表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/39

独り言の森

 「……雨やんだ」

 声に出していた。また独り言だ。

 教室を出る時にぽろっと漏れる、誰にも聞こえない声。

 ——聞こえていないと、思っていた。



         *



 一週間が経った。


 月曜から金曜まで、101教室を使う講義は四コマある。そのうち三コマで、隣の席の男は隣の席に座った。残り一コマは、たぶん彼の時間割に入っていないのだと思う。


 つまり週に三回、私の左隣に沈黙のバリケードが出現する。


 もう驚かない。驚く段階はとっくに終わった。いつの間にか「まあ、いいか」に着地していた。話しかけてこないし、こちらも話しかけない。目も合わさない。ただそこにいるだけ。


 それが案外、楽だった。


 以前は最後列の壁際に一人で座って、左側はずっと空席だった。空席には空席の良さがある。荷物を置ける。肘を伸ばせる。隣の視線を気にしなくていい。


 でも誰かがいるのに、その「気にしなくていい」が維持されているのは初めてだった。人間が隣にいるのに、空席と同じくらい楽。


 失礼なのかもしれない。でも、独り言は増えた。



         *



 木曜日のキャンパス中庭。


 昼休みに、ベンチで一人のお弁当を食べていた。母が持たせてくれた冷凍食品多めの弁当箱。卵焼きだけは手作りで、少し甘い。


 「……雲、でかい」


 空を見上げて呟いた。四月の雲は薄くて速い。声に出すつもりはなかったと言いたいところだけど、もう言い訳は面倒くさい。独り言は癖だ。呼吸みたいなもので、意識して止められるものじゃない。


 小学校の頃からそうだった。授業中にぽそっと「……分数ってなんで横線なんだろ」と言って先生に怒られたのが最古の記憶。中学では「変わってる子」扱い。高校では「静かだけどたまに何か言ってる子」に昇格した。


 大学に入ってからは、周囲の騒がしさに紛れて目立たなくなった。三百人の大教室で端っこの席にいれば、多少の独り言は空気に溶ける。溶けているはず。溶けていてほしい。


 お弁当の最後の一口を食べた。卵焼きを最後に取っておくのは、私の小さなルールだ。


 「……ごちそうさま」


 誰に言うでもなく、声が落ちた。


 ベンチの前を学生たちが歩いていく。サークルの友達同士で笑い合って、スマホを見せ合って、イヤホンを片方ずつ分け合って。


 その風景の中に、私はいない。見ているだけ。


 透明人間。


 中学の頃に自分につけたあだ名。自虐ではなくて、実感だ。集団の中にいても認識されない。声をかけられない。忘れられる。それを寂しいと思ったことは、ある。あるけど、もう慣れた。慣れたものを引っ張り出して眰めるのは趣味が悪いので、やめた。


 弁当箱をしまって、午後の講義に向かう。



 101教室。いつもの席。金曜日の二限。五分前に、隣が来る。


 荷物を置く。ペンを出す。ノートを開く。一連の動作を私はもう見ない。見なくても、音でわかる。足音の距離。荷物が床に触れる音。ペンケースのファスナー、いや、彼はペンケースを使わない。ペンを一本だけ胸ポケットに入れている。それを「知っている」ことに、もう驚かない。


 講義が始まった。今日の教育心理学は「パーソナルスペース」の話だった。対人距離の四分類。密接距離、個体距離、社会距離、公衆距離。


 皮肉だった。隣の男との距離は、固定の席と席の間隔で決まっている。たぶん五十センチくらい。分類上は「個体距離」に入る。親しい友人や家族との距離。

 教授がスライドを切り替えた。プロジェクターの光が揺れる。

 親しくもなければ友人でもない。名前も知らない。なのに個体距離。


 ……まあ、大教室の自由席にパーソナルスペース理論を適用するほうが間違っている。教授の声を聞きながら、意識はやっぱり左側に引っ張られる。今日は何を観察してしまうんだろう、と半ば諦めの気持ちで構えていた。


 ——けれど、今日は何も起きなかった。


 何も起きないことが、心地よかった。彼はいつも通りにノートを取り、私もいつも通りにノートを取った。ペンの音が二人分。衣擦れが二人分。呼吸が二人分。


 でもそれは「二人の音」じゃなくて、「一人の音が二つあるだけ」だった。混ざらない。干渉しない。それぞれが、それぞれの速度で動いている。それが、なんだろう。悪くなかった。


 講義が終わった。彼が立ち上がる。その時、初めて意識した音がある。


 衣擦れ。


 シャツの生地が動く音。椅子から離れる時に裾が擦れて、布と布が触れ合う、ごく小さな音。前から聞こえていたはずだ。毎回、彼が立ち上がるたびに鳴っていたはずだ。でも今日は、なぜかその音だけが耳に残った。


 しゃ、と。


 薄い生地が空気を切る、一瞬の音。そのあとに長い脚が動き出して、足音がゆっくり遠ざかっていく。私は左手を机の上に置いたまま動けなかった。


 ——何を聞いているんだ、私は。


 衣擦れの音を意識するとか、ちょっとどうかしている。人間は毎日服を着ているし、服は毎日擦れている。そこに意味なんかない。ない。ないんだけど。


 「……今の、なに」


 独り言。教室にはまだ数人残っていたけど、聞こえていないと思う。聞こえていないと思いたい。立ち上がる。荷物を背負う。教室を出る。


 雨やんだ。傘、いらなかったかな。そんなことを考えながら歩いていたのに、頭のどこかにまだ、あの衣擦れの音が残っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