第12話「側近の焦燥」
夜の王城は、昼よりも正直だ。
笑い声が減り、香の匂いが薄れ、廊下の足音が遠くなる。
静寂の中でだけ、きしむ音ははっきり聞こえる。
今夜、きしんでいるのは――王子の執務室だった。
第一王子側近のレオン・ヴァルディスは、机に積み上がった書類を無言で整えていた。
関税協議の修正案。貴族院への釈明文草稿。聖女の改革案に対する補足説明。
本来なら、これらは"自然に"整う。
サラが矛盾を潰し、アクアが人間関係を繋ぎ、レオンが全体を束ねる。
王子はその上に立つだけで良かった。
だが今、王子は"上に立っている"だけでは済まない。
「レオン」
机の向こうから、苛立ちを押し殺した声がする。
第一王子グレイは、椅子に深く座り、額を押さえていた。
「なぜ、こんなに進まぬ」
「殿下が直接判断なさる必要があるからです」
「私は判断している!」
「最終的な署名ではなく、過程の選択です」
王子の目が揺れる。
過程。
その言葉が、王子には重い。
王は"結果"だけを求められる存在だと、彼は思っている。
だが実際は、過程の連続が王を作る。
レオンは内心で理解していた。
――殿下は、まだ"王"ではない。
「サラを呼べ」
王子が言う。
レオンは一瞬だけ目を伏せる。
「本日はすでに、最低限の助言のみを」
「助言で足りるか!」
王子の声が荒れる。
その瞬間、レオンははっきりと悟る。
――殿下は、依存している。
聖女に心を預け、サラに頭脳を預け、アクアに空気を預けてきた。
だが今、その支えは"条件付き"になった。
「殿下」
「何だ」
「サラ様とアクア様は、王妃候補の立場を外れました」
「だから何だ」
「殿下の"影"ではなくなった、ということです」
王子の顔が強張る。
「……影だと?」
「これまでの均衡は、彼女たちが自ら望んで担っていたものです。命令で担わせるものではありません」
王子は言葉を失う。
理解したくない現実が、そこにある。
「私は……王だ」
「まだ継承前です」
レオンは淡々と事実を告げる。
「そして、王になるには、支えを"使う"のではなく、"並ぶ"必要があります」
王子は何も言わなかった。
沈黙の中で、執務室の蝋燭が小さく揺れた。
その頃。
私は自室の机に向かい、帳簿を眺めていた。
商務院から届いた数字。港湾の収支。穀物価格の推移。
赤いペンは持たない。ただ、読む。読んで、考える。
ミレイユが心配そうに言う。
「サラ様……本当に、これでよろしいのですか」
「何が?」
「殿下が焦っていると……侍女たちが」
私は微笑む。
「焦るのは悪いことではないわ」
「ですが、殿下が逆上なさったら」
その可能性はある。
王子は劣等感に弱い。強い女性に対して、防御的になる。
「逆上するなら、それもまた現実よ」
私は帳簿を閉じた。
「私は、殿下を壊したいわけではない」
本音だ。
王子は未熟だが、悪そのものではない。逃げているだけだ。
「でも、未熟なまま王になってほしくもない」
私は立ち上がり、窓辺へ歩く。
夜風がカーテンを揺らす。遠くで騎士の交代の足音が響く。
「私がずっと影で整え続けたら、殿下は一生気づかないわ」
コンコン、と扉が叩かれる。
「サラ様。レオン様が」
私は一瞬だけ目を細めた。
「通して」
レオンが入室する。
黒髪に灰色の目。いつも通り無表情だった。
だが今夜は、その無表情の奥に疲労が濃い。
「遅い時間に失礼します」
「構わないわ」
私は紅茶を注ぐ。
「焦燥は成長の前触れか、崩壊の前触れか」
レオンの目が僅かに動く。
「どちらに転ぶとお考えですか」
「それは、殿下次第」
私はカップを差し出す。
レオンは受け取らず、言う。
「サラ様。あなたはどこまで引くおつもりですか」
私は彼を見る。
灰色の目は冷静だが、奥に焦りがある。
――国の安定が最優先。
彼の価値観はぶれない。
「引くのは、"殿下の甘え"からだけ」
私は答える。
「政務は動かす。外交も最低限整える。でも、殿下が自分で選び、責任を背負うべき部分は、代わらない」
レオンは少し黙る。
「それは……危険です」
「分かっているわ」
「殿下が耐えられなければ」
「崩れる?」
私は微笑む。
「崩れないための構造を作るのが、あなたの役目でしょう」
レオンの目がわずかに見開かれる。
「あなたは有能よ、レオン。殿下の影としてではなく、国の柱として動けばいい」
沈黙が落ちる。
やがて、レオンは低く言った。
「……殿下は、あなたを失うことを恐れている」
私は一瞬、呼吸を止める。
「恐れている?」
「はい。強い女性に劣等感を抱きながら、同時に頼っている」
私は小さく笑った。
「矛盾しているわね」
「殿下は矛盾でできています」
その言葉に、私は少しだけ吹き出しそうになった。
だが笑いはすぐ消える。
「恐れているのなら、なおさら必要ね」
「何がですか」
「距離よ」
私は静かに言った。
「恐れたまま王になれば、もっと依存する。もっと逃げる」
レオンは黙り込む。
彼は理解している。だからこそ、焦っている。
「サラ様」
「なに」
「あなたは……王妃になる道を、完全に捨てるのですか」
その問いは、静かだが重い。
私は窓の外を見る。
月が塔を照らしている。
王妃になる道。
それは幼い頃から敷かれたレール。
父の期待。王城の視線。
私はゆっくり答える。
「私は、"王妃という役割"ではなく、"自分の意思"で国に残るかどうかを決めたい」
レオンの目が、ほんの僅かに柔らぐ。
「……なるほど」
「王妃になることが目的だったわけじゃない」
私は胸に手を当てる。
「勝たなければ価値がない、という呪いを解きたいだけ」
レオンが去った後、部屋に静寂が戻る。
私は椅子に腰を下ろし、目を閉じた。
怖い。
正直に言えば、怖い。
王城は甘くない。派閥は黙っていない。父も、きっと。
でも同時に、心の奥が少しずつ軽くなっている。
「……私は、殿下の影じゃない」
その言葉は、小さくても確かだった。
遠くで、執務室の扉が閉まる音がした。
王子は今、初めて"自分で"資料を読んでいるだろう。
苛立ち、迷い、焦りながら。
その焦燥が、彼をどう変えるのか。
それはまだ分からない。
でも一つだけ確かなことがある。
歯車はもう、元の形には戻らない。
そして私は、戻るつもりもない。




