第19話「選ばないという選択」
翌朝、王城の中庭は白く霞んでいた。
夜のうちに降ったのか、霜が芝に薄く張りついている。一面に、薄い白の膜。踏めばすぐに消えるのに、踏まれるまでは整然と広がっている。噴水の縁も、彫刻の指先も、凍った砂糖菓子みたいに白い。水盤の表面だけが薄く凍っていた。その下で、水が動いているのか止まっているのか、分からない。
息を吐くと、白い煙がふわりとほどけた。
冬ね。
私は外套の襟を少しだけ上げる。首筋に当たる冷気が、一瞬だけ鋭く刺して、すぐに外套の熱に押し返された。こういう冷たい朝は、頭が冴える。余計な感情が削ぎ落ちて、答えだけが残る。
――私はどうするのか。
王子は王になる。桃は政務に入り始めた。レオンは胃を痛めながら、殿下を"王の形"にしていく。貴族たちは、派閥の匂いを嗅ぎながら次の主を探す。
そして私は、相変わらず"王妃候補だった女"として見られる。
「サラ様」
背後から声。ミレイユだ。気が強くて、主人を守るためなら噛みつく侍女。足音が速い。急いでついてきた音だ。
「今朝も、廊下で噂が……」
「分かってるわ」
ミレイユは悔しそうに眉を寄せる。眉の間に、深い縦皺が入る。
「殿下が王になれば、サラ様が王妃に――って。勝手なことを!」
勝手なこと。本当にそう。
"殿下が必要だから"。"国のためだから"。"公爵家の娘だから"。
いつも、いつも、理由を外側から貼られてきた。
私は歩きながら、霜を踏む音を聞く。しゃり、と小さく鳴る。足の裏に、薄い抵抗が伝わってすぐに消える。この音が好きだ。嘘がない。
「ミレイユ」
「はい!」
「私は、王妃にはならない」
ミレイユが止まった。霜を踏む音が、一拍だけ途切れた。目を見開く。
「……え?」
「殿下の隣に立つ未来は、私の未来じゃない」
ミレイユが一瞬、口を開きかけて、閉じた。主人の決意を、邪魔したくない顔。唇を噛んで、それからゆっくり息を吐いた。
「……分かりました。サラ様が決めたなら」
その言葉が、少しだけ胸に温かいものを落とした。
誰かに"許可"されなくてもいい。でも、誰かが"あなたの選択"を受け止めてくれると、足が軽くなる。霜を踏む音が、少し軽くなった気がした。
執務棟の前は、いつもより人が多かった。
書類の束を抱えた官吏が二人、廊下の端で何かを確認し合っている。顔色の悪い商務院の人間が、壁に寄りかかって目を閉じている。立ったまま眠っているのかもしれない。兵士が一人、剣を腰に下げたまま、書類に印を押していた。誰もが忙しい。誰もが余裕がない。城全体が、王位継承の準備で浮き足立っている。
その中心に、桃がいた。
白い衣装の上から外套を羽織り、髪を後ろでまとめている。昨日までの"聖女スマイル"じゃない。視線が動いている。何かを確認し、何かを判断し、次へ移る。実務の顔だ。
桃は私に気づくと、少しだけ視線を逸らした。霜の地面を一瞬だけ見て、また顔を上げる。敵意というより、気まずさ。
彼女は私から殿下を奪ったつもりでいるのだろう。でも私は、殿下を"手放す"つもりでいる。
「……おはようございます」
「おはよう」
それ以上、何も言わない。刺すなら、もっと効果的な場で刺す。今は国を回すことが優先だ。
桃が背後で小さく息を吐いたのが分かった。白い息が、冷気の中にほどけた。彼女も、もう"物語"だけでは生きられない。
執務室の扉の前で、レオンが立っていた。
廊下の壁に背をつけず、扉の正面に立っている。いつでも動けるように。目の下の影が濃い。昨夜から寝ていないのかもしれない。
「サラ様」
「レオン。殿下は?」
「……中です。今朝は機嫌が良くありません」
「いつものことでしょ」
レオンの口元がほんの少しだけ動いた。笑いではない。諦めに近い何かだ。その表情が一瞬で消える。
扉の向こうから声が漏れる。分厚い木の向こうで、声が押しつぶされている。
「……何だこれは!」
