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聖女を選んだのなら、もう殿下の尻拭いはいたしません  作者: 風谷 華


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第11話「歯車」

 王城は、何も変わらない顔をしていた。


 朝の鐘が鳴る。低く、重く、石造りの塔から広がって、中庭の空気を震わせる。侍女たちは廊下を行き交い、床を踏む足音が石の上で跳ね返る。庭園の噴水は陽光を弾き、水しぶきが細かい虹を作っていた。


 薔薇は咲いている。赤と白。朝露を乗せて、まだ重たそうに首を傾けている。貴族たちは廊下で挨拶を交わし、笑い声が天井の高い回廊に散っていく。聖女の周囲には人が集まり、白い衣装が陽の光を受けて輝いていた。


 ――見た目は、完璧だ。


 だが、ほんの小さな歯車が外れるだけで、機械は静かに軋み始める。


 その音は、最初は誰にも聞こえない。




 午前の光が、執務室の高い窓から斜めに差し込んでいた。


 光の帯の中を、埃がゆっくりと漂っている。それだけが、この部屋の中で静かに動いていた。


 机の上には、隣国ルーデンとの関税協議の事前資料が積み上げられていた。紙の束が、何冊も重なっている。端が揃っていない。誰かが雑に置いたか、急いで運んできたか。本来なら、昨夜のうちにサラが赤で修正し、アクアが貴族間の根回しを終え、レオンが最終調整をしているはずだった。


 だが今、机の上の資料は――"素のまま"だ。


 王子は眉をひそめてページをめくる。紙の擦れる音が、静かな部屋の中で大きく響く。


「……数字が多すぎる」


 レオンが静かに言う。壁際に立ち、腕を組んだまま。表情は動かない。


「前回の協議では、殿下が直接お読みになり、修正を加えておられました」


 それは半分事実で、半分虚構だ。


 実際は、サラが矛盾を潰し、アクアが言葉を整え、レオンが論理を補強していた。王子は"最終確認"という名の上塗りをしていただけだ。


 だが今日は、上塗りの下地がない。


 王子は紙を机に叩きつける。乾いた音が部屋に響いた。


「サラはどうした」


 レオンは瞬き一つせず答える。


「本日は、最低限の政務以外は保留とのことです」


「保留? どういう意味だ」


「殿下が王妃候補から外された以上、私的な補佐業務の範囲が曖昧になっている、と」


 王子の顔が赤くなる。耳の付け根から、じわりと色が広がっていく。


「私的だと?」


「殿下の"面子を守るための調整"は、王妃候補の役目ではない、との見解かと」


 部屋の空気が、ひやりと冷えた。埃が漂うのをやめたような、そんな静けさが落ちた。


 王子は立ち上がる。椅子が後ろに引きずられ、床の上で鈍い音を立てる。


「生意気な……!」


 その言葉は、怒りよりも焦りに近い。王子は理解している。理解しているからこそ、苛立つ。


 彼は資料を手に取り、目を走らせる。だが数字の意味が繋がらない。外交文書の行間が読めない。光の帯の中で、紙の白さだけが目に刺さる。


「……レオン」


「はい」


「この条文は、こちらに不利ではないのか?」


 レオンは一瞬だけ沈黙した。その沈黙は短い。でも確かにあった。


「そのままでは、不利です」


 王子の顔色が変わる。


「なぜだ」


「今までなら、サラ様が指摘されていた矛盾です。理由がお分かりになりませんか?」


 王子は何も言えない。答えが出てこない。


 窓の外では、噴水が変わらず水を上げ続けていた。




 その頃。


 私は自室で、同じ資料を静かに読み直していた。


 朝の光が窓から差し込み、机の上の紙を白く照らしている。その白さの中に、文字が並んでいる。


 赤いペンは持たない。修正もしない。ただ、読む。


 矛盾は三つ。税率の換算式。過去条約の解釈。そして、"輸送経路の安全保障"という曖昧な文言。


 ――ここを突かれれば、王子は詰む。


 私は目を閉じる。瞼の裏が、朝の光でうっすらと赤い。


 助ける? 助けない?


