


 レオンが静かに言う。


「殿下。今の発言は、国益に沿っています」


 殿下のプライドが、音もなく焼ける。


 殿下はぎり、と歯噛みし、羽ペンを掴んで――やめた。ペンが机の上に、音もなく置かれた。


「以上です。殿下に許可をいただく必要はありません。私は私の家と、私の責任で動きます」




 そう言って、部屋を出ようとした瞬間。


 扉がノックされた。三回。重い音。外から来た人間の音だ。


 入ってきたのは、騎士服の男だった。扉を開けた瞬間、室内の熱と廊下の冷気が混ざって、入口の空気が揺れた。男の肩に、薄く霜がついている。外を歩いてきた証拠だ。


 黒髪。無骨な顔。眉が太く、口が一文字に結ばれている。背が高く、肩幅がある。剣を腰に下げたまま室内に入ってきた。視線が部屋全体を一瞬で測って、私のところで止まった。その一瞬だけ、目の鋭さが柔らかくなった。


 ――カイル・ディアス。


「失礼する。緊急の報告だ」


「誰だ、勝手に――」


 カイルは殿下を一瞥した。視線が一秒も留まらず、私へ戻る。


「サラ。外で話せるか」


 昔の呼び方。公の場では絶対に出さない呼び名が喉元まで出て、彼は飲み込んだ。その一瞬だけ、喉が微かに動いた。


 刺さる。


「何だ、その態度は! 俺の許可なく――」


 カイルは殿下の言葉を、遮るでも無視するでもなく、ただ通り過ぎた。"殿下を中心にしない"という態度だ。


「今朝、城外で不穏な動きがある。炎の家への挑発だ。派閥が動き始めた」


 胸の奥が冷たくなる。


 来た。


 王子の弱さが露呈した瞬間、派閥は必ず動く。そして矛先は、支える歯車へ向かう。


「分かった」


「待て! お前は――!」


 私は振り返り、礼だけする。


「殿下。国のために動きます」


 殿下は言葉を失った。口が開いたまま、閉じない。




 廊下に出た瞬間、冷気が頬を刺した。執務室の熱が背中から消えていく。


 カイルが隣を歩く。足音が大きい。騎士の足音だ。


「……ようやく、決めたんだな」


「何が」


「檻の外に出るってことだ」


 私は眉をひそめる。


「まだ出てないわよ」


「半分は出た」


 カイルは言った。廊下の窓から、中庭の霜が見える。朝の光が斜めに当たって、白い地面がかすかに光っている。


「残り半分は……お前が自分で歩くだけだ」


 ずるい。


 こういう言葉を、真っ直ぐ言う男が一番厄介だ。見返りを求めない。崇拝も期待もしない。ただ対等に、言ってくる。


「今日は仕事よ」


「分かってる」


 カイルは歩き出した。騎士服の背中が、廊下の角へ消えていく。


 私はその背中を見て、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。


 恋じゃない。まだ。


 でも、孤独じゃない、という感覚だけが――確かに残る。




 中庭を横切るとき、アクアが待っていた。


 噴水の縁に腰かけている。水盤の縁は凍っていて、彼女の外套の裾がその上に広がっていた。白い息を吐きながら、静かにこちらを見ている。金髪が朝の光に透けて、冬の薄い日差しの色をしていた。


「聞いてたの?」


「廊下まで聞こえてたわ」


 アクアは微笑む。目は、笑っていない。青い瞳が、静かに私を見ている。


「サラ。私ね、決めた」


 私は立ち止まる。霜を踏む足が、止まる。


「国を出る」


 分かっていた。でも、言葉にされると、胸の奥が静かに痛む。じわりと、じわりと。


「……いつ」


「王位継承の儀が終わったら。それまでは、ここにいる」


 アクアは噴水の縁から立ち上がった。小柄な体が、朝の光の中に立つ。小柄なのに、今日は大きく見える。決めた人間の重さが、その体に加わっているようだった。


「サラ。私が言えることは一つだけ」


「何」


「あなたは正しい」


 その言葉は、称賛じゃない。確認だ。


「殿下のためじゃなく、国のために残る。それがサラの答えなら、私は何も言わない」


 私は黙っている。中庭の冷気が頬に当たる。


「ただ」


 アクアが続ける。声が、少しだけ揺れた。揺れて、でも落ちなかった。


「たまには、サラのために生きてね」


 返す言葉が出なかった。


 アクアはふわりと微笑み、霜の芝を踏んで歩き出した。一歩ごとに、しゃり、と音がする。金髪が揺れるたびに、冬の朝の光が反射してきらりと光った。その光が遠くなっていく。


 私はその背中を見送りながら、胸の奥が静かに、確かに、温かくなるのを感じた。


 喪失じゃない。


 これは――解放だ。


 二人とも、檻の外へ歩き出している。道は違う。でも、断絶じゃない。


 私は息を吐いた。白い煙がほどけ、中庭の冷気に溶けていく。どこまで行くのか分からないくらい、静かに消えた。


 さあ。


 自分の足で歩く。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