第10話「静かな決断」
朝の鐘が鳴っても、王城の空気は晴れなかった。
むしろ、昨日の"宣言"が染み込んで、壁も床も、侍女たちの息も重い。
笑顔は増えているのに、目が笑っていない。
拍手が増えているのに、手が冷たい。
――皆、勝者の隣に立ちたいだけ。
勝者は今、聖女だ。
そして、その聖女を"選んだ"王子だ。
私は鏡の前で髪を整えながら、口元にだけ微笑みを乗せた。
習慣のように。鎧のように。
「サラ様」
ミレイユが低い声で言う。
「本日から、聖女様の補佐を……と、側近府から通達が来ております。時間割も」
彼女の手にある紙は、綺麗に整っている。
整いすぎている。
私はその紙を受け取り、目を走らせた。
午前:聖女の礼節講義(サラ担当)
午後:王城内視察(アクア同行)
夕刻:殿下同席の晩餐会準備(サラ・アクア共同)
――命令だ。
しかも、"お前たちの役割はここだ"と強制する命令。
私は紙を折りたたみ、机に置いた。
「ミレイユ」
「はい」
「今日は、行かない」
ミレイユが目を見開いた。
「……サラ様?」
彼女の中で、怒りと恐怖が同時に膨らむのが分かった。
王城では、命令に逆らうことは"死"に近い。
私は静かに言った。
「正確には、"殿下のための補佐"はしない」
ミレイユの拳が握られる。
「ですが……! サラ様が行かなければ、"嫉妬"だの、"悪意"だの……!」
「言わせておけばいい」
私は微笑んだ。
「私は悪役にならない。だから、悪役の役目を果たさない」
その瞬間、ミレイユの表情がぐらついた。
主人を守りたい侍女としての本能と、王城で生き延びる現実がぶつかっている。
私は彼女の心の揺れを見つめ、付け加えた。
「怖いのは分かる。でも……」
私は鏡の中の自分を見る。
赤髪、緑の目、整えられた微笑み。
その微笑みの下に、昨日の夜の言葉がまだ残っていた。
――私たち、国のために生きすぎていたのかもしれない。
「私、もう殿下のために息をしたくないの」
---
午前の回廊は、いつもより人が多かった。
聖女の周りに、侍女と若い貴族令嬢が集まり、甘い笑い声が飛ぶ。
桃はその中心で微笑み、まるで光の粒が周囲に散るみたいに空気を柔らかくしていた。
その光は眩しい。眩しいから、人は寄っていく。
しかし眩しい光ほど、影も濃くなる。
私はその流れを避けるように歩き、アクアの部屋へ向かった。
扉をノックすると、すぐに開く。
アクアはすでに身支度を整えていた。
淡青のドレス、金髪、青い目。
いつもと変わらない――ように見えるが、目の奥が冴えている。
「来たのね」
「ええ」
私は部屋へ入るなり、通達の紙を机に置いた。
「見て。今日からの"役割"」
アクアが紙を一瞥し、鼻で笑った。
「丁寧に檻を作ったのね」
「ええ。私たちが逃げないように」
私は椅子に腰を下ろし、指先を組んだ。
「アクア。私、決めたわ」
アクアが私を見つめる。
その視線は静かだが、逃げ道を与えない視線。
「何を?」
私はゆっくり言った。
「働かない」
アクアの眉が、ほんの僅かに動いた。
「……殿下のために?」
「ええ。殿下のために動くのをやめる。聖女のために働くのもやめる」
アクアが少し黙った。
そして、淡々と確認する。
「国のための政務も?」
私は言葉に詰まった。
ここだ。この差が重要だ。
私は国を捨てたいわけじゃない。
でも王子の"ごっこ"のために国を回すのは違う。
「政務そのものは必要よ。国が壊れるのは困る」
「じゃあ、何をやめるの」
アクアの質問は鋭い。
「"殿下の穴埋め"」
アクアが息を吐いた。
「……やっと言葉にしたわね」
私は苦笑する。
「私たち、殿下が失言したら火消しして、決断できなければ資料を作って、恥をかかないように段取りを整えて……」
「そうしないと国が回らないから」
「そして、それを"国のため"と呼んで自分を縛ってきた」
私は頷く。
「でも昨日、殿下は――国の均衡も制度も投げ捨てて、私たちを"道具"にした」
アクアの青い瞳が細くなる。
「怒ってる?」
「怒ってるわ」
私は笑みを消した。
「でも、もっと嫌なのは……私に悪役になるように期待されていること」
アクアが静かに頷く。
「噛みついたら、檻に戻る」
「ええ」
私は息を吐く。
「だから噛みつかない代わりに、動かない」
アクアは少しだけ唇を曲げる。
「静かな反逆ね」
「ええ。見た目は礼儀正しく、従順に見える。でも――歯車を外す」
アクアが椅子に腰を下ろし、膝の上で手を組んだ。
「サラ。あなた、それ……怖くない?」
私は即答できなかった。
怖い。
噂を流される。父に責められる。派閥に潰される。王子に罰される。
そして何より――"価値がない"と突きつけられる。
でも昨日、私は少しだけ息ができた。
王妃候補の檻から外された瞬間、心の奥で「解放」がちらついた。
「怖い。でも……」
私はアクアを見る。
「怖いのに、気持ちいいの」
アクアが小さく笑った。
「分かるわ」
その笑いは優しくない。
でも、同じ場所を見ている笑いだった。