 国は守りたい。だが王子の未熟さを隠すのは、もう違う。


 扉が叩かれた。三回、はっきりとした音。


 ミレイユが入ってくる。気が強い侍女だが、今日の顔は少し心配そうだ。眉の形が、いつもより寄っている。


「サラ様。殿下が執務室で声を荒げていると」


「そう」


 私は資料を閉じる。紙と紙が合わさる、薄い音がした。


「まだ壊れてはいないわ」


「……助けないのですか?」


 私は窓の外を見る。


 庭園では、桃が侍女たちに囲まれていた。白い衣装が、朝の光の中でよく目立つ。彼女は井戸の清掃計画について語っているらしい。手振りを交えて、熱心に話している。侍女たちが頷き、感心した顔をする。


 "民のために"という言葉が、甘く空気を染める。


 遠くから見ると、絵みたいだ。


「殿下が"選んだ"のは桃よ。ならば、まずは桃に頼るべきでしょう」


 ミレイユが口を引き結ぶ。言いたいことがある顔。でも言わない。それが彼女の、今日の答えだ。


---


 午後の光は、午前より角度が変わっていた。


 執務室の窓から差し込む光が、床の上に長い影を落としている。机の上の書類の山も、影の中に半分沈んでいた。


 王子は、桃を執務室に呼んだ。


「桃。お前は賢いのだろう? 民のために考える力がある」


 桃は少し驚いた顔をする。目が、わずかに丸くなる。だがその目の奥に、瞬時の計算が走った。薄い膜みたいなもの。一瞬で消える。


「……私でよろしければ」


 王子は資料を差し出す。


 桃はページをめくる。日本での知識。衛生、生活、効率。だが外交の行間は別のものだ。紙の端を持つ指が、少し止まった。


「えっと……こちらが安く買えるなら、良いのでは……?」


 王子の顔が曇る。眉が下がり、口元が固くなる。


「だが、輸送経路の安全保障が曖昧だ」


「……あ」


 桃の指が止まる。止まったまま、動かない。


 彼女は悪くない。専門外だ。しかし王子は"聖女なら何でも解決できる"と期待している。その期待の重さが、部屋の空気に混じっていた。


 レオンが淡々と補足する。壁際から、声だけが来る。


「ルーデンはこの文言を使い、我が国の港湾管理に介入する可能性があります」


 桃の瞳が揺れる。窓から入る光が、その揺れを照らした。


「それは……困りますね」


 王子が苛立ちを隠さず言う。その声が、天井の高い執務室に反響する。


「だからどうする!」


 桃は一瞬、唇を噛んだ。唇の色が、少しだけ白くなる。そして、柔らかく微笑んだ。


「……サラ様なら、きっとお分かりになるのでは」


 その一言が、部屋の空気を変えた。




 王城の別室。


 暖炉はまだ焚かれていない季節だが、部屋の中は外より温かかった。石壁が昼の熱を蓄えている。


 小さな机に、紅茶が二つ。湯気が細く立ち上り、茶葉の香りが部屋に広がっていた。


 私はアクアと向かい合っていた。


 アクアは紅茶を淹れ、静かに言う。金髪が、窓から入る午後の光を受けて、薄く輝いていた。


「呼ばれるわね」


「ええ」


「どうする?」


 私はカップを手に取る。温かい。掌の熱が、磁器越しに伝わってくる。湯気が顔に当たって、ほんの少しだけ肌が緩む。


「最低限は動く。でも、殿下の"代わり"にはならない」


 アクアが頷く。小さく、静かに。


「境界線を守るのね」


「ええ」


 その瞬間、扉が勢いよく開いた。


 蝶番が軋む音がして、ミレイユが息を切らして飛び込んでくる。頬が赤い。走ってきたのだろう。


「サラ様! 殿下がお呼びです!」


 私はカップを置いた。磁器が机に触れる、かちん、という音が部屋に響く。


 心臓は静かだ。怖くない。昨日より、ずっと。


---


 執務室に入ると、空気は明らかに荒れていた。


 紙の匂い。インクの匂い。そして、誰かが苛立っている時の、薄く張り詰めた匂い。


 王子は机の前に立ち、桃は少し俯いていた。白い衣装の裾が、床の近くで静止している。レオンは壁際に立ち、無表情のまま。ただ目だけが、部屋の全員を見ていた。