「殿下、王位継承の準備です」
「だからって、こんなに決裁が必要なのか!」
「必要です……」
桃の声に、官吏の声が混ざっている。今日も回っていない。桃が回そうとしている。
私は扉を叩く。三回。はっきりした音。
「殿下。サラ・ブレイムです」
「……入れ」
扉を開けると、熱が流れ出してきた。
暖炉の火が大きい。外の冷気と室内の熱が廊下でぶつかって、境目で空気が揺れる。紙とインクの匂い。それと、誰かが朝食を持ち込んだのか、パンの焦げた匂いも混じっていた。手つかずのままだろう。
机の上には書類の山。紙が積み重なって、端がよれている。床にも積まれ、窓枠の縁にも置かれている。椅子の背にも、紙が引っかかっていた。
殿下は椅子にもたれ、髪が少し乱れていた。金の縁取りの上着は着ているが、胸元のボタンが一つ外れている。王の形を着ているのに、顔だけが疲れた子どもみたいだ。
桃は机の端で書類を分類している。手際がいい。指先が迷わない。レオンは壁際で黙って立つ。監視役のように、しかし監視する目ではない。支える準備をしている目だ。
「……何の用だ」
「確認したいことがございます。王妃候補の扱いについて」
殿下の眉が動く。苛立ちと期待と恐れが混ざった目。暖炉の光が横から当たって、その揺れが見えやすい。
「……お前は、俺の妃になるんだろう」
当然みたいに言う。"俺のもの"みたいに言う。
私は微笑んだ。
「いいえ」
殿下の目が見開かれる。
「……は?」
桃の手が止まる。紙が擦れる音が、途切れた。レオンの視線が鋭くなる。空気がピン、と張った。暖炉の火だけが、変わらず揺れている。
「私は、王妃にはなりません」
「お前、俺を侮辱しているのか!」
「侮辱ではありません。選択です」
殿下が机を叩きそうになり、止まる。拳が机の上で宙ぶらりんになった。桃の視線が怖いのだろう。
「国のためだろう! お前は王妃候補として育てられた!」
「その"国のため"という言葉で、殿下は何を守っていますか」
殿下が黙る。
「国益ですか。民ですか。それとも……殿下の安心ですか」
殿下の唇が震える。言い返せない。控えの間で刺した場所だ。傷は、まだ塞がっていない。
暖炉がぱちりと爆ぜた。
レオンが小さく息を吐く。
桃が、恐る恐る言う。
「殿下……サラ様は……」
「黙れ!」
声が部屋に反響した。桃が肩を震わせる。でも逃げない。手を握りしめて、立っている。白い衣装の袖が、拳の形に歪んでいた。
私はその様子を見て、一瞬だけ思う。
檻を持ち込んだ子も、檻の中で苦しむのね。
「じゃあお前はどうする! 国を捨てるのか!」
「捨てません」
殿下の目が揺れる。
「私は国に残ります。ただし、"殿下のために"ではなく、"国のために"です」
「意味が分からない」
「分からなくて結構です」
私は容赦なく言う。
「殿下の隣に立たずとも、国を支える方法はいくらでもあります。実務、外交、派閥調整。殿下が今まで私に頼っていた部分を、"役割として"引き受けるだけ」
「結局、俺を支えるんじゃないか!」
「支えるのは国です」
その言い方が、殿下にとって一番痛い。自分が中心じゃない。国が中心。王はその中心に立つだけ。
殿下の喉が鳴る。でも言葉が出ない。
レオンが静かに言う。
「殿下。今の発言は、国益に沿っています」
殿下のプライドが、音もなく焼ける。
殿下はぎり、と歯噛みし、羽ペンを掴んで――やめた。ペンが机の上に、音もなく置かれた。
「以上です。殿下に許可をいただく必要はありません。私は私の家と、私の責任で動きます」
そう言って、部屋を出ようとした瞬間。
扉がノックされた。三回。重い音。外から来た人間の音だ。
入ってきたのは、騎士服の男だった。扉を開けた瞬間、室内の熱と廊下の冷気が混ざって、入口の空気が揺れた。男の肩に、薄く霜がついている。外を歩いてきた証拠だ。