「殿下が困れば、彼は初めて現実を見る。自分で責任を背負うしかなくなる」
「それができるかしら」
「できなければ、壊れる」
私は言い切った。
「でも壊れるべきものは壊れた方がいい。殿下が"王"になるなら、逃げ続ける構造は残してはいけない」
アクアは少し目を伏せた。
「あなた、国のために怒ってるのね」
「……結局そうなるの、嫌だわね」
私は笑う。
国のため、という言葉を嫌っているくせに、私の怒りは国へ向く。
でも違う。これは、私のためでもある。
私は自分の人生を取り戻したい。
国のための人生じゃなく、自分の意思で選んだ人生を。
「私は、私のために国を守る。殿下のためじゃない」
アクアがまっすぐに私を見る。
「なら、私も」
私は目を見開く。
アクアは小さく息を吸い、続けた。
「私も、動かないわ。少なくとも――殿下のためには」
胸の奥が熱くなる。
でも同時に、その熱に溺れたくなる自分が出てくる。
――やっぱりアクアがいないと。
私はそれを押し戻し、頷く。
「協力しましょう。依存じゃなくて」
アクアが笑う。
「難しい注文ね」
「だから価値があるわ」
私は昨日の彼女の言葉を返した。
アクアの目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
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その日の昼、私たちは"いつも通り"に見せかけて動かないことにした。
まず、礼節講義。
ミレイユが「サラ様、そろそろ……」と不安げに言うのを、私は手で制した。
「殿下から直接の命令は?」
「側近府から……」
「なら、保留」
私は淡々と言った。
「側近府の"段取り"に従う必要はないわ。私は王妃候補ではないもの」
言葉にした瞬間、胸が少し軽くなる。
その後、アクアも視察同行を「体調不良」を理由に辞退した。
彼女の侍女リリカが穏やかな顔で伝え、誰も反論できなかった。
体調不良。
便利な言葉。檻の中で生きるための逃げ道の言葉。
でも今日は、その逃げ道が"出口"になる。
私たちは私の部屋に集まった。
机の上には、今日やるはずだった資料が積まれている。
いつもなら、私が赤いペンで修正し、アクアが人間関係の調整を入れ、レオンが最終チェックをして王子に渡す流れ。
その歯車を、今日は止める。
ミレイユが焦った声で言った。
「サラ様……側近府から人が来ています」
「通して」
扉が開くと、レオンが入ってきた。
無表情。しかし目の奥が明らかに疲れている。
「サラ様、アクア様」
アクアも同席しているのを見て、彼の目が僅かに動く。
「本日の予定が滞っています」
私は微笑む。
「そうでしょうね」
「殿下が……お困りです」
「そうでしょうね」
私の声は優雅だ。
優雅だからこそ、刃になる。
レオンは少しだけ沈黙し、低い声で言った。
「このままでは、政務も外交も止まります」
私は頷く。
「止めません。止めるのは――殿下のための穴埋めだけ」
レオンの目が僅かに細くなる。
「……意図的に?」
「ええ」
私は隠さない。隠す必要がない。
「殿下は私たちを王妃候補から外しました。ならば私は、殿下の私的なご機嫌取りをする立場でもありません」
レオンはアクアを見る。
「私も同意見です」
アクアは淡々と言った。
レオンの口元が、ほんの僅かに動く。
驚きではない。理解だ。
「……分かりました」
彼は短く言った。
「では、どこまでを"国のため"として動き、どこからを止めるのか。線引きを」
私はその言葉に、小さく笑った。
「さすがね。あなたは現実しか見ない」
「王国の安定が最優先です」
「その一点だけは、私たちも同じ」
私は机の上の資料を指す。
「関税協議の最低限は動かす。貴族院への対応も最低限。ただし"殿下の面子を守るための粉飾"はしない」
アクアが補足する。
「聖女の礼節指導も"必要最低限"。持ち上げる演出はしない」
レオンが頷く。
「了解しました」
一瞬、部屋の空気が変わった。
私、アクア、レオン。
王子を中心に回っていたはずの歯車が、王子を中心にしない形で噛み合う。
――これが、王子のいない現実。
レオンが最後に言った。
「殿下には……サラ様から直接、言葉を?」
私は微笑んだ。
「いいえ。言葉は不要よ」
私はゆっくり立ち上がり、窓辺へ歩く。
レースが風で揺れ、光が揺れる。
「殿下は、"結果"で学ぶべきだわ」
アクアが小さく言う。
「静かな決断ね」
私は頷く。
「静かに、でも確実に。私たちは檻の外へ出る準備を始める」
レオンが一礼した。
「……承知しました」
彼が去った後、ミレイユが呆然と呟く。
「本当に……やるのですね」
「やるわ」
私は微笑む。
そして、心の中で付け加えた。
――もう、殿下のために生きない。
窓の外では噴水が光を弾き、鳥が飛び、薔薇が揺れている。
世界はいつも通りだ。
でも私の中では、何かが動き出していた。
歯車を外すという小さな反逆。
檻を壊すための、静かな決断。




