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知らない筆跡

 目を覚ました。

 教室だ。私は教室で寝落ちしていた。

 ——ノートに、知らない筆跡が並んでいる。



         *



 月曜日。社会学概論の三限目。


 寝た。


 言い訳はある。昨日のバイトが遅くまでかかって、帰宅が十一時を回って、課題のレポートを仕上げたら二時で、朝五時に目覚ましが鳴って、一限のフランス語を乗り越えた頃にはもう限界だった。


 一限のフランス語は教室が小さいから寝られない。でも三百人の大教室の最後列の壁際は、寝られてしまう。壁に寄りかかって、腕を枕にして、意識が落ちるまでに十秒もかからなかった。


 それで。目を開けたら、時計が九十分進んでいた。教授の声がしない。学生がざわざわと立ち上がっている。講義は終わったらしい。


 寝ていた。完全に。一コマまるごと。


 最悪だ。ノートは——


 ノートを見て、止まった。


 開いたままだったノートの、私が最後に書いた行の続きから。


 知らない筆跡が並んでいた。


 黒いボールペンの、整然とした文字。罫線の中に収まって、余白が均一で、漢字とかなが同じ大きさで。見覚えが、ある。この文字。この筆圧。この、定規を使わないのに定規で引いたみたいな行間。


 ——隣の、筆跡だ。


 心臓が跳ねた。左を見た。もう誰もいなかった。隣の席は空だった。荷物もペンもノートもない。いつの間にか彼は帰ったらしい。


 視線をノートに戻す。きれいな文字が、七行。


 板書の内容がそのまま写されていた。講義の要点。キーワード。教授が口頭で補足した内容までメモされている。私の文字で書かれた最後の行との境目に、一行分の空白があった。


 書き始める時に、一行空けたのだ。「ここからは別人が書きました」と示すように。几帳面だ。几帳面すぎる。


 そして、文字が私のノートに馴染んでいなかった。当たり前だ。丸っこくて不揃いな私の文字の下に、急に活字みたいな文字が現れたら、それはもう別の生き物だ。


 書いてくれた、のだ。私が寝ている間に。隣の男が、私のノートに、板書を写してくれた。


 でも。


 声をかけずに、やったということは。起こさなかった、ということは。起こすためには声をかけなければならない。声をかけるためには口を開かなければならない。あの人は、口を開く代わりに、ペンを動かすことを選んだ。


 ……なんだ、それ。


 ノートを持ち上げた。近くで見ると、文字の精度がさらにわかる。一画一画が丁寧で、急いだ形跡がない。自分のノートを取りながら、同時に私のノートにも書いたはずだ。それでこの品質。


 近づけた瞬間、匂いがした。かすかに、柔軟剤の匂い。


 私のノートに残った、あの青い匂い。手が触れたのか、近くにいたから移ったのか、ほんの微量だけど確かにある。同じ匂いだった。毎日、隣から漂ってくる匂いと同じ。教室の席に座っている時に、無意識に吸い込んでいた匂いと。


 ノートから顔を上げて、左の空席を見た。誰もいない。でも、匂いだけがまだ残っている気がする。


 「……字、きれい」


 声に出ていた。独り言。教室にまだ残っていた数人が不思議そうな顔をした、かもしれない。見ていないから知らない。


 ノートを閉じた。閉じたけど、指先がページの角を離さなかった。


 あの七行。消しゴムで消したら消えるのに、消す気が起きない。隣の人のノートの代筆を保存しておくのは変だろうか。変だ。でも、消すのはもっと変な感じがする。何が変なのか自分でもわからないまま、リュックにノートをしまった。



 帰り道、スマホが震えた。菜月からのLINE。


 『ひよりー!明日の昼ごはん学食いこ!!新メニュー出たって!!!!』


 感嘆符が六個。菜月にしては控えめだ。


 『いいよ』


 三文字で返して、スマホをポケットに戻した。明日、菜月に会う。菜月に会ったら喋る。喋れば声が出る準備になるかもしれない。そのあとの午後の講義で、隣の人に「ありがとう」を言えたら。


 何の段取りを組んでいるんだ。感謝を伝えるのに予行演習がいる人間は、たぶん設計に問題がある。


 ノートの七行のことは、菜月には言わないと思う。「えっ何それ優しくない??」で五秒処理されて終わる。それが嫌なんじゃない。あの筆跡と、一行分の余白と、かすかな匂いを、誰かと共有したくないだけだ。


 理由は、まだ名前がつかない。



         *



 翌日。火曜の教育心理学。


 五分前に足音がして、隣に人が座った。いつもの順番。荷物。ペン。ノート。私はノートを開いた。昨日のページが見えないように、新しいページにしておく。


 何か言うべきだろうか。「ありがとうございます」と。


 言うべきだ。言わないのは失礼だ。でも声をかけたことがない相手に、突然声をかけるのが怖い。怖いというか、手順がわからない。名前を知らない相手に何と呼びかければいいのだろう。

 シャープペンのグリップが滑った。指の力が入りすぎていた。

 「あの」か。「すみません」か。「隣の方」か。 選択肢が多すぎると、人は動けなくなる。


 講義の途中、ノートを取りながらつい漏れた。


 「……余白、今日も同じ……」


 声に出ていた。すぐ隣で。しかも隣の人のノートについての感想を。口を押さえた。心臓が暴れている。今の、聞こえただろうか。聞こえてはいないはずだ。 教授の声がしてたし、周りも。


 横を見る勇気は、なかった。


 でも一瞬、隣のペンが止まった気がした。気がしただけ。気のせい。ペンの音はすぐに元のリズムに戻った。何事もなかったように。あまりにも自然に。聞こえてない。きっと。たぶん。


 結局、九十分が過ぎた。何も言えなかった。


 彼はいつもどおりに立ち上がって、いつもどおりに去っていった。私はそのいつもどおりの衣擦れの音を聞きながら、ノートの中の七行のことを考えていた。


 あの筆跡は、声の代わりだった、のかもしれない。声を出さない人が、文字で何かを伝えた。「起きろ」でも「大丈夫か」でもなく、ただ板書を写すという行為で。


 言葉にしなかった優しさ。それとも、言葉にできなかった優しさ、か。どちらだかわからない。でもどちらだとしても。


 「……あ、同じ匂い」


 リュックからノートを半分出して、ページの間から漂うかすかな匂いを確かめてしまった自分に気づいて、慌ててしまい直した。変だ。変すぎる。独り言より問題がある。


 帰り道、信号を待ちながら考えていた。「ありがとう」を言えなかったこと。匂いを確かめたこと。七行を消せなかったこと。


 全部、いつもの私なら片付けられるはずの些事だ。感謝を伝え、ノートを書き直し、匂いのことは忘れる。合理的に処理すれば終わる話。なのに処理できないのは、何でだろう。


 信号が変わった。歩き出す。明日は水曜日。101教室の講義がある日。隣に座るだろう。いつもどおりに。何事もなかったように。


 「ありがとう」は、明日こそ言おう。


 たぶん。


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