 私は礼をする。


「お呼びでしょうか、殿下」


「この条文をどう見る」


 私は資料を受け取った。紙が手に乗る重さを感じながら、ゆっくりとページをめくる。


 ――あえて、時間をかける。


 焦らない。王子が"頼らざるを得ない"空気を、静かに作る。


 窓の外では、庭園の噴水が変わらず水を上げていた。


 そして、静かに言った。


「輸送経路の安全保障の条文を削除し、我が国の港湾管理権を明記すべきです」


 王子が目を見開く。


「なぜだ」


「このままでは、ルーデンが港湾管理に介入する余地が生まれます。さらに、税率換算式が前回条約と矛盾しています。修正を」


 王子の顔に、安堵が広がる。肩が、わずかに下がった。


「そうか! やはりお前は……」


 その言葉の先を、私は遮った。


「殿下」


 声を柔らかくする。でも、引かない。


「これは"国のため"の助言です。殿下のご機嫌取りではありません」


 執務室が静まり返る。


 窓の外で、風が木の葉を揺らす音がした。それだけが、部屋の中で動いていた。


 王子の顔が強張る。


「……どういう意味だ」


「私たちは、王妃候補ではありません。ですから、殿下の名誉を守るための粉飾は致しません」


 レオンの目が、ほんの僅かに細くなった。何かを考えている目だ。何かを、ただ見ている目だ。


 王子は言葉を失う。桃がそっと言う。


「殿下……」


 その声は、慰めにも聞こえるし、焦りにも聞こえる。どちらかは分からない。


 王子は椅子に沈んだ。背もたれに体重を預け、唇を噛む。沈黙が落ちる。暖炉のない部屋の静けさの中で、誰かの息の音だけが聞こえた。


「……分かった。修正しろ」


 私は一礼する。


「国のために」




 夕刻。


 太陽が傾き、王城の石壁が橙色に染まり始めた頃。


 王城のあちこちで、小さな混乱が起きていた。


 晩餐会の席次が決まらない。侍女が書類を抱えて廊下を行ったり来たりしている。足音が速い。貴族への根回しが遅れている。廊下の角で、官吏が二人、低い声で話し込んでいる。桃の改革案の詳細が詰まらない。使いが何度も部屋を往復している。


 これまで"自然に"整っていたものが、整わない。


 侍女たちが囁く。声を落として、耳元で。


「サラ様とアクア様が、前のように動かないから……」

「殿下が……」

「聖女様は……」


 歯車が、目に見える形で外れ始めていた。


 私はその様子を、窓辺から見下ろした。


 夕焼けが庭園を赤く染めている。噴水の水が橙色に光り、薔薇の花びらが夕陽を受けて深い赤になっていた。遠くの塔の先に、燃えるような空が広がっている。


 王城はまだ立っている。でも、きしんでいる。


 アクアが隣に立つ。窓辺に並んで、二人で同じ景色を見ている。彼女の金髪が夕陽に染まり、橙色になっていた。


「焦ってるわね、殿下」


「ええ」


「サラ。後悔してる?」


 私は少し考えた。夕焼けの中で、噴水の水が上がって、落ちた。


 首を振る。


「いいえ」


 胸の奥が、少しだけ軽い。重さが抜けたのではなく、重さの種類が変わった感じ。


「怖いけど、後悔はしていない」


 アクアが微笑む。夕陽の中で、その笑みが柔らかく光った。


「それがあなたの誇りね」


 私は空を見上げる。


 夕焼けが王城の塔を赤く染めている。炎の色。でも今日は、燃え尽きる色ではない。


 始まりの色だ。


「歯車は、もう元には戻らない」


 私は呟く。その声は、窓の外の空気に溶けていく。


「なら、新しく組み直すだけよ」


 その言葉は、王子に向けたものではない。私自身への宣言だ。


 窓の外で、夕焼けがゆっくりと色を変えていった。橙から赤へ。赤から深い紫へ。


 王城の灯りが、一つ、また一つと点き始める。


 夜が来る。


 でも今夜は、昨日より少しだけ、息がしやすい。

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