第14話「露呈」
雪の匂いがした。
まだ降ってはいない。けれど空気は白く、張りつめている。
冬を前にした王都は、商人たちが最後の取引を急ぎ、港には隣国ルーデンの船が並んでいた。
その朝、王城に駆け込んできたのは、商務院の急使だった。
「ルーデン商団が――出港を拒否しております!」
報せは、火の粉のように広がった。
関税の修正案が提出された翌日。
ルーデン側は正式な返答を保留したまま、港湾倉庫の使用を止めたのだ。
それは、宣戦布告ではない。だが、圧力だ。
商人たちは困る。
冬前の物資が滞れば、王都の市場は値上がりする。
値上がりは不満を生む。
政治の失策は、すぐに民へ落ちる。
私は報せを聞いたとき、窓辺に立っていた。
赤い髪を結い上げ、今日は濃紺のドレス。
炎ではなく、夜の色。
「……早いわね」
ミレイユが息を呑む。
「殿下が昨日、強気の姿勢を見せたからでしょうか」
「ええ」
私は淡々と答える。
強いから屈しない。
あの言葉は、ルーデンの商団長にも伝わっているはずだ。
外交は言葉の戦だ。不用意な一言は、刃になる。
廊下の向こうで、慌ただしい足音が響く。
王子の私室へ急報が入ったのだろう。
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謁見の間は、昨日よりもざわついていた。
商務院の代表、港湾管理官、貴族院の有力者たち。
そして王子と、その隣に立つ桃。
桃は白い衣装に淡い青の刺繍を施している。
"清らかな水"を思わせる色。
対して私は、静かに後方へ座った。
もう壇上ではない。"支える者の位置"でもない。
王子が声を上げる。
「なぜ出港を拒否する! 我が国は修正案を提示しただけだ!」
商務院代表が答える。
「殿下。ルーデン側は、関税率の引き上げが一方的であると主張しております。加えて、港湾管理の条項に曖昧さがあり――」
「曖昧? あれは問題ないはずだ!」
問題はある。
共同管理の文言。曖昧な責任区分。
そして"強いから屈しない"という姿勢。
私は指先を重ねたまま、何も言わない。
桃が小さく前へ出た。
「殿下、もしかしたら……お話し合いの場をもう一度設けては」
柔らかな声。だがその言葉は、政治的ではない。
"話し合いましょう"は、交渉の第一歩だ。
だが、今はすでに第二歩目にいる。
商務院代表が苦い顔をする。
「聖女様、すでに協議は行われました」
桃の頬が僅かに赤くなる。
彼女は、善意で言ったのだ。
だが善意だけでは、国は動かない。
王子が苛立つ。
「ならば、圧力をかければいい。輸入を止めれば向こうも困る」
その瞬間、空気が凍った。
輸入を止める?
冬前に?
商務院代表の声が震える。
「殿下……それは、我が国の民も困ります」
「一時的だ!」
「殿下……」
「我慢すればいい!」
その言葉が、落ちた。
我慢すればいい。
会議室の空気が、完全に冷えきる。
民に我慢を強いる王。
それは、最も言ってはいけない。
私は目を閉じた。
――露呈した。
王子の弱さが。未熟さが。そして、恐れ。
王子は"強い王"を演じている。
だが演じるほど、空虚が露わになる。
レオンが一歩前に出る。
「殿下」
低い声。冷静。しかし、その奥には焦りがある。
「輸入停止は、国内商会の信用を失います。代替経路も確保しておりません」
王子はレオンを睨む。
「お前はいつも慎重すぎる!」
「慎重でなければ、国は傾きます」
その一言は、忠告。だが同時に、刃。
王子は言葉を失う。
桃が、震える声で言った。
「殿下……民が苦しむのは、避けたいです……」
王子の視線が桃に向く。
そこには、依存の色がある。
崇拝してくれる存在。自分を肯定してくれる存在。
だが桃の瞳は揺れている。
彼女もまた、現実の重さに気づき始めている。
*こんなはずじゃなかった。*
その芽が、確かにある。
桃はここが小説の世界だと知っている気がする。
そして自分が入り込んだせいで、筋書きが完全に変わってしまったことにも。
アクアと王子が結ばれる物語は、もうない。
この先どんな未来が待っているのか、誰にも分からない。
商務院代表が、静かに言う。
「修正案を再調整するしかありません。港湾管理条項の明確化と、関税率の段階的変更を提案します」
「譲歩だと?」
「妥協です」
代表の声は穏やかだが、強い。
王子は唇を噛み、周囲を見回す。
貴族たちの視線は冷たい。軍務は無言。商務は不安。
そして――私。
王子の視線が、私を捉える。
助けを求めるように。責めるように。
"お前が言え""お前がまとめろ"
私は、微笑むだけ。
沈黙。
その沈黙が、王子の孤独を浮き彫りにする。
ついに王子は言った。
「……再調整を行え」
声は低い。だが、それは敗北の声だ。
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会議が散会する。
ざわめきが広がる。
「王子は……」「未熟だ」「聖女様もまだ……」
桃は立ち尽くしている。
白い衣装が、今は薄く見える。
私はゆっくりと歩み寄った。
「聖女様」
桃が顔を上げる。
その瞳に、焦りと戸惑いがある。
「……サラ様」
「政治は、善意では動きませんわ」
私は静かに言う。
「責任で動きます」
桃の喉が動く。
彼女はまだ、物語の中にいる。
"選ばれたヒロイン"の物語。
だがここは現実だ。
民が凍えれば、王は責められる。市場が荒れれば、王は揺らぐ。
桃は小さく頷いた。
「……学びます」
その声は弱いが、逃げてはいない。
私は微笑む。
完全な悪ではない。
彼女もまた、檻を持ち込んだ人間。
"物語通りに生きたい"という檻。
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廊下へ出ると、冬の風が吹き込んできた。
冷たい。
私は空を見上げる。
雲が厚い。
檻は、ひび割れ始めている。
王子の権威。聖女の理想。そして、私たちの役割。
露呈したのは、王子の無能だけではない。
私が支えていた"王妃候補"という立場もまた、幻想だった。
私は胸の奥で、静かに思う。
――この国は、私がいなくても回るべきだ。
そうでなければ、私は一生、檻の中だ。
そしてその檻は、今日、確かに音を立てた。




