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透明じゃない時間

 コーヒー豆を挽く音が好きだ。

 ゴリゴリ、という低い振動が指先から腕に伝わって、世界が静かになる。

 この瞬間だけ、私は透明人間じゃない。

 ——今日は、透明人間じゃない瞬間が、もう一つ増えた。



         *



 カフェ「雫」。


 駅前の路地を一本入った先にある、自家焙煎のハンドドリップ珈琲店。席数は十八。カウンターが六席、テーブルが三つで十二席。外看板は木の枠に黒い鉄文字で「雫」とだけ書いてある。


 ここが私のもうひとつの居場所だ。


 入口のドアを開けると、焙煎した豆の匂いが押し寄せる。甘くて、苦くて、少しだけ煙たい。コーヒーを飲めない私が言うのもおかしいけど、この匂いは好きだ。


 大学一年の秋から、ここでアルバイトをしている。週に三日、火曜と木曜と土曜。シフトが始まるとエプロンを結んで、手を洗って、豆の状態を確認する。


 「今日のシングルオリジンはエチオピアのイルガチェフェ。浅煎り。フルーティで酸味が強いから、湯温は一度下げて」


 店長が奥のロースターの前から声をかけてきた。


 白石澄江さん。四十三歳。このカフェのオーナー兼焙煎士。


 ショートカットで、エプロンが似合って、手が大きい。左手の薬指に、指輪の跡だけが残っている。指輪そのものはない。いつからないのか、私は聞いたことがない。


 「了解です」


 返事をして、湯を沸かす。温度計を見ながら、九十一度まで上がったところで止める。通常は九十二度。一度の差が味を変える。


 店長はそういうことを、理屈ではなく舌で教える人だった。


 「理屈は本で覚えな。あたしが教えるのは、理屈の外側」


 初日に言われた言葉だ。


 あの日のことは覚えている。大学一年の十月、アルバイトを探していた。チェーン店は人が多くて怖い。個人経営の小さな店がよかった。求人サイトの片隅に「雫」を見つけて、面接に来た。


