第18話「王の孤独」
王城の廊下は、夜になると余計に冷たい。
昼間は人の気配で誤魔化せる。けれど夜は、石の匂いがはっきりする。冷えた壁、冷えた床、冷えた空気。手のひらを壁に当てると、指の熱が一瞬で吸われていく。窓の外では風が鳴り、遠くで木がきしむ音がした。低い、くぐもった音。木の芯から軋む音だ。
――ああ、冬が来る。
私は黒い外套を羽織り、執務棟へ向かっていた。外套の裏地が肌に当たる。冷たい。まだ体温が馴染んでいない。
今日の会議は、形の上では整った。国外の交渉も、表面だけは収まった。けれど内側は逆だ。
"形"が整った瞬間ほど、綻びは目立つ。
国益は守れた。でも殿下の中身は、誰も守れなかった。
守る気もないけれど。
角を曲がると、老臣たちの声が聞こえた。
燭台の明かりが届かない、廊下の折れ曲がった先。その暗がりから、低い話し声が漏れている。話し声は小さい。しかし夜の廊下は石造りで、音がよく跳ね返る。
「……殿下では、危うい」
「レオンが支えねば国が傾く」
「だが、あの支え方にも限界がある」
「王妃候補の二人が離れれば、実務は回らぬ」
――みんな、分かっている。
この国が王子の才能で回っていたわけじゃない。支える歯車が優秀だから回っていた。そしてその歯車を"当然"だと思った瞬間、王子は詰む。
私は足音を殺して通り過ぎた。靴底を絨毯の端に沿わせるようにして歩く。石の床より音が出ない。
聞き耳を立てる必要はない。今の状況は、皮膚で分かる。
執務棟の扉の前に、レオンが立っていた。
壁際に背をつけ、腕を組んでいる。蝋燭の光が横から当たって、目の下の影が濃く見えた。相変わらず無表情だが、その無表情の質が違う。疲弊した人間が作る無表情だ。感情を消しているのではなく、感情を出す余力がない。
「サラ様」
「レオン。まだ仕事?」
「……殿下の執務が終わりません」
その言い方に、わずかな棘があった。棘というより、疲労だ。言葉の端が、かすかにすり減っている。
私はため息をつく。
「終わらない? 終わらせられない、の間違いでは?」
レオンは返さない。否定しない。
扉の奥から、かすかに声が漏れていた。分厚い木の扉越しなのに、声の輪郭だけが届く。
「……なぜ、こんなに書類があるんだ!」
「殿下、署名が必要です」
「だから読んでいる! 急かすな!」
「殿下、期限が――」
「黙れ!」
最後の一声だけ、扉の向こうで空気が動くのが分かった。
大きな声を出して、相手を黙らせる。でも、それで書類が減るわけじゃない。むしろ増えるだけだ。
レオンが低い声で言った。
「本日は、これでも"まだ"マシな方です」
「……そう」
私は扉を見る。飴色に光る木の表面。金の取っ手。向こうで、王位継承者が苛立っている。苛立ちながら、国の歯車を回しているつもりで、回されている。
そのとき、廊下の奥から別の足音が近づいてきた。
軽い足音。でも迷いがない。
白い衣装の桃だった。昼間の大広間では整えていた髪が、少し乱れている。頬が薄く赤い。走ってきたのか、それとも長い一日の疲れか。昼の顔が、夜の廊下では崩れている。取り繕う余裕がなくなっている。でも、逃げていない。
桃は私たちを見ると、少しだけ唇を噛んだ。
「……まだ、終わってないんですか」
「殿下が、条文の一部で止まっています」
桃は黙った。
一瞬、かつての"推しに会えた女の子"みたいな顔をしそうになって、やめた。目の焦点が変わる。現実の顔をする。
「……私、入ります」
レオンが迷う。眉が、ほんの少しだけ動いた。
「桃様、殿下が荒れています。今は――」
「だからです」
桃ははっきり言った。声に、芯があった。
「私が選ばれたなら、私もやります。逃げません」
私は少しだけ驚いた。いや、驚いたというより――納得した。
この子は"主役になりたい"だけじゃない。主役をやるなら、泥も被る。少なくとも今夜は、そういう顔をしている。
桃が扉を叩く。三回。はっきりした音。
「殿下。桃です。入ってもよろしいですか」
「……好きにしろ」
扉が開いた瞬間、熱が廊下へ流れ出した。暖炉の熱。それと一緒に、紙とインクの匂いが混じった空気が出てくる。使い込まれた紙の匂い。インクの鉄っぽい匂い。それと、ろうそくの煙。
机の上には書類の山。積み上げられた紙が、今にも崩れそうにぐらついている。床にも紙が積まれ、椅子の脇にも、窓枠の縁にも置かれていた。
殿下は椅子にもたれていた。背もたれに体重を預け、髪をぐしゃぐしゃにしている。金の縁取りが施された上着は着ているが、胸元が緩んでいる。王の形を着ているのに、中身だけが崩れている。
「……何だ」
「殿下。今日の書類、私も確認します。期限の近いものから片付けましょう」
殿下が目を見開く。
「お前が? 何ができる」
「できます。……こういうの、得意なんです」
