また明日
告白の夜の続き。
手を繋いだまま、教室を出た。
十月の夜が——温かかった。
*
教室を出てからも、手は繋がったままだった。
蓮の手は相変わらず冷たい。体温が低い人なのだ。いつもの三十四度。でも繋いでいる指先だけが温かい。私の体温が移っている。
廊下を歩いた。二人分の足音。蓮の靴底が床を擦る音と、私のローファーがカツカツ鳴る音。
非常灯のオレンジ色の光。窓から差す街灯の白い光。二種類の光の中を歩いている。
「……最初に隣に座ったのは、偶然だったって」
ぽつりと、私が言った。
蓮の足が、一瞬だけ止まりかけた。でも、すぐにまた歩き出す。
「理由なんてなくて、ただ空いてたから座ったって。……さっき、そう言いましたよね」
蓮が、無言で頷いた。繋いだ手から、微かな緊張が伝わってくる。
私がその事実をどう受け止めたか、不安に思っているのかもしれない。
「私、ずっと理由があると思ってたんです。私が独り言を言ってたから、それを聞いて隣に来てくれたんだって」
蓮が私を見た。暗い廊下でも、その目が揺れているのがわかった。
「でも、偶然でよかった」
私は、繋いだ手に少しだけ力を込めた。
「偶然隣に座って、偶然私の独り言を聞いてくれて。そこから始まって……今は、こうして手を繋いでる」
ただの空席が、たったひとつの居場所になった。
蓮がそう言ってくれたように。
偶然の積み重ねが、いつの間にか、お互いにとっての必然に変わっていた。
「だから、偶然でよかったです」
蓮は何も言わなかった。
でも、繋いだ手が、ぎゅっと強く握り返された。
言葉の代わりに。痛いくらいの強さで。
階段を下りた。手を離すかと思った。階段を手繋ぎで下りるのは物理的に不安定だ。段差があるし、手すりが必要かもしれないし。
蓮が離さなかった。
むしろ少し力が強くなった。私が転ばないように。段差で足を踏み外さないように。
その手の力でまた泣きそうになった。さっき泣いたばかりなのに。涙腺が修理不能だ。
一号館の出口を出た。外の空気。十月の夜。冷たい。でもまだ凍えるほどではない。
キャンパスには誰もいなかった。夜の大学。街灯が道を照らしている。正門までの石畳。
二人で歩いた。
距離はゼロだ。手が繋がっている。七十センチでも五十センチでもない。ゼロ。
四月に始まった距離の変遷。二メートルから一メートルに。一メートルから七十センチに。七十センチから半歩に。半歩からゼロに。
ゼロはこんなに温かいのか。
蓮が歩幅を合わせてくれている。いつもの大股ではなく、私の歩幅に。
「……篠宮」
口を開きかけて止めた。
篠宮くん。いつもそう呼んでいた。でも今は名前を呼ばれた。蓮が「日和」と呼んだ。私も呼ぶべきなのか。
いや。
呼ばない。まだ。
蓮みたいに自分のタイミングで。自分の声で。自分の覚悟で。焦らない。
「あの、今日は、ありがとう、ございました」
告白した相手に「ございました」。おかしい。でもいい。ゆっくりでいい。
蓮が微かに首を傾げた。「何に対してのありがとうか」と考えている顔だ。
全部に。全部に対して。
傘。ノート。ミントタブレット。絆創膏。「うまい」。「ごちそうさま」。カウンターの端の定位置。窓際B席。隣の席。シャーペンの三拍子。衣擦れの音。柔軟剤の匂い。赤くなる耳。
そして今日の言葉。
全部にありがとう。
蓮は何も言わなかった。言葉を全部使い切った後だ。もう出ない。壊れたスピーカーが最大出力で鳴った後は、しばらく音が出ない。
でも手が、微かに握り返した。
それで十分だった。
正門を出た。大通り。道路の向こう側にカフェ「雫」が見える。閉店している。店長が閉めた後だ。暗い店内。ペンダントライトが消えている。
蓮がカフェのほうを見た。
窓際B席。暗くて見えないけれど、蓮はあの席を見ている。
「また来てくださいね」
また敬語。もう。
蓮が頷いた。微かに。いつもの頷き。
でもその頷きの角度が少しだけ深かった。いつもより。
分かれ道。蓮のアパートと私の実家は方向が違う。ここで別れなければならない。
手を離す。
蓮の手が離れる瞬間、指先が私の指先を掠めた。最後の一点。小指の先と小指の先。
ゼロになりかけた距離が、もう一度広がっていく。
蓮が歩き始めた。反対方向に。
背中。白いシャツの背中。肩甲骨。長い足。大きな歩幅。いや、まだ小さい。まだ、私の歩幅で歩いている。
数歩でいつもの大股に戻った。
遠ざかっていく。
街灯の光の中を、蓮の背中が小さくなっていく。
寂しくなかった。
さっきまで手が繋がっていた温度が、まだ指先に残っている。三十四度と三十六度八分の中間温度。どちらのものでもない、二人だけの温度。
独り言が出た。
「……また明日」
聞こえていない。蓮はもう遠い。
聞こえていないけど、言えた。
蓮がいない場所でも、独り言が出た。蓮に聞こえていなくても言いたい言葉がある。
また明日。
明日、また隣に座れる。
その「また」が——世界で一番温かい二文字だった。