 店長は履歴書を五秒で読んで、目を上げた。


 「コーヒー飲む?」


 「……飲めないんです。苦くて」


 普通ならここで落ちる。コーヒー屋のバイトに来てコーヒーが飲めないなんて、志望動機が崩壊している。


 でも店長は笑った。


 「最高じゃん。舌が鈍ってない」


 そして私の前に一杯のコーヒーを置いた。飲まなくていい、と言って。


 「匂い、嗅いでみて」


 嗅いだ。


 りんごみたいだった。コーヒーなのに、りんごの甘い匂いがした。


 「え」


 「わかった?」


 「……りんご……ですか」


 「エチオピア・グジ。プロセスはナチュラル。果実味が特徴。それを嗅ぎ分けたなら、あんた、センスあるよ」


 その一言で採用が決まった。


 あれから一年と半年。今では湯温の一度差を手のひらの温度で感じ取れるようになった。蒸らしの秒数を数えなくても、豆の膨らみ方で判断できる。


 飲めないのに、淹れるのは好きだ。


 矛盾している。でも、私は矛盾ごと引き受けることにしている。



         *



 火曜の夕方。常連のお客さんが三人。カウンターに一人、窓際に二人。


 私はカウンターの中で、ドリップの準備をしていた。


 エチオピアのイルガチェフェ。浅煎り。


 ミルのハンドルを回す。ゴリゴリと豆が砕ける感触が指に伝わる。この振動が好きだ。全身が静かになる。


 挽き具合を確認する。中細挽き。指の腹で触って粒度を見る。もう少しだけ細かくてもいいけど、浅煎りは粗めのほうが酸味が丸くなる。


 ドリッパーにフィルターをセットする。お湯でフィルターを湿らせて、紙の匂いを飛ばす。サーバーに落ちたお湯を捨てる。


 粉を入れる。十八グラム。スケールの数字を見て、少し足す。十八・二グラム。ドリッパーを軽く揺すって、粉面を平らにする。


 ケトルを持つ。持ち手の角度を調整して、注ぎ口を粉面の中心に合わせる。


 一投目。


 お湯を細く、ゆっくり、中心から円を描くように。粉が膨らむ。ふわりと盛り上がって、ガスを放出する。焙煎から三日目の豆は膨らみがいい。まるで呼吸しているみたいに。


 蒸らし。三十秒。


 この三十秒が一番好きだ。何もしない。ただ待つ。粉が呼吸を終えるのを、静かに見守る。


 店内に珈琲の香りが広がる。カウンターのお客さんが顔を上げた。いい匂いですね、と小さく言った。


 ——こういう時、私は透明人間じゃない。


 私が淹れたコーヒーの匂いが、誰かの意識に触れている。存在が認められている。透明じゃない。ここにいる。


 二投目。三投目。湯量を調整しながら、粉面が沈みすぎないように注ぐ。ドリッパーの中でお湯が旋回して、粉から成分を引き出していく。


 最後の一滴が落ちる前にドリッパーを外す。雑味を入れないために。


 カップに注ぐ。湯気が立つ。液面が光を弾いて、琥珀色に透けている。


 「お待たせしました」


 カウンターのお客さんの前に置く。両手を添えて。カップの取っ手を右利きの角度に合わせて。


 お客さんが一口飲んで、目を閉じた。


 それだけで十分だった。



 閉店準備をしながら、店長とカウンターで向き合っている。


 店長はグアテマラの深煎りを飲んでいる。私の前にはルイボスティー。コーヒー屋でルイボスを飲むバリスタ。おかしいけど、もう慣れた。


 「最近、ドリップ安定してきたね」


 「……そうですか」


 「そうだよ。特に蒸らし。前は秒数数えてたでしょ。今は豆見て判断してる」


 見ていたのか。店長はいつもロースターの前にいるように見えて、カウンターのことを全部見ている。


 「あとは温度だけ。まだ温度計見てるでしょ」


 「見ないと不安で」


 「そのうち手で分かるようになるよ。あたしは三年かかった」


 店長はカップを持ち上げた。大きな手がカップを包んでいる。安定感のある持ち方。


 その手を見て、ふと、別の手を思い出した。


 長い指。薄い手。百円のボールペンを一定の速度で動かす手。


 何で今、ここで。


 「どした?」


 「いえ」


 「顔に出てるよ」


 「……出てないです」


 「はいはい」


 店長の「はいはい」は菜月の「はいはい」と同じトーンだ。わかっているくせに深追いしない、あの距離感。


 洗い物をしながら考えていた。


 教室では透明人間。ここでは透明人間じゃない。その差は何かと聞かれたら、手だ、と答えると思う。


 蛇口をひねった。水がカップの底を叩く。


 ここの私は、手を動かしている。豆を挽いて、湯を注いで、コーヒーを淹れる。その手仕事が誰かに届く。この手が、私を透明から引き上げてくれる。


 スポンジでカップを洗いながら、自分の手を見た。小さい手。指が短い。爪を短く切っている、衛生上の理由で。


 あの人の手は大きかった。


 長い指。薄い甲。ペンを持つ時に、人差し指の第二関節がわずかに曲がる。あのノートの七行を書いた手。私のノートに触れた手。


 「……手、おっきかったな」


 独り言。水の音に紛れたはずが。


 「誰の手?」


 店長がにやにやしていた。カウンターの向こうで、グアテマラの残りを飲みながら。


 「……誰のでもないです」


 「ふうん」


 店長は何も聞かなかった。でも口角が下がらなかった。


 エプロンを外して、荷物をまとめる。「おつかれさま」と店長に言って、裏口から出た。


 夜の空気は冷たかった。四月の終わり。昼は暖かくても、夜はまだ上着がいる。


 帰り道、私は自分の手を見ていた。


 コーヒーの匂いが染みついた、小さな手。


 この手で淉れたコーヒーを、あの人が飲んだら。


 ——何を考えているんだ。


 首を振った。物理的に。頭の中の変な考えを振り落とすように。


 あの人はコーヒーが好きかどうかも知らない。名前を知ったのが昨日で、声を聞いたことがなくて、会話は「ありがとうございました」と頷きの一往復だけ。


 考える材料がなさすぎる。


 なのに考えている。


 「……やばい」


 独り言が夜道に落ちた。拾う人はいない。


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