不器用なだけだった
翌週の月曜日。二限。101教室。
冬の入口の光が窓から差していた。十一月の光。やわらかくて、少しだけ冷たい光。
いつもの端の席に座った。壁際から二番目。
蓮が隣に座った。いつものように。鞄を足元に置く。ノートを出す。ペンを持つ。
何も変わっていない。
蓮は相変わらず無口だ。ノートの文字は相変わらず綺麗だ。シャーペンを指の間で回す癖も変わらない。衣擦れの音も、柔軟剤の匂いも、ページをめくる指の角度も。
全部、同じ。
でも一つだけ違う。
今朝、講義が始まる前に、蓮が小さな声で言った。
「……昨日、母さんに、電話した」
三文字じゃない。文だ。あの夜以来、蓮の言葉が少しだけ長くなっている。三文字の枠が、こぼれている。こぼれて拡がるのではなく、一滴ずつ、恐る恐る増えている。でもまだ途切れ途切れで、一語ずつ確かめるように出してくる。蓮にとって文を話すことは、まだ全力疾走なのだ。
三拍、間を置いて。
「四年ぶりに」
耳が、もう少しだけ赤くなった。
「……今度の休み、親父の墓に、行ってくる」
机の下で、蓮の手が私の手に触れている。
小指が重なっている。
蓮の小指が、私の小指の上に、そっと乗っている。
誰にも見えない。机の下だから。講義中だから。前の席の学生も、教授も、誰も気づかない。
蓮の目は前を向いている。顔は無表情。教授のスライドを見ているように見える。
耳だけが赤い。
私が指を絡めた。蓮の小指に、自分の小指を絡める。
蓮の指がぴくっと跳ねた。
でも離さなかった。
窓から秋の光が差し込んでいる。十一月の光。四月の桜の中で始まった季節が、七ヶ月を経て、秋のやわらかな光の中にいる。
四月。
蓮は隣に座った。理由はなかった。ただ空いていたから。
七ヶ月が過ぎた。
春の光が秋の光になって、「ただの空席」が「唯一の居場所」になった。
教授が出席を取っている。
「瀬川」
「はい」
「篠宮」
蓮が小さく手を挙げた。
いつもと同じ。何も変わらない。いつもの教室。いつもの講義。いつもの端の席。
でも机の下の小指だけが——世界で一番静かな約束をしている。
もう離さない。
シャーペンの三拍子が始まった。カチ、カチ、カチ。
心臓が同期した。
今はもう、嫌じゃない。
講義が進む。ノートに文字を書く。蓮もノートに文字を書いている。二人分のシャーペンの音が教室に溶ける。
蓮の文字と私の文字。同じノートではないけれど、同じ講義を聞いて、同じ時間を書き留めている。
それだけのことが。
七ヶ月前は当たり前じゃなかった。怖い人が隣にいるだけだった。名前も知らなかった。
今は手が繋がっている。机の下で。誰にも見えない場所で。
蓮の小指の温度。三十四度。いつも冷たい。でもこの冷たさに名前がついた。
好きな人の温度。
独り言が、唇に浮かんだ。
「……やっぱり、不器用なだけだった」
蓮の耳がさらに赤くなった。
聞こえている。
この人には、いつだって聞こえている。
独り言の森の中の、どうでもいい言葉の中から。蓮はいつだって私の声を拾い上げてきた。「雨やんだ」の隣にある「不器用なだけ」を。「お腹すいた」の隣にある「いい匂い」を。
全部聞こえていた。全部覚えていた。
蓮の小指に力がこもった。ほんの少しだけ。
前を向いたまま、微笑んだ。涙が一粒だけ出た。すぐ拭いた。
昼休み。スマホを開いた。菜月に送った。
『好き、って言った。言えた。手、繋いだ』
三秒で既読がついた。
返信。
『は?????まって死ぬ 速報すぎ 情報量 えっ手??手繋いだ??あの座る彫刻と????』
五秒後。
『泣いてる あたし今学食で泣いてる 周り引いてる あんたのせい』
十秒後。
『よかった。ほんとに。よかったね ひより』
名前呼び。菜月がひらがなで「ひより」と打つ時は、本気の時だ。
スマホの画面がにじんだ。
返した。
『菜月のおかげ。あの時刺してくれなかったら、私まだ依存と好きの区別つかないまま逃げてた』
既読。三十秒、返信がなかった。長い。菜月にしては異常に長い。
来た。
『礼はうどんで受け付けてる。きつねうどん。大盛りで』
*
その日の午後。カフェ「雫」。
蓮がカウンター席の端に座っていた。
コーヒーを淹れた。エチオピア・イルガチェフェ。蓮のために。祈りの一杯。いいや、祈りじゃない。もう祈らなくていい。
カップを出した。蓮が両手で包んだ。目を閉じた。
一口目。
大事に飲んでいる。舌じゃなくて心で飲みたいから、目を閉じている。
目を開けた。
「……うまい」
三文字。何回目の「うまい」だろう。数えていない。でも今日の「うまい」が、一番温かかった。