殿下の眉が動く。"できる女"が怖い顔をする。でも今は、頼らざるを得ない。その葛藤が、眉の形に出ていた。
「……勝手にしろ」
桃は机に近づいた。積み上がった書類を前にして、一秒も迷わなかった。両手で束を持ち上げ、日付を確認し、分け始める。期限順、重要度順。"今すぐ署名だけ必要なもの"と"読み込むべきもの"を、迷わず分離していく。紙が擦れる音が、リズムよく続く。
手際がいい。
レオンが目を細める。壁際から、静かに観察している。評価の目だ。彼は"役に立つかどうか"だけを見ている。感情ではなく、機能で人を測る。
「殿下、これは議会への回答なので、ここだけ確認して署名してください。条文の細部は、補足資料にまとめます」
「俺を馬鹿にしてるのか」
桃は首を振った。目が、殿下をまっすぐ見ている。
「馬鹿にしていません。殿下が"決めること"に集中できるようにしたいだけです」
うまい。
殿下のプライドを折らずに、実務を進める言い方。甘やかしではない。誘導だ。
殿下は黙り、渋々羽ペンを持った。インクをつけて、署名する。紙の上に名前が走る。
その署名が一つ増えるたびに、書類の山がほんの少しずつ低くなっていく。
私はレオンの横で、その光景を見ていた。
暖炉の火が、二人の影を壁に映している。桃の影が動くたびに、書類の山の影も揺れる。殿下の影だけが、椅子の背にもたれたまま、ほとんど動かない。
ああ。殿下は、こうやって生きていくんだ。
誰かに段取りされ、誰かに言葉を与えられ、誰かに"決める形"を作られて。それでも王になる。そして、苦しむ。
――孤独に。
廊下へ出ると、老臣が待っていた。
壁に沿って立ち、腕を後ろで組んでいる。眉が硬い。伝統派の老臣だ。燭台の光が真上から当たって、顔の皺が深く見えた。
「サラ・ブレイム」
「何でしょう」
「王位継承の儀について、準備を進める。殿下の即位は既定路線だ」
「そうでしょうね」
老臣の目が鋭くなる。細い目が、さらに細くなる。
「……王妃候補の件も、整理せねばならん」
つまり、私とアクアを"どう扱うか"だ。
私は微笑む。
「整理、ですか。便利な言葉ですね」
「国のためだ。殿下が王になれば、王妃も必要になる」
その言い方が、胸を冷やした。
必要。役割。国のため。
――それ、全部、檻だ。
私は一礼した。
「国のためでしたら。私は私のやり方で、国に残ります」
「王妃ではなく?」
「ええ」
私ははっきり言った。
「私は殿下のために生きるのをやめます。国のために、国に残る。それが私の選択です」
老臣は言葉を失った。口が開きかけて、閉じた。
"従う"か"反抗する"か。彼らの想定にあるのはその二択だけだ。"自分で選ぶ"という発想は、想定外らしい。
私はそのまま廊下を歩き出した。
窓辺に、アクアが立っていた。
廊下の突き当たりの窓。その窓枠に手をかけて、夜の庭を見ている。月明かりが斜めに差し込んで、アクアの金髪を淡く照らしていた。光が髪の一本一本を透かして、水面みたいに揺れている。
白い息が、窓ガラスの内側に薄く曇りを作っていた。
「サラ」
「どうしたの」
「……殿下、今日も苦しそうね」
「自業自得」
「ふふ」
アクアは笑う。でも目は、笑っていない。月明かりを映した青い瞳が、ただ静かに夜を見ている。
「ねえ、サラ。私たち、国のために生きすぎたのかもしれないね」
私は窓の外を見る。黒い庭。冬枯れの木々が、月明かりの中で影だけになっている。遠くに灯りが一つ、揺れている。どこかの建物の窓だろう。こんな夜中にも、誰かがそこにいる。
白い息が出た。それが窓ガラスに触れて、すぐに消えた。
「そうかもしれない。でも、国を捨てるのとは違う」
「サラは残るんだものね」
「ええ」
私は言った。
「この国が嫌いじゃない。ただ、"殿下のために"という檻が嫌いなだけ」
アクアは静かに頷く。窓の外を見たまま。
「私は……まだ分からない。国の外の空気を吸ってみたくなる時がある」
「それもいい」
私は答えた。
「息ができる場所へ行けばいい。あなたの人生でしょう」
アクアの目が、少しだけ揺れた。月の光が揺れたのか、彼女の瞳が揺れたのか、分からないくらい微かに。
彼女はいつも調整役で、自分の人生を選ばない。だからこの言葉は、彼女の胸に残るはずだ。残ってほしい。
遠くで鐘が鳴った。
低く、重く、夜の空気を震わせて、王城の石壁に吸い込まれていく。時間が、次へ進む合図。
殿下は王になる。
桃は殿下を支え、政務を回し始める。
レオンは胃を痛めながら、国を守り続ける。
そして私とアクアは――自分の人生を、選び直す。
窓の外で、木の枝が風に揺れた。葉のない枝が、月明かりの中で細い影を地面に落としている。
檻の扉は、もう半分開いている。
あとは、自分で押すだけだ。




