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心臓の発言権

 菜月が机を叩いた。

 「ひより。今の講義中、何回隣チラ見した?」

 「してない」

 「あたし、正の字つけてた。12回」



         *



 「しかもチラ見じゃなくてガン見の回もあった。3回」


 「見てないって」


 「はいはい。で、あの隣のでっかいの、誰?」


 学食のテーブルでトレーごと身を乗り出してくる菜月の、レモン色のイヤリングが揺れている。焼きそばが危うい。


 桃井菜月。私の唯一の友人にして唯一の天敵。入学式の日にたまたま隣の席になって以来の付き合い。「隣の席」で始まる縁は、どうやら私の人生に組み込まれた仕様らしい。声が大きくて人見知りしなくて友達が多い、私とは正反対の人間が、なぜか私を観察対象にしている。


 「知らない。名前も知らない」


 「名前知らないのに毎日隣座ってんの?」


 「自由席だから。勝手に来るだけ」


 「勝手に来る男のこと12回見るんだ?」


 「……正の字つけてる暇あったら講義聞いて」


 菜月はにやにやしている。この顔を知っている。何か面白いものを見つけた時の顔だ。


 「ていうか、あたし調べたんだけど」


 スマホの画面を見せてきた。大学のポータルサイトの、何かのページ。


 「教育学部じゃなくて文学部。篠宮蓮。しのみや・れん。二年。教養の社会学概論と教育心理学は学部共通だから、たまたま同じ箱なだけ」


 「……なんで調べたの」


 「だって気になるじゃん。ひよりが12回見る男」


 「見てない」


 「はいはい」


 篠宮蓮。


 名前が、唐突に存在し始めた。今までは「隣の席の男」か「沈黙のバリケード」だったものに、固有名詞がくっついた。篠宮蓮。四つと一つの音。しのみや、れん。


 ……別に、知りたくなかったわけじゃない。知りたかったわけでもない。ただ、知ってしまった。


 「で? その篠宮くんとはどういう関係?」


 「関係はない。隣に座ってるだけ」


 「隣に座ってるだけの人に12回視線送る人いる?」


 「送ってない。たまたま左を向いただけ」


 「12回たまたま左向く人もいないけどね」


 反論が思いつかない。


 焼きそばを口に運びながら、菜月は続けた。


 「ていうかさ、ひよりがそんなに人のこと見てるの、初めて見た」


 それは少し、刺さった。菜月は大雑把に見えて、たまに鋭い。鋭いことを自覚していないから余計にたちが悪い。



         *



 午後の講義。101教室。


 五分前。足音。隣。


 今日は名前を知っている。篠宮蓮。その名前を知ってしまった状態で、隣に座られると。


 ペンを握り直した。指先が汗ばんでいる。


 昨日までは「知らない人」だった。何も変わっていない。変わったのは私の中だけ。


 心臓がうるさい。さっきからずっと主張している。黙れ。お前に発言権はない。脈拍は自律神経が管理していて、意志では制御できない。知ってる。知ってるけど、黙ってほしい。


 講義が始まった。ノートを取る。集中する。集中しようとする。右手はペンを持っている。左手は机の上に置いている。視界の左端に白いシャツが映っている。見ない。見ていない。


 見てない 12回も見てない。3回くらいだ。3回は菜月の言うガン見には入らない。たぶん。


 落ち着け。


 深呼吸した。小さく。隣に聞こえないくらい小さく。


 今日やるべきことがある。「ありがとうございました」と言うのだ。ノートの件。先週の月曜日に、寝ている間に板書を写してくれた件。もう一週間経ってしまった。


 一週間、放置していた感謝。最低だ。でも声のかけ方がわからなかった。


 今日は言う。今日こそ言う。


 講義が終わるのを待って、彼が立ち上がる前に、いや、立ち上がった後に、いや、どのタイミングが正解なんだ。


 九十分は長い。長いのに、終わった。


 教授が「来週は中間レポートについて」と言った瞬間、学生たちが一斉に動き出した。隣の篠宮が、ノートを閉じた。


 今だ。


 「あの」


 声が出た。自分でも驚いた。小さかったけど、出た。


 篠宮が——動きを止めた。


 初めてだった。彼の動作が止まるのを見るのは。いつも一定のリズムで動いていた人が、一瞬だけ静止した。


 それから、こちらを向いた。目が合った。


 怖い。やっぱり怖い。切れ長の目。眉間の力。でもそれは「怒っている」のではなくて、たぶんデフォルトで、この人は。


 思考が止まった。目の色に気づいたからだ。黒だと思っていた。でも近くで見ると、ほんの少しだけ茶色がかっていた。光の加減で色が変わる目だ。


 初めて、正面から見た。


 「先週、ノート……書いてくれて、ありがとうございました」


 言えた。


 声が震えていたかもしれない。震えていなかったかもしれない。自分では判断できない。


 篠宮は——


 頷いた。


 それだけだった。小さく、一度だけ。顎を引くように頷いて、それから視線を外して、立ち上がって、前方の出口に歩いていった。いつもの衣擦れ。いつもの足音。いつもの速度。


 頷いただけ。たった一回。声は出なかった。表情も変わらなかった。あの切れ長の目が一瞬だけ私を見て、顎が動いて、それで終わり。


 なのに。


 心臓がまだ言っている。まだ主張している。お前の発言は受理していないと言っているのに、心臓は聞かない。


 「……あー……」


 独り言。もはや言葉ですらない。ただの吐息。教室の誰かが振り返ったかもしれないけど、知らない。



 帰り道、雨が降っていた。


 折りたたみ傘を差して、駅に向かう坂道を歩く。雨粒がナイロンを叩く音が心地いい。


 頭の中で、さっきのやりとりを再生していた。


 「ありがとうございました」

 頴き。


 たった二要素の会話だ。会話とすら呼べない。言語的に意味のあるやりとりは私の発話だけで、彼のは非言語応答だ。なのに再生が止まらない。

 傘の柄を握り直した。

 頴きの角度。顎が下がった距離。目が合った秒数、たぶん一秒半くらい。光の加減で茶色がかった虹彩。


 「……なんであんな目してるんだろ」


 独り言が雨に溶けた。傘の下、私しかいない。


 怖い目だと思っていた。でも今日、正面から見たら、怖いのは形だけだった。もしかしたら目が悪いだけかもしれない。遠くを見る時に目を細める人がいるように。


 雨が強くなった。水たまりを避けながら歩く。靴の先が少し濡れた。


 信号で立ち止まる。赤。


 頷き、を思い出す。


 あれはどういう意味の頷きだったんだろう。「聞こえた」の確認か。「どういたしまして」の省略形か。


 傘の柄を握り直した。雨粒が手の甲に当たる。


 判別不能。データが足りない。


 信号が青になった。歩き出す。


 傘を持つ手が少し疲れてきた。でも雨はやまない。


 「……雨、やまないかな」


 やんでほしいのか。やんでほしくないのか。自分でもわからない。やまなければ、もう少し歩ける。歩いている間は、考えていていいから。


 ——篠宮蓮。


 名前を、声に出さないまま、口の中で転がした。


 四音節。しのみや。二音節。れん。


 それだけのことなのに、やけに長い帰り道だった。


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