偶然は3回で法則になる
篠宮のカフェ来店三回目。
偶然は三回続くと法則になる。
——いや、法則になっていいのか。
店長がカウンターの向こうで左手の薬指をさすっている。何か考え事をしている時の癖だ。
*
最初は木曜日だった。
夕方五時、店は空いている時間帯で、カウンターに常連の佐藤さんが一人。いつものグアテマラを飲みながら新聞を読んでいる。穏やかな午後だった。
ドアのベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
振り向いて、止まった。
白いシャツ。黒い髪。百八十センチの長身が、カフェの入口に立っていた。天井が低いから余計に大きく見える。
なんで。
篠宮蓮が、私のバイト先にいる。混乱した。教室にいるべき人間が教室以外の場所にいると、脳の処理が追いつかない。ファイルの保存場所が間違っている、みたいな。
でもこちらは仕事中だ。取り乱している場合じゃない。
「……いらっしゃいませ」
二度目の「いらっしゃいませ」は小さかった。小さかったけど、出た。
篠宮は店内を一瞬だけ見回して、窓際の席に向かった。奥から二番目、壁に近い席。教室で言えば端っこに相当する位置だ。
座って、鞄から文庫本を出した。あの人、本読むんだ。どうでもいい情報が増えた。
メニューを持っていった。緊張した。手が震えるとかそういうレベルではなくて、足の運び方がわからなくなるタイプの緊張。右足と左足、どっちから出すのが正解だっけ。そんなものに正解はない。
「ご注文が決まりましたらお呼びください」
声が上ずらなかったことだけが自慢だ。
篠宮はメニューを開いて、三秒で閉じた。
「本日の珈琲で」
声。
聞いた。今、確かに聞いた。講義中は一度も聞こえなかった声。先日の頷きからは判別できなかった声。
低かった。低くて、静かで、無駄がない。「本日の珈琲で」。それだけ。敬語と呼ぶにはシンプルすぎるけど、丁寧さはあった。
「かしこまりました」
カウンターに戻って、ドリップの準備をした。
今日のシングルオリジンはコロンビアのウイラ。中煎り。チョコレートのような甘い苦味と、ナッツの余韻。
落ち着け。いつも通りに淹れればいい。手を動かした。豆を挽く。お湯を沸かす。フィルターをセットする。粉を入れる。
一投目。
粉が膨らむ。いつもと同じ膨らみ方。同じ匂い。同じ音。
何も変わらない。変わらないはずだ。
客が一人増えただけ。その客がたまたま知っている人なだけ。それ以上でもそれ以下でもない。
カップを窓際の席に運んだ。
「お待たせしました」
篠宮は文庫本から顔を上げようとして、上げなかった。顔を上げずに、視線だけを動かして、カップを見て、小さく頷いた。
あの頷き。教室で見たのと同じ。
テーブルにカップを置く時、指先が少しだけ震えた。気づかれていないと思いたい。
カウンターに戻った。
それから閉店まで、篠宮は窓際の席で文庫本を読んでいた。コーヒーを時々口に運んで、ページをめくって、それ以外は何もしない。
静かだった。佐藤さんが帰った後、店内には篠宮と私と、奥で焙煎チェックをしている店長だけになった。
不思議な時間だった。教室でも隣にいて、ここにもいる。でも教室とは空気が違う。教室は三百人の箱で、ここは十八席の小さな店。音の質が違う。呼吸の聞こえ方が違う。
閉店時間になった。篠宮は本にしおりを挟んで、席を立った。カウンターに来て、会計をした。
「ありがとうございました」
私が言うと、また頷き。
ドアのベルが鳴って、出ていった。
*
二回目は土曜日だった。
同じ時間帯。同じ窓際の席。同じ「本日の珈琲」。同じ文庫本……いや、違う本だった。二日で一冊読み終えたのか。
今日は少しだけ観察する余裕があった。一回目の衝撃が薄れて、「知っている人が客として来ている」という状況に脳が適応し始めていた。
