間話「こんなはずじゃなかった、でも」――春木桃、視点――
殿下の執務室を出たのは、夜が深くなってからだった。
廊下は冷えていた。石の匂い。遠くで風の音。
私は自分の部屋へ向かいながら、ぼんやりと手を見た。
インクがついている。
書類を仕分けして、補足資料をまとめて、殿下に署名の順番を教えて。
気づいたら、三時間が経っていた。
――こんなはずじゃなかった。
正直に言う。
私が想像していたのは、こういうことじゃなかった。
殿下の隣に立って、微笑んで、「殿下ならできます」と言う。
殿下が私を見て、「お前がいれば大丈夫だ」と言う。
そういう場面を、百回以上思い描いていた。
鏡の前で練習した笑顔は、そのためのものだった。
でも現実の殿下は、書類に追われて、声を荒げて、髪をぐしゃぐしゃにしていた。
王冠なんてない。輝きもない。
ただ疲れた青年が、机の前で崩れていた。
私は最初、何も言えなかった。
推しが、こんな顔をするとは思っていなかった。
小説の中のグレイ・モンナイス殿下は、もっと――輝いていた。
自信に満ちていた。少し子どもっぽいところも愛嬌に見えた。
私はあの笑顔に恋をした。あの声に恋をした。
でも。
今夜の殿下を見て、私は思った。
――ああ、この人は、怖いんだ。
ずっと、怖かったんだ。
強くなければいけない場所で、強くなれなくて。
それを誰にも言えなくて。
だから大きな声を出す。だから誰かに頼る。
私には、分かる。
孤独な広いリビングで、冷たいご飯を一人で食べていた私には。
弱さを隠すために、別の何かで埋めようとする感覚。
殿下のそれは、私のそれと、形が似ていた。
だから余計に、腹が立った。
(あなたは王子でしょう。私はあなたに選ばれに来たのに。なんで私が書類を仕分けしてるの)
でも、私は手を止めなかった。
止められなかった、というのが正直なところだ。
書類を分けていたら、なんとなく分かってきた。
どれが急ぎで、どれが後回しにできるか。どこに殿下の判断が必要で、どこは形式だけか。
日本で身につけた"段取り"の感覚が、勝手に動いた。
気づいたら、山だった書類が、半分になっていた。
殿下は最初、私を馬鹿にした目で見ていた。
「お前が何をできる」という目。
でも書類が減るにつれて、その目が変わった。
驚いた目。
そして、少しだけ、情けなさそうな目。
私は、その目が見たかったわけじゃない。
でも。
その目を見て初めて、私は思った。
――ああ、この人、本物だ。
画面の中の人じゃない。
弱くて、意地っ張りで、強くなろうとして、なれなくて。
それでも王になろうとしている、本物の人間だ。
私の推しは、完璧じゃなかった。
こんなはずじゃなかった。
でも。
こんなはずじゃなかった、からといって。
逃げるのは違う気がした。
私はここに来た。
選ばれた。
「聖女」という役割を、この世界に与えられた。
それを全部、「こんなはずじゃなかった」で終わらせるのは――負けだ。
日本の私なら、逃げていた。
「思ってたのと違う」と言って、距離を置いて、別の"中心"を探していた。
でも今の私には、逃げる場所がない。
日本には戻れない。
ここが、私の世界だ。
ならば。
私は廊下の窓から、夜の庭を見た。
黒い木々。白い息。遠くに見える灯り。
サラ・ブレイムとアクア・ユーハイムが、窓辺で話していた。
声は聞こえない。でも、二人の佇まいが分かる。
対等だ。
誰かに選ばれるためじゃなく、自分たちのために立っている。
羨ましい、と思った。
正直に言うと、羨ましかった。
でも。
私にはあの二人みたいな"土台"がない。
貴族の生まれじゃない。この国の作法も、政治も、人間関係も。
全部、後から覚えた。
それでも。
書類の仕分けは、できた。
段取りは、できた。
殿下のプライドを折らずに、実務を進めることも、できた。
私には私の、武器がある。
私は窓から視線を外し、自分の部屋へ向かって歩き出した。
殿下のことを好きかどうか、今はよく分からない。
あの笑顔に恋をしたのは本当だ。
でも今夜見た、崩れた横顔も――嫌いじゃない。
むしろ。
あの情けなさそうな目の方が、ずっとリアルだった。
私は、リアルな人間が好きだ。
完璧な王子より、書類に追われて髪をぐしゃぐしゃにしている青年の方が。
こんなはずじゃなかった。
でもこれが、私の物語だ。
私が選ばれたなら、私がやる。
書類も。段取りも。殿下の尻を叩くことも。
誰かのための物語じゃなく、私のための物語を。
私は部屋の扉に手をかけ、静かに押した。
明日も、書類がある。
明日も、殿下は崩れるかもしれない。
それでいい。
崩れる人間の隣に立つのは、崩れない人間じゃなくていい。
一緒に立て直す人間でいい。
私は扉を閉めた。
窓の外で、雪がちらつき始めていた。
最初の一片が、石畳に落ちて、消えた。
――さあ。
本当の物語は、ここからだ。




