第15話「選ばれなかった者たち」
夜の王城は、いつもに増して静かだった。
廊下の燭台が揺れ、長い影を壁に落とす。
昼間は絢爛な金の装飾も、夜になると重たい鎖のように見える。
私は一人で、王城の中庭へ出た。
冬前の空気は冷たく、薔薇の葉はほとんど落ちている。
中央の噴水は止まり、水面は静かだ。
選ばれなかった。
その言葉が、胸の奥でゆっくりと沈んでいく。
王子が聖女を正式に選んだあの日から、王城の空気は変わった。
貴族たちは距離を測り、侍女たちは囁き、派閥は揺らぐ。
そして私は――
王妃候補ではなくなった。
それは屈辱のはずだ。
怒り、嫉妬、悔しさ。
小説の中のサラは、王子がアクアを選んだ瞬間、壊れた。
愛に飢え、王子に執着し、アクアを追い詰めた。
そして最後は、思い悩んだアクアに血を吸われ、操られる。
私はその未来を知っている。
知っていても、胸が痛まないわけではない。
「寒いわよ」
背後から、静かな声がした。
振り返ると、アクアが立っていた。
淡い青のドレスに白いショール。金の髪が月光に溶ける。
「あなたも夜の中庭に来るのね」
「ええ。あなたが一人になるとろくなことを考えないから」
二人でいるとアクアは毒舌になる。
私は小さく笑った。
「心配性ね」
「違うわ。観察しているだけ」
アクアは私の隣に立つ。
噴水の縁に腰掛けると、石の冷たさが伝わる。
しばらく、沈黙が二人を包んだ。
遠くで鐘が鳴る。九回、低い音が響いた。
私はぽつりと言った。
「まだ気にしているの?ってあなたに言われそうだけど……選ばれなかったわね、私たち」
アクアは空を見上げたまま答える。
「ええ。綺麗に外された」
その言い方が、少し可笑しくて、少し切ない。
「悔しい?」
「悔しい、というより……」
彼女は言葉を探す。
「ほっとしたかもしれない」
私は息を呑んだ。
「ほっと?」
「ええ」
アクアの青い瞳が、まっすぐ私を見る。
「だって、殿下の隣に立つ未来は、あなたを壊すもの」
その言葉が、胸に刺さる。
私は視線を逸らす。
「壊れるほど弱くないわ」
「強いから壊れるのよ」
即答され、逃げ場がない。
「あなたは"勝つこと"でしか自分を認められない。殿下に選ばれなかったことを、敗北だと思っている」
「違う」
「違わない」
静かな断言。
私は立ち上がり、噴水の縁を背にする。
「私はただ、国のために最善を尽くしてきただけよ」
「それが問題」
アクアの声は優しい。でも逃げ道はない。
「国のため、殿下のため、家のため。あなた、自分のために生きたことある?」
その問いに、言葉が詰まる。
日本で生きていた記憶がよぎる。
仕事に追われ、期待に応え、役割をこなしていた三十代の私。
"ちゃんとしている人"。"頼れる人"。
でも、私自身は?
ここに生まれ変わってからも同じだ。
王妃候補。炎の家の娘。強い女。
勝たなければ、価値がない。
選ばれなければ、意味がない。
私は、拳を握った。
「……私は、選ばれたかった」
本音が零れる。
アクアは静かに頷く。
「ええ。知ってる」
「でも、殿下にではない」
言いながら、自分で驚く。
そうだ。
王子に愛されたかったわけではない。
私は、必要とされたかった。
"いなければ困る存在"でありたかった。
それが、私の誇りだった。
「殿下は、あなたを必要としていない」
アクアが淡々と言う。
「崇拝してくれる人を必要としている」
桃の顔が浮かぶ。
彼女は殿下を肯定する。
殿下を支えるというより、殿下を"主役"にする。
私は、殿下を主役にしなかった。
対等に立とうとした。時に、上に立とうとした。
王子の劣等感を刺激した。
「……選ばれなかったのは、当然かもしれないわね」
自嘲が混じる。
アクアが微笑む。
「違う。あなたは選ばれなかったんじゃない」
「じゃあ何?」
「あなたが、選ばなかったのよ」
その言葉に、心臓が跳ねる。
「殿下に合わせて小さくなれば、選ばれたかもしれない。でもあなたはしなかった」
確かに。
私は、弱いふりをしなかった。
殿下を立てるために、能力を隠さなかった。
「……誇り、かしら」
「ええ。誇り」
アクアは立ち上がり、私の正面に立つ。
「選ばれなかった者たちは、敗者じゃない」
彼女の瞳が、深い湖のように揺れる。
「自分を曲げなかった者たち」
胸が熱くなる。
原作では、ここで私は嫉妬に狂った。
でも今は違う。
私はアクアを見つめる。
「あなたは?」
「私も選ばれなかった」
彼女は小さく笑う。
「殿下は、私を"都合のいい存在"として見ていた。でも、私が殿下を愛していたかといえば……違う」
私は目を見開く。
「違う?」
「ええ」
アクアは、月を見上げる。
「私は、あなたを失うのが怖かっただけ」
その告白に、息が止まる。
「殿下が私を選べば、あなたは壊れる。だから私は、選ばれたくなかった」
静かな本音。
私は、ようやく理解する。
私たちは、王子を中心に回っていたわけじゃない。
互いを中心に、回っていた。
相互依存。
最大の恐れは、相手を失うこと。
「ねえ、サラ」
アクアが言う。
「もし、国を出られるとしたら?」
その言葉に、心が揺れる。
「出る?」
「ええ。殿下も聖女も関係ない場所へ」
私は笑う。
「そんなこと、許されないわ」
「許されなくても、選べる」
アクアの瞳は、本気だ。
私は目を閉じる。
国のために生きる。家のために生きる。
それが当然だと思ってきた。
でも――本当に?
「……自由って、何かしら」
ぽつりと零れる。
「自分で決めること」
その言葉が、胸の奥に灯る。
選ばれなかった。
でも、選ばないという選択は、できる。
私は深く息を吸う。
冷たい夜の空気が肺に満ちる。
「アクア」
「なあに」
「私たち、殿下のために生きすぎていたわ」
アクアは、静かに頷く。
「ええ。国のためにも」
私は笑う。少しだけ、軽い。
「だったら――」
言葉を飲み込む。
まだ決断は早い。
でも確実に、何かが動いた。
王妃候補という肩書き。
殿下の隣という未来。
それらが剥がれ落ちた今、残ったのは――
私。
ただのサラ。
そして、隣に立つアクア。
選ばれなかった者たち。
でも、曲がらなかった者たち。
夜風が、二人の髪を揺らす。
遠くで鐘が鳴る。
私は胸の奥で、静かに思う。
――檻の外に出る日は、近い。




