第17話「返答」
王城の控えの間は、戦場より狭くて、戦場より息が詰まる。
暖炉の火が赤く揺れ、外の冷えた空気を遮断している。だからこそ、ここでは嘘が剥がれる。石造りの壁は熱を閉じ込め、天井の低さが空気をさらに重くする。大広間の高い天井とは違う。威圧ではなく、密閉だ。
蝋燭の明かりが壁を照らし、人の影を長く伸ばしている。炎が揺れるたびに、影も揺れる。まるで部屋の中にもう一組の人間がいるみたいだ。
大広間の重さとは、また別の重さがある。外向きの顔が必要ない分、人間の本質だけが残る。
会議は、かろうじて形になった。
港湾管理条項を「即時判断」と「最終承認」に分け、関税は段階的調整で落ち着いた。
商団長の最後の言葉は短かった。
「本日の合意を評価する。貴国の安定を願う」
祈りにも皮肉にも聞こえる一言を置いて、ルーデン一行は退出した。
重い扉が閉まる。その音が廊下の向こうへ転がって、消える。
部屋に残った空気が、少しだけ変わった。外向きの緊張が抜けて、別の緊張が満ちる。
――ここからは内側だ。
殿下が振り返る。
「サラ」
低い声。抑えているつもりで、震えている。暖炉の爆ぜる音に、その声がかき消されそうだ。
「なぜ、あの場で……」
"助けた"と言えない。言えば、助けられたと認めることになる。だから言葉が途中で切れる。
王子とはずっとこうだ。欲しいものを欲しいと言えない。感謝を感謝と呼べない。だから全部が歪む。
私は礼をした。
「国のためです、殿下」
殿下の眉が跳ねる。細い眉が、ぐ、と寄る。
「俺のためではないのか」
その問いが、この人の全部だ。
国を動かしたいのではない。必要とされたい。崇拝されたい。王冠を戴きたいのではなく、王冠を戴いた自分を誰かに肯定してほしい。
私は静かに、しかし逃げ道なく言った。
「殿下のためではありません。国のためです」
レオンが淡々と続ける。
「殿下。本日の裁可は遅れました」
「考えていた!」
「考えている間に、国益は逃げます」
暖炉の火が爆ぜた。ぱち、という音が室内に弾ける。火の粉が散って、炉の格子に当たる。
殿下の視線が私に戻る。目の奥が揺れている。怒りではない。刺さった痛みが、抜けない目だ。その目が、暖炉の赤を受けて、じっとりと光っている。
「お前は……どうしていつも、俺に恥をかかせる」
私は静かに息を吸う。暖炉の熱が混じった、乾いた空気が肺に入る。
「殿下。恥をかいたのは、私のせいではありません」
殿下が息を呑む。喉が動くのが見える。
「決めなかった。逃げた。――それが問題です」
「俺は王位継承者だ!」
「だからこそ、決めてください」
一歩も引かない。
「間違えたら修正すればいい。でも"決めない"のは、国を壊します」
沈黙が落ちた。
暖炉の燃える音だけが続く。木が焦げる匂い。蝋燭の煙が細く立ち上って、天井へ消える。
殿下は言い返そうとして、止まる。言葉を出せば出すほど幼さが見える、と本能が知っている。
そこへ、アクアが一歩前へ出た。
水色のドレスの裾が揺れる。その動きだけが、室内の重い空気を柔らかくかき混ぜた。
「殿下。今日、裁可できたのは良かったと思います」
声は、いつも通り柔らかい。その柔らかさが、かえって部屋の緊張を際立たせる。
殿下が顔を上げる。縋るような目でアクアを見る。
アクアは微笑んだまま、続けた。
「でも……私たちに"言わせよう"とした。それが、怖いのです」
「怖い?」
アクアは頷く。静かに、ゆっくりと。金髪が肩で揺れた。
「殿下は、私たちが作る"安心"に依存しています。私たちが言えば、殿下は責任を負わずに済む。――そう思ってしまっている」
殿下の拳が白くなる。指の関節が、皮膚の下で浮き上がる。
アクアの声は柔らかいままだ。柔らかいまま、刺す場所だけが正確だ。
「殿下が怖いのは、間違えることではないはずです。決めることが、怖い。決めた瞬間に、すべてが自分のものになるから」
暖炉の火がゆらりと揺れた。
影が壁の上で大きく伸びて、また縮む。
殿下は何も言えない。唇が開きかけて、閉じる。また開いて、また閉じる。言葉が出てこない。
桃が、小さく言った。
「……殿下。私も昨日と今日は、怖かったです」
震える声だった。本音だろう。
崇拝者が揺れた。肯定者が揺れた。
殿下にとってそれが、どんな言葉より効く。自分を無条件に信じてくれる人間が「怖かった」と言った。それは鎧の隙間に差し込まれた針だ。
暖炉の前で、桃の白い衣装が赤く染まっている。炎の色を受けて。
私は最後に、短く言った。
「殿下。国を愛しているなら、国を盾にしないでください」
返事はない。
沈黙が、答えだった。
レオンが一礼する。
「殿下。次の会議までに、ご自身の言葉で決断の準備を。国のために」
殿下は頷けない。頷かなければならないのに、頷けない。
その小さな硬直が、今この部屋にいる全員に見えていた。
暖炉の火だけが、揺れ続けている。
私は控えの間を出て、冷えた廊下へ戻った。
扉を閉めた瞬間、熱が遮断される。廊下の石壁は冷たく、さっきまでの暖炉の赤が嘘みたいだ。
窓の外は灰色の空だった。雲が低く垂れ込めて、光が薄い。遠くの木々が、風に揺れている。葉の落ちた枝が、細い線みたいに空に引っかかっている。
雪はまだ降っていない。でも、もうすぐだろう。空気の匂いが変わっている。湿って、冷たくて、何かを含んでいる。
足音が廊下に響く。
自分の足音だけが聞こえる。その静けさが、今日はやけに清潔に感じた。
胸の奥で、静かに決める。
殿下を助けるたびに、私は何かを失っていた。名前のつかない何か。誇りとも違う。怒りとも違う。ただ、確かにあったはずのもの。
窓の外で、枝が揺れた。風が、細い枝の先まで動かしている。
檻の鍵は、誰かが外から開けてくれるものじゃない。
自分で回すものだ。
そして私はもう――回す手を、知っている。