黒髪。無骨な顔。眉が太く、口が一文字に結ばれている。背が高く、肩幅がある。剣を腰に下げたまま室内に入ってきた。視線が部屋全体を一瞬で測って、私のところで止まった。その一瞬だけ、目の鋭さが柔らかくなった。
――カイル・ディアス。
「失礼する。緊急の報告だ」
「誰だ、勝手に――」
カイルは殿下を一瞥した。視線が一秒も留まらず、私へ戻る。
「サラ。外で話せるか」
昔の呼び方。公の場では絶対に出さない呼び名が喉元まで出て、彼は飲み込んだ。その一瞬だけ、喉が微かに動いた。
刺さる。
「何だ、その態度は! 俺の許可なく――」
カイルは殿下の言葉を、遮るでも無視するでもなく、ただ通り過ぎた。"殿下を中心にしない"という態度だ。
「今朝、城外で不穏な動きがある。炎の家への挑発だ。派閥が動き始めた」
胸の奥が冷たくなる。
来た。
王子の弱さが露呈した瞬間、派閥は必ず動く。そして矛先は、支える歯車へ向かう。
「分かった」
「待て! お前は――!」
私は振り返り、礼だけする。
「殿下。国のために動きます」
殿下は言葉を失った。口が開いたまま、閉じない。
廊下に出た瞬間、冷気が頬を刺した。執務室の熱が背中から消えていく。
カイルが隣を歩く。足音が大きい。騎士の足音だ。
「……ようやく、決めたんだな」
「何が」
「檻の外に出るってことだ」
私は眉をひそめる。
「まだ出てないわよ」
「半分は出た」
カイルは言った。廊下の窓から、中庭の霜が見える。朝の光が斜めに当たって、白い地面がかすかに光っている。
「残り半分は……お前が自分で歩くだけだ」
ずるい。
こういう言葉を、真っ直ぐ言う男が一番厄介だ。見返りを求めない。崇拝も期待もしない。ただ対等に、言ってくる。
「今日は仕事よ」
「分かってる」
カイルは歩き出した。騎士服の背中が、廊下の角へ消えていく。
私はその背中を見て、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
恋じゃない。まだ。
でも、孤独じゃない、という感覚だけが――確かに残る。
中庭を横切るとき、アクアが待っていた。
噴水の縁に腰かけている。水盤の縁は凍っていて、彼女の外套の裾がその上に広がっていた。白い息を吐きながら、静かにこちらを見ている。金髪が朝の光に透けて、冬の薄い日差しの色をしていた。
「聞いてたの?」
「廊下まで聞こえてたわ」
アクアは微笑む。目は、笑っていない。青い瞳が、静かに私を見ている。
「サラ。私ね、決めた」
私は立ち止まる。霜を踏む足が、止まる。
「国を出る」
分かっていた。でも、言葉にされると、胸の奥が静かに痛む。じわりと、じわりと。
「……いつ」
「王位継承の儀が終わったら。それまでは、ここにいる」
アクアは噴水の縁から立ち上がった。小柄な体が、朝の光の中に立つ。小柄なのに、今日は大きく見える。決めた人間の重さが、その体に加わっているようだった。
「サラ。私が言えることは一つだけ」
「何」
「あなたは正しい」
その言葉は、称賛じゃない。確認だ。
「殿下のためじゃなく、国のために残る。それがサラの答えなら、私は何も言わない」
私は黙っている。中庭の冷気が頬に当たる。
「ただ」
アクアが続ける。声が、少しだけ揺れた。揺れて、でも落ちなかった。
「たまには、サラのために生きてね」
返す言葉が出なかった。
アクアはふわりと微笑み、霜の芝を踏んで歩き出した。一歩ごとに、しゃり、と音がする。金髪が揺れるたびに、冬の朝の光が反射してきらりと光った。その光が遠くなっていく。
私はその背中を見送りながら、胸の奥が静かに、確かに、温かくなるのを感じた。
喪失じゃない。
これは――解放だ。
二人とも、檻の外へ歩き出している。道は違う。でも、断絶じゃない。
私は息を吐いた。白い煙がほどけ、中庭の冷気に溶けていく。どこまで行くのか分からないくらい、静かに消えた。
さあ。
自分の足で歩く。




