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聖女を選んだのなら、もう殿下の尻拭いはいたしません  作者: 風谷 華


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第9話「誇り」

 大広間を出た廊下は、やけに長く感じた。


 窓から差し込む光は相変わらず白く、床の大理石は磨かれていて、私の赤いドレスの影が細く伸びる。


 それなのに、世界が少しだけ傾いたような感覚があった。


 王子が――私たちを王妃候補から外した。


 その言葉は、耳ではなく骨に残っている。


 拍手の音も、桃の涙声も、貴族たちのざわめきも、全部その骨の中で鳴り続ける。


 


「サラ様……」


 侍女のミレイユが追いかけてきた。息が上がっている。


 いつもは強気な彼女の声が、今日は湿っていた。


「大丈夫よ」


 私は微笑む。


 大丈夫じゃない時ほど、微笑みは上手になる。


「サラ様! あんな……あんな屈辱……!」


 ミレイユの目が赤い。


 彼女は私のために怒ってくれる。


 それが嬉しい。嬉しいが、同時に苦しい。


 怒りは私の中にもある。


 でもそれを表に出せば、王城は望んだ通りの"物語"を作る。


 ――嫉妬した悪役が吠えた。だから殿下は正しい。


 そうやって、私の人生は他人の都合で編集される。


「ミレイユ」


 私は声を落とした。


「怒っていいのは、私じゃない。怒っていいのは国よ」


 ミレイユが唇を噛む。


「国のために、サラ様は……」


 その言葉が胸に刺さり、私は一瞬だけ呼吸を止めた。


 国のため。


 それは私を縛る合言葉。


 父に教え込まれた檻の言葉。


 便利で、強くて、逃げ場のない言葉。


「……今日は戻るわ」


 私は歩き出した。


 足音が廊下に響く。


 一歩ごとに、胸の中の何かが削れる。


 削れながらも、私は背筋を伸ばす。


 誇り。


 それだけは折れたくない。


---


 自室へ戻ると、部屋はやけに静かだった。


 窓辺のレースが風で揺れ、薄い布が光を透かして波のように動く。


 壁にはいつもと同じ花が飾られているのに、今日はそれが"借り物"みたいに見えた。


 王妃候補の部屋。


 それは私の居場所であり、檻でもあった。


 ミレイユが扉を閉め、振り返る。


「サラ様……お着替えを」


「……ええ」


 私は手袋を外した。


 指先に、わずかに汗が残っている。


 震えてはいない。でも内側が冷たい。


 ドレスの留め具を外そうとした瞬間、ミレイユが先に手を伸ばして言った。


「私が」


 その手が優しくて、私は息を吐いた。


 留め具が外れる音は小さい。


 それなのに、鎖が外れる音みたいに聞こえた。


 ドレスが肩から落ちる。


 布が床に広がる。赤い炎の色が、今は少し重い。


 シンプルな白いシルクのドレスに着替えた瞬間、扉が小さく叩かれた。


「サラ様……アクア様が」


 胸の奥が、きゅっと縮む。


 アクア。


 私の最大の恐れ。私の最大の救い。


 そして――私が失いたくないもの。


「通して」


---


 アクアは、部屋に入ると同時に周囲の空気を見た。


 床に落ちた赤いドレス。ミレイユの怒りの匂い。


 そして、私の微笑みの"硬さ"。


 彼女は小さく息を吐いた。


「……ここ、息が詰まるわね」


 私は笑う。


「王妃候補の部屋だもの」


「だった、の間違いじゃない?」


 毒舌。


 二人きりの時だけ許される本音の刃。


 アクアの毒舌は、私の心臓を正確に刺す。


 私は微笑みを少しだけ崩し、椅子に腰を下ろした。


「言い方が優しくないわね」


「優しくしたら、あなたはもっと自分を騙すでしょ」


 アクアは窓辺に立ち、外を見た。


 庭園の噴水が光を弾いている。


 美しく、整っている。息が詰まるほど整っている。


「……今日の拍手、気持ち悪かった」


 彼女の声は低い。怒りではなく、冷静な嫌悪。


 私は指先を組み、手を見つめた。


「そうね」


「あなた、よく微笑んでいられたわね」


「微笑むしかないでしょう」


 私が言うと、アクアが振り返った。


 青い瞳がまっすぐ刺さる。


「微笑むのは、あなたが壊れないため?」


「……壊れたら、負けるから」


「負けたら何?」


 その問いが、胸を抉る。


 私は答えを知っている。ずっと教え込まれてきた。


 負けたら価値がない。


 負けたら愛されない。


 負けたら捨てられる。


 そして今日、それが現実になった。


 ――王子に捨てられた。


 私は息を吸う。


「……灰になる」


 言った瞬間、自分の声が幼く聞こえた。


 アクアの眉がほんの僅かに動く。


「灰になんかならないわ」


「なるのよ。私は炎の家の娘で、勝たなきゃ存在できないって――」


「それ、誰が言ったの?」


 アクアが切る。


 私は言葉に詰まる。


 父。王城。貴族社会。そして、私自身。


 答えられない私に、アクアは静かに続けた。


「あなた、今日……殿下に王妃候補を"外される"って言われた瞬間、何を感じた?」


 私は一瞬だけ目を閉じる。


 感じたのは、痛み。屈辱。怒り。恐怖。


 でもそれだけじゃない。