気づいたことがある。
篠宮はマナーが完璧だった。
カップの持ち方。指を取っ手に通すのではなく、取っ手をつまむように持つ。本を読む時にカップを置く位置。テーブルの右端、本の邪魔にならない場所。読みかけのページを手で押さえずに、本の重みだけで開いたままにする技術。
何もかもが静かで、整っていて、空気に溶け込んでいた。
他の客よりも、店に馴染んでいる。来店二回目なのに。
閉店。会計。頷き。ベルの音。
同じだった。
三回目が火曜日。今日だ。
もう驚かない、と思っていたのに。
店長が奥から出てきて、私の横に立った。
「ひよりちゃん」
「はい」
「あの窓際の子、今日で三回目だよね」
「……はい」
「あんたがシフトの日しか来ないよ。木、土、火。全部あんたの日」
心臓が一拍飛んだ。
「偶然じゃないですか」
「偶然ねえ」
店長はグアテマラを一口飲んで、何も言わなかった。何も言わない沈黙が、何か言うより雄弁だった。
偶然だ。偶然のはず。
木、土、火。確かに全部私のシフト日だ。でもそれは、この店は週六日営業で、私が三日入っているだけだから、三回来たらそのうち三回が私のシフト日に当たる確率は……
計算した。
週六日のうち私がいるのは三日。三回連続で私の日に来る確率は、12.5%。
やめよう。計算で感情を処理しようとするのは私の悪い癖だ。
篠宮は窓際の席で文庫本を読んでいる。今日のコーヒーはケニアの中深煎り。ベリーのような酸味と、黒蜜のようなコク。
淹れた時、いつもより少し丁寧に注いだ。
いつもと同じはず。同じだ。同じだけど。
カップを運んだ。テーブルに置く。
「お待たせしました」
篠宮が顔を上げた。今日は、上げた。
目が合った。一瞬だけ。
篠宮の喉仏が、小さく動いた。
それから視線がカップに移って、取っ手に手を伸ばした。
その手が、テーブルの上を移動する時。
距離にして十五センチくらい。私の手がまだカップのソーサーに触れていて、篠宮の手がカップの取っ手に向かって伸びていて。
指先が近づいたわけじゃない。触れたわけでもない。ただ、同じテーブルの上に二つの手があった。それだけ。
なのに——温度を、感じた。
体温。篠宮の体温が、十五センチの距離を越えて伝わってきた、わけがない。物理的に。空気を介して体温が伝わるのは密着距離でなければ不可能で、十五センチなんて。
手を引いた。
カウンターに戻った。
指先がまだ温かい。テーブルの温度か。カップの熱が伝わったのか。それとも。
「……なんで関係ない人の体温覚えてるんだろ」
独り言。カウンターの内側で、水の音に紛れて。
「関係なくはないんじゃない?」
店長の声が背後からした。聞こえたのか。聞こえていたのか。
「……独り言です」
「知ってる。あんたの独り言、よく聞こえるよ」
え。聞こえてるの、私の独り言。
店長は何も言わなかった。左手を軽く握って、薬指の跡に触れてから、ロースターのほうに戻っていった。あの仕草をする時の店長は、何かを思い出している。
閉店。篠宮がカウンターに来て会計する。いつもの頷き。ドアのベルが鳴る。
「並木さん、また来るよ。あの子」
並木は私の苗字じゃない。瀬川だ。店長は時々、わざとありえない名前で呼ぶ。返事に困っている顔が好きらしい。
「来るかどうかはあの人の自由ですし」
「そうだね。自由だね」
店長は空になった篠宮の席を見ていた。窓際の奥から二番目。カップが置いてあった跡がテーブルに残っているわけはないのに、なんとなく残っている気がした。
「偶然、三回続くかな」
独り言。今度は聞こえないくらい小さく。
——いや、もう三回続いた。次が来たら四回だ。
四回目は偶然と呼べるのか。呼べるなら何回までが偶然なのか。
帰り道、答えの出ない問いを抱えたまま、夜の坂道を歩いた。




