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カップじゃなくて

 ドリップ中、いつもと違う感覚がした。

 蒸らしの三十秒間、空気が変わったような気がした。

 その正体を、店長が教えてくれた。

 知らなくていいことだったかもしれない。



         *



 五月に入っていた。


 篠宮のカフェ来店は、もう両手で数えるくらいになっている。毎回、私のシフト日に来る。毎回、窓際の奥から二番目。毎回、「本日の珈琲」。毎回、文庫本。


 店長は最初の三回目あたりでにやにやするのをやめた。もっと精度の高い笑み方を覚えたからだ。口角を一ミリだけ上げて、目だけ笑う。タチが悪い。


 今日は土曜日。五月最初の土曜日で、ゴールデンウイークの真ん中。


 店は空いていた。この連休中、遠出する人が多いのか、カフェには常連の佐藤さんすら来ない。篠宮だけが窓際にいる。


 私はカウンターの中でドリップの準備をしていた。


 今日のシングルオリジンはルワンダ。中煎り。紅茶のようなフローラルな香りと、はちみつの甘さ。繊細な豆だ。湯温を気持ち低めにして、注湯速度を落とす。


 ケトルを持つ。


 いつもの動作だ。いつもの手順だ。何も変わらないはずなのに。


 注ぎ口からお湯が落ちる角度を、無意識に微調整していた。粉面に描く円が、いつもより小さい。小さい円はゆっくり抽出する。ゆっくり抽出すると、甘みが出る。


 甘みが出るように淹れている。


 なんで。


 自分の手を見た。お湯を注ぐ右手。ケトルを支える左手。いつもと同じ手だ。同じ手なのに、動き方が変わっている。


 客が篠宮だから?


 違う。違うはず。私はプロ意識で淹れている。客が誰であれ、最善の一杯を出す。それが仕事だ。でも「最善」の定義が、少し甘い方向にずれている。


 気のせいだ。蒸らしを終えて、二投目を注ぐ。


 その時、何かが違った。蒸らしの間、空気がほんの少し変わったような気がした。見られている、という感覚。でもカウンターの中にいたら客の視線を浴びるのは当たり前のことで、いちいち気にしていたら仕事にならない。


 気のせいだろう。


 粉がゆっくり沈んでいく。ドリッパーの中で濃い液体が回転している。いつもの手順だ。いつもの動きだ。


 ドリップを終えた。カップに注いで、ソーサーに載せて、窓際に運んだ。


 「お待たせしました」


 篠宮は文庫本を読んでいた。いつも通りだ。何も変わらない。カウンターに戻る途中で、店長が焙煎室から出てきていた。


 「ひよりちゃん」


 「はい」


 「あの子、カップじゃなくてあんたの手見てるよ」


 足が止まった。


 「……え?」


 「毎回だよ。あんたがドリップ始めると本から顔上げて、終わるまでずっと手元見てる」


 毎回。


 毎回、なのか。


 「今日だけじゃないですか」


 「あたし何年この仕事やってると思ってんの。客の視線は全部見えてる」


 店長はグアテマラを一口飲んで、何でもない顔で続けた。


 「コーヒーの出来が気になるなら、カップを見るよ。色とか量とか。でもあの子はカップが出てきた後も、抽出中のあんたの手をずっと見てる。つまり見てるのはコーヒーじゃなくて、あんた」


 ——音が、消えた。


 店内の全部が。一瞬で。


 エチオピアとコロンビアとルワンダの違いは説明できるのに、今の店長の言葉をどのフォルダにしまえばいいのかわからない。


 「顔怖いよ」


 「怖くないです」


 「フリーズしてる顔って、端から見ると怖いんだよ」


 店長はカウンターの向こうに戻っていった。何事もなかったように。あの人はいつもそうだ。爆弾を投げておいて、自分は安全圏に移動する。


 私はカウンターの中で立ち尽くしていた。


 篠宮の席をちらっと見た。文庫本を読んでいる。カップに手を伸ばして、一口飲んだ。


 ——その瞬間。


 「……うまい」


 聞こえた。


 小さな声だった。独り言みたいな声。ほとんど吐息。カップの縁に唇が触れた直後に、こぼれた言葉。


 カウンターまで四メートル。聞こえるはずのない距離。


 でも聞こえた。カフェが静かすぎたからだ。BGMをかけない主義の店長のせいだ。客が篠宮一人だったせいだ。


 「うまい」。


 三文字。男の人の声で聞く「うまい」が、こんなに温度を持っているとは知らなかった。音としての「うまい」は粗い言葉だ。でも篠宮の声で発音されると、それは……なんだろう、低い場所から静かに立ち上る湯気みたいだった。


 カウンターの奥から、店長の気配がした。何も言わない。ただそこにいて、見守っている。


 見ない。


 私は洗い物を始めた。スポンジでカップを洗う。水の音に意識を集中させる。


 でも耳が、さっきの「うまい」をリプレイしている。


 低くて、静かで、短い声。教室では一度も聞けなかった声。「本日の珈琲で」より短い。「ありがとうございました」への頷きより、ずっと。


 ずっと、なんだ。


 ずっと近い。


 「ねえ、ひよりちゃん」


 店長の声。


 「何かあったら言いなよ。あたしは何も聞かないから」


 「……何もないです」


 「うん。何もないね。あんたの耳が赤いのも気のせいだね」


 耳。


 カウンターの奥にある小さな鏡を見た。


 耳が赤かった。


 閉店後、篠宮が帰った後、カウンターを拭きながら窓際の席を見た。


 奥から二番目。カップの跡はないのに、気配だけが残っている。


 「……今日は来るかな」


 ——火曜日はまだ三日後だ。何を言っているんだ、私は。


 独り言を回収したかったけど、もう遅い。空気が拾った。店長が聞いたかもしれない。


 聞いていても、何も言わないのが店長だ。


 何も言わない人ばかりが、私の周りにいる。


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