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聖女を選んだのなら、もう殿下の尻拭いはいたしません  作者: 風谷 華


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20/22

間話「こんなはずじゃなかった、でも」――春木桃、視点――

 殿下の執務室を出たのは、夜が深くなってからだった。


 廊下は冷えていた。石の匂い。遠くで風の音。


 私は自分の部屋へ向かいながら、ぼんやりと手を見た。


 インクがついている。


 書類を仕分けして、補足資料をまとめて、殿下に署名の順番を教えて。


 気づいたら、三時間が経っていた。


 


 ――こんなはずじゃなかった。


 


 正直に言う。


 私が想像していたのは、こういうことじゃなかった。


 殿下の隣に立って、微笑んで、「殿下ならできます」と言う。


 殿下が私を見て、「お前がいれば大丈夫だ」と言う。


 そういう場面を、百回以上思い描いていた。


 鏡の前で練習した笑顔は、そのためのものだった。


 


 でも現実の殿下は、書類に追われて、声を荒げて、髪をぐしゃぐしゃにしていた。


 王冠なんてない。輝きもない。


 ただ疲れた青年が、机の前で崩れていた。


 


 私は最初、何も言えなかった。


 


 推しが、こんな顔をするとは思っていなかった。


 


 小説の中のグレイ・モンナイス殿下は、もっと――輝いていた。


 自信に満ちていた。少し子どもっぽいところも愛嬌に見えた。


 私はあの笑顔に恋をした。あの声に恋をした。


 


 でも。


 今夜の殿下を見て、私は思った。


 


 ――ああ、この人は、怖いんだ。


 


 ずっと、怖かったんだ。


 強くなければいけない場所で、強くなれなくて。


 それを誰にも言えなくて。


 だから大きな声を出す。だから誰かに頼る。


 


 私には、分かる。


 孤独な広いリビングで、冷たいご飯を一人で食べていた私には。


 


 弱さを隠すために、別の何かで埋めようとする感覚。


 殿下のそれは、私のそれと、形が似ていた。


 


 だから余計に、腹が立った。


 


 (あなたは王子でしょう。私はあなたに選ばれに来たのに。なんで私が書類を仕分けしてるの)


 


 でも、私は手を止めなかった。


 


 止められなかった、というのが正直なところだ。


 


 書類を分けていたら、なんとなく分かってきた。


 どれが急ぎで、どれが後回しにできるか。どこに殿下の判断が必要で、どこは形式だけか。


 日本で身につけた"段取り"の感覚が、勝手に動いた。


 


 気づいたら、山だった書類が、半分になっていた。


 


 殿下は最初、私を馬鹿にした目で見ていた。


 「お前が何をできる」という目。


 でも書類が減るにつれて、その目が変わった。


 


 驚いた目。


 そして、少しだけ、情けなさそうな目。


 


 私は、その目が見たかったわけじゃない。


 でも。


 その目を見て初めて、私は思った。


 


 ――ああ、この人、本物だ。


 


 画面の中の人じゃない。


 弱くて、意地っ張りで、強くなろうとして、なれなくて。


 それでも王になろうとしている、本物の人間だ。


 


 私の推しは、完璧じゃなかった。


 


 こんなはずじゃなかった。


 


 でも。


 


 こんなはずじゃなかった、からといって。


 逃げるのは違う気がした。


 


 私はここに来た。


 選ばれた。


 「聖女」という役割を、この世界に与えられた。


 


 それを全部、「こんなはずじゃなかった」で終わらせるのは――負けだ。


 


 日本の私なら、逃げていた。


 「思ってたのと違う」と言って、距離を置いて、別の"中心"を探していた。


 


 でも今の私には、逃げる場所がない。


 日本には戻れない。


 ここが、私の世界だ。


 


 ならば。


 


 私は廊下の窓から、夜の庭を見た。


 黒い木々。白い息。遠くに見える灯り。


 


 サラ・ブレイムとアクア・ユーハイムが、窓辺で話していた。


 声は聞こえない。でも、二人の佇まいが分かる。


 


 対等だ。


 誰かに選ばれるためじゃなく、自分たちのために立っている。


 


 羨ましい、と思った。


 正直に言うと、羨ましかった。


 


 でも。


 


 私にはあの二人みたいな"土台"がない。


 貴族の生まれじゃない。この国の作法も、政治も、人間関係も。


 全部、後から覚えた。


 


 それでも。


 


 書類の仕分けは、できた。


 段取りは、できた。


 殿下のプライドを折らずに、実務を進めることも、できた。


 


 私には私の、武器がある。


 


 私は窓から視線を外し、自分の部屋へ向かって歩き出した。


 


 殿下のことを好きかどうか、今はよく分からない。


 あの笑顔に恋をしたのは本当だ。


 でも今夜見た、崩れた横顔も――嫌いじゃない。


 


 むしろ。


 あの情けなさそうな目の方が、ずっとリアルだった。


 


 私は、リアルな人間が好きだ。


 完璧な王子より、書類に追われて髪をぐしゃぐしゃにしている青年の方が。


 


 こんなはずじゃなかった。


 


 でもこれが、私の物語だ。


 


 私が選ばれたなら、私がやる。


 書類も。段取りも。殿下の尻を叩くことも。


 


 誰かのための物語じゃなく、私のための物語を。


 


 私は部屋の扉に手をかけ、静かに押した。


 


 明日も、書類がある。


 明日も、殿下は崩れるかもしれない。


 


 それでいい。


 


 崩れる人間の隣に立つのは、崩れない人間じゃなくていい。


 一緒に立て直す人間でいい。


 


 私は扉を閉めた。


 窓の外で、雪がちらつき始めていた。


 最初の一片が、石畳に落ちて、消えた。


 


 ――さあ。


 本当の物語は、ここからだ。

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