 ――軽さ。


 ああ、そうだ。


 胸の奥で、ほんの僅かに息ができた。


 檻の鍵が、少しだけ緩んだ。


 私は震える声で言った。


「……解放される、かもしれないって」


 アクアが、少し笑った。


「やっと言った」


---


 私は顔を上げる。


「でも、怖いの。国も殿下も、全部捨てて自由になれるって考えた瞬間、同時に……」


 私は言葉を探し、喉が詰まる。


「……あなたも失う気がした」


 アクアの表情が止まった。


 その沈黙だけで、私の胸は痛む。


 私は続けてしまう。止められない。


「アクア、あなたはいつも正しい。いつも涼しい顔で空気を読んで、誰も傷つけずに立ち回る。だから……私が"降りた"ら、あなたは私の隣にいなくなるんじゃないかって」


 言い終えた瞬間、部屋の空気が一段冷える。


 ミレイユが息を呑む音がした。


 でも私はもう止まらなかった。


 これが私の最大の恐れだ。


 勝てないことじゃない。王妃になれないことでもない。


 ――アクアを失うこと。


 アクアはゆっくり言った。


「サラ。あなた、私を"鎖"にしてる」


 胸がぎゅっと縮む。


「……違う」


「違わない」


 アクアの声は優しくない。でも、だから刺さる。


「あなたは、国の檻から出るのが怖いんじゃない。あなたは、私がいないと立てないのが怖いの」


 私は反射的に否定する。


「私は立てる」


 アクアが首を傾げる。


「じゃあ、今この瞬間。私がこの部屋を出たら?」


 私は――答えられない。


 頭では言える。"平気よ"って。"あなたがいなくても"って。


 でも心が言わない。


 心が、幼い子どもみたいに叫ぶ。


 置いていかないで。


 私は唇を噛む。


 口の中に鉄の味が滲む。


 


 アクアが、窓辺から私へ歩いてきた。


 足音が柔らかい。


 近づくほど、私の息が乱れる。


 彼女は私の前に立ち、静かに言った。


「サラ。あなた、今日王妃候補を"外された"のよ」


「ええ」


「それなのに、まだ殿下のために息をしてる」


 その言葉が刺さる。


 私は反論しようとした。でも、できない。


 アクアは続けた。


「あなたの誇りは、勝つことじゃない。あなたの誇りは、あなたがあなたでいようとすること」


「……そんな綺麗事」


「綺麗事じゃない」


 アクアの声が少しだけ強くなる。


「あなたは、あの場で吠えなかった。噛みつかなかった。悪役にならなかった。それがあなたの誇りじゃない?」


 私は息を止める。


 そうだ。


 あの場で噛みつくのは簡単だった。


 桃を貶め、王子に食らいつき、泣き喚けばいい。


 でもそれをした瞬間、私は檻に戻る。


 自分が嫌いな自分に戻る。


「……誇りって、苦しいわね」


 アクアが微笑んだ。


「誇りはいつも苦しい。だから価値がある」


 その言葉に、胸の奥の何かが少しだけほどける。


 私はふっと息を吐いた。


「アクア。あなた……私が自由になっても、隣にいてくれる?」


 質問が幼い。分かっている。


 でも、聞かずにはいられない。


 アクアは少し黙った。


 そして、正直に言った。


「隣にいる、とは言えない」


 胸が凍る。


 しかし彼女は続けた。


「だって私も、自由になりたいから」


 その言葉は冷たいのではなく、真実だった。


「でも、断絶はしない」


 アクアの青い瞳が真っ直ぐ刺さる。


「距離ができても、繋がっていたい。あなたにも、同じでいてほしい」


 私は震える。


 これが、私が避けたかった答えだ。


 でも、これが正しい。


 私たちは相互依存の関係にある。


 それを壊さない限り、どちらも自由になれない。


 私は笑ってしまった。


 涙が出そうで、笑うしかない。


「……あなた、ほんとに優しくない」


「あなたが欲しがっている優しさは、檻を補強する優しさよ」


 アクアは淡々と言う。


「私はそれをしたくない」


 私は目を閉じる。


 胸の奥で、檻がきしむ。


 でもそのきしみは、壊れる音にも似ている。


---


 その夜、アクアが部屋を出る時、彼女は扉の前で振り返った。


「サラ」


「なに」


「殿下が誰を選んだかは、もう決まった」


「ええ」


「次は、あなたが何を選ぶかよ」


 扉が閉まった。


 部屋に残ったのは静けさと、床に落ちた赤いドレスと、私の息。


 私はゆっくり立ち上がり、ドレスを見下ろした。


 炎の色。勝利の色。檻の色。


 私は指先で布をつまみ、そっと持ち上げる。


 重い。


 この重さを、私はずっと"誇り"だと思っていた。


 でも違う。


 これは役割だ。他人の期待の重さだ。


 私はその重さを抱えたまま、窓辺に立った。


 庭園の噴水が月光を弾く。


 薔薇が白く浮かび、風が葉を揺らす。


 美しい。でも、自由じゃない。


 私は小さく呟いた。


「……私たち、国のために生きすぎていたのかもしれない」


 その言葉は、今日初めて、心から出た言葉だった。


 そして、次の言葉が喉の奥で膨らむ。


 ――もう、殿下のために働くのはやめる。


 まだ言えない。


 でも、決断の形が見えてきた。


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