蓮がカップを少し手前に引いた。私のほうに寄せた。カウンターの上で。微かに。
意味がわからなかった。
蓮の目が、カップと私を交互に見ている。
飲めと言っている。
「え、私、コーヒー飲めないんですけど」
蓮は知っている。私がコーヒーを飲めないこと。苦いのがどうしても苦手なこと。
知っているのにカップを寄せている。
「……一口」
二文字。新しい二文字。
一口だけ。蓮のカップから。蓮が飲んだカップから。
間接。
その単語を脳内で処理しかけて、強制終了した。処理したら死ぬ。
カップに手を伸ばした。蓮の指が離れた。私がカップを持った。蓮の手の温度が残っている。白い磁器が温かい。
口をつけた。蓮の唇が触れた場所の反対側に口をつけ、いや、どこに唇が触れたかなんて確認していない。していないはずなのに、カップの縁に残った跡が見えた気がした。
一口、飲んだ。
苦い。
やっぱり苦い。コーヒーは苦い。舌の奥に苦味が広がる。
でも温かい。
苦いのに温かい。蓮の手の温度がカップに移って、カップの温度がコーヒーに溶けて、コーヒーの温度が私の喉を通る。苦味と温度が同時に来る。
苦くて温かい。
この恋みたいだ。
衣擦れの音。柔軟剤の匂い。シャーペンの三拍子。「うまい」の三文字。全部、苦くて温かかった。
カップをカウンターに戻した。
蓮が微かに、ほんの微かに。
「……ふっ」
息が漏れるような、小さな音。
無口な彼が初めて立てた、言葉じゃない、意味のない音。
口角が上がった。
笑った。
蓮が笑った。
唇の端が数ミリ上がっただけだ。他の人が見たら気づかない。でも私にはわかる。七ヶ月、この人の顔を見続けてきた私には。
あの無表情の人が、声を出して笑った。
その瞬間、私たちの間にあった「無音」の沈黙が、温かくて心地よい「静かさ」に変わったのがわかった。
顔は無表情に戻そうとして、戻りきれていなくて、口角がまだ少し上がったまま。
私の目から、また涙が出た。
蓮のコーヒーを飲んだら涙が出る人間。医学的には説明不能だ。
「苦い。でも温かいです」
蓮の耳がさらに赤くなった。もう限界を超えている。耳が赤いのではなく、耳以外が白い。
店長がバックヤードから顔を出した。一瞬だけ。口角が上がって。何も言わずに戻った。
カウンターの上に、コーヒーの湯気が立っている。
蓮のカップと、蓮が私にくれた一口分の記憶。
苦くて、温かい。
それだけの——七ヶ月の話。
閉店後。
蓮が帰った。ドアベルが鸣った。「ごちそうさま」の六文字。
カウンターを拭いた。カップを洗った。蓮のカップ。私が一口飲んだカップ。
一人になった店内で、店長が言った。
「言えたんだね」
「はい」
「よかった」
店長が左手の薬指をなぞった。白い跡。指輪がない場所。
「あたしの分まで言ってくれて、ありがとう」
店長の目が、少しだけ潤んでいた。笑っていたけれど。
「店長……」
「あたしはね、言えなかったんだよ。透明なふりして、傷つくのが怖くて、一番大事な言葉を飲み込んだ。そしたら、その人はもう、手の届かないところに行っちゃった」
店長はふっと息を吐いて、カウンターを拭く手を止めた。
「言わなかった後悔は、一生消えない。指輪の跡みたいに、ずっと残る。でもね、あんたたちがちゃんと自分の言葉で繋がったのを見てたら、あたしの後悔も、少しだけ救われた気がするんだよ」
店長は過去を解決したわけじゃない。失った人は戻ってこないし、言えなかった言葉はもう届かない。
でも、私と蓮が言葉を取り戻したことで、店長の止まっていた時間も、少しだけ前に進んだのかもしれない。
「閉店作業、あたしがやるよ。今日は早く帰りな」
「ありがとうございます」
エプロンを外した。鞄を持った。
店を出た。ドアベルが鳴った。
十一月の夜。冷たい空気。息が白い。
歩いた。いつもの帰り道。蓮はもういない。さっき反対方向に歩いて行った。
でも独り言が出た。
「……聞こえてる」
聞こえていない。蓮は遠い。
でもいい。聞こえていなくても言いたいことがある。
蓮に聞こえていてもいなくても、言いたい言葉が私の中にある。
独り言は、もう枯れない。
帰り道の街灯の下を歩いた。右手のポケットに二百円玉が入っている。あの雨の夜に蓮が置いていった二百円。ずっと持っていた。かえそうと思ってかえせなくて、お守りみたいになっていた。
明日、かえそう。
「サービスだったので」と言って、蓮が「いい」と言って、また押し問答になるのだろう。不器用に。お互いに。
でもそれがいい。
不器用でいい。
この人と私は——不器用なだけだから。
*
聞こえてる。
この人には、いつだって聞こえてる。